源義経の最期がどうなったのかを簡単にまとめると、以下のとおりです
- 源義経の死因は、詳細は不明だが、自害して亡くなった
- 源義経は、兄・源頼朝に追われて、奥州平泉(現在の岩手県平泉)で、藤原泰衡に攻撃され、自害した
- 義経には生存伝説があり、奥州平泉で死なずに生き残り、青森県竜飛岬から北海道へ逃亡したという伝説がある
- 義経が大陸へ逃亡してチンギス・ハーンとなり、約100年後、チンギスの孫・フビライが、頼朝がつくった鎌倉幕府へ復讐戦を行ったという伝説がある
この記事では源義経について、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
これを読めば、誰かに説明できるほど、源義経に詳しくなれます。
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源義経の死因と最後
源義経の死因は、詳細は不明ですが、自害したといわれています。
義経は、1189年に奥州平泉において、藤原泰衡に攻められて自害しているのです。(衣川の戦い)
義経は、数々の命令違反や独断行動により、兄・頼朝から憎まれていました。
挙句の果てには、兄・頼朝の追手に追跡されて、逃亡を繰り返しているのです。
義経は、若い頃に住んでいた奥州平泉へと逃亡し、その地の実力者・藤原秀衡に保護されます。
秀衡は死の直前に、息子の泰衡へ
「もしも頼朝が攻めてきたら、義経を将軍として、協力して戦え」
と遺言したそうです。
ところが泰衡は、頼朝から
「義経を討伐せよ。さもなければ奥州平泉を攻撃する」
と脅されて、やむなく義経を攻撃したのでした。
藤原泰衡がひきいる圧倒的な大軍団に敗北した義経は、妻子とともに自害。(このとき一緒に亡くなった妻・郷御前が、源頼朝の乳母・比企尼の孫にあたる)
その後、泰衡は頼朝の大軍団によって滅ぼされ、清衡・基衡・秀衡と、三代にわたる栄華を極めた奥州藤原氏は滅亡したのでした。
義経の死から10年後の1199年、源頼朝もまた、落馬が原因で亡くなっています。
源義経の生涯年表
- 1159年(1歳)源義経誕生
- 1159年(1歳)平治の乱
- 1160年(2歳)義経の父・義朝死去
- 1169年(11歳)鞍馬寺へ移る
- 1169年(11歳)遮那王と改名
- 1174年(16歳)元服し義経と名乗る
- 1174年(16歳)奥州平泉へ向かう
- 1180年(22歳)兄・源頼朝が挙兵
- 1180年(22歳)富士川の戦い
- 1180年(22歳)義経が兄・頼朝に合流
- 1181年(23歳)平清盛病死
- 1183年(25歳)木曽義仲が京都へ入る
- 1184年(26歳)粟津の戦いで木曽義仲討伐
- 1184年(26歳)一ノ谷の戦い
- 1185年(27歳)屋島の戦い
- 1185年(27歳)壇ノ浦の戦い(平家滅亡)
- 1185年(27歳)頼朝が義経の鎌倉帰還を禁止
- 1185年(27歳)義経が頼朝打倒のため挙兵
- 1187年(29歳)義経が平泉へ逃亡
- 1187年(29歳)藤原秀衡死去
- 1189年(31歳)義経が衣川の戦いで死去
源義経のエピソードや伝説・逸話
チンギス・ハーンになった伝説
源義経は、衣川の戦いにおいて死ぬことなく、生き延びて大陸へ渡り、皇帝チンギス・ハーンとなって大帝国をつくりあげた
という伝説があります。
義経は衣川の戦いで自害したように見せかけて、実は生き延びており、密かに大陸へわたってモンゴルを統一。その後ユーラシア大陸を征服し続け、世界最大の帝国であるモンゴル帝国をつくりあげたというのです。
その後モンゴル帝国は、チンギス・ハーンの孫で5代目の皇帝・フビライの時代に、ヨーロッパから朝鮮半島までを制圧。
【1274年】と【1281年】には、義経の兄・頼朝がつくりあげ、北条氏が支配していた鎌倉幕府へ攻撃を仕掛けたのでした。(元寇)
これは見方をかえると
「義経を攻撃した頼朝に対して、義経(チンギス・ハーン)の孫であるフビライが復讐した」
ともいえますし
「兄・頼朝がつくりあげた鎌倉幕府を奪い取った北条氏に対して、義経の孫・フビライが攻撃を仕掛けた」
ともいえるわけです。
どうしてこれほどまでに【義経=チンギス・ハーン説】が広まったのかというと、小谷部全一郎という人が、大正13年(1924年)に
「成吉思汗ハ源義経經也(チンギス・ハーンは源義経である)」
という本を出版したためです。
実はこの義経がチンギス・ハーンであるという説は、完全に否定された伝説であり、事実であるとはみなされていません。
しかし、もしも義経が大陸で生き延びて、大帝国をつくりあげたとしたら、とても夢のある話しですよね。
義経が北海道へ逃げて、アイヌの王になった伝説
義経には、チンギス・ハーンになったという伝説のみならず、北海道へ逃げて、アイヌ民族の王になったという伝説もあります。
衣川の戦いを生き延びて、北へ逃げた義経は、北海道へ渡って、そこに住んでいたアイヌ民族の王になったというのです。
【義経北方(北行)伝説】と呼ばれています。
江戸時代前期にアイヌの一部族の長であり、当時北海道の南部を支配していた松前藩に戦いを挑んだ【シャクシャイン】という人物がいました。(シャクシャインの戦い)
このシャクシャインが、義経の末裔であるという伝説があります。
もちろん実際には、義経がアイヌの王になったという説は、極めて可能性が低いと考えられます。
ただ、義経は子孫を残したという伝説があります。
チンギス・ハーンになった伝説も、アイヌの王になった伝説も、可能性は低いかもしれませんが、子孫が生き延びたという可能性は、あるのかもしれません。
武蔵坊弁慶との出会いと別れ
義経は若い頃、牛若丸と名乗っていましたが、その頃に京都・五条大橋で、武蔵坊弁慶という豪傑と出会っています。
当時、京都の都は平家が支配していました。
「平家一門でない者は、人ではない」
という発言をするほど、平家は調子に乗っていたのです。
これに起こった武蔵坊弁慶は、五条大橋を通る平家の武者を襲撃し、その刀を奪うという行為を繰り返し、999本の刀を奪うことに成功していました。
記念すべき1000本目の刀を得るために獲物として弁慶が選んだ相手、それが五条大橋を通った牛若丸だったのです。
牛若丸に戦いを挑んだ弁慶でしたが、結果は敗北。
その後、弁慶は牛若丸に忠誠を誓い、部下になったのです。
1189年、兄・頼朝から追われる身となった牛若丸こと源義経は、奥州平泉で藤原泰衡から襲撃されて亡くなります。
その義経を最期まで守り通したのが弁慶だったのです。
弁慶は、全身に矢を受けて、ハリネズミのようになっても倒れず、たったまま亡くなったといいます。(弁慶の立ち往生)
義経と弁慶の関係については、以下のリンク記事でくわしく解説しております。
⇒⇒⇒⇒⇒源義経と武蔵坊弁慶の関係についてはコチラ
青森県に残る【義経と龍馬】の伝説
青森県には、義経が【龍の馬に乗って、津軽海峡を渡り北海道へ向かった】という伝説が残されています。
兄・頼朝の追跡を逃れるために北へと逃亡した義経は、青森県と北海道のあいだにある津軽海峡の海が荒れ狂っていたために、行き場を失いました。
そこで義経は、観音菩薩に対して三日三晩祈りをささげたところ、観音菩薩より3頭の龍馬をあたえられ、その龍馬に乗って津軽海峡を無事に渡ったというのです。
現在の青森県外ヶ浜町には、義経が祈りを捧げたという観音像や、3頭の龍馬がつながれていた厩石が残されています。
またこの場所は、3頭の龍馬にちなんで、3つの馬屋を意味する三厩村と呼ばれていたのです。(三厩村は2005年の町村合併で外ヶ浜町となった)
義経が祈ったという観音像は、この地に建てられている【龍馬山・義経寺】で大切に安置されています。
扇の的のエピソード
1185年、義経が平家と戦った屋島の戦いで、義経が扇の的を射抜いたことを称賛した武者を射殺したというエピソードがあります。
瀬戸内海の屋島で、義経は平家軍と戦っていました。
夕方になり、休戦となったとき、平家軍の玉虫御前という美しい女性が、竹さおの先に扇子をかかげて
「これを矢で射落とせる武者はいるか?」
と源氏軍を挑発。
これに対して、弓の名手であった那須与一が、見事に扇の的を射抜いたのでした。
平家軍も源氏軍も、この見事な弓の腕前に驚き、敵も味方もともに那須与一の技をたたえたのでした。
するとこの扇の的の下で、50歳ほどで、黒革の鎧を着て、白い柄の長刀をもっていた兵士の武者が、与一の腕前をたたえて舞い始めたのでした。
義経はなんと、この自分たちをほめたたえてくれている武者を
「あいつを射殺せ」
と命じたのでした。
那須与一はこの武者を射抜いて、討ち取ってしまいます。
これに激怒した平家軍は、ふたたび源氏軍と開戦したのでした。
敵を倒すためには手段を選ばない義経の性格が見て取れるエピソードです。
実は、源義経は現代において噂されるような、心優しい正義のヒーローという性格ではなく、かなり悪どい正確だったという噂があります。兄・頼朝を慕う悲劇のヒーローどころか、兄をバカにしていたという噂もあるようです。
⇒⇒⇒⇒⇒源義経の性格が最悪だった件について、くわしくはコチラ
義経の弓流し
義経には、小柄であったため重くて強い弓を使えず、軽くて弱い弓を使用し、その弓を敵に取られまいと必死になったエピソードがあります。
扇の的と老武者を那須与一に射抜かせたことで、平家からの猛攻を受けた義経と源氏軍は苦戦。
すると義経は、その激戦のなかで、愛用の弓を海へ落としてしまいました。
弓のひとつやふたつ、捨てて逃げてもよかったものを、なぜか義経は、乱戦の中を命がけで弓をひろいに戻ったのでした。
無事に弓をひろいあげてもどった義経は、こんなことを言います。
「こんな弱い弓を的にひろわれてしまっては、恥だ!
これが源氏軍団の大将が使っている弓か
とバカにされたら、末代までの恥ではないか」
義経は小柄で力が弱く、しかしそれでも誇り高い人物であるということを物語るエピソードです。
壇ノ浦の戦いで船の漕手を射る
義経が父・義朝のカタキである平家を滅ぼした壇ノ浦の戦いで、非戦闘員である船の漕手を、卑怯にも狙い撃ちしたという逸話があります。
屋島の戦いで平家軍を倒した義経は、平家軍の最後の拠点である壇ノ浦で決戦に挑みます。
ところが、船での戦いに慣れていた平家軍は、義経たち源氏軍を圧倒します。
さらに潮の流れが平家軍に有利にはたらき、義経は危機に瀕します。
すると義経は、平家軍の船を操っていた、非戦闘員である船の漕手を矢で射殺すように指示したのでした。
当時の戦争のマナーとして、非戦闘員である船の漕手には攻撃しないというルールがあったのです。
ところが義経はこのマナーを無視し、平家軍の漕手を次々と倒していきます。今でいえば民間人への攻撃です。
ついに潮の流れが逆転して、義経たち源氏軍は平家軍に圧勝。
義経は父・義朝の仇討ちに成功したのでした。
八艘飛びのエピソード
義経には、敵の猛将から逃れるために、8つの船を飛び移ったという逸話があります。
壇ノ浦の戦いの終盤、敗北がほぼ決定的となった平家軍の中で、必死に義経を探し、追いかける猛将がいました。
平教経です。
猛将・教経は源氏の武者を次々と倒し、ついには敵の総大将であった源義経を発見し、倒そうとします。
ところが、不利であると判断した義経は、その身軽さを武器にして、八つの船を次々と飛び移って逃亡したのです。
これにより、義経を倒すことをあきらめた平教経は、源氏郡の猛者を道連れにして、壇ノ浦の海へと身を投げたのでした。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 源義経は、兄・源頼朝に追われて、奥州平泉(現在の岩手県平泉)で、藤原泰衡に攻撃され、自害した
- 義経には生存伝説があり、奥州平泉で死なずに生き残り、青森県竜飛岬から北海道へ逃亡したという伝説がある
- 義経が大陸へ逃亡してチンギス・ハーンとなり、約100年後、チンギスの孫・フビライが、頼朝がつくった鎌倉幕府へ復讐戦を行ったという伝説があるらしい
以上となります。
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