壇ノ浦の戦いとは何かをわかりやすく簡単解説!安徳天皇の最期と三種の神器のなぞ

壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)とは何なのか?について短くまとめると、以下の通りです。

  1. 壇ノ浦の戦いとは、源氏と平家のあいだで起こった戦い。この戦いで敗北した平家は滅亡した。源氏の総大将は源義経。平家の総大将は平知盛。
  2. 壇ノ浦の戦いは、1185年に、現在の山口県と福岡県のあいだにある関門海峡で起こった。
  3. 戦いの結果、源頼朝をトップとする源氏が天下を制覇したが、この戦いの直後、平家を滅ぼした源義経が、兄・頼朝と対立することとなった

この記事では壇ノ浦の戦いについて、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。

これを読めば、誰かに説明できるほど、壇ノ浦の戦いに詳しくなれます。


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壇ノ浦の戦いとは何か?簡単にわかりやすく解説

壇ノ浦の戦いとは、1185年に起きた、源氏と平家の戦いです。

この戦いで敗北した平家は滅亡します。

壇ノ浦の戦い
「引用元ウィキペディアより」

壇ノ浦の戦いは、誰と誰が戦ったものなの?

源氏軍をひきいていたのは、のちに鎌倉幕府の征夷大将軍となる源頼朝の弟・源義経でした。

平家軍の総大将は、平清盛の4男・平知盛(たいらのとももり)です

安徳天皇(あんとくてんのう)をご存知でしょうか?

平家を繁栄させた実力者・平清盛の孫にあたる人物で、当時6歳だった天皇です。

平家軍団の事実上のトップは平知盛でしたが、名目上は安徳天皇を頂点としていました。

まだ幼かった安徳天皇も、平清盛の妻・平時子(別名・二位尼)に抱かれて、海に身を投げて亡くなっています。

この安徳天皇が入水したことで、壇ノ浦の戦いでの平家軍の敗北と、源氏軍の勝利が決定したのでした。

壇ノ浦の戦いが起こった場所は、どこ?

戦いが起こった場所は、現在の本州・山口県と九州・福岡県のあいだにある関門海峡です。

下関市にある火の山山頂から見た、現在の関門海峡
「引用元ウィキペディアより」

この場所に、彦島(ひこしま)という島があります。

平家はこの彦島を本拠地としていたのです。

彦島を拠点にした平家は、船をつかって外国と積極的に貿易をしていました。

そのおかげで平家は巨万の富を手に入れ、圧倒的な権力を握ったのでした。

 

壇ノ浦の戦いが起こった場所については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

『壇ノ浦の戦いの場所を地図付きでわかりやすく解説!なぜ壇ノ浦で戦ったの?』の記事はコチラ


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壇ノ浦の戦いは、なぜ起こったのか?

壇ノ浦の戦いは、平家を倒せ、という命令が全国の源氏に対して出されたことがきっかけで起こった、源氏と平家の戦いです。

その源氏と平家のたたかい(源平合戦)の、最終決戦として起こったものです

壇ノ浦の戦いは、平家と源氏のあいだで30年も続いた権力闘争の、最後の戦いだったのです。

壇ノ浦の戦い
「引用元ウィキペディアより」

ときは平安時代、当時の日本では鳥羽法皇(とばほうおう)という人が、院政という政治のやり方で、絶対的な権力を握っていました。

この白河法皇のもとで、平氏と源氏という、2つの武士勢力が競い合っていました。

平氏のボスは、平清盛。

源氏のボスは、源義朝。

最高権力者であった鳥羽法皇が亡くなると、そのふたりの子供たちのあいだで、権力闘争が勃発します。

鳥羽法皇の2人の子とは

  • 兄・崇徳(すとく)上皇
  • 弟・後白河(ごしらかわ)天皇

のことです。

この戦いを、保元の乱(ほうげんのらん)と呼びます。

1156年、保元の乱で、平清盛と源義朝は後白河天皇に味方して、ライバル崇徳上皇との戦いに勝利します。

後白河天皇と、その側近だった信西(しんぜい)に気に入られた平清盛は、勢力拡大に成功。

清盛に対して源義朝は、保元の乱で父・為義や源氏一族のほとんどを失い、勢力を弱めてしまいます。

1159年、出世コースをひた走る清盛と信西の勢力拡大を嫌った源義朝が動き出します。

義朝は、平清盛が熊野へ行っているスキをついて、藤原信頼という公家と協力し、清盛の盟友だった信西を殺害。

義朝と信頼は、清盛を出し抜いて、権力を握ろうとしたのです。

ところが熊野から帰ってきた清盛が、その圧倒的な軍事力と指揮能力で、義朝と信頼を討伐。

この戦いを、平治の乱(へいじのらん)と呼びます。

保元の乱・平治の乱、この2度の戦いで勝利した平清盛は、権力を独占します。

そして、清盛にひきいられた平家一門は、皇室と政略結婚を繰り返すことで権力をさらに増大させ、栄華を極めることとなるのです。

そんな平家の栄華を、こころよく思わない人物がいました。

後白河法皇です。(後白河天皇は、出家して後白河法皇と呼ばれるようになっていた)

《後白河法皇》
「引用元ウィキペディアより」

平安時代末期の当時、日本には2人の最高権力者がいました。

平家の長・平清盛と、後白河法皇です。

このとき、平清盛にひきいられた平家一族は、清盛の活躍もあって圧倒的な権力を握り、贅沢三昧をしていたのでした。

平家ではないものは、人間ではない

というほどに、平家はおごりたかぶっていたのです。

後白河法皇の息子である以仁王(もちひとおう)という人が、そんな平家の横暴に激怒します。

その結果として1180年、以仁王は、平家のライバルだった日本全国の源氏に対して、平家を倒せ、という命令を発したのです。

1159年の平治の乱で平清盛に敗北し、父・義朝を殺されて伊豆で軟禁生活をさせられていた源頼朝は、この命令を受けて挙兵。

《源頼朝》
「引用元ウィキペディアより」

信濃国・木曽谷に隠れていた頼朝のいとこ・源義仲(木曽義仲)も、以仁王の命令を受けて、打倒平家を目指して挙兵します。

対する平家はというと、1181年に平家の大黒柱であった当主・平清盛が病死してしまい、一気に弱体化していきます。

頼朝と義仲、そして平家という三つ巴の戦いが繰り広げられる中で、平家は木曽義仲に敗北し、京都から逃亡します。(平家都落ち)

木曽義仲も、頼朝の命令をうけた源義経に敗北し、戦死。

平家もまた、義経の軍団に、追いつめられていきます。

  • 一ノ谷の戦い
  • 屋島の戦い

などで次々と敗北した平家は、ついには壇ノ浦の戦いで、最後の決戦を行うこととなるのです。

 

源頼朝については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

『【年表あり】源頼朝とはどんな人?何した人なのか簡単にわかりやすく解説』の記事はコチラ
『【源頼朝の家系図と子孫】超見やすくわかりやすい画像でカンタン解説』の記事はコチラ


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壇ノ浦の戦いの戦況を解説!

壇ノ浦の戦いは、潮の流れが勝敗を決定づけたといわれています。

前半戦は、海を知り尽くした平家が優勢

壇ノ浦の戦いが始まった直後、戦いは平家軍が優勢でした。

彦島を本拠地として、強力な水軍をもっていた平家軍団は、流れの速い関門海峡の潮の流れにのって、戦いを有利にすすめたのです。

潮の流れる方向へと船を走らせて戦うことができる平家軍は、スピードのある船の動きで、源氏軍をさんざん苦しめました。

それに対して、潮の流れに逆らう形で戦うこととなった源氏軍は、苦戦します。

陸での戦いに例えていうなら、平家軍団は追い風で勢いがついた状態で戦うことができたのです。

それに対して源氏軍団は、向かい風をうけて戦っていたため、思うように進むことができなかったのです。

壇ノ浦の戦い
[引用元ウィキペディアより]

ところがここで、名将・源義経が、意外な戦法をくり出したのでした。


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源義経がつかった卑怯な戦法とは?

なんと義経は、船の漕ぎ手(こぎて)を狙い撃つ、という戦法をとったのです。

《源義経》
「引用元ウィキペディアより」

戦争は殺し合いなのだから、どんな卑怯な戦法でも使わなくてはならない、と考えがちです。

しかし当時の戦争には、武士たるものが絶対に守らなくてはならない作法、つまりマナーというものがありました。

当時は、水上戦では非戦闘員である船の漕ぎ手を攻撃してはならない、という誰もが守って当然のルールが存在したのでした。

義経はそのルールを、あろうことか無視したのです。

こうして源氏軍は、危機的状況をなんとか耐えぬきます。

ところが、時間が経過するにつれて、平家軍にとって大変なことが起こり始めます。

潮の流れが変わったのです。

 

源義経については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

『源義経の性格は最悪だった!悲惨で無残な最期は【性格】が原因?』の記事はコチラ


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終盤戦!平家を次々と裏切る水軍

壇ノ浦の戦い終盤。

有利に戦っていたはず平家軍団が、一気に劣勢へと追い込まれました。

その理由は、潮の流れが変わったためです。

壇ノ浦
「引用元ウィキペディアより」

最初は潮の流れにのって平家軍が有利に戦いをすすめていました。

しかし後半は潮の流れがかわり、平家軍に逆らう形で、まるで向かい風のように荒波が押しよせてきたのです。

平家軍とは逆に、源氏軍団はというと、潮の流れにのっての反撃を開始。

義経の戦法によって船の漕手を失っていた平家軍団は、逆向きの潮の流れに押されて、次々と源氏軍に討ち取られていきました。

それだけではありません。

平家軍団に協力していた水軍が、次々と平家を裏切りはじめたのです。

阿波水軍の船300艘は、平家の敗色が濃厚になると、平家軍を裏切って源氏軍に味方したといいます。

阿波水軍の裏切りで、敗北が決定的となった平家軍団は、保護していた安徳天皇や皇族たちをつれて、次々と海の中へ身を投げます。

こうして安徳天皇や、平家軍の総大将・平知盛は亡くなり、壇ノ浦の戦いは源氏軍団の勝利に終わったのです。


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最新の研究!潮の流れは無関係だった

2005年に出版された菱沼一憲さんの著書「源義経の合戦と戦略」にて、壇ノ浦の戦いについての新しい説を発表されました。

それによればこれまで定説であった、潮の流れが結果を左右した、という説が否定されているのです。

菱沼さんの説をかんたんに解説すると、以下のとおりです。

「屋島の戦いのあと、義経は平家軍団の内部崩壊を狙って、裏切り者を出させるための工作をしかけます。

さらに、義経は四国と瀬戸内海を制圧。

義経の兄・範頼は九州を次々と制圧。

その結果、四国・瀬戸内海・九州を失った平家軍は、彦島に孤立。

彦島に孤立した平家軍は、食料や武器・防具の補給が、まったくできなくなったのです。

源氏軍は、陸地からは範頼軍が、海上からは義経軍が、彦島の平家軍を攻撃。

壇ノ浦の戦いが始まると、序盤は平家軍団が雨のように弓矢を撃ちまくり優勢。

しかし、物資が不足していた平家軍の矢は早々になくなります。

平家の矢が亡くなったことを察知した源氏軍団は、陸から範頼軍が、海から義経軍が矢で攻撃。

防具が不足していた平家軍団は、鎧を着ていなかった船の漕手が、次々と矢にあたって戦死。

漕手を失い、動けなくなった平家軍では、阿波水軍がとつぜんの裏切り。

進退きわまった平家軍は、つぎつぎと自害し、戦いは源氏の勝利に終わった。」

この最新の説によると、壇ノ浦の戦いは最初からすでに、物資が足りていなかった平家軍に、勝ち目などなかったようです。


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壇ノ浦の戦いの結果、何が起こったのか?

平家が滅亡し、義経と頼朝が対立

壇ノ浦の戦いで、平家が敗北し滅亡した結果、日本は源氏武者のボスである源頼朝によって支配されることとなりました。

しかし壇ノ浦の戦いの直後、平家を倒した功労者・源義経が、兄・頼朝と対立しはじめるのです。

義経は兄・頼朝を倒すために挙兵しますが、あっけなく失敗。

兄・頼朝に追われた義経は、京都から東北地方の奥州平泉へと逃亡します。

現在の東北地方を支配していたのが、岩手県平泉を拠点としていた藤原秀衡・泰衡の親子でした。

秀衡は義経を保護したものの、秀衡は直後に急死。

その子・泰衡はというと、頼朝の力を恐れて、源義経を襲撃。

1189年、義経は藤原泰衡に攻められて亡くなります。(衣川の戦い)

義経最期の地・高館義経堂

その後、頼朝は義経をかくまった藤原泰衡の罪を許さず、泰衡がまもる奥州平泉へと侵攻。

奥州藤原氏を滅亡させた源頼朝は、日本統一を実現し、武士による臨時政府・鎌倉幕府を安定させたのです。


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源頼朝の最期

壇ノ浦の戦いから14年後の1199年、源頼朝は落馬が原因で亡くなります。

相模で行われた橋の完成式典に参加した頼朝は、鎌倉へ帰る途中に、馬から落ちたのです。

この落馬による傷から破傷風という感染症にかかって亡くなったとか、または糖尿病が原因で亡くなったとか、死因ははっきりしていません。

壇ノ浦の戦いで亡くなった安徳天皇に呪い殺された、なんていう噂もあるようです。

頼朝の死因については、800年以上が経過した今でも、謎とされているのです。

 

源頼朝の死因については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

『【源頼朝】の死因と最後をわかりやすく解説!安徳天皇の亡霊に呪い殺されたの?』の記事はコチラ


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頼朝の死後、鎌倉幕府はどうなった?

頼朝の死後、鎌倉幕府では混乱が続きます。

頼朝のあとを継いで征夷大将軍となったのは、頼朝と北条政子の息子・源頼家。

鎌倉幕府で執権(しっけん)というナンバー2の地位にいたのが、源頼家の母方の祖父にあたる北条時政でした。

時政は、自分の思うがままに政治を行って権力を握ろうとしますが、将軍・頼家はそれに抵抗。

すると時政は、孫の頼家を追放し、その弟である源実朝を、3代将軍に就任させます。(頼家は伊豆に幽閉され、のちに暗殺される)

今度はこの実朝が、北条一族にとって都合の悪い存在となりました。

北条一族にとって、都合の良い操り人形であってくれればよかったのに、実朝は後鳥羽上皇と組んで、存在感を発揮し始めたのです。

北条時政の息子で2代目執権だった北条義時は、3代将軍・実朝を暗殺。

北条義時
「引用元ウィキペディアより」

これにより源頼朝の血筋は断絶し、4代目の征夷大将軍には、京都から公家の子供が連れてこられて就任。

こうして幕府の実権は、執権の北条一族が握り、将軍は完全にお飾り・操り人形となったのです。

実朝を暗殺した北条義時はというと、それまで実朝を支援していた後鳥羽上皇と承久の乱で対立し、これを撃破。

北条義時は、こうして武家政権・鎌倉幕府の土台を確かなものとして、1868年の明治維新まで長く続く、武士の世の基礎をつくりあげたのでした。

その鎌倉幕府は、1274年と1281年に起こった元寇をきっかけとして、急速に弱体化していきます。

そして1333年、源頼朝と先祖を同じくする新しい源氏のボス・足利尊氏と新田義貞によって、鎌倉幕府はついに滅ぼされることとなるのです。

 

鎌倉幕府については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております

『鎌倉幕府滅亡の原因・理由をカンタン解説!滅ぼした人物は新田義貞』の記事はコチラ


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壇ノ浦の戦いについてのエピソード

三種の神器のゆくえ!海に沈んだ草薙の剣

壇ノ浦の戦いで、皇室に伝わる伝説の宝物・三種の神器も、関門海峡の海へと沈んだといいます。

その後の捜索で、三種の神器のうち

  • 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
  • 八咫鏡(やたのかがみ)

の2つは発見されたものの

  • 天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ・別名くさなぎのつるぎ)

は最後まで発見できず、現在の皇室が持つ天叢雲剣は、壇ノ浦の戦いのあとに伊勢神宮から献上されたものです。
(一説によると、壇ノ浦の戦いで海中へ没した天叢雲剣は、儀式で使うダミーであり、本物の天叢雲剣は、沈んでなどいないともいわれています)


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安徳天皇の最期!祖母・二位尼とともに入水

清盛の妻・平時子(別名・二位尼[にいのあま])は、孫である幼い安徳天皇に対して

「波のしたにある美しい都へお連れいたします」

と言って安心させ、身を投げたといわれています。

こうして、わずか6歳だった安徳天皇は、関門海峡の海で亡くなったのでした。

安徳天皇はその後、源頼朝の前に亡霊となって出現し、頼朝を呪い殺した、なんていう伝説もあるようです。

 

安徳天皇の亡霊については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。

『【源頼朝】の死因と最後をわかりやすく解説!安徳天皇の亡霊に呪い殺されたの?』の記事はコチラ


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名将・平知盛の最期

時子と平清盛の子で、平家軍の総大将だった平知盛は、平家滅亡を目の当たりにすると

「見とどけるべきものは、すべて見とどけた」

とつぶやいて、船の錨(いかり)とつながれた縄を自分の身体に結びつけ、海へ身を投げたのでした。

壇ノ浦の戦い
「引用元ウィキペディアより」

平家の栄華も、衰退も、そして滅亡も、すべてを見とどけた清盛の子・知盛の最期は、後世まで語り継がれるほど見事なものだったのです。


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義経の八艘飛び!猛将・平教経の最期

平家最強の猛将・平教経(たいらののりつね)は、敗色が濃厚になっても、ひとり奮戦していました。

それを見た伯父・平知盛は、甥の教経に対して

「無益に敵兵を殺して、罪つくりなことをするな」

と叱りつけます。

平家滅亡がさけられないと知った教経は、敵の大将・源義経の首を狙います。

乱戦のなかで、ついに義経をみつけた教経でしたが、教経の強さを知っていた義経は、一目散に逃亡。

なんと八つもの船をピョンピョンと飛び回って、教経から逃げきったのでした。

これ以降、義経のこの逃げ技は、八つの船にちなんで

八艘飛び(はっそうとび)

と呼ばれるようになったのです。

義経をとり逃した教経は、2人の敵兵を道連れにして、海へ身を投げて亡くなったのでした。

平家の総大将・平宗盛の最期

平家軍の総大将は、頭が良くて戦いも強かった名将・平知盛でした。

しかし知盛は軍団のトップでしかなく、平家一門の長は、あくまでも知盛の兄・平宗盛でした。

その宗盛はどうなったのかというと、壇ノ浦の戦いで敗北した直後に、弟・知盛のように水へ飛び込んで自害しようとしたものの、鎧を身に着けていなかったため沈むこともできず、源氏軍に捕らえられてしまいます。

その後、宗盛は頼朝の本拠地・鎌倉へ移送されますが、ふたたび京都へ戻されて、最期は近江国の篠原宿というところで斬首刑により亡くなっています。


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平家はその後、どうなったのか?

平家物語のラスト・建礼門院徳子のその後

平清盛と平時子(二位尼)の娘であり、安徳天皇の母親にあたる建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)は、壇ノ浦の戦いで死にきれず、源氏軍に救出されます。

壇ノ浦の戦いのあと、徳子は生まれ故郷である京都へと戻り、郊外でしずかな生活をおくることとなります。

平家の栄枯盛衰をえがいた平家物語という歴史書のなかで、建礼門院徳子と後白河法皇が対面するシーンが、最後の最後に描かれています。

息子の安徳天皇も、母親の二位尼も、夫の高倉天皇も、平知盛ら兄弟たちも、何もかもすべてを失った彼女は、父・平清盛の盟友であり宿敵ともなった姑(しゅうと)の後白河法皇にたいして、恨みも何もかもを忘れて、これまでの生涯を語って聞かせるのです。

彼女の激動の生涯を耳にして、あわれに思った後白河法皇は、涙したといいます。

徳子はその後、ただただひたすらに経典を唱え、夫の高倉天皇や平家一門の菩提(ぼだい)を弔(とむら)う日々をおくりました。

彼女がいつ亡くなったかは、ハッキリしていません。

近年の研究では、1213年または1223年、このどちらかに亡くなったのではないかといわれています。


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平家の生き残り・平頼盛とその子孫

壇ノ浦の戦いで、平家が滅亡したあとも、一人だけ生き残った人物がいました。

平清盛の異母弟・平頼盛(たいらのよりもり)です。

頼盛は、木曽義仲によって平家一門が都から逃げ出したとき、前線にひとり取り残され、行くあてを失って源頼朝に降伏していたのです。

頼朝は、この平頼盛をとても大切にあつかいました。

鎌倉で生活していた頼朝は、京都の公家や天皇に顔が利く平頼盛に、利用価値があると判断したようです。

もうひとつ、頼朝が頼盛を大切にした理由があります。

これは筆者の勝手な推理なのですが、源頼朝は平頼盛に恩を感じていたはずなのです。

1159年、平治の乱で敗北し、父・義朝を殺害された源頼朝は、平清盛に捕らえられました。

頼朝は清盛から処刑されそうになりましたが、そのとき一人の女性が必死に頼朝の命乞いをしたのでした。

清盛の義理の母であり、頼盛の実の母親であった池禅尼(いけのぜんに)です。

池禅尼は幼い頼朝の顔を見て、若くして亡くなった自分の息子・家盛にそっくりだと言って、清盛に対して必死に頼朝の命乞いをしたのです。(家盛は、頼盛の同母弟で、清盛の異母弟)

この命乞いのおかげで、頼朝は死罪から流罪へと減刑され、伊豆へと送られたのでした。

頼朝は、おそらくこの池禅尼から受けた恩を、その息子の頼盛に対して返そうとしたのでしょう。

頼盛は壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、その翌年の1186年に、京都で静かに亡くなります。享年54歳。

ちなみに、頼盛の孫にあたる持明院陳子という女性が、後堀河天皇を産んでいます。

頼盛の血を引く後堀河天皇の息子・四条天皇は、子供を残すことなく、わずか12歳で亡くなっていますので、現在の天皇陛下は頼盛の血を引いてはいません。

皇室とは別の系統による平頼盛の子孫は、池氏と名乗っています。

池氏は、顕盛(あきもり)の代に、養子の朽木経氏(くつき つねうじ)に領地を継承させます。

この朽木経氏の子孫が、織田信長や豊臣秀吉につかえ、関ヶ原の戦いで西軍を裏切って東軍についた朽木元綱(くつき もとつな)だといわれています。

養子をはさんでいるため血縁はないものの、平頼盛の子孫・朽木元綱は、1600年の関ヶ原の戦いで功績を残し、明治維新まで子孫がつづいています。

ちなみに、この朽木元綱の子孫として、1963年に亡くなられた元貴族院議員・朽木綱博(くつき つなひろ)さんがおられます。


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織田信長は、平清盛の子孫だった?

1185年、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡する直前、清盛の孫である平資盛が、ひとりの女性を近江国の津田という地に隠したといいます。

その女性は資盛の子供を妊娠していました。

彼女は男児を産みます。

生まれた子供の名前は、平親真(たいらのちかざね)。

親真はその後、越前国にあった劔神社(つるぎじんじゃ)の神官になったといわれています。

その親真の末裔が、戦国の覇王・織田信長だといわれています。

《織田信長》
「引用元ウィキペディアより」
クリックすると拡大できます

織田信長は、平清盛の子孫を名乗っていたのです。

しかし近年の研究では、織田信長と平清盛・資盛のあいだには、何の関係もないと考えられています。

信長は、自らの家系に箔(はく)をつけるために、有名な平清盛の子孫を勝手に名乗っただけなのでしょう。

実は、こういった系図・家系の詐称(さしょう)は、当時よく行われていたのです。(徳川家康も経歴を詐称し、源氏の伝説的な武士・源義家の子孫を自称していた)

 

織田信長については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております

『【織田信長とは】について小学生向けに詳しく解説!信長は何をした人?』の記事はコチラ


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まとめ

本日の記事をまとめますと

1,壇ノ浦の戦いとは何か?

壇ノ浦の戦いとは、源氏と平家のあいだで起こった戦い。この戦いで敗北した平家は滅亡した。源氏の総大将は源義経。平家の総大将は平知盛。

 

2,壇ノ浦の戦いは、誰が何の目的で起こしたのか?

壇ノ浦の戦いは、1185年に、現在の山口県と福岡県のあいだにある関門海峡で起こった。

 

3,壇ノ浦の戦いの結果、何が起こったのか?

戦いの結果、源頼朝をトップとする源氏が天下を制覇したが、この戦いの直後、平家を滅ぼした源義経が、兄・頼朝と対立することとなった

以上となります。

本日はレキシルへお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

その他の記事

よろしければ、以下のリンク記事も、ぜひお役立てくださいませ。

『壇ノ浦の戦いの場所を地図付きでわかりやすく解説!なぜ壇ノ浦で戦ったの?』の記事はコチラ
『【年表あり】源頼朝とはどんな人?何した人なのか簡単にわかりやすく解説』の記事はコチラ
『【源頼朝の家系図と子孫】超見やすくわかりやすい画像でカンタン解説』の記事はコチラ
『源義経の性格は最悪だった!悲惨で無残な最期は【性格】が原因?』の記事はコチラ
『【源頼朝】の死因と最後をわかりやすく解説!安徳天皇の亡霊に呪い殺されたの?』の記事はコチラ

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