『m』
「蘇我馬子」がどういう功績を残した人なのか、説明できる人は意外に少ないのではないでしょうか?
私も大学で日本史を専攻するまで、よく知りませんでした。
「蘇我馬子」は、飛鳥時代の政治家です。あの「聖徳太子」とともに政治を執り行い、仏教を広めた人です。
この記事では「蘇我馬子」についてあまり詳しくない人に向けて、わかりやすく解説していきます。
これを読んで「蘇我馬子ってそういう人だったのか!」と、疑問をスッキリと解消してくださいね。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
- 「蘇我馬子」とは、飛鳥時代の大豪族で「大臣(おおおみ)」という位についていた政治家。「大連(おおむらじ)」であった豪族「物部守屋」を倒し、崇峻天皇を暗殺させ、推古天皇・聖徳太子とともに「冠位十二階」「憲法十七条」などの制定に協力した。
- 「聖徳太子」は「蘇我馬子」の娘婿であり、「馬子の姉」は聖徳太子の祖母。聖徳太子の子「山城大兄王」は、馬子の子「蘇我蝦夷」により、天皇に即位できなかった
- 「乙巳の変」で「中大兄皇子」「中臣鎌足」に暗殺された「蘇我入鹿」は、「蘇我馬子」の孫にあたる。馬子の孫「山城大兄皇子」は、同じく馬子の孫「蘇我入鹿」によって殺害された
- 「蘇我馬子」と「物部守屋」は、「仏教」を崇拝するか廃止するかで対立。激しい権力闘争もあいまって両者は激突。戦いは「蘇我馬子」の勝利で終わった
蘇我馬子とは何をした人なの?その功績を簡単解説
仏教をあつく信仰した「蘇我馬子」
「蘇我馬子」は飛鳥時代(592~710年)の政治家です。
【572年】、「敏達天皇」が即位した時に、馬子は父「蘇我稲目」の後を継いで大臣となり、それから4代の天皇の御代で、合計「54年間」も大臣として政治に携わりました。
【584年】、佐伯連から仏像をもらい受けた馬子は、日本に帰化し還俗していた高句麗人の僧侶を見つけて師と仰ぎ、仏教に帰依し始めました。
「司馬達等(しばたちと)」という人物の娘「嶋」を出家させて善信尼とし、その他にもさらに2人の女性を出家させ、合計3人の尼を篤く敬ったのです。
ところが翌【585年】、仏教に帰依したにもかかわらず、疫病が流行します。このとき「物部守屋」と「中臣勝海」という2人が以下のように主張しました。
「仏教を信仰しようとするから、日本の元々の神々が怒って祟りをなしたのだ」
このことを「敏達天皇」に告げ、馬子が敬っていた「善信尼」らは弾圧されてしまいました。
この時じつは「馬子」も病に侵されていました。物部守屋たちが「善信尼」達を弾圧した後も、疫病はおさまることはなかったのです。つまり「仏教を信仰したこと」が、疫病の原因ではなかったということです。
馬子は「敏達天皇」に願い出て、お寺を建立。さらに仏教に篤く帰依しました。
「蘇我馬子」と「物部守屋」との軋轢は、この頃から激しさを増していきます。
敏達天皇が崩御して「用明天皇」が即位した後も、「馬子」と「守屋」の対立はますます激しくなっていきます。
「用明天皇」が崩御前に
「仏法を篤く敬え」
と詔(みことのり・天皇の命令)を残したことで、遂には戦へと発展してしまいます。
「崇仏派」の馬子と、「排仏派」の守屋は、「用明天皇」の後継者選びでも対立。
守屋が推していた「穴穂部皇子」が暗殺されたことで、戦の火蓋が切って落とされました。
「蘇我馬子」と「物部守屋」の対立!そして「崇峻天皇」暗殺
「物部守屋」は朝廷の軍事をつかさどっていたので、当初は馬子軍よりも守屋軍が優勢でした。
ところが厩戸皇子(聖徳太子)が四天王に戦勝祈願をしたことで、蘇我馬子の軍は士気が一気に上昇。
士気が上がった馬子軍は、河内国(現在の大阪府東部)渋川郡にあった物部守屋の本拠地を攻撃。守屋は弓で射殺されました。
戦に勝利した馬子は、「崇峻天皇」を即位させます。ところが「崇峻天皇」は、自分が傀儡(操り人形)に過ぎない存在であることに不満を抱きます。同時に崇峻天皇は、蘇我馬子を恨むようになるのです。
崇峻天皇は献上された猪を前にしていいます。
「猪の首を斬るように、憎いと思う者を斬りたい(憎い蘇我馬子を斬ってやりたい)」
その発言を伝え聞いた「蘇我馬子」は身の危険を感じ、「崇峻天皇」を暗殺させます。
「聖徳太子」とともに政治改革を断行
次の天皇を誰にするか・・・・ということで朝廷が揉める中、「推古天皇」が即位。自らの甥である「聖徳太子」を摂政として政治をつかさどるように・・・との詔がだされます。
こうして「蘇我馬子」も大臣として、「推古天皇」「聖徳太子」の3人で、政治をつかさどることとなったのです。
「推古天皇」と「聖徳太子」と協力して、数々の改革を進めていきます。
仏教を広め、遣隋使として「小野妹子」を派遣して隋の優れた文化を学ばせます。
それだけではなく、中央集権国家を樹立するために、「冠位十二階の制」を制定し、「十七条の憲法」も定めます。
【596年】、蘇我氏の氏寺である飛鳥寺を建立。
【620年】、聖徳太子と協力して、『天皇記』と『国記』を編纂します。
【622年】、聖徳太子が亡くなった後も、推古天皇を助けて政治をつかさどり続けた馬子は、【626年】に亡くなりました。
仮に、10代半ばから20歳位までの間で大臣になったのだとすれば、54年も大臣でいたことになります。そこから計算すると、蘇我馬子の享年は70歳?75歳くらい。
飛鳥時代の人としては、かなり長生きした人だったといえるでしょう。
蘇我馬子と聖徳太子の関係とは?2人は協力関係だった!
蘇我馬子と聖徳太子は、親戚であり協力して政治改革を行った
「蘇我馬子」は、「聖徳太子」と協力して政治を執り行いました。
政治家として協力関係にあっただけではなく、「馬子」と「聖徳太子」の2人は血縁関係者でもあるのです。
聖徳太子の父「用明天皇」と母「穴穂部間人皇女」は、2人とも蘇我氏の血を引いています。「聖徳太子」からみると「蘇我馬子」は大叔父(祖母の弟)に当たる人物でした。
つまり聖徳太子の父方の祖母「蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)」は、「蘇我馬子」の姉なのです。
それだけではありません。
蘇我馬子は、娘の「刀自古娘(蘇我蝦夷の妹)」を聖徳太子に嫁がせています。つまり「馬子」と「聖徳太子」の2人は婿と舅の関係でもあったのです。
「聖徳太子」の子であり「蘇我馬子」の孫でもある「山城大兄皇子」の悲劇
「聖徳太子」とその妻「刀自古娘」との間に生まれた子が「山背大兄皇子(山背大兄王)」。
この「山城大兄皇子」は蘇我馬子にとっては、孫に当たります。
平安時代「藤原道長」は、天皇の外戚(がいせき)として権力を振るうために、娘を次々と天皇に嫁がせました。
そして自分の孫を天皇として即位させていますよね。
馬子にとって孫の「山背大兄皇子」は、「藤原道長」にとっての孫「後一条天皇」のような存在になるはずの人物でした。
ところが、馬子の娘「刀自古娘」の兄「蘇我蝦夷」は、「推古天皇」の崩御後、甥である「山背大兄皇子」を即位させませんでした。
甥「山城大兄皇子」の代わりに、彦人大兄皇子の子「田村皇子(舒明天皇)」を即位させたのです。
蘇我蝦夷がなぜ「山背大兄皇子」を即位させなかったのか・・・・。
その理由について学者の意見は分かれています。
田村皇子(舒明天皇)は、両親とも皇族出身です。
母方の祖母が「推古天皇」であることから、「山背大兄皇子」よりも天皇位に相応しい・・・という意見が朝廷内にはあったのです。
対する「山城大兄皇子」の母は、皇族出身ではなく、蘇我馬子の娘「刀自古娘」でした。両親ともに皇族の「田村皇子」と、母が蘇我氏出身の「山城大兄皇子」では、身分に大きな違いがあったのです。
蝦夷は朝廷内のそうした意見を尊重し、蘇我氏に権力が集中することで、皇族や豪族から反感を買いすぎないように考慮・配慮したのです。そのため「田村皇子」を天皇にしたのかもしれません。
しかしもしも、馬子が推古天皇の崩御時に健在だったとしたら、外戚として権力を固めるため、自分の血を引いた孫「山背大兄皇子」を天皇にしていたことでしょう。
蘇我馬子が「推古天皇」より長生きしていたら、歴史は変わっていたかもしれませんね。
馬子と蘇我入鹿の関係は?暗殺された入鹿は、馬子の孫
馬子の孫「蘇我入鹿」と、同じく孫の「山城大兄皇子」の悲劇
【645年】、「乙巳の変」において「中大兄皇子」と「中臣鎌足」に暗殺された「蘇我入鹿」。この「蘇我入鹿」は「蘇我馬子」の孫です。
「蘇我入鹿」の父は、馬子が亡くなった後に大臣となった「蘇我蝦夷」。蘇我蝦夷の妹「刀自古娘」が「聖徳太子」に嫁いで産んだ子が「山背大兄皇子」・・・。つまり「山城大兄皇子」と「蘇我入鹿」は従兄弟同士ということです。
いとこ同士であるにも関わらず、蘇我入鹿は【643年】に「山背大兄皇子」を攻撃。聖徳太子の血を引く一族「上宮王家一族」を滅ぼしてしまったのです。
父「蘇我蝦夷」は、息子「蘇我入鹿」が「上宮王家」を滅ぼしたことを知り、激怒。
おそらく蝦夷は息子「入鹿」が「山城大兄皇子」を殺害したことで、蘇我氏に対する皇族や豪族の反感をさらに煽り、蘇我本家の存続にかかわるような銃内な事態に発展する危険性を感じ取っていたのでしょう。
その危惧は的中してしまいます。【645年】に「乙巳の変」が発生してしまうのです。
「乙巳の変」で「蘇我一族」滅亡
飛鳥板蓋宮に「新羅・百済・高句麗」から使者が訪れ、大雨が降る中、儀式が行なわれました。
その儀式の最中「皇極天皇」の眼の前で、蘇我入鹿は皇極天皇の息子「中大兄皇子」に斬りつけられ、首をはねられて絶命してしまいます。
入鹿の遺体は無残にも、大雨で水が溜まる庭に投げ出されました。
儀式の最中、息子「入鹿」が暗殺されたことを知った父「蝦夷」は、事件の翌日、屋敷に火を放って自らの命を絶ちます。
こうして「蘇我本家」は滅ぼされ、代わりに「中臣鎌足」の一族「藤原氏」が台頭してくるのです。
なぜ蘇我馬子は、物部守屋を殺したの?四天王寺と守屋の関係とは
「蘇我馬子」と「物部守屋」の対立!仏教推進派と反対派の争い
「蘇我馬子」はなぜ「物部守屋」に戦を仕掛け、滅ぼしたのでしょう?
大臣(おおおみ)の「蘇我馬子」は、現代日本の内閣に例えるなら、「総理大臣」と「財務大臣」を兼任したような役目を果たしていました。
一方、大連(おおむらじ)の「物部守屋」は、現代日本の内閣に例えるなら、「防衛大臣」のような役目だったのです。
飛鳥時代の朝廷内では、「大臣」と「大連」が協力して、天皇を補佐していました。
しかし「欽明天皇」の時代に、日本に仏教がもたらされると、朝廷内では仏教を崇拝する「崇仏派」と、仏教を捨てるべきという「排仏派」に二分され始めたのです。
「蘇我氏」は仏教を厚くうやまうになりました。
一方の「物部氏」は、神官の一族である「中臣氏」とともに「異国の神を祀るなどもってのほかである」として、仏教を攻撃。
こうして、朝廷内で「崇仏派(蘇我氏)」と「排仏派(物部・中臣氏)」が対立する構図が生まれたのです。ところが「物部守屋」の父「尾輿」は、自らの娘で「守屋」の妹を「蘇我馬子」に嫁がせています。
つまり「物部守屋」と「蘇我馬子」は、義理の兄弟というわけです。
「馬子」と「守屋」の父親の代までは、「蘇我氏」と「物部氏」は争いつつも、共存共栄を図っていたと考えられますよね。
ところが「馬子」と「守屋」が一族の長となると、「崇仏派」と「排仏派」の対立が激化。
このとき実は「疫病」が流行し、多くの犠牲者をだしていました。
おそらく
「疫病の流行は、仏教を信仰したことによる神の祟りだ」
と主張する「物部守屋」が、馬子が大切にしていた僧侶「善信尼」らを弾圧したことも「崇仏派」と「排仏派」の対立を激化させたことでしょう。
当時の記録を読むと「守屋」は「善信尼」たちに、本当に酷いことをしていますから。
「敏達天皇」の崩御後に即位した「用明天皇」が、わずか2年で崩御。
その後継者争いの中で「馬子」と「守屋」は、修復不能なまでに対立が激化。遂には戦に発展します。
馬子が守屋に戦を起こしたのは「宗教上の対立」と「天皇の後継者争い」に加え、朝廷内で「大臣と大連」で二分していた権力を、自分1人で独占する・・・・そんな「権力闘争」という側面もあったのでしょう。
皇族「諸皇子」を自分の味方につけることで、戦の大義名分を得た「蘇我馬子」は、豪族も味方に引き込み、ライバル「物部守屋」を攻め滅ぼしました。
物部氏の残党は流刑。その領地と領民は二分され、皇族と蘇我氏とが所有することになったのです。
「物部守屋」の妹が、「馬子」の本妻だったため、それを理由にして「物部氏」の領地と領民の相続権を、馬子が主張したからでした。
大阪市「四天王寺」と「物部守屋」には深い関係があった
馬子と守屋の戦の最中、「四天王」へ戦勝祈願を行い、見事に勝利をもたらした「聖徳太子」は、戦が集結してから6年後の【593年】に、守屋の領地に「四天王寺」の建立を開始。現在の「大阪市天王寺区」にある、あの「四天王寺」のことです。
「四天王寺の創建」には、もう一つの説があります。守屋の邸宅跡に「守屋」と「中臣勝海」の霊を鎮めるために建てられたお堂が、四天王寺の始まりだった・・・という説です。
いずれにせよ、聖徳太子の月命日である「22日」に公開される「守屋祠」が今も残されている四天王寺は、物部氏の領地に建てられた、物部氏ゆかりのお寺だとも言えますね。
聖徳太子による「四天王寺の創建」は、戦勝祈願という目的もあったのでしょうが、敗死した「物部守屋の鎮魂」、という意味合いも大きかったのではないか、と私は考えています。
『蘇我馬子』について「ひとこと」言いたい!
日本の古代史を学ぶ時、考慮しなければならないことがあります。
それは
『日本書紀』という歴史書は、「乙巳の変」で蘇我本家を滅ぼした天智天皇(中大兄皇子)や中臣鎌足の側によって書かれた歴史書である」
ということです。つまり「日本書紀は、勝者によって都合よく記された歴史書」かもしれないということ。
「馬子」とか「入鹿」とか・・・・現代に生きる私たちが子供の名前に使わないような字の入った名前になっていますよね。
実は「馬子」「蝦夷」「入鹿」という名前は、彼らの本当の名前ではなく、『日本書紀』を書いた人たちが、蘇我氏を倒した藤原氏(中臣鎌足の一族)を正当化するために、蘇我氏をおとしめる目的でそのような名前を残したとも考えられるからです。
例えば「馬子」の弟は「摩利勢(まりせ)」という名前が記録に残っています。
さらに「入鹿」の従兄弟は「石川麻呂」という当時としても珍しくはない立派な名前が『日本書紀』に残されています。
にもかかわらず、「乙巳の変」で滅ぼされた「蘇我一族」の名前は「稲目」「馬子」「蝦夷」「入鹿」・・・。
例えば「蝦夷」といえば、征夷大将軍「坂上田村麻呂」の滅ぼされた東北地方の異民族の総称・・・侮蔑を込めて呼ばれた名前なのです。
そのように名前を貶めているだけではなく、おそらく蘇我氏の行ったこととして『日本書紀』に書かれていることがらも、たとえそれが「善政」であったとしても、藤原氏に都合の良いように改悪されている可能性はあるのです。
特に入鹿の記事については、その可能性は高いでしょう。
馬子が聖徳太子と協力して編纂した歴史書『天皇記』が、現在も全て伝わっていれば、日本の古代史は随分と異なったものになっているかもしれません。
残念なことに『天皇記』は、「乙巳の変」の翌日、蝦夷が屋敷に火を放ち自害した時に、一部を除き焼失してしまいました。
近年、「奈良県 明日香村」の「甘糟丘東麓遺跡」で、7世紀前半の焼けた建物跡や焼けた土、土器などが発掘されています。
規模と焼けた跡と場所から考えて、「蝦夷と入鹿の邸宅跡」ではないか・・・・・と奈良文化財研究所から発表がありました。
もしも、『天皇記』の木簡の燃え残りが発掘されたら、世紀の大発見になるかもしれませんね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「蘇我馬子」とは、飛鳥時代の大豪族で政治家。ライバルの豪族「物部守屋」を倒し、「崇峻天皇」を暗殺させ、推古天皇・聖徳太子とともに「冠位十二階」「憲法十七条」などの制定に協力した。
- 「聖徳太子」は「蘇我馬子」の娘婿であり、2人は協力して政治を行った間柄。しかし聖徳太子の子「山城大兄王」は、馬子の子「蘇我蝦夷」により、天皇に即位できなかったため、遺恨が残った
- 「乙巳の変」で殺害された「蘇我入鹿」は、「蘇我馬子」の孫にあたる。
- 「蘇我馬子」と「物部守屋」は、「仏教」を崇拝するか廃止するかで対立。戦いは「蘇我馬子」「聖徳太子」が勝利した
この記事を短くまとめると、以下の通り
「蘇我馬子」は飛鳥時代の政治家です。
「敏達天皇」から「推古天皇」まで、4代の天皇の御代にわたって、54年間、大臣(おおおみ)として朝廷で政治を司りました。
推古天皇の御代には、摂政の「聖徳太子」と協力して、遣隋使を派遣。「冠位十二階」や「十七条憲法」を制定し、日本の中央集権化を図ったのです。
聖徳太子と協力して作成した歴史書『天皇記』『国記』が後世に伝わっていれば、日本の古代史研究は、今とは全く違ったものになっていたかもしれません。
飛鳥時代の人としては長命だったと考えられる「蘇我馬子」の墓は、「奈良県明日香村」の「石舞台古墳」だと言われており、現在では人気の観光スポットとなっています。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
コメント