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【藤堂高虎が築いた城一覧】築城名人が遺した10城と石垣の秘密

戦国から江戸初期にかけて「築城名人」として名を馳せた藤堂高虎

彼が築いた城一覧をたどると、その数の多さと完成度の高さに驚かされます。

伊賀上野城の高石垣、今治城の海水を引き込んだ堀、そして全国に広がる徳川の城づくり。

藤堂高虎が手がけた城は20以上とも言われ、加藤清正・黒田官兵衛と並び、俗に「築城三名人」の一人に数えられています。

この記事では、藤堂高虎が築城した城を一覧で整理しながら、なぜ彼が城づくりの天才と呼ばれたのか、その技術と魅力をわかりやすく解説していきます。

この記事のポイント
  • 藤堂高虎が築城・改修した主要な城を一覧でまるごと把握できる
  • 伊賀上野城・今治城・宇和島城など代表的な城の特徴と見どころがわかる
  • 高石垣・層塔型天守など「築城名人」と呼ばれた技術の秘密がわかる
  • 城めぐりをもっと楽しみたい方へ、関連する戦国武将の記事もあわせて紹介
目次

藤堂高虎とはどんな人物だったのか

城一覧を見る前に、まずは藤堂高虎がどんな人物だったのかを押さえておきましょう。築城名人と呼ばれた背景には、波乱に満ちた生涯と、主君を7人も替えたという独特の生き方がありました。

今治市の今治城模造天守閣と藤堂高虎の騎馬像
Wikipediaコモンズ」より引用

7人の主君に仕えた「転職の達人」

藤堂高虎は生涯で7人(諸説あり)の主君に仕えたと言われています。近江国(現在の滋賀県)に生まれた高虎は、はじめ浅井長政に仕え、その後阿閉貞征、磯野員昌、豊臣秀長、豊臣秀保、豊臣秀吉、そして最終的には徳川家康などに仕える先を変えていきました(仕えた人数や系譜には諸説あります)。当時の武士にとって主君を替えること自体は珍しくありませんでしたが、ここまで渡り歩いた例は多くありません。

こうした経歴から「裏切り者」と評されることもありますが、実際の高虎は仕えた主君にはとことん尽くしたと言われています。とりわけ豊臣秀長への忠義は厚く、秀長亡き後はその恩を生涯忘れなかったと伝わります。主君を替えながらも能力と実績で評価を勝ち取り、最終的には伊勢・伊賀で32万石を超える大大名にまで上り詰めました。

高虎が遺したとされる家訓「寝屋を出るより其の日を死番と心得るべし」には、いつ死んでも悔いのないよう日々を全力で生きるという覚悟が表れており、彼の生き様を象徴しています。


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なぜ「築城名人」と呼ばれたのか

藤堂高虎は加藤清正・黒田官兵衛と並び、一般に「築城三名人」の一人として数えられています(後世の俗称とされています)。高虎の築城技術が高く評価されたのは、単に頑丈な城を造るだけでなく、効率的かつ短期間で完成度の高い城を築けたからだと言われています。

特に高虎が普及に関与したとされるのが、直線的でそそり立つような「高石垣」と、上の階に向かって規則的に小さくなっていく「層塔型天守」です。これらは見た目の壮麗さだけでなく、工期の短縮やコスト削減にもつながる合理的な技術でした。築城の現場を数多く経験するなかで培われた実践知が、高虎を名人へと押し上げたのです。

徳川家康からの厚い信頼

高虎は外様大名でありながら、徳川家康から異例の信頼を寄せられた人物としても知られています。家康の臨終の際、枕元に呼ばれた数少ない大名の一人が藤堂高虎だったという逸話も残されており(史実としての確証には議論があります)、その信任の厚さがうかがえます。

家康が高虎を重用した理由の一つが、まさにその築城技術でした。江戸幕府が全国支配を固めていくなかで、各地の城の縄張り(設計)や普請に関与したのが高虎だったのです。次の章からは、いよいよ高虎が手がけた城を具体的に見ていきましょう。

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藤堂高虎が築いた城一覧

ここからは、藤堂高虎が新規に築城した城、大規模に改修した城を一覧でまとめて見ていきます。九州から関東まで、その活動範囲の広さに驚かされるはずです。

高虎が築城・改修した主要な城一覧表

藤堂高虎が関わった城は、確認できるものだけでも10以上にのぼると言われています。まずは代表的な城を一覧表で整理してみましょう。

城名 所在地(現在) 関わり方 主な特徴
宇和島城 愛媛県宇和島市 築城 不等辺五角形の縄張り
今治城 愛媛県今治市 築城 海水を引き込んだ堀(海城)
伊賀上野城 三重県伊賀市 大改修 日本有数の高石垣
津城 三重県津市 大改修 本拠地・輪郭式の縄張り
篠山城 兵庫県丹波篠山市 縄張り 天下普請(天守は建造されず)
膳所城 滋賀県大津市 築城 天下普請第一号
二条城 京都府京都市 縄張り関与 徳川の権威の象徴
江戸城 東京都千代田区 普請関与 天下普請
丹波亀山城 京都府亀岡市 縄張り 天下普請への関与

自身の領地に築いた城

高虎が自らの領地に築いた代表的な城が、宇和島城・今治城・伊賀上野城・津城です。宇和島城と今治城は伊予国(愛媛県)時代に、伊賀上野城と津城は伊勢・伊賀に移ってから手がけました。

これらの城は、いずれも防御性と機能性を兼ね備えた高虎流の築城思想が色濃く反映されています。特に海に面した今治城と、内陸の要衝である伊賀上野城では、立地に応じて全く異なる工夫が施されており、高虎の柔軟な設計力が見て取れます。

「天下普請」で関わった徳川の城

高虎の凄さは、自分の城だけでなく、幕府の命令で全国の大名が動員される「天下普請」でも中心的な役割を担った点にあります。膳所城・篠山城・丹波亀山城・江戸城・二条城など、徳川政権の重要拠点の設計や築城に高虎の技術が活かされたと言われています。

とりわけ膳所城は関ヶ原の戦い直後に家康が命じた初期の天下普請の一つとされ(第一号とする説もあります)、その縄張りを任されたのが高虎でした。これは家康がいかに高虎の腕を信頼していたかを物語っています。

二条城の石垣(筆者撮影)

筆者は藤堂高虎が徳川秀忠とともに、改修工事の基礎設計に関わったという京都・二条城へ実際に行ったことがあります。御殿は国宝にも指定され、庭も襖絵も唐門も、豪華絢爛で非常に見事なものでした。その中で、筆者が特に気になったのが、石垣です。二条城は、二重の堀に守られたお城です。とはいえ京都という、当時から大都市だった場所のど真ん中に、突然石垣が剥き出しになった城が現れると、その威圧感は強烈なものがあります。豪壮華麗な建物かと思いきや、筆者はあの石垣を目にした瞬間、やはり二条城は、戦いを意識した要塞なのだと感じました。あの石垣が藤堂高虎によるものかはわかりません。しかし、もしかすると高虎も、二条城を儀礼の場ではなく、あくまでも戦闘用の要塞として、基礎設計に携わったのかもしれないと、筆者は思います。

現在の二条城・唐門(筆者撮影)

次の章では、これらの城の中でも特に有名な伊賀上野城を詳しく見ていきましょう。


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伊賀上野城|日本屈指の高石垣を誇る名城

藤堂高虎が築いた城の中でも、特に「築城名人」の真骨頂が表れているのが伊賀上野城です。その圧倒的な高石垣の秘密に迫ります。

高さ約30mの日本有数の高石垣

伊賀上野城の高石垣は、高さ約30mと日本有数の規模を誇ります。大阪城の石垣と並んで日本でも最大級とされており、内堀から見上げるその姿は圧巻の一言です。石垣の上に立つと足がすくむほどの高さで、訪れた人々を今も驚かせています。

もともと伊賀上野城は筒井定次が築いた城でしたが、慶長13年(1608年)に高虎が伊勢・伊賀に入封すると、大坂の豊臣家に備えるための重要拠点として大改修を行いました。この高石垣も、その際に高虎が築かせたものだと言われています。

対豊臣の最前線基地としての役割

伊賀上野城が大規模に強化された背景には、大坂城の豊臣秀頼を強く意識した家康の戦略がありました。伊賀上野は大坂と江戸を結ぶ要衝に位置し、対豊臣の最前線基地としての役割を担っていたのです。

高虎は西側に向けて高石垣を築き、徹底した防御態勢を整えました。城の縄張りそのものが、来るべき豊臣との決戦を見据えたものだったと言われています。実際にこの後、大坂冬の陣・夏の陣が起こり、高虎も徳川方として参戦しました。

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未完に終わった幻の天守

実は、高虎が建設を進めていた伊賀上野城の天守は完成しなかったと言われています。慶長17年(1612年)、暴風雨によって建設途中の天守が倒壊してしまったのです。その後、大坂の陣で豊臣家が滅び、城の軍事的な必要性が薄れたため、天守は再建されませんでした。

現在伊賀上野城に建つ天守は、昭和10年(1935年)に地元の名士・川崎克によって私財を投じて建てられた模擬天守です。本来高虎が築こうとした天守の姿は、今も謎に包まれたままです。次は、海の上に浮かぶような名城・今治城を見ていきましょう。


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今治城|海水を引き込んだ画期的な海城

高虎の独創性が最も発揮された城が、伊予国に築かれた今治城です。日本三大海城の一つに数えられるその革新的な構造に注目します。

日本三大海城に数えられる革新性

今治城は、海に面した立地を活かし、瀬戸内海の海水を直接堀に引き込んだ「海城」です。高松城・中津城とともに日本三大海城の一つに数えられています。慶長7年(1602年)頃から築城が始まり、1604〜1608年頃に完成したとされており、高虎が伊予半国20万石を領していた時代に手がけられました。

堀には海水魚が泳ぐこともあり、潮の満ち引きによって水位が変化するという、内陸の城には見られない特徴を持っています。船で直接城内に物資を運び込めるよう設計されており、海運と防御を見事に両立させた高虎の発想力が光ります。

ここがポイント

今治城の革新性は「海をそのまま防御と物流に利用した」点にあります。陸の城が当たり前だった時代に、海水を引き込んだ広大な堀を造り、船で城まで乗りつけられる構造を実現したのは、瀬戸内海の地形を熟知した高虎ならではの発想でした。この海城の技術は、後に高虎が手がけた他の城にも応用されていきます。

層塔型天守の先駆けとなった城

今治城の天守は、上の階に向かって規則的に小さくなる「層塔型天守」の初期の例だったと言われています。それまで主流だった望楼型天守は、設計や建築に高度な技術と時間が必要でした。一方、層塔型は構造がシンプルで、工期の短縮とコスト削減が可能だったのです。

この合理的な天守の形式は、その後全国の城づくりに大きな影響を与えました。高虎が築城名人と呼ばれる理由の一つが、まさにこの効率的な建築技術の確立にあったのです。

丹波亀山城へ移築された天守の謎

興味深いことに、今治城の天守は完成後まもなく丹波亀山城へ移築されたという説があります。高虎が天下普請で丹波亀山城を手がけた際、今治城の天守を移築して献上したという伝承が残されています(史料的な確証はありません)。家康への忠義を示すための行動だったとも言われています。

現在今治城に建つ天守も伊賀上野城と同様に後年再建された模擬天守ですが、その壮麗な姿は当時の高虎の城づくりを偲ばせてくれます。続いては、高虎の出世のきっかけとなった宇和島城を見ていきましょう。


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宇和島城と津城|高虎流築城の集大成

高虎の築城キャリアの出発点となった宇和島城と、本拠地として整備した津城。この2つの城にも、高虎ならではの巧みな工夫が詰まっています。

宇和島城|敵を欺く五角形の縄張り

宇和島城の特徴は、上から見ると不等辺五角形になっている縄張りです。一見すると四角形に見えるよう設計されており、攻め手に城の正確な構造を悟らせないためだという説があります(明確な史料による裏付けはありません)。これにより、敵が四方を囲んだつもりでも実際には一辺が手薄になり、そこから逃げ道や反撃の活路を確保できたとする逸話が語られています。

高虎が宇和島城(当時は板島丸串城)の築城を開始したのは慶長6年(1601年)頃とされており、彼が本格的に城主として築城を手がけた最初期の城とされています。この城での実績が、後の今治城や伊賀上野城へとつながっていきました。

津城|高虎の本拠地となった城

津城は、伊勢・伊賀に入封した高虎が本拠地として大規模に改修した城です。本丸を二重の堀で囲む「輪郭式」の縄張りを採用し、堅固な防御態勢を整えました。城下町の整備にも力を入れ、現在の津市の基礎を築いたとされています。

高虎は城そのものだけでなく、城下町を含めた都市計画にも長けていました。商人や職人を集め、街道を整備することで、城を中心とした経済圏を作り上げたのです。築城名人としての高虎は、軍事だけでなく経済の視点も持ち合わせていたと言えるでしょう。

高虎流築城に共通する3つの特徴

これまで見てきた城々から、高虎流の築城には共通する特徴が見えてきます。整理すると次の通りです。

  • 直線的でそそり立つような「高石垣」を多用し、登りにくく崩れにくい構造を実現した
  • 規則的に積み上げる「層塔型天守」で、工期短縮とコスト削減を両立させた
  • 立地を最大限に活かす(海城・要衝など)柔軟な縄張りで、防御性と機能性を兼ね備えた

これらの技術は、家康に重用される大きな理由となりました。次は、高虎の城めぐりをより深く楽しむための関連トピックを紹介します。


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築城名人・藤堂高虎をもっと深く知る

城一覧を押さえたところで、高虎という人物の魅力や、城めぐりをさらに楽しむための視点を掘り下げてみましょう。

加藤清正・黒田官兵衛との違い

築城三名人と呼ばれる藤堂高虎・加藤清正・黒田官兵衛には、それぞれ得意とする技術に違いがありました。加藤清正は熊本城に見られるように、上に行くほど反り返る「武者返し」の石垣で知られています。黒田官兵衛は縄張りの達人で、福岡城や名護屋城の設計に手腕を発揮しました。

熊本城天守閣
Wikipediaコモンズ」より引用

一方の高虎は、直線的な高石垣と層塔型天守による「合理性」と「スピード」が持ち味でした。短期間で多くの城を手がけられたのは、この効率重視の姿勢があったからだと言われています。三者三様の個性を比べながら城を見ると、より深く楽しめるでしょう。

築城名人 得意分野 代表的な城
藤堂高虎 高石垣・層塔型天守 伊賀上野城・今治城
加藤清正 武者返しの石垣 熊本城
黒田官兵衛 縄張り(設計) 福岡城・名護屋城

これは筆者個人の意見ですが、城というものは、実際の戦闘において使われて、初めてその機能が優れているのかどうかがはっきりすると思います。そう考えると、藤堂高虎や黒田官兵衛が、本当に築城名人と呼べるのかどうか、筆者は疑問を抱くことがあります。なぜならば、藤堂高虎や黒田官兵衛が作ったお城は、実際に戦闘で利用されたことが、ほとんどないためです。彼らのつくった城は、世の中が平和になった頃に完成しているからです。ところが、加藤清正がつくった熊本城だけは、完成から200年以上経過して、初めて実戦で利用されました。1877年の西南戦争のときです。西郷隆盛が率いる14000人の薩摩軍が、名将・谷干城が率いる4000人の官軍がたてこもる熊本城を攻撃。歴戦の猛者が集う薩摩軍が、熊本城を落とせず撤退したのでした。西郷さんは撤退する際に「私は官軍に負けたんじゃない!清正公に負けたのだ!」と、悔しそうに言ったという逸話は有名です。特に加藤清正がつくった「武者返しの石垣」は本当に役に立ったといわれています。武者返しとは、石垣を上に登れば登るほど、そり返るように角度が垂直になり、登ることが難しくなる設計のことです。武者返しの石垣は、加藤清正の得意な設計でした。このように、実戦でその機能が証明されて、城は初めて名城と呼ぶことができると、筆者は思っています。名城をつくってこそ、初めて「城造りの名人」と呼ぶことができるでしょう。そういう意味では、加藤清正を除く黒田官兵衛と藤堂高虎は、城造りの名人と呼ぶことができないのではないかと、筆者は思うことがあります。

現存する高虎の城の見どころ

高虎が手がけた城の多くは、天守こそ後年の再建ですが、石垣や堀といった本来の遺構が残っているものも少なくありません。伊賀上野城では高石垣を、今治城では海水を引いた堀を、宇和島城では江戸時代に再建された現存天守を見ることができます。

特に宇和島城の天守は、全国に12しかない「現存天守」の一つとして貴重です。築城当時のものではありませんが、高虎が築いた城の地に立つ天守として、その歴史を肌で感じられる場所と言えるでしょう。城めぐりの際は、ぜひ石垣の積み方や堀の構造にも注目してみてください。

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藤堂高虎の城に関するよくある質問

最後に、藤堂高虎が築いた城についてよく寄せられる疑問をQ&A形式でまとめました。城めぐりや調べ物の参考にしてください。

藤堂高虎が築いた城はいくつありますか?

新規築城・大改修・天下普請での関与を含めると、確認できるものだけで10以上にのぼると言われています。代表的なものは宇和島城・今治城・伊賀上野城・津城・篠山城・膳所城・江戸城などです。縄張りへの関与まで含めると、その数はさらに多くなると考えられています。

藤堂高虎の城で一番有名なのはどれですか?

日本有数の高石垣で知られる伊賀上野城と、海水を引き込んだ海城として有名な今治城が特に知られています。伊賀上野城は約30mの高石垣が見どころで、今治城は日本三大海城の一つに数えられています。どちらも高虎の築城技術を象徴する名城です。

藤堂高虎はなぜ石垣づくりが得意だったのですか?

高虎は数多くの築城現場を経験するなかで、実践的な石垣の技術を磨いたと言われています。直線的でそそり立つような高石垣は、登りにくく崩れにくいという防御上の利点があり、見た目の壮麗さも兼ね備えていました。この合理的な技術が、築城名人と呼ばれる理由の一つです。

藤堂高虎が建てた城の天守は今も残っていますか?

伊賀上野城や今治城の現在の天守は、後年に再建された模擬天守です。築城当時の天守の多くは、暴風雨での倒壊や移築、廃城令などで失われました。ただし宇和島城には江戸時代に再建された現存天守が残っており、全国12しかない貴重な現存天守の一つとなっています。

藤堂高虎は徳川家康とどんな関係でしたか?

高虎は外様大名でありながら、家康から異例の信頼を寄せられていました。その築城技術を高く評価され、江戸城や篠山城など徳川政権の重要拠点の縄張りを任されています。家康の臨終の際、枕元に呼ばれた数少ない大名の一人だったとも言われており、その信任の厚さがうかがえます。

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まとめ|藤堂高虎が築いた城は技術と知恵の結晶

藤堂高虎が築いた城を一覧で見てくると、その活動範囲の広さと技術の高さに改めて驚かされます。宇和島城で築城家としての一歩を踏み出し、今治城で海城という革新を成し遂げ、伊賀上野城で日本有数の高石垣を築き上げた高虎は、まさに築城名人の名にふさわしい人物でした。

7人の主君に仕えながらも、確かな実力で家康の信頼を勝ち取り、全国の徳川の城づくりに腕を振るった藤堂高虎。直線的な高石垣と合理的な層塔型天守という彼の技術は、その後の日本の城に大きな影響を与えました。高虎が手がけた城を訪れる機会があれば、ぜひ石垣の積み方や堀の構造に注目してみてください。そこには、戦国を生き抜いた一人の男の知恵と工夫が今も息づいています。

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