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足利義昭とは何した人?人生と業績・将軍としての役割を総ざらい

皆さんは足利義昭を、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

  1. 足利義昭とは、室町幕府の15代目の征夷大将軍であり、室町幕府最後の将軍だった人物
  2. 義昭は、織田信長と協力して天下を平和にするため戦ったが、のちに信長と敵対し敗北。室町幕府は滅亡した
  3. 義昭は信長が本能寺の変で亡くなった後、秀吉に保護され、1597年に病死した

この記事では足利義昭を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は足利義昭について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、足利義昭に詳しくなれます。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

足利義昭とは何した人?果たした役割を解説

【結論】足利義昭は、戦国時代の日本で活躍した武将で、室町幕府の第15代征夷大将軍でした。

そして天下統一目前まで勢力を拡大した織田信長に対して、織田信長包囲網を形成して、徹底抗戦した人物でもあります。

足利義昭は、当時武士たちの頂点に君臨していた名家・足利将軍家の出身で、わずか5歳で仏門に入り、覚慶かくけいと名乗っていました。

《足利義昭》
「引用元ウィキペディアより」

しかし、1565年、13代将軍だった兄・足利義輝が永禄えいろくの変とよばれる政変で、三好三人衆と呼ばれる敵に殺害されたため、僧侶をやめて、足利義秋よしあきと名乗り、兄のあとを継いで征夷大将軍に就任しようとしました。

 

その後、越前国(福井県東部)を支配していた戦国武将・朝倉義景あさくらよしかげ庇護ひごを受け、義秋から義昭よしあきに改名しました。秋という文字が不吉だという理由です。

 

義昭は、織田信長に支援されて京都に入り、敵対していた14代将軍・足利義栄よしひでの死後に、第15代将軍に就任しました。


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しかし義昭は、後に信長と対立。武田信玄たけだしんげんや朝倉義景、浅井長政あざいながまさらと連携して信長包囲網を築きました。

 

一時は信長を追いつめましたが、最終的に京都から追われ、1573年に室町幕府は滅亡。

 

京都追放後も、義昭は将軍として活動し続けました。

 

中国地方を支配していた戦国武将・毛利輝元もうりてるもとの庇護を受け、備後国(広島県東部)で亡命政権・とも幕府を樹立し、信長に対抗しました。

 

1582年、本能寺の変で信長が明智光秀に襲撃されて死亡した後、光秀を倒した豊臣秀吉が政権を築くと、義昭は京都に戻り、秀吉から所領を与えられました。

 

1588年、征夷大将軍を辞任し、出家して昌山道休しょうざんどうきゅうと号しました。

 

義昭の役割は、戦国時代の混沌とした日本で足利将軍家を継承し、魔王・織田信長に最後まで抵抗し続けた武将として評価されています。

 

信長との関係や亡命政権の樹立など、彼の生涯は多くの歴史的出来事に関わっており、日本史において重要な人物とされています。


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足利義昭とはどんな人?いったい何者なのかを解説

【結論】足利義昭とは、鎌倉幕府を滅亡させて室町幕府を成立させた武将・足利尊氏の子孫です。

 

義昭は、先祖である足利尊氏が開いた室町幕府という臨時政府を滅亡させた最後の将軍です。

 

同時に、戦国時代という戦乱の時代を終結へと導いた覇者・織田信長に最後まで抵抗した人物でもあります。

足利義昭の家系と生い立ち

足利義昭(1537年 – 1597年)は、戦国時代の武将であり、室町幕府の第15代将軍です。

 

彼は、鎌倉幕府を倒した武将・足利尊氏の子孫であり、足利将軍家という有力な武家の一族に生まれました。

《足利尊氏》
「引用元ウィキペディアより」

この足利一族は、平安時代から続く武家で、室町時代には日本の政治を牛耳る存在でした。

 

足利義昭の父親は、第12代将軍・足利義晴よしはるです。

 

義昭が生まれた当時、日本は戦国時代と呼ばれる混乱の時代でした。

 

多くの大名が争いを繰り広げていたため、足利将軍家もその影響を受けていました。

 

義昭は、将軍家の家督相続者ではなかったため、足利家の後継者争いを避けるため、長男以外は出家するという足利家の習わしに従って仏門に入っていたのです。


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彼は5歳の頃から、南都(平城京があった奈良のこと)の興福寺で、僧侶として過ごしていました。

 

しかし1565年に兄・足利義輝が永禄の変で三好三人衆らによって殺害されると、事態が一変。

 

義昭は、細川藤孝ほそかわふじたから室町幕府の臣下の援助を受けて南都から脱出し、兄のあとを継いで室町幕府を再興するため、僧侶をやめたのでした。

 

彼は織田信長と協力関係を結び、1568年に上洛(京都へ進軍)して第15代将軍に就任。

《織田信長》
クリックすると拡大できます
「引用元ウィキペディアより」

しかし、後に信長と対立することになり、室町幕府は滅亡。

 

その後も義昭は、戦国という激動の時代を生き抜くことになります。


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人物像と評価

義昭は、家督相続者でない足利将軍家の子息として生まれましたが、兄・義輝の死後、将軍の座につく運命を辿ります。

 

しかし、彼は織田信長との関係が悪化し、対立してしまいます。

 

信長と対立した理由は、足利義昭が無能な人物であったため、不公平な悪政を繰り返し、信長を激怒させたためといわれています。

 

ただ、義昭は、柔軟な外交手腕と政治的な知恵を持っていたと考えられます。

 

なぜなら義昭は、信長と対立した後、信長包囲網を築き上げ、信長を苦しめたからです。

 

しかし、最終的には織田信長に敗北し、京都から追放され、室町幕府は滅亡。

 

幕府を滅亡へと導いた義昭の評価は、時代背景や立場を考慮すると、賛否両論があります。

 

一方で、義昭は幕府の再興を目指して努力し、多くの大名と連携して、名将・織田信長と対抗しました。

 

また、信長が本能寺の変で死去した後も、豊臣秀吉による政権下で、引き続き高貴な人物として遇され、その名声を保ちました。

《豊臣秀吉》
「引用元ウィキペディアより」

しかし他方では、義昭は信長との関係が悪化したことで、結果的に室町幕府の滅亡を招いたという見方もあります。

 

また、彼の外交手腕や政治的知恵にもかかわらず、幕府の再興には成功できませんでした。

 

室町幕府は滅亡させたが、織田信長を苦しめるほど善戦した義昭は、ある意味で評価に値するのかもしれません。


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足利義昭が生きた戦国時代の背景

【結論】足利義昭が生きた戦国時代は、1467年の応仁の乱から始まった内戦の時代だった。

 

足利義昭が生きた戦国時代は、日本の歴史の中でも特に混沌とした時代でした。

 

戦国時代は、おおよそ1467年の応仁の乱から始まり、1591年の豊臣秀吉による奥州仕置にかけての123年間にわたりました。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
「引用元ウィキペディアより」

この時代の最大の特徴は、日本全国で大名たちが争いを繰り広げ、国が分裂していたことです。

 

日本を支配していた政府・室町幕府は、政治的な権力が弱まっていたために戦乱を静めることができず、各地を支配していた戦国大名たちは自分たちの勢力を広げるために争い続けました。

 

足利義昭は、この戦国時代の混乱の中で、戦乱を終わらせる使命を与えられ、室町幕府の15代将軍に就任していたのです。

 

義昭は、当時は新興勢力として勢力拡大していた武将・織田信長と一時的に協力し、上洛(京都へ進軍)して、武士のトップである征夷大将軍の地位に就きます。

 

足利義昭は、幕府の再興と平和の実現を目指して行動しました。

 

信長は、足利義昭を支援して将軍に就かせることで、自らの権力を正当化しようとしたのです。

 

しかし信長と義昭の関係は悪化し、最終的には義昭が京都を追われることになります。

 

この戦国時代の背景を理解することで、足利義昭が直面した困難な状況や、彼が果たそうとした役割について、より深く学ぶことができます。


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足利義昭と織田信長の関係

【結論】足利義昭と織田信長は、表向きは主君・義昭とその部下・信長の関係だった。

しかし実際には、武士のトップである征夷大将軍・義昭と、その後ろ盾である実力者・織田信長という関係だった。

 

戦国時代に生きた足利義昭と織田信長は、一時期協力関係にありながら、後に対立するという複雑な関係を築きました。

 

義昭は、室町幕府の将軍として戦国時代の混沌とした時代を生き抜くため、様々な大名と手を組みました。

 

織田信長は、そんな頃に力をつけていた大名の一人で、義昭は彼と協力して京都を支配しようと考えました。

 

信長もまた、将軍である義昭を擁立することで、自身の権力を正当化つまり将軍を補佐して天下を平和にするという大義名分を得たのでした。

 

1568年に義昭は信長の支援で上洛し、15代将軍に就任。しかし、義昭と信長の関係は次第に悪化していきました。

 

義昭は、信長が専制的な支配を行っていることに不満を感じ、信長の敵対勢力と結びつくようになります。

 

この対立は、1573年に義昭が京都を追われるという形で表面化。

 

結局、義昭と信長の関係は、お互いが利益を求めるために始まり、最終的には対立することになった複雑なものでした。

 

この関係を理解することで、戦国時代の政治的な駆け引きや、時代の変化に適応しようとする人物たちの姿が見えてきます。


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本能寺の変と足利義昭の関係

【結論】足利義昭は、本能寺の変の黒幕なのではないかといわれることがあるが、実際のところ不明。

しかし義昭は信長が亡くなったことで、一定の利益を得ている。

 

本能寺の変は、戦国時代の日本で起こった歴史的な出来事で、織田信長が明智光秀に討ち果たされた事件です。

本徳寺所蔵の明智光秀肖像:Wikipediaよりパブリックドメイン

1582年、本能寺の変が起こり、織田信長は死亡しました。

 

この事件において、義昭が黒幕なのではないかという説があるが、実際のところ義昭がどのように関与していたかは、はっきりとは分かっていません。

 

しかし、義昭は信長の死によって利益を得る立場にありました。

 

本能寺の変の後、義昭は豊臣秀吉によって再び大名の座につくことができました。

 

義昭は、豊臣政権のもとで、1万石の所領を認められ、前将軍として尊敬される立場になりました。

 

足利義昭と本能寺の変の関係は、歴史上明確には定かではありませんが、信長の死によって義昭の立場が大きく変わったことは確かです。

 

本能寺の変は、足利義昭にとって、新たな人生のスタートとも言える出来事であったと言えるでしょう。

 

→→→→→【本能寺の変の黒幕】についてくわしくはこちら


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足利義昭の晩年と最期

【結論】足利義昭は、信長の死後、秀吉に保護され、安定した晩年を送った。

 

戦国時代に生きた足利義昭は、多くの困難に直面しながらも、その晩年は比較的安定した生活を送りました。

 

本能寺の変のあとの足利義昭

本能寺の変で織田信長が死去した後、義昭は豊臣秀吉と和解し、京都に戻ることができました。

 

義昭は将軍を辞して出家。僧侶としての生活を送りました。

 

義昭は前将軍であったため、殿中での待遇は大大名以上とされ、また秀吉の御伽衆おとぎしゅう(話し相手)に加えられるなど、敵対していた人物としては、比較的大切に遇されました。

 

このように、義昭は晩年を安定した環境で過ごすことができたのです。


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義昭の最期

慶長2年(1597年)8月28日、義昭は大坂で亡くなりました。腫れ物が死因だったといわれています。

 

一説によると、朝鮮出兵のため、病身でありながら無理して九州へ出陣したことが祟ったといわれているようです。

 

その死に際しては、葬儀は元将軍としては質素で、とても寂しいものだったといいます。

 

また、義昭の遺体は京都の等持院に葬られました。

 

足利義昭の晩年と最期は、彼が生涯を通して様々な困難に立ち向かい、最後には比較的安定した生活を送ることができたことを示しています。

 

このことは、義昭が戦国時代という混沌とした時代を生き抜く知恵と強さを持っていたことを物語っています。

 

→→→→→【足利義昭の死因と最期】についてくわしくはこちら


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子孫のゆくえ

【結論】足利義昭の子孫は、孫の義尊・常尊の代で断絶している。

しかし不確かながら、そのほかの系統の子孫が幕末まで続いたという

 

足利義昭の子孫はどのような運命を辿ったのでしょうか。

 

義昭には複数の子供がおり、そのうちの一人である足利義尋ぎじんは、出家して僧侶として生きていました。

 

義尋はその後、僧侶でありながら義尊と常尊という二人の子供を儲けたのでした。

 

義尊と常尊は僧侶として生きたために子供を儲けず、足利義昭の直系子孫はここで断絶したといいます。

 

しかし、足利氏の血筋は、義昭が残した他の子を通じて、現代にまで続いているとも言われています。

 

→→→→→【足利義昭の子孫】についてくわしくはこちら


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 足利義昭とは、室町幕府の15代目の征夷大将軍であり、室町幕府最後の将軍だった人物
  2. 義昭は、織田信長と協力して天下を平和にするため戦ったが、のちに信長と敵対し敗北。室町幕府は滅亡した
  3. 義昭は信長が本能寺の変で亡くなった後、秀吉に保護され、1597年に病死した

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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