壇ノ浦の戦いとは何なのか?について短くまとめると、以下の通りです。
- 壇ノ浦の戦いとは、源氏と平家のあいだで起こった戦い。この戦いで敗北した平家は滅亡した。源氏の総大将は源義経。平家の総大将は平知盛。
- 壇ノ浦の戦いは、1185年に、現在の山口県と福岡県のあいだにある関門海峡で起こった。
- 戦いの結果、源頼朝をトップとする源氏が天下を制覇したが、この戦いの直後、平家を滅ぼした源義経が、兄・頼朝と対立することとなった
この記事では壇ノ浦の戦いについて、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
これを読めば、誰かに説明できるほど、壇ノ浦の戦いに詳しくなれます。
→→→→→『鎌倉殿の13人』登場人物・関連記事まとめはこちら
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壇ノ浦の戦いをわかりやすく簡単に解説
壇ノ浦の戦いとは、1185年に起きた、源氏と平家の戦いです。
この戦いで敗北した平家は、滅亡します。
壇ノ浦の戦いは、誰と誰が戦ったの?
源氏軍をひきいていたのは、のちに鎌倉幕府の征夷大将軍となる源頼朝の弟・源義経でした。
平家軍の総大将は、平清盛の四男・平知盛です。
安徳天皇をご存知でしょうか?
平家を繁栄させた実力者・平清盛の孫にあたる人物で、当時6歳だった天皇です。
平家軍団の事実上のトップは平知盛でしたが、名目上は安徳天皇を頂点としていました。
まだ幼かった安徳天皇も、平清盛の妻で安徳天皇の祖母にあたる平時子(別名・二位尼)に抱かれて、海に身を投げて亡くなっています。
この安徳天皇が入水したことで、壇ノ浦の戦いでの平家軍の敗北と、源氏軍の勝利が決定したのでした。
壇ノ浦の戦いが起こった場所は、どこ?
戦いが起こった場所は、現在の本州・山口県と九州・福岡県のあいだにある関門海峡です。
この場所に、彦島という島があります。
平家はこの彦島を本拠地としていたのです。
彦島を拠点にした平家は、船をつかって外国と積極的に貿易をしていました。
その貿易のおかげで平家は巨万の富を手に入れ、圧倒的な権力を握ったのでした。
壇ノ浦の戦いは、なぜ起こったのか?
壇ノ浦の戦いは、平家を倒せ、という命令が全国の源氏に対して出されたことがきっかけで起こった、源氏と平家の戦いです。
その源氏と平家のたたかい(源平合戦)の、最終決戦として起こったものです。
壇ノ浦の戦いは、平家と源氏のあいだで30年も続いた権力闘争の、最後の戦いだったのです。
ときは平安時代、当時の日本では鳥羽法皇という人が、院政という政治のやり方で、絶対的な権力を握っていました。
この鳥羽法皇のもとで、平氏と源氏という、2つの武士勢力が競い合っていました。
- 平氏のボスは、平清盛。
- 源氏のボスは、源義朝。
最高権力者であった鳥羽法皇が亡くなると、そのふたりの子供たちのあいだで、権力闘争が勃発します。
鳥羽法皇の2人の子とは
- 兄・崇徳上皇
- 弟・後白河天皇
のことです。
この戦いを、保元の乱と呼びます。
1156年、保元の乱で、平清盛と源義朝は後白河天皇に味方します。
そして清盛と義朝は、ライバルだった崇徳上皇との戦いに勝利したのです。
後白河天皇と、その側近だった信西に気に入られた平清盛は、とてつもない勢力拡大に成功します。
清盛に対して源義朝は、勢力を弱めてしまいました。
なぜかというと、保元の乱で父・源為義や源氏一族のほとんどを失ったためです。
1159年、清盛と信西の勢力拡大を嫌った源義朝が動き出します。
義朝が、平清盛が京都から離れているスキをついたのです。
藤原信頼という公家と協力した義朝は、清盛が京都にいないスキをついて、清盛の盟友だった信西を殺害。
義朝と信頼は、清盛を出し抜いて、権力を握ろうとしたのです。
ところが京都へ帰ってきた清盛が、その圧倒的な軍事力と能力で、義朝と信頼を討伐してしまいます。
平清盛と源義朝の戦いを、平治の乱と呼びます。
保元の乱と平治の乱、この2度の戦いで勝利した平清盛は、日本で最高の権力者となります。
そして清盛にひきいられた平家一門は、皇室と政略結婚を繰り返すことで権力をさらに増大させ、栄華を極めることとなるのです。
そんな平家の栄華を、こころよく思わない人物がいました。
後白河法皇です。(後白河天皇は出家して、後白河法皇と呼ばれるようになっていた)
平安時代末期の当時、日本には2人の最高権力者がいました。
平家のボスである平清盛と、朝廷のトップである後白河法皇です。
このとき、平清盛にひきいられた平家一族は、清盛の活躍もあって圧倒的な権力を握り、贅沢三昧をしていたのでした。
平家ではないものは、人間ではない
というほどに、平家はおごりたかぶっていたのです。
それに激怒したのが御白河法皇です。
後白河法皇は平清盛と対立したものの、清盛の息子でマジメな性格だった平重盛が間に立っていたおかげで、なんとかケンカせずにいました。
ところが、この平重盛が急死します。
すると清盛と御白河法皇は、対立を開始。
御白河法皇は、平清盛によって幽閉されてしまうのでした。
後白河法皇の息子である以仁王という人が、そんな平家の横暴に激怒します。
その結果として1180年、以仁王は平家のライバルだった日本全国の源氏に対して、平家を倒せ、という命令を発したのです。(これを【以仁王の令旨】という)
1159年、平治の乱で平清盛に敗北し、父・義朝を殺されて伊豆で軟禁生活をさせられていた源頼朝は、この命令を受けて挙兵します。
信濃国・木曽谷に隠れていた頼朝のいとこ・源義仲(別名・木曽義仲)も、以仁王の命令を受けて、打倒平家を目指して挙兵します。
対する平家はというと、1181年、平家の大黒柱であった当主・平清盛が病死してしまい、一気に弱体化していきます。
頼朝と義仲と平家という、三つ巴の戦いが繰り広げられる中で、平家は木曽義仲に敗北し、京都から逃亡します。(平家都落ち)
木曽義仲も、頼朝の命令をうけた源義経に敗北し、戦死。
平家もまた、義経の軍団に、追いつめられていきます。
- 一ノ谷の戦い
- 屋島の戦い
などで次々と敗北した平家は、ついには壇ノ浦の戦いで、最後の決戦を行うこととなるのです。
→→→→→源頼朝とはどんな人なのか?について、くわしくはこちら
【壇ノ浦の戦い】の戦況を解説
壇ノ浦の戦いは、潮の流れが勝敗を決定づけたといわれています。
前半戦は、海を知り尽くした平家が優勢
壇ノ浦の戦いが始まった直後、戦いは平家軍が優勢でした。
彦島を本拠地として、強力な水軍をもっていた平家軍団は、流れの速い関門海峡の潮の流れにのって、戦いを有利にすすめたのです。
潮の流れる方向へと船を走らせて戦うことができる平家軍は、スピードのある船の動きで、源氏軍をさんざん苦しめました。
それに対して、潮の流れに逆らう形で戦うこととなった源氏軍は、苦戦します。
陸での戦いに例えていうなら、平家軍団は追い風で勢いがついた状態で戦うことができたのです。
それに対して源氏軍団は、向かい風をうけて戦っていたため、思うように進むことができなかったのです。
ところがここで、名将・源義経が、意外な戦法をくり出したのでした。
源義経がつかった【卑怯な戦法】とは?
なんと義経は、船の漕ぎ手を狙い撃つ、という戦法をとったのです。
戦争は殺し合いなのだから、どんな卑怯な戦法でも使わなくてはならない、と考えがちです。
しかし当時の戦争には、武士たるものが絶対に守らなくてはならない作法、つまりマナーというものがありました。
当時は、水上戦では非戦闘員である船の漕ぎ手を攻撃してはならない、という誰もが守って当然のルールが存在したのでした。
義経はそのルールを、あろうことか無視したのです。
現代の言葉で言ってみれば、義経のこの行動は、民間人への攻撃です。
こうして源氏軍は、危機的状況をなんとか耐えぬきます。
ところが、時間が経過するにつれて、平家軍にとって大変なことが起こり始めます。
潮の流れが変わったのです。
終盤戦!平家軍から裏切り者が続出
壇ノ浦の戦い終盤。有利に戦っていたはず平家軍団が、一気に劣勢へと追い込まれました。
その理由は、潮の流れが変わったためです。
最初は潮の流れにのって平家軍が有利に戦いをすすめていました。
しかし後半は潮の流れがかわり、平家軍に逆らう形で、まるで向かい風のように荒波が押しよせてきたのです。
平家軍とは逆に、源氏軍団はというと、潮の流れにのっての反撃を開始。
義経の戦法によって船の漕手を失っていた平家軍団は、逆向きの潮の流れに押されて、次々と源氏軍に討ち取られていきました。
それだけではありません。
平家軍団に協力していた水軍が、次々と平家を裏切りはじめたのです。
阿波水軍の船300艘は、平家の敗色が濃厚になると、平家軍を裏切って源氏軍に味方したといいます。
阿波水軍の裏切りで、敗北が決定的となった平家軍団は、保護していた安徳天皇や皇族たちをつれて、次々と海の中へ身を投げます。
こうして安徳天皇や、平家軍の総大将・平知盛は亡くなり、壇ノ浦の戦いは源氏軍団の勝利に終わったのです。
最新の研究によれば【潮の流れ】は無関係だった
2005年に出版された菱沼一憲さんの著書「源義経の合戦と戦略」にて、壇ノ浦の戦いについての新しい説を発表されました。
それによればこれまで定説であった、潮の流れが結果を左右した、という説が否定されているのです。
菱沼さんの説をかんたんに解説すると、以下のとおりです。
「屋島の戦いのあと、義経は平家軍団の内部崩壊を狙って、裏切り者を出させるための工作をしかけます。
さらに、義経は四国と瀬戸内海を制圧。
義経の兄・範頼は九州を次々と制圧。
その結果、四国・瀬戸内海・九州を失った平家軍は、彦島に孤立。
彦島に孤立した平家軍は、食料や武器・防具の補給が、まったくできなくなったのです。
源氏軍は、陸地からは範頼軍が、海上からは義経軍が、彦島の平家軍を攻撃。
壇ノ浦の戦いが始まると、序盤は平家軍団が雨のように弓矢を撃ちまくり優勢。
しかし、物資が不足していた平家軍の矢は早々になくなります。
平家の矢が亡くなったことを察知した源氏軍団は、陸から範頼軍が、海から義経軍が矢で攻撃。
防具が不足していた平家軍団は、鎧を着ていなかった船の漕手が、次々と矢にあたって戦死。
漕手を失い、動けなくなった平家軍では、阿波水軍がとつぜんの裏切り。
進退きわまった平家軍は、つぎつぎと自害し、戦いは源氏の勝利に終わった。」
この最新の説によると、壇ノ浦の戦いは最初からすでに、物資が足りていなかった平家軍に、勝ち目などなかったようです。
壇ノ浦の戦いの結果、何が起こったのか?
平家が滅亡し、義経と頼朝が対立
壇ノ浦の戦いで、平家が敗北し滅亡した結果、日本は源氏のボスである源頼朝によって支配されることとなりました。
しかし壇ノ浦の戦いの直後、平家を倒した功労者・源義経が、兄・頼朝と対立しはじめるのです。
義経は兄・頼朝を倒すために挙兵しますが、あっけなく失敗。
兄・頼朝に追われた義経は、京都から東北地方の奥州平泉へと逃亡します。
現在の東北地方を支配していたのが、岩手県平泉を拠点としていた藤原秀衡・泰衡の親子でした。
秀衡は義経を保護したものの、秀衡は直後に急死。
その子・泰衡はというと、頼朝の力を恐れて、源義経を襲撃。
1189年、義経は藤原泰衡に攻められて亡くなります。(衣川の戦い)
その後、頼朝は義経をかくまった藤原泰衡の罪を許さず、泰衡がまもる奥州平泉へと侵攻。
奥州藤原氏を滅亡させた源頼朝は、日本統一を実現し、武士による臨時政府・鎌倉幕府を安定させたのです。
源頼朝の最期
壇ノ浦の戦いから14年後の1199年、源頼朝は落馬した直後に亡くなります。
相模で行われた橋の完成式典に参加した頼朝は、鎌倉へ帰る途中に、馬から落ちたのです。
この落馬による傷から破傷風という感染症にかかって亡くなったとか、または糖尿病が原因で亡くなったとか、死因ははっきりしていません。
壇ノ浦の戦いで亡くなった安徳天皇に呪い殺された、なんていう噂もあるようです。
頼朝の死因については、800年以上が経過した今でも、謎とされているのです。
源頼朝の死後、鎌倉幕府はどうなったのか?
頼朝の死後、鎌倉幕府では混乱が続きます。
頼朝のあとを継いで征夷大将軍となったのは、頼朝と北条政子の息子・源頼家。
鎌倉幕府で執権というナンバー2の地位にいたのが、源頼家の母方の祖父にあたる北条時政でした。
時政は、自分の思うがままに政治を行って権力を握ろうとしますが、将軍・頼家はそれに抵抗。
すると時政は、孫の頼家を追放し、その弟である源実朝を、3代将軍に就任させます。(頼家は伊豆に幽閉され、のちに暗殺される)
今度はこの実朝が、北条一族にとって都合の悪い存在となりました。
北条一族にとって、都合の良い操り人形であってくれればよかったのに、実朝は後鳥羽上皇と組んで、存在感を発揮し始めたのです。
北条時政の息子で2代目執権だった北条義時は、3代将軍・実朝を暗殺。
これにより源頼朝の血筋は断絶し、4代目の征夷大将軍には、京都から公家の子供が連れてこられて就任。
こうして幕府の実権は、執権の北条一族が握り、将軍は完全にお飾り・操り人形となったのです。
実朝を暗殺した北条義時はというと、それまで実朝を支援していた後鳥羽上皇と承久の乱で対立し、これを撃破。
北条義時は、こうして武家政権・鎌倉幕府の土台を確かなものとして、1868年の明治維新まで長く続く、武士の世の基礎をつくりあげたのでした。
その鎌倉幕府は、1274年と1281年に起こった元寇をきっかけとして、急速に弱体化していきます。
そして1333年、源頼朝と先祖を同じくする新しい源氏のボス・足利尊氏と新田義貞によって、鎌倉幕府はついに滅ぼされることとなるのです。
→→→→→鎌倉幕府が滅亡した原因や理由について、くわしくはこちら
【壇ノ浦の戦い】について有名なエピソード
三種の神器のゆくえ!海に沈んだ草薙の剣
壇ノ浦の戦いで、皇室に伝わる伝説の宝物・三種の神器も、関門海峡の海へと沈んだといいます。
その後の捜索で、三種の神器のうち
- 八尺瓊勾玉
- 八咫鏡
この2つは発見されました。しかし
- 天叢雲剣(別名・草薙の剣)
この剣だけは最後まで発見できなかったのです。
現在の皇室が持つ天叢雲剣は、壇ノ浦の戦いのあとに、伊勢神宮から献上されたものです。
(一説によると、壇ノ浦の戦いで海中へ没した天叢雲剣は、儀式で使うダミーであり、本物の天叢雲剣は、沈んでなどいないともいわれています)
安徳天皇の最期!祖母・二位尼とともに入水
清盛の妻・平時子(別名・二位尼)は、孫である幼い安徳天皇に対して
「波の下にある美しい都へお連れいたします」
と言って安心させて抱きかかえ、ともに海へ身を投げたといわれています。
こうしてわずか6歳だった安徳天皇は、関門海峡の海で亡くなったのでした。
安徳天皇はその後、源頼朝の前に亡霊となって出現し頼朝を呪い殺した、なんていう伝説もあるようです。
名将・平知盛の見事な最期
時子と平清盛の四男で、平家軍の総大将だった平知盛は、平家滅亡を目の当たりにすると
「見とどけるべきものは、すべて見とどけた」
とつぶやいて、船の錨とつながれた縄を自分の身体に結びつけ、海へ身を投げたのでした。
平家の栄華も、衰退も、そして滅亡も、すべてを見とどけた清盛の子・知盛の最期は、後世まで語り継がれるほど見事なものだったのです。
源義経の八艘飛びと、猛将・平教経の最期
平家最強の猛将・平教経は、義経をあと一歩のところまで追いつめながら、自害したといわれています。
教経は、平家軍の敗色が濃厚になっても、ひとり奮戦していました。
それを見た伯父・平知盛は、甥の教経に対して
「無益に敵兵を殺して、罪つくりなことをするな」
と叱りつけます。
平家滅亡が避けられないと知った教経は、敵の大将・源義経の首を狙います。
乱戦のなかで、ついに義経をみつけた教経でしたが、教経の強さを知っていた義経は、一目散に逃亡。
なんと八つもの船をピョンピョンと飛び回って、教経から逃げきったのでした。
これ以降、義経のこの逃げ技は、八つの船にちなんで
八艘飛び
と呼ばれるようになったのです。
義経をとり逃した教経は、2人の敵兵を道連れにして、海へ身を投げて亡くなったのでした。
平家の総大将・平宗盛の最期
平家のトップであった平宗盛は、弟・知盛のような見事な最期を遂げることができず、斬首形で亡くなっています。
平家軍の総大将は、頭が良くて戦いも強かった名将・平知盛でした。
しかし知盛は軍団のトップでしかなく、平家一門の長は、あくまでも知盛の兄・平宗盛でした。
その宗盛はどうなったのかというと、源氏の軍団によって捕まっています。
壇ノ浦の戦いで敗北した直後に、弟・知盛のように水へ飛び込んで自害しようとした宗盛でしたが、鎧を身に着けていなかったため沈むこともできず、源氏軍に捕らえられてしまったのです。
その後、宗盛は頼朝の本拠地・鎌倉へ移送されます。
ところが、ふたたび京都へ戻されて、最期は近江国(現在の滋賀県)の篠原宿というところで斬首刑により亡くなっています。
平家はその後、どうなったのか?
【平家物語のラストシーン】建礼門院徳子のその後
平清盛と平時子(二位尼)の娘であり、安徳天皇の母親にあたる建礼門院徳子は、壇ノ浦の戦いで死にきれず、源氏軍に救出されます。
壇ノ浦の戦いのあと、徳子は生まれ故郷である京都へと戻り、郊外で静かな生活をおくることとなります。
平家の栄枯盛衰を描いた平家物語という歴史書のなかで、建礼門院徳子と後白河法皇が対面するシーンが、最後の最後に描かれています。
息子の安徳天皇も、母親の二位尼も、夫の高倉天皇も、平知盛ら兄弟たちも、何もかもすべてを失った彼女は、父・平清盛の盟友であり宿敵ともなった姑の後白河法皇にたいして、恨みも何もかもを忘れて、これまでの生涯を語って聞かせるのです。
彼女の激動の生涯を耳にして、かわいそうに思った後白河法皇は、涙したといいます。
徳子はその後、ただただひたすらに経典を唱え、夫の高倉天皇や平家一門の菩提を弔う日々をおくりました。
彼女がいつ亡くなったかは、ハッキリしていません。
近年の研究では、1213年または1223年、このどちらかに亡くなったのではないかといわれています。
平家の生き残り・平頼盛とその子孫
壇ノ浦の戦いで、平家が滅亡したあとも、一人だけ生き残った人物がいました。
平清盛の異母弟・平頼盛です。
頼盛は、木曽義仲によって平家一門が都から逃げ出したとき、前線にひとり取り残され、行くあてを失って源頼朝に降伏していたのです。
頼朝は、この平頼盛をとても大切にあつかいました。
鎌倉で生活していた頼朝は、京都の公家や天皇に顔が利く平頼盛に、利用価値があると判断したようです。
もうひとつ、頼朝が頼盛を大切にした理由があります。
これは筆者の勝手な推理なのですが、源頼朝は平頼盛に恩を感じていたはずなのです。
1159年、平治の乱で敗北し、父・義朝を殺害された源頼朝は、平清盛に捕らえられました。
頼朝は清盛から処刑されそうになりましたが、そのとき一人の女性が必死に頼朝の命乞いをしたのでした。
清盛の義理の母であり、頼盛の実の母親であった池禅尼です。
池禅尼はまだ13歳の頼朝の顔を見て驚きます。
なんと頼朝の顔が、若くして亡くなった自分の息子・家盛にそっくりだったのです。
そこで池禅尼は、清盛に対して必死に頼朝の命乞いをしたのです。(家盛は頼盛の同母兄。清盛の異母弟にあたる)
この命乞いのおかげで、頼朝は死罪から流罪へと減刑され、伊豆へと送られたのでした。
頼朝は、おそらくこの池禅尼から受けた恩を、その息子の頼盛に対して返そうとしたのでしょう。
頼盛は壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、その翌年の1186年に、京都で静かに亡くなります。享年54歳。
ちなみに、頼盛の孫にあたる持明院陳子という女性が、後堀河天皇を産んでいます。
頼盛の血を引く後堀河天皇の息子・四条天皇は、子供を残すことなく、わずか12歳で亡くなっていますので、現在の天皇陛下は頼盛の血を引いてはいません。
皇室とは別の系統による平頼盛の子孫は、池氏と名乗っています。
池氏は、顕盛の代に、養子の朽木経氏に領地を継承させます。
この朽木経氏の子孫が、織田信長や豊臣秀吉につかえ、関ヶ原の戦いで西軍を裏切って東軍についた朽木元綱だといわれています。
養子をはさんでいるため血縁はないものの、平頼盛の子孫・朽木元綱は、1600年の関ヶ原の戦いで功績を残し、明治維新まで子孫がつづいています。
ちなみに、この朽木元綱の子孫として、1963年に亡くなられた元貴族院議員・朽木綱博さんがおられます。
織田信長は、平清盛の子孫だった?
織田信長が、平清盛の子孫だという説があります。とはいえ、この説は近年では否定されています。
1185年、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡する直前、清盛の孫である平資盛が、ひとりの女性を近江国の津田という地に隠したといいます。
その女性は資盛の子供を妊娠していました。
彼女は男児を産みます。
生まれた子供の名前は、平親真。
親真はその後、越前国にあった劔神社の神官になったといわれています。
その親真の末裔が、戦国の覇王・織田信長だといわれています。
織田信長は、平清盛の子孫を名乗っていたのです。
しかし近年の研究では、織田信長と平清盛・資盛のあいだには、何の関係もないと考えられています。
信長は、自らの家系に箔をつけるために、有名な平清盛の子孫を勝手に名乗っただけなのでしょう。
実は、こういった系図・家系の詐称は、当時よく行われていたのです。(徳川家康も経歴を詐称し、源氏の伝説的な武士・源義家の子孫を自称していた)
まとめ
本日の記事をまとめますと
1,壇ノ浦の戦いとは何か?
壇ノ浦の戦いとは、源氏と平家のあいだで起こった戦い。この戦いで敗北した平家は滅亡した。源氏の総大将は源義経。平家の総大将は平知盛。
2,壇ノ浦の戦いは、誰が何の目的で起こしたのか?
壇ノ浦の戦いは、1185年に、現在の山口県と福岡県のあいだにある関門海峡で起こった。
3,壇ノ浦の戦いの結果、何が起こったのか?
戦いの結果、源頼朝をトップとする源氏が天下を制覇したが、この戦いの直後、平家を滅ぼした源義経が、兄・頼朝と対立することとなった
以上となります。
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ありがとうございました。
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