北条政子とは、どんな人なのかを、簡単にまとめると、以下のとおりです
- 北条政子とは、鎌倉幕府をつくった武将・源頼朝の妻だった人物。
- 北条政子は、承久の乱を勝利に導き、鎌倉幕府を安定させ、明治維新まで600年以上も続く武士が日本を支配する時代を確固たるものとした。
- 1225年、政子は69歳で病死している。
この記事では北条政子について、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
これを読めば、誰かに説明できるほど、北条政子に詳しくなれます。
→→→→→『鎌倉殿の13人』登場人物・関連記事まとめはこちら
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北条政子とは、どんな人?
北条政子とは、鎌倉幕府をつくった源頼朝の妻だった人物です。
【名前】北条政子
【あだ名】尼将軍
【夫】源頼朝
【父】北条時政
【弟】北条義時
【生年】1157年
【没年月日】1225年8月16日
北条政子とは、何をした人なの?
北条政子とは、承久の乱において鎌倉幕府軍を勝利に導き、明治維新まで続く武士の時代を確固たるものとした人物です。
北条政子の夫は、鎌倉幕府という武士による武士のための臨時政府をつくった源頼朝です。
政子は、そんな夫の頼朝を支え、当時としてはめずらしく、女性でありながら政治にも積極的に参加して、臨時政府・鎌倉幕府の安定に力を尽くした人物なのです。
承久の乱をご存知でしょうか?
承久の乱とは、源頼朝が亡くなった後、1221年に起こった戦争です。
後鳥羽上皇がひきいた朝廷軍と、北条義時がひきいた鎌倉幕府軍のあいだで起こった戦い、それが承久の乱です。
当初、鎌倉幕府軍にとって絶対的に不利な戦いであったこの承久の乱を、北条政子は歴史に残る名演説を行うことで、怯える弟・北条義時と鎌倉幕府軍を勝利に導いたのでした。
北条政子の生涯年表
北条政子の生涯を、ザッと年表にすると、以下のとおりです。
- 1157年(1歳)、北条政子誕生
- 1177年(21歳)、頼朝と政子が結婚
- 1180年(24歳)、頼朝挙兵・石橋山の戦い
- 1185年(29歳)、壇ノ浦の戦い・平家滅亡
- 1185年(29歳)、鎌倉幕府成立
- 1189年(33歳)、源義経死去
- 1192年(36歳)、頼朝が征夷大将軍に就任
- 1199年(43歳)、源頼朝死去
- 1221年(65歳)、承久の乱
- 1224年(68歳)、北条義時死去
- 1225年(69歳)、北条政子死去
北条政子の生涯を、簡単にわかりやすく解説
ここでは、北条政子の生涯を、ザッと簡単に解説させていただきます。
北条政子・誕生
北条政子は1157年、伊豆の小豪族・北条時政の長女として誕生します。
この3年後の1160年、京都では平治の乱と呼ばれる戦争が起こっていました。
平治の乱とは平清盛がライバルの源義朝を倒し、天下を取った戦いのことです。
戦いに勝利した平清盛は、自らの一族である平家の最盛期を実現させることに成功します。
「平家にあらずんば、人にあらず」(平家でないものは、人間ではない)
清盛の義弟・平時忠が、こんな言葉を残してしまうほど、平家は隆盛を極めたのでした。
一方、敗北した源義朝の三男・源頼朝は、平清盛に敗北したことが原因で、伊豆へ流罪となり、監視される生活を送ることとなります。
源頼朝との出会いと、平家討伐
平治の乱で平清盛に敗北した源頼朝は、伊豆へと流されます。
流罪とは、当時未開の地へと流され、文明社会【京都】から追放されることです。
そこで源頼朝は、地元の豪族だった北条時政やその娘・政子と出会います。
北条時政は、この源頼朝の監視をする立場にありました。
ところが、時政が京都へ出張している間に、北条政子と源頼朝は恋仲となり、1177年頃に結婚することとなるのです。
1180年、朝廷最高の権力者・御白河法皇と平清盛の覇権争いが激化。御白河法皇が平清盛によって幽閉される事件が起こります。
これに激怒した御白河法皇の息子・以仁王が平家打倒の挙兵を全国の源氏に呼びかけると、頼朝は源氏のトップとして挙兵します。
初戦の石橋山の戦いには敗北したものの、その後は関東の豪族たちを味方につけて数万の軍を結集させ、富士川の戦いで平維盛に勝利。
1182年、政子はのちの2代将軍となる源頼家を出産。
1185年、壇ノ浦の戦いで源義経が平家を滅亡させると、頼朝は鎌倉幕府を成立させます。
平家を滅ぼした義経は、兄・頼朝と対立。
1189年、義経は藤原泰衡に滅ぼされ、その藤原泰衡も源頼朝に滅ぼされることとなります。
これにより、頼朝は日本全国を平定したこととなります。
源頼朝の死
1192年、政子はのちの三代将軍となる源実朝を出産。
その数日後、源頼朝が征夷大将軍に就任。
これにより、名実ともに、鎌倉幕府が武家による臨時政府として成立したことになります。
しかしその7年後の1199年、源頼朝が、落馬事故が原因で突然死去。
これにより、頼朝と政子の長男・源頼家が2代将軍に就任。
政子は頼朝の死を弔うために出家し、尼御台と呼ばれるようになります。
しかも頼朝がなくなる前後、政子は娘の大姫と三幡を続けざまに喪っており、悲嘆に暮れていたといいます。
承久の乱と北条政子の最期
源頼朝という強力な指導者を失った鎌倉幕府では、若い二代将軍・頼家の政治に反発する御家人が次々と出始めます。
これに対応するため、北条時政やその弟の北条義時らによる合議制の政治体制【十三人の合議制】が誕生。
しかし、頼朝を失った鎌倉幕府の政治体制は安定せず、2代将軍・源頼家は、祖父・北条時政と対立。
この対立がきっかけとなり、頼家は母・政子に出家を命じられて、伊豆へ幽閉され、1204年に急死してしまうのです。(これは北条時政による暗殺といわれている)
3代将軍となった頼家の弟・実朝もまた、1219年に源頼家の息子・公暁に暗殺されてしまいます。(この実朝暗殺の黒幕は、政子の弟・北条義時であるといわれている)
実朝の死によって、源頼朝の血筋が途絶えた鎌倉幕府では、京都のお公家さんから藤原頼経をむかえて4代将軍に擁立。
これを補佐したのが北条政子であり、これ以降、政子は尼将軍と呼ばれるようになります。
1221年、武家に政権を奪われた朝廷のトップ・後鳥羽上皇は、政権奪還を目論んで、鎌倉幕府のトップであった北条義時討伐のため挙兵。
このとき、鎌倉幕府軍は圧倒的に不利であり、政子と義時姉弟は、絶体絶命の危機におちいります。
政子はこのとき、鎌倉武士達を前にして、後世まで語り継がれる名演説を開始します。
「主君・源頼朝公の御恩は、山より高く海より深い。
今こそその御恩に報いて敵を討伐し、三代将軍・実朝の遺跡を全うせよ」
この演説を聞いた鎌倉武士たちは、19万という大軍団に膨れ上がり、2万の朝廷軍を撃破。(実際には【19000vs2000】といわれている)
こうして承久の乱は鎌倉幕府軍の勝利に終わり、武士たちによる時代は、政子の活躍によって盤石なものとなるのでした。
ところが1224年、弟の義時が急死。
翌年1225年、北条政子・病死。享年69歳。
鎌倉幕府はこれ以降、政子の実家である北条一族が執権として支配し、征夷大将軍はお飾りとなっていくことになります。
→→→→→北条政子の演説全文と現代語訳について詳しくはこちら
北条政子の死後に起こったこと
1274年、八代目の鎌倉幕府執権・北条時宗の時代に、蒙古襲来すなわち元寇が勃発します。
この蒙古襲来によって、鎌倉幕府は急激に衰退します。
そして1333年、鎌倉幕府打倒を目指した後醍醐天皇と、それに協力した足利尊氏や新田義貞・楠木正成らに攻められて、鎌倉幕府は滅亡。
義時の末裔にあたる北条高時たち北条一族は、鎌倉で次々と自害。
しかし北条一族最後の執権・北条守時の妹が足利尊氏に嫁いでおり、のちの鎌倉幕府二代将軍・足利義詮を産んでいます。
そのため、北条政子の血筋は3代将軍・実朝の死によって途絶えたものの、北条一族の血はこの足利義詮を通じて室町幕府へと将軍に受け継がれていくこととなります。(とはいえ、足利尊氏は北条義時の女系子孫にあたるため、足利尊氏の妻を通じなくとも、足利将軍家には北条の血が流れていることになる)
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 北条政子とは、鎌倉幕府をつくった源頼朝の妻だった人物。
- 北条政子は、承久の乱で勝利に導き、鎌倉幕府を安定させ、明治維新まで続く武士の時代を確固たるものとした。
- 1225年、政子は69歳で病死している。
以上となります。
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