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「坂上田村麻呂」という名前は聞いたことがあっても、どういう功績を残した人なのかを説明できる人は、意外に少ないかもしれません。
実は私も大学で勉強するまで、坂上田村麻呂について「桓武天皇に仕えた征夷大将軍」くらいにしか知りませんでした。
坂上田村麻呂は「東北征伐を行い、清水寺を創建した人」だったのです。
この記事では「坂上田村麻呂にあまり詳しくない人向け」に、どういう人なのかを分かりやすく解説してきます。
これを読んで「坂上田村麻呂ってそういう人だったのか!」と、疑問をスッキリと解消してくださいね。
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この記事を短く言うと
- 「坂上田村麻呂」は、【802年】に東北の「蝦夷」とその族長「アテルイ」を降伏させた人物。「征夷大将軍」。この直前、朝廷軍は「巣伏の戦い」で蝦夷に大敗していた
- 朝廷に降伏した「アテルイ」は、「坂上田村麻呂」の助命嘆願もむなしく処刑されてしまう。その墓は現在の「大阪府枚方市」にあると考えられている
- 京都の「清水寺」は、「坂上田村麻呂」が自宅を「延鎮(えんちん)」という僧侶に寄進したことから始まったお寺。つまり「坂上田村麻呂」と「延鎮」が清水寺を創建した
坂上田村麻呂とアテルイの戦い!「巣伏の戦い」で朝廷軍大敗
「坂上田村麻呂」は「桓武天皇」に命じられて東北征伐を行い、東北を支配していた民族「蝦夷(えみし)」の族長「アテルイ」を撃破して降伏させ、東北を平定した人物です。
実は「坂上田村麻呂」より以前に、「桓武天皇」に命じられて、東北征伐に出たものの大敗した人がいました。
【789年】桓武天皇に命じられた「紀古佐美(き の こさみ)」が朝廷軍を率い、蝦夷討伐の遠征に出発します。
「紀古佐美」が率いる朝廷軍は、「衣川」に到達したのち、なぜかそこで進軍を止めてしまいました。(ちなみに「衣川」は、当時の「朝廷」と「蝦夷」の境界線となった河川。「源義経」が戦死した地で有名です)
蝦夷たちの出方をうかがっていたのかもしれませんが、遠く「京の都」にいる桓武天皇からすると
『なぜ進軍しないのだ!とっとと攻撃して蝦夷を討伐せよ!』
とイライラしてしまいますよね。
桓武天皇に進軍を止めたことを叱責された「紀古佐美」は、蝦夷の拠点「胆沢(いさわ)」に進軍。
軍を前軍・中軍・後軍の3つに分けて、進軍しました。
そのうち中軍と後軍は、敵である蝦夷のリーダー「アテルイ」の居住地近くで、蝦夷軍と激突。
戦いは初め「朝廷軍」が優勢で、逃げた蝦夷軍を追い「巣伏村」というところへ至ったところで、前軍の合流を待ちました。
ところが蝦夷たちの激しい抵抗に遭い、前軍は川を渡って中軍・後軍に合流できませんでした。
援軍が来ないのを見た他の蝦夷たちが、アテルイたちに加勢。前と後ろを囲まれた朝廷軍は、一気に劣勢へ。ついには壊滅状態に追い込まれ、「紀古佐美」の遠征は失敗に終わったのです。
朝廷軍が蝦夷軍に負けたこの戦のことを「巣伏(すぶせ)の戦い」と言います。
敗戦の報告を受けた「桓武天皇」は、「坂上田村麻呂」を征夷大将軍に任命。再度、蝦夷征伐の遠征を行わせることにしました。
【801年】、「坂上田村麻呂」は東北へ進軍。アテルイと激突します。
朝廷軍が優位に戦を進め、【802年1月】に坂上田村麻呂は、東北で確保した地域に、東北支配の拠点となる「胆沢城(いさわじょう)」を築城。
胆沢城の建築によって、これ以上の朝廷との争いは無益、と考えたのでしょうか。蝦夷は降伏してしまいます。おそらくまだ胆沢城の建築中だった【802年4月】に、「アテルイ」は側近の「モレ」の他蝦夷の兵を数百名率い、「坂上田村麻呂」に降伏を申し出たのです。
こうして「坂上田村麻呂」と蝦夷の長「アテルイ」の戦いは、幕を閉じました。
アテルイの最期!田村麻呂の助命嘆願も虚しく処刑!
「アテルイ」は朝廷に服するよう、蝦夷たちを説得。側近の「モレ」と共に数百名を率いて坂上田村麻呂に降伏しました。
朝廷軍との戦いで、蝦夷は劣勢となる一方。しかも東北支配の拠点となる胆沢城を築かれてしまったのでは、戦いを続けても、無駄に血が流れるだけだ・・・・・と考えたのでしょう。
族長として「アテルイ」は、現実的に立派な判断を下したのだと思います。
アテルイのその態度に感銘を覚えた「坂上田村麻呂」は、都に連行した「アテルイ」と「モレ」の助命を、朝廷に嘆願しました。
ところが朝廷の群臣たちは、アテルイとモレの助命に反対します。
たまたま今回はおとなしく従ったが、東北に戻せばまた反乱を起こすに違いない
と強硬に「処刑すべきである」と主張したのです。
坂上田村麻呂の助命嘆願も虚しく、アテルイとモレの処刑は決定。
【802年8月13日】、「アテルイ」と「モレ」は河内国(現在の大阪府東部)で、斬首されます。
坂上田村麻呂は恐らく、アテルイのことを「敵ながら天晴れ」と思い、助命嘆願したのでしょう。
観音菩薩を深く信仰していた「坂上田村麻呂」にとって2人を助けられなかったことは、さぞ無念だったのではないか、と私は思います。
処刑された場所は、「河内国植山(椙山、杜山と書かれた写本もあります)」と記録にありますが、河内にその地名は存在しておらず、「アテルイ」と「モレ」の最期の地は、はっきりしていません。
「東北の蝦夷の族長の首塚」と地元の方達に語り継がれてきた石碑があったことから、「大阪府枚方市宇山」が最期の地ではないか・・・と言われています。「片埜神社」の隣にある「牧野公園」というところです。
また「大阪府枚方市藤阪」にある「王仁博士の墓」が、昔は「オニ墓」と呼ばれていて、もともとは石が2個並んでいるだけの墓だったことから、こちらがアテルイの墓ではないかという説もあるのです。
最期の地がはっきりしていませんが、片埜神社の境内だった牧野公園では、岩手県人会によって、アテルイとモレの慰霊祭が毎年行われています。
河内国で処刑されて以降、記録が途絶えた「アテルイ」は、【1990年代】以降、歴史上の人物として再評価されはじめました。小説、漫画、ドラマ、ゲームなどに登場する人気キャラクターとなったのです。
清水寺と坂上田村麻呂の関係とは?清水寺は田村麻呂が創建したもの
京都市東山区にある「清水寺」といえば、「清水の舞台」で有名なお寺ですよね。
実はこの清水寺、「坂上田村麻呂」が創建したお寺なのです。
【778年】、奈良の「興福寺」の僧「延鎮(えんちん)」は、夢のお告げで今の清水寺がある「音羽山」へたどり着きました。
そこで「金色の水」が流れているのを見た「延鎮」は、水の流れを追い、滝行をしている修行僧「行叡(ぎょうえい)」と出会ったのです。
「行叡」はなんと年齢200歳。
そして不思議なことを語り始めます。
ずっと延鎮が来るのを待っていた。
これから私は東国に修行に出るから後を頼む。
そう言い残すと、行叡は姿を消しました。
行叡が「千住観音の化身」だと悟った「延鎮」は、音羽山に住み着き、修行を始めます。
2年後の【780年】、鹿を捕まえようとした「坂上田村麻呂」が音羽山にやってきて、「延鎮」と出会いました。
妻が病にかかっていた「坂上田村麻呂」は、鹿の生き血が病に良いと信じて鹿を捕まえに来たのです。
しかし延鎮に「殺生はなりません」と言われ、観音に帰依することを誓います。
観音に帰依した「坂上田村麻呂」は、寺の本堂にしてほしいと、自宅を延鎮に寄進しました。
東北征伐を命じられた際にも、「坂上田村麻呂」は清水寺を訪れ、平定を願い、無事に帰還します。
【798年】、坂上田村麻呂は延鎮と協力し、清水寺の本堂を大改修。観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天を造立して祀ったのです。
こうして坂上田村麻呂は、延鎮とともに「清水寺」を創建したのでした。
坂上田村麻呂が創建した清水寺には、平安遷都1200年を記念して、「アテルイとモレ」の記念碑が建てられています。
『坂上田村麻呂』について「ひとこと」言いたい!
なぜ坂上田村麻呂は、敵である「アテルイ」と「モレ」の助命嘆願をしたのでしょうか?
理由は「3つ」あると思います。
- 【1つ目の理由】は、坂上田村麻呂が観音菩薩に深く帰依していたため、戦いが終わった後に無益な殺生をするとを嫌ったのではないか。
- 【2つ目の理由】は、朝廷軍が優勢となり、蝦夷が劣勢となる中で、これ以上抵抗して蝦夷たちの血を無為に流したくないと田村麻呂は判断した。そのため、蝦夷たちを説得して降伏を選んだアテルイを「敵ながら天晴れ」と感じたからでしょう。
- 【3つ目の理由】は、坂上田村麻呂が東北を平定したとはいえ、未だに朝廷の勢力が及ばない地域が残されていた。そのため、東北地方に強い影響力を持つ「アテルイ」は、処刑するより生かして利用したほうが良い・・と考えたのでしょう。
坂上田村麻呂が平定したのは、今の現在の「岩手県中部」辺りまででした。
桓武天皇はアテルイ降伏後も、東北を討伐する派兵を行おうとしています。「民に負担を与えるのはおよしなさい」と、側近の「藤原諸嗣」に諌められているので、まだ攻める気でいたのでしょう。
未だに朝廷の支配が及ばない地域を平定しようとするなら、「アテルイ」が朝廷側に付いてくれれば、有利に鎮圧戦を進められますよね。
東北の地について京都の人間よりもずっと詳しく、しかも土地の言葉を理解している。(方言について当時、京都の人間に東北なまりは理解できなかったと考えられる)
こういう人が現地の「協力者・道案内」になってくれたとしたら、これほど心強い味方はないでしょう。
アテルイが蝦夷を説得して降伏していることから考えると、アテルイはリーダーとしての力量も相当あったのでしょう。部族からの信頼もかなりのものがあったと考えられます。
アテルイの東北の人脈を駆使し、平定が及んでいない地域を説得させる・・・。そうすれば戦わずして朝廷の支配を及ぼすこともできたかもしれません。
坂上田村麻呂はそのように考えて、アテルイを東北支配のパートナーとしたかったのではないか・・・・・と私は思います。
朝廷の群臣たちに強固に反対され、アテルイとモレが処刑されたのは、坂上田村麻呂にとってものすごく残念で無念なことだったことでしょう。
さらにいえば「アテルイ」処刑は、さらなる犠牲をうむ愚かな行為だったと考えられます。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 征夷大将軍「坂上田村麻呂」は【802年】、「桓武天皇」の命令で東北へ遠征。東北の「蝦夷」とその長「アテルイ」を降伏させた人物。
- 「坂上田村麻呂」が助命を願ったものの、降伏した「アテルイ」は処刑されてしまう。「アテルイ」の墓は現在の「大阪府枚方市」にあると考えられている
- 京都「清水寺」は、「坂上田村麻呂」と「延鎮」が創建したお寺。坂上田村麻呂が延鎮に自宅を寄進したことで、清水寺が始まった。
この記事を短くまとめると、以下の通り
坂上田村麻呂は、桓武天皇の命令で東北征伐を行い、蝦夷の族長「アテルイ」と戦いって降伏させ、今の岩手県中部辺りまで平定しました。
坂上田村麻呂の前に、「紀古佐美」が朝廷軍を率いて「アテルイ」と戦いましたが、「巣伏の戦い」で大敗。
桓武天皇は、坂上田村麻呂を「征夷大将軍」に任命。再度、東北を征伐させました。
坂上田村麻呂の戦いによって、アテルイは降伏。側近のモレとともに京都に連行されます。
アテルイとモレの助命嘆願をした坂上田村麻呂でしたが果たせず、2人は河内国植山で斬首によって処刑されてしまいました。
アテルイとモレが処刑されたのは、現在の「大阪府枚方市」だったと考えられています。
坂上田村麻呂は、京都の音羽山に鹿を狩りに行った際に僧「延鎮」と出会い、清水寺を創建。
清水寺は、京都でも有名な観光スポットとして、今も数多くの観光客で賑わっています。
以上となります。
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