【蘇我入鹿】首が600mも飛んだ逸話!聖徳太子と同一人物説がスゴイ

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《乙巳の変・蘇我入鹿暗殺》
「引用元ウィキペディアより」

645年の「乙巳の変」で「蘇我入鹿」が非業の最期は遂げたのは知っていても、その「暗殺の理由」を説明できる人は少ないのではないでしょうか。

私も大学で日本史を専攻するまで、あまり知りませんでした。

「蘇我入鹿」が暗殺されたのは、「中大兄皇子」と「中臣鎌足」が中央集権国家を作る目的にとって、邪魔な存在だったからです!

この記事では「入鹿の非業の死」について、わかりやすく解説していきます。

これを読んで「蘇我入鹿」についてスッキリしてくださいね。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 「乙巳の変」で暗殺された「蘇我入鹿」だが、その首は「600m」はなれた「飛鳥寺・西門付近」に落下したと言われている。各地に「入鹿の首塚」があるが、おそらく入鹿を慕った領民が、入鹿供養のために首塚を建て、その首塚が「相当な距離を飛んだ」という逸話を残す事となったのだろう
  2. 作家「関裕二」という人が著書「聖徳太子は蘇我入鹿である」の中で「聖徳太子と蘇我入鹿は同一人物」と主張しているが、根拠に乏しく、信ぴょう性は低い
  3. 蘇我入鹿には子供がいなかったため、直系の子孫は残っていない。しかし「入鹿暗殺」に参加した「蘇我倉山田石川麻呂」の姉妹が「中臣鎌足」の息子「不比等」の妻となり、子孫が現在へ繋がっている。元総理「近衛文麿」「細川護熙」が「石川麻呂」の子孫。蘇我氏の血は天皇家にも繋がっている。

蘇我入鹿暗殺!「乙巳の変」で斬られた首が600mも飛んだ?

「蘇我入鹿」は、645年「乙巳の変」で「中大兄皇子」に討たれ、死亡しました。

言い伝えによると

『はねられた入鹿の首は、600mも吹っ飛んで落ちた』

と言われています。

荒唐無稽な話ですが、なぜそんな言い伝えが残っているのか見てみましょう。


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「蘇我入鹿」暗殺当日の経緯を解説

「中大兄皇子」と「中臣鎌足」は、蘇我入鹿の暗殺を用意周到に計画しました。

645年7月】、飛鳥板葺宮に「高句麗・百済・新羅」の使節が来日。その儀式が開かれた時に、暗殺計画は実行されたのです。

「蘇我入鹿」は用心深い性格で、片時も剣を手放さない人だったそうです。しかし暗殺計画実行者たちは、言葉巧みに入鹿に剣を外させます。

入鹿の従兄弟(いとこ)である「蘇我倉山田石川麻呂」が「皇極天皇」にむけて上奏文を読んでいる間に、「佐伯子麻呂」と「葛城稚犬養網田」が入鹿に斬りかかる予定でした。

しかし2人ともおびえてしまい、石川麻呂が上奏文を読み始めても斬りかかれません。

業を煮やした「中大兄皇子」が自ら入鹿に襲いかかり、それを見た「子麻呂」と「稚犬養網田」もようやく入鹿を襲撃したのでした。


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斬られて瀕死となった蘇我入鹿は「皇極天皇」に対して問いかけます。

「私に何の罪があるのでしょうか」

皇極天皇は暗殺を実行した息子「中大兄皇子」に「なぜか」と問いかけました。

中大兄皇子は

「入鹿が皇位を奪おうとしたからです」

と応え、中大兄皇子からそれを聞いた母「皇極天皇」は、奥に引っ込んでしまいます。

入鹿は「子麻呂」と「稚犬養網田」にとどめを刺されて亡くなり、その遺体は大雨で水のたまった板蓋宮の庭に投げ出されました。

以上が『日本書紀』に記述されている「乙巳の変」で「蘇我入鹿」が絶命したあらましです。


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「入鹿の首が600mも飛んだ」という謎を考察

日本書紀には「斬りかかった」とは書かれているのですが「首をはねた」とは書かれていません。

この記事の冒頭にも貼りましたが、以下の画像は「藤原鎌足」を祀る談山神社の『多武峰縁起絵巻』からの引用で、有名な「蘇我入鹿」暗殺の場面です。

《乙巳の変・蘇我入鹿暗殺》
「引用元ウィキペディアより」

教科書や資料集、参考書などで見覚えのある方もいらっしゃるのでは?

剣で「蘇我入鹿」に襲いかかっているのが「中大兄皇子」で、弓矢を持っているのが「中臣鎌足」です。

『日本書紀』では入鹿にとどめを刺したのは「子麻呂」と「稚犬養網田」でしたが、『多武峰縁起絵巻』では「中大兄皇子」がとどめを刺したような描写になっていますね。

『多武峰縁起絵巻』は作風などから、16世紀ごろに描かれたと考えられているので、その頃には「入鹿は首をはねられた」と言い伝えられていたということでしょう。


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言い伝えによると、

はねられた入鹿の首は飛鳥板蓋宮から600mも離れたところに飛んで落ちた

ということになっています。その落下地点とは「飛鳥寺」の西門付近なのです。

中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったのは、「飛鳥寺」で行われた「蹴鞠の会」だったので、何やら因縁めいた話ですよね。

ところが、入鹿の首が飛んで行ったと言い伝えられているのは、この首塚だけではないのです。

「奈良県明日香村」に「気都和既(きつわき)」という神社があり、その境内一帯が「茂古森(もうこのもり)」と呼ばれています。

はねた入鹿の首に追われて逃げた「中臣鎌足」が、その森に逃げ込み「もう来ぬだろう」と言ったのが地名の由来だと言われているのです。


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明日香村に残るこの2箇所だけではなく、「三重県松阪市」にも入鹿の首伝説が残されています。

入鹿の首は松阪市の高見山にまで飛んで落ち、村人が手厚く葬ったのが起源なのだとか。

高見山に鎌を持って入ると、鎌が「中臣鎌足」を連想させて入鹿の怒りを買うため、必ず怪我をするとも言い伝えられています。

なぜ明日香村から遠く離れた三重県松阪市にこのような言い伝えが残るのかを考えると、「入鹿の首が600mも飛んだ」という言い伝えが残る理由について、理解できるかもしれません。

『日本書紀』は「乙巳の変」で蘇我本家を倒し、代わりに政権中枢に深く食い込んだ「中大兄皇子」や「中臣鎌足」の側によって書かれた歴史書です。

おそらく、蘇我氏は実際の姿より極悪非道に描かれているでしょう。

蘇我氏は「欽明天皇」の時代から大臣として、100年以上も「大和朝廷(ヤマト政権)」を率いてきました。

「大臣さま」として領民や庶民から慕われていた可能性はあるでしょうし、そのように慕われていたのであれば、「乙巳の変」で無残に殺された入鹿を偲んで、ひっそり供養することはあり得ることです。

おそらく無残に殺された入鹿の無念を思った庶民が、塚を作って供養し続けたことが、ここまで首が飛んできたという荒唐無稽な伝承を複数箇所に残したのではないでしょうか。

もしかしたら庶民にとっては「中大兄皇子」や「中臣鎌足」より、蘇我氏への贔屓な気持ちがあったのかもしれませんね。


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『蘇我入鹿と聖徳太子は同一人物』という説があった

「関裕二」という作家がいます。

関裕二は仏教美術に関心を持ち、日本の古代史を独学で学習。面白い視点の書籍を何冊も出版しています。

デビュー作は『聖徳太子は蘇我入鹿である』という書籍です。

私も以前読んだことがあるのですが「蘇我入鹿と聖徳太子が同一人物だった」と主張する書籍です。

さて、本当にそんなことがあり得るのでしょうか?


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「厩戸皇子(聖徳太子)」が生まれたのは【574年】。

それに対して生年不詳の「蘇我入鹿」が生まれたのは、【611年】ごろと言われています。

聖徳太子と蘇我入鹿の年齢差を考えると、ちょうど親子ほどの年の差がありますよね。

もし聖徳太子と入鹿が同一人物だとしたら、入鹿が亡くなったのは「71歳」という高齢になります。

蘇我入鹿の祖父である「蘇我馬子」が、70歳くらいまで生きていたと考えられるので、飛鳥時代の人としては長命な家系だったのでしょうか。

しかし私は「聖徳太子と蘇我入鹿が同一人物である」という主張には、同意しかねます。

関裕二が『聖徳太子は蘇我入鹿である』という書籍の中で、入鹿と聖徳太子同一人物説の論拠に用いたのは、『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』(がんこうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)という文献です。

『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』は、「元興寺がどのような由来で建てられたのか」という説明と、「どのような資材、宝物を持っているか」という目録が描かれている文献です。

京都の醍醐寺に保管されてきました。


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しかしこの文献は、歴史研究の資料として使用するには、かなり不安な点のあるものなのです。

その問題点を幾つか挙げてみますね。

⦁ 文頭に「推古天皇の百歳(!)の年に、推古天皇の命令で癸酉(613年)に聖徳太子が書いた」とあるが、『日本書紀』の記述を信じるのであれば、推古天皇は【613年】に「59歳」であり、年齢がおかしい

⦁ 欽明天皇の御代に、仏教伝来時にまだ生まれていないはずの推古天皇へ、欽明天皇が仏教を興隆するように伝えたとしている

⦁ 推古天皇や聖徳太子が生きた時代には使われていないはずの用語が使われている

⦁ 「元興寺の縁起」と言いながら「豊浦寺の縁起」が延々と書かれている

他にも幾つかおかしな記載が見られるため、この文献は元々「豊浦寺の縁起」として書かれた文献を、平安時代に「元興寺のもの」として改作されたものだと考える学者もいます。

そのためこの文献は「仏教の伝来、元興寺・豊浦寺・飛鳥寺などの建立時期、美術や建築などを考察する史料として用いることはできない」という評価を、今日では受けているのです。

「蘇我入鹿と聖徳太子が同一人物」という主張は、歴史の読み物としては興味深く面白いものかもしれません。

しかし史料としての評価が決して高いとは言えない文献を論拠にした主張は、残念ながら、正当な歴史研究の成果として認められないでしょう。

 

ちなみに聖徳太子と蘇我入鹿は、実際には「叔父」と「甥」の関係です。

蘇我入鹿の父「蘇我蝦夷」の妹が、「聖徳太子」の妻なので、二人は叔父甥の仲。

つまり聖徳太子は、入鹿の祖父「蘇我馬子」の娘を妻としているのです。


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蘇我入鹿の子孫は、今どこで何をしている?

「蘇我入鹿」の子孫から、「内閣総理大臣」が2人も出ていた

「蘇我入鹿」には子供がいなかったので、入鹿の直系の子孫は残っていません。

しかし蘇我氏の末裔は、現代にまで伝わっているのです。

「中臣鎌足」の息子である「藤原不比等」。その「藤原不比等」の最初の妻「蘇我娼子」は、入鹿の従兄弟である「蘇我倉山田石川麻呂」の姉妹「蘇我娼子」です。

娼子は「藤原武智麻呂」「房前」「宇合」の母で、藤原4兄弟のうちの3人を生みました。

藤原房前は「藤原北家」の祖ですから、平安時代に摂関政治で権力をほしいままにした「藤原道長」にも、蘇我氏の血が流れていることになりますよね。

ところで「五摂家」という言葉を聞いたことはありませんか?

五摂家は、鎌倉時代に公家の頂点に立つ五家として成立しました。この五摂家は、藤原北家の出身の「近衛家」「九条家」「二条家」「一条家」「鷹司家」の総称なのです。

終戦時に内閣総理大臣だった「近衛文麿」は、五摂家の筆頭である「近衛家」の出身でした。

《近衛文麿》
「引用元ウィキペディアより」

「近衛文麿」の次女が嫁いだ先で産んだ子供は、上智大学の法学部を卒業後、「朝日新聞社」に入社。その後政界に進出。

やがて祖父「近衛文麿」と同じ内閣総理大臣にまで上り詰めたのです。

現在は陶芸家や茶人として悠々自適な生活を送っている「細川護煕」がその人で、彼は蘇我氏の末裔でもあるのですね。

《細川護熙 元首相》
『引用元ウィキペディアより』

 


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蘇我氏の血筋は「天皇家」にも伝わっている

また「蘇我入鹿」の曽祖父「蘇我稲目」の娘「堅塩媛」は「欽明天皇」に嫁ぎ「吉備姫王」の父「桜井皇子」を産みました。

吉備姫王は「皇極天皇」の母親で、「中大兄皇子(天智天皇)」から見たら祖母にあたる人ですから、天智天皇にも蘇我氏の血が流れていることになります。

現代の皇室は、天智天皇のひ孫である「桓武天皇」の子孫ですから、現在の『天皇陛下』も蘇我氏の末裔に当たるのですね。

蘇我本家は滅ぼされてしまいましたが、蘇我氏の女性が嫁いだ先で残した血脈は、このように現代にも続いているのです。


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「乙巳の変」とは何か?なぜ「蘇我入鹿」は暗殺されたの?

蘇我入鹿暗殺の理由!中央集権化に蘇我氏は邪魔だった

「乙巳の変」で「中大兄皇子」と「中臣鎌足」が「蘇我入鹿」を暗殺した理由。それは彼らの目的にとって「蘇我入鹿」とその父「蘇我蝦夷」が邪魔な存在だったからです。

中大兄皇子と中臣鎌足の目的は、「政権の運営を天皇が掌握し、随にならった中央集権国家を作ること」でした。

遣隋使として「小野妹子」とともに隋へと渡った人物「南渕請安」の私塾で学んだ中臣鎌足にとって、随と渡り合う中央集権国家を作るためには、強大な権力を持つ豪族「蘇我市」は邪魔者でしかありません。

鎌足は最初、「皇極天皇」の弟「軽皇子(孝徳天皇)」に近づきますが、この人物では約不足であるとして諦めます。

その後、飛鳥寺の蹴鞠の会で「中大兄皇子」と出会い、意気投合します。

中央集権国家を作り、鎌足自らが政権の中枢に食い込むために、政権中枢で権力を掌握し続ける「蘇我氏」だけは、絶対に排除しなくてはなりません。


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とはいえ「蝦夷」も「入鹿」も用心深く、暗殺を用心してか邸宅からなかなか出てきません。「中大兄皇子」と「鎌足」は、綿密かつ用意周到に計画を練ることにしたのです。

万が一計画が事前に漏れたり失敗に終わったりすれば、自分たちは亡きものにされるでしょうから。

こうして「高句麗・百済・新羅」の使者が飛鳥板蓋宮に来る儀式の日に、「蘇我入鹿暗殺計画」を実行することとしたのです。

しかし外国からの使者の前で暗殺事件を繰り広げたら、大国「随」に対して「倭国大いに乱れる」という情報を与えることになります。そんなことになったら、随から攻め込まれる危険性が高くなってしまいますよね。

儀式は本物の儀式ではなく、入鹿をおびき出すためだけに開かれた「偽の儀式」だったのかもしれません。

自分たちの目的達成のための「障害の排除」だけではなく、「中大兄皇子」と「中臣鎌足」には、それぞれに蘇我本家への恨みがありました。

その個人的な恨みから、蘇我氏を打倒したかったのではないか・・・と私は思っています。

中大兄皇子と中臣鎌足が、蘇我一族に対して抱いていた「個人的な恨み」とは何か。それを解説いたします。


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「中臣鎌足」が「蘇我氏」に抱いていた恨み

蘇我入鹿の祖父「蘇我馬子」と「物部守屋」の戦で、物部守屋と親しかった「中臣勝海」という人が亡くなりました。

現在、物部守屋とともに「大阪・四天王寺」の守屋祠に祀られている「中臣勝海」は、直接的には「中臣鎌足」と血縁関係はありません。

しかし「中臣勝海」が亡くなったことで衰退した中臣家の再興のために、常陸国(茨城県)から中臣一族の者が大和(奈良県)に入っています。中臣鎌足は、この人たちの子孫にあたると考えられています。

直接の血縁関係はなくとも、蘇我入鹿の祖父「蘇我馬子」に殺害された中臣一族の長「中臣勝海」の恨みを果たす・・。そんな目的が、中臣鎌足にはあったのではないでしょうか。

勝海の仇である「蘇我馬子」の子「蝦夷」と孫「入鹿」を葬り去った鎌足。

さらには2人に取って代わって政権中枢に食い込む・・・。

それができれば、見事に一族の復讐を果たしたことになるのではないでしょうか。


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「中大兄皇子」が「蘇我一族」に抱いていた恨み

一方の「中大兄皇子」の方は、文献史料が残っているわけではありません。

しかし以前、こんな意見を述べている書籍を見かけたことがあります。

中大兄皇子の母「皇極天皇」が「蘇我入鹿」と男女の仲になってしまい、息子である「中大兄皇子」は、母と入鹿の関係を疎ましく思うようになった。

それも暗殺実行の動機なのではないか

誰が書いた何という書籍だったのか、すっかり忘れてしまいましたが、蘇我氏の血を引いた身でありながら「中大兄皇子」が蘇我氏を毛嫌いしていたことを考えると、興味深い意見だと私は思います。

「皇極天皇」は一度退位し、弟「孝徳天皇(軽皇子)」に譲位しました。しかし「孝徳天皇」が中大兄皇子によって退位へと追い込まれたのち、再び皇位につき「斉明天皇」となっています。

孝徳天皇が退位した時、中大兄皇子は即位してもおかしくない年齢でした。にも関わらず皇極天皇は、息子「中大兄皇子」を天皇に即位させなかったのです。

自分の眼の前で人を殺したような息子を、天皇位につけるのは嫌だったでしょう。

そればかりか「皇極天皇」が「蘇我入鹿」を頼りにしていたのだとしたら、大切な人を奪った息子の行動は許し難いものだったはず。

いずれにせよ「蘇我入鹿」は、中大兄皇子と中臣鎌足にとって「中央集権化」という目的達成のため、絶対に排除しなくてはならない存在だったのです。

ただ・・・・彼らの「入鹿暗殺」の動機には、それぞれの「蘇我氏」に対する個人的な恨みが潜んでいたのかもしれません。


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『蘇我入鹿』について「ひとこと」言いたい!

「蘇我入鹿」は「聖徳太子」の息子である「山背大兄王」を斑鳩宮に襲い、「上宮王家(聖徳太子の血を引く一族)」を滅亡させました。

なぜそんなことをしたのでしょうか?

山背大兄王は、蘇我入鹿にとって従兄弟にあたり、その父「蘇我蝦夷」にとっても甥にあたる人物です。

聖徳太子の叔母「推古天皇」は崩御にあたり、後継者を指名しませんでした。

ただ、死の床に「田村皇子(舒明天皇)」と「山背大兄王」を呼び、それぞれに対してこのように言い残します。

田村皇子に対しては「物事の本質を見抜きなさい」

山城大兄王に対しては「人の意見に耳を貸しなさい」

この遺言から考えると

「田村皇子」は、ものの見方が浅い人。

「山背大兄王」は、人の意見に耳を貸そうとしない独断的な人。

ということになります。

蘇我氏の血を引いた「聖徳太子」の子で、自分の甥でもある「山背大兄王」を、時の権力者「蘇我蝦夷」は天皇に即位させず「田村皇子」を即位させました。


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蝦夷がなぜ「田村皇子」を即位させたのかについては、学会の意見が分かれています。

もしかすると朝廷内で権力を持った蘇我氏が、他の豪族の反感を買わないよう気を使って、蘇我一族とは縁のうすい「田村皇子」を即位させたのかもしれません。

田村皇子は両親とも皇族の出身でした。「田村皇子」のほうが「山背大兄王」よりも天皇にふさわしい・・・という意見も朝廷内にはあったのです。

そうしたことを考慮して「蝦夷」は慎重に動いたのでしょう。しかし伯父「蝦夷」に天皇にしてもらえなかったことで「山背大兄王」は恨みを抱いたかもしれません。

「蘇我氏」と、聖徳太子の血を引く「上宮王家」の間に齟齬が生じていたのだとすれば、「中臣鎌足」からすると、蘇我氏を追い落として政権中枢に食い込む絶好の機会だったでしょう。

信頼関係が崩れ始めた従兄弟同士「蘇我入鹿」「山城大兄王」・・。それぞれの耳に、あることないこと吹き込んで、さらに互いの疑心暗鬼を募らせれば良いのです。

うまく立ち回れば、蘇我本家だけでなく、「上宮王家」も排除できる可能性がありますよね。

「中臣鎌足」は「山背大兄王」に対して

「蘇我本家はあなたを天皇にする気はないのだから、天皇になりたければ、自分で位を奪い取らなくてはなりません」

とささやく。

その一方で「蘇我入鹿」には

「山背大兄王が謀反を企んでいるようです」

と吹き込む。

中臣鎌足は、2人へ「離間の計」を仕掛けたというわけです。


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蝦夷が「入鹿」と「山城大兄王」の双方を諌めようとしても、「山背大兄王」は「人の意見に耳を貸さない性格」だったようですから、伯父「蝦夷」が何といっても「今更何を言っているのか(私を天皇に推薦しなかったくせに)」という態度で受け入れようとしなかったでしょう。

父「蘇我蝦夷」から、そんな山背大兄王の態度を聞いた入鹿は「やはり山城大兄王は、謀反を企てているのか」と疑ったかもしれません。

こうして疑心暗鬼が募っていったうちに、【643年】入鹿は遂に「山城大兄王」を攻めて「上宮王家」を滅ぼしてしまいました。

父「蝦夷」はその知らせを受けて激怒しましたが、もはやどうにもなりません。

「上宮王家」を滅亡させたことで、さらに蘇我氏に対する皇族・豪族の反感は高まったことでしょう。

私には入鹿が上宮王家を攻め滅ぼした背景に、「中臣鎌足の暗躍」があったように思えてならないのです。

645年】に「乙巳の変」が成功したことで一番得をしたのは、蘇我氏にとって代わり政権中枢に食い込んだ「中臣鎌足」だったのですから。

もしも「入鹿」と「山背大兄王」が、互いの信頼関係を崩さずにいたら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれませんね。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「乙巳の変」で暗殺された「蘇我入鹿」。斬られたその首は「600m」も飛んだと言われている。各地に「入鹿の首塚」があるが、おそらく入鹿を慕った領民が、供養のために首塚を建てた。入鹿が死んだ地から離れた場所につくられた首塚は、「首が600m飛んだ」という荒唐無稽な逸話のもとになった
  2. 作家「関裕二」が著書「聖徳太子は蘇我入鹿である」の中で「聖徳太子と蘇我入鹿は同一人物」と主張している。しかし可能性は限りなく低い
  3. 蘇我入鹿の直系子孫は残っていない。しかし「入鹿」の従兄弟「蘇我倉山田石川麻呂」の姉妹と、「中臣鎌足」の子「藤原不比等」との間の子孫が今も続いている。元総理「近衛文麿」「細川護熙」が「石川麻呂」の子孫。

この記事を短くまとめると、以下の通り

「蘇我入鹿」は、飛鳥時代の政治家です。

645年】の「乙巳の変」で、「中大兄皇子」と「中臣鎌足」に討たれ、非業の最期を遂げました。

『日本書紀』には「斬られた」とだけ書かれているのですが、入鹿は首をはねられ、その首が飛鳥板蓋宮から600mも離れた「飛鳥寺西門付近」に落ちたと言い伝えられています。その場所には現在、首塚が作られています。

入鹿の首が飛んだと言われる地は他にもあり、おそらく非業の最期を遂げた入鹿を、庶民が偲んで供養したところに、そんな伝承が残ったのでしょう。

「聖徳太子と蘇我入鹿が同一人物だ」という主張の書籍も販売されていますが、論拠とした文献が平安時代に創作されたものと考えられており、信憑性が高いとは言えません。

蘇我氏の直系子孫は絶えていますが、蘇我氏の女性が嫁ぎ先で産んだ子供たちを通して、現在の「上皇陛下」や「細川護煕」元首相など、蘇我氏の末裔は現代にも伝わっています。

「乙巳の変」で「蘇我入鹿」が惨殺されたのは、「中大兄皇子」と「中臣鎌足」にとって、「中央集権化」という自分たちの目的達成のために、「入鹿」が絶対に排除すべき存在だったからでした。

ただし中大兄皇子と中臣鎌足には、それぞれ蘇我氏に対する恨みがあった可能性はありますので、その復讐の意味合いもあったのではないでしょうか。

蘇我入鹿が聖徳太子の血を引く一族である「上宮王家」を滅ぼした事件の陰には、「中臣鎌足」が暗躍していた可能性があります。

もし「蘇我入鹿」と「山背大兄王」が、もっと思慮深かったら、日本の古代史は変わっていたかもしれません。

奈良県明日香村の蘇我入鹿首塚:fuku41さんによる写真ACからの写真

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「聖徳太子の別名全部紹介!2017最新教科書での名前といなかった説」の記事はコチラ

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