蘇我蝦夷と蘇我入鹿・馬子との関係!聖徳太子と呪われた予言について

『m』

耳成山:sugi1608さんによる写真ACからの写真

「蘇我蝦夷」がどんな人で、どういう功績を残した人なのか、説明できる人は少ないかもしれませんね。

私も大学で歴史を勉強するまで、「蘇我蝦夷」についてあまり知りませんでした。

「蘇我蝦夷」は「蘇我馬子」の息子であり、「蘇我入鹿」の父。冷静で現実的な判断を下す政治家だったのです。

この記事では「蘇我蝦夷」についてあまり詳しくない人に向けて解説していきます。

これを読んで「そうだったのか、蘇我蝦夷!」と、疑問をスッキリと解消してくださいね。


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この記事を短く言うと

  1. 「蘇我馬子」「蘇我蝦夷」「蘇我入鹿」は、「父・子・孫」の関係。蘇我一族は馬子の父「蘇我稲目」が娘たちを天皇に嫁がせたことで権力を持ち、「馬子」「蝦夷」がさらに権力を高め、「蘇我入鹿」の代で滅亡した
  2. 蘇我蝦夷にとって「聖徳太子」は義理の弟。蝦夷と太子は、ともに政治を行ったことはない。しかし聖徳太子は蝦夷の父「蘇我馬子」とともに「冠位十二階の制」や「十七条の憲法」を制定した。おそらく蝦夷にとって聖徳太子は、「政治のお手本」だったのだろう。
  3. 蘇我蝦夷は、息子「蘇我入鹿」が聖徳太子の子「山城大兄王」を殺害したことを嘆き「災いを招く」と予言。この予言は的中し、「乙巳の変」で蘇我本家は滅亡した

蘇我蝦夷と、蘇我入鹿・蘇我馬子の関係とは?

「蘇我蝦夷」は「蘇我入鹿」の父であり、「蘇我馬子」の息子です。

3人は、祖父「馬子」、父「蝦夷」、子「入鹿」という関係になります。

蘇我氏の繁栄は「欽明天皇」の御代に、大臣として朝廷に仕えた「蘇我馬子」の父「蘇我稲目」の代から始まったのです。

《蘇我氏の家系図》
「引用元ウィキペディアより」

 


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「蘇我稲目」・・・「天皇」に娘を嫁がせた人物

蘇我稲目は、息子「蘇我馬子」の姉妹である「堅塩媛(きたしひめ)」と「小姉君(おあねのきみ)」を、「欽明天皇」に嫁がせています。

「堅塩媛」からは「用明天皇」と「推古天皇」。

「小姉君」からは「崇峻天皇」が生まれました。

父「蘇我稲目」が娘を天皇に嫁がせることで、天皇の外戚としての地盤を固めたのちに大臣として朝廷に君臨したのが、稲目の息子「蘇我馬子」です。

ちなみに「馬子」の娘は「聖徳太子」の妻でもあります。馬子は聖徳太子の姑というわけですね


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「蘇我馬子」・・・「聖徳太子」とともに政治改革を実行

馬子は「敏達天皇」「用明天皇」「崇峻天皇」「推古天皇」と、4代の天皇の御代に、実に54年間にわたって大臣として仕えました。

「敏達天皇」が即位した【572年】に蘇我馬子は大臣になり、【626年】で亡くなるまで大臣として生き抜いたのです。

馬子は仏教を篤く信仰し、朝廷の排仏派である「物部守屋」と「中臣勝海」と戦い排除。朝廷内での蘇我氏の権力地盤を固めました。

史上初の臣下による天皇暗殺・・・・・と言われる「崇峻天皇・暗殺」をおこなったのち、馬子の姪にあたる「推古天皇」が即位します。

推古天皇は「厩戸皇子(聖徳太子)」を摂政として、蘇我馬子とともに政治を司らせました。

《聖徳太子(厩戸皇子)》
「引用元ウィキペディアより」

「推古天皇」と「聖徳太子」と「蘇我馬子」の3者が、共同で朝廷の政治をつかさどっていた間に、仏教を興隆し、「遣隋使」を派遣。大国「隋」の優れた文化を遣隋使の使節たちに学ばせたのです。

さらには「冠位十二階」と「十七条憲法」を制定し、古代日本の近代化政策を行いました。

そんな馬子が大臣だった時代は、蘇我氏の全盛期。

「推古天皇」の御代、【626年】に馬子が亡くなり、息子である「蘇我蝦夷」が後を継いで大臣となりました。


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「蘇我蝦夷」・・・冷静で現実的な政治家

《蘇我蝦夷》
「引用元ウィキペディアより」

馬子の死から2年後の【628年】、「推古天皇」が崩御します。

死期を悟った「推古天皇」は、病床に「田村皇子(舒明天皇)」と聖徳太子の子「山背大兄王」を呼び、それそれに以下のような言葉を言い残します。

田村皇子には「物事を明察しなさい」

山城大兄王には「他人の意見を聞き入れなさい」

しかし「推古天皇」は、自らの後継者は指名しなかったのです。

おそらく「舒明天皇」は、表面的に物事を見る、あまり深くものを考えない性格だったのでしょう。

対して「山背大兄王」は、他人の意見に耳を貸さない独善的な性格だったと考えられます。

推古天皇は後継者候補と目されている2人のどちらが即位しても、即位した後に困らないよう、アドバイスを残していったのではないか、と私は思います。

「推古天皇」崩御の後、次の天皇に「田村皇子を推す派」と「山背大兄王を推す派」とで、朝廷内は二分されました。

「山背大兄王」は、聖徳太子と蝦夷の妹「刀自古娘」の間に生まれた子です。蘇我蝦夷からすれば「いとこ」なわけですから、蘇我氏が外戚として朝廷内で力を振るうためには、天皇に即位してもらいたいですよね。

ところが大臣である蝦夷は、「田村皇子(舒明天皇)」を即位させたのです。

「田村皇子」は父親も母親も皇族出身で、朝廷内では「田村皇子の方が天皇にふさわしい」という意見がありました。

遣隋使を派遣した結果として、隋の優れた文化は朝廷内に行き渡り始めていたのです。

「冠位十二階」を制定し、氏姓によらず優れた人材であれば朝廷内で出世を果たせるようになっていたのなら、蘇我氏がその制度から外されていることに疑問と不満を持つ人は当然出てくるはずですよね。

そのような情勢で「崇峻天皇」を暗殺させた「蘇我馬子」も亡くなったとなれば、今まで蘇我氏に我慢していた豪族たちの反感も表に出始めていたでしょう。

おそらく「蘇我蝦夷」は、そうした反感を敏感に感じ取り、蘇我氏にこれ以上反感を持たせないように蘇我氏の既得権益を守るために、大臣としてどう振る舞っていけばいいか考えたはずです。

その結論として、豪族たちの蘇我氏への反感を軽減するため、自分たち「蘇我氏」の権力をさらに高めてくれる「山城大兄王」を即位させるのではなく「田村皇子」を即位させたのでしょう。

蝦夷は政治家としては馬子のような目立った功績は残していません。しかし今置かれている情勢を的確に判断し、生き残るためにどうすれば良いかを考えて実行する「冷静で現実的な政治家」だったと考えられます。


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蘇我入鹿が山城大兄王を殺害!「蘇我氏」終わりの始まり

舒明天皇が【641年】に崩御した後、蝦夷はなぜかまたも山背大兄王を即位させず、「舒明天皇」の妃「宝皇女(皇極天皇)」を即位させます。

この時も蘇我氏の血を引く「山背大兄王」を即位させなかったのは、『蘇我氏に対する反感を軽減するため』だったのではないかと私は思います。

皇極天皇の即位後、『日本書紀』によると蝦夷は、山背大兄王の部民を使って自分の墓を作らせ、朝廷の許可を得ずに息子「蘇我入鹿」に大臣を譲り、自分の屋敷を「宮門」と呼ばせたとあります。おごりたかぶった様子がうかがえますが、これは後世の脚色かもしれません。

なぜなら【643年】に息子「蘇我入鹿」が「山背大兄王」を攻め滅ぼしたことを知った蝦夷は、息子「入鹿」の行為に激怒しているからです。

『日本書紀』は、「乙巳の変」によって蘇我氏を倒した側の勢力によって書かれた歴史書です。

そのことを考慮に入れると、蘇我氏が専横したという記述は、自分たちの行為を正当化するためとみなすことも可能なのです。

山背大兄王の部民を使って自分の墓を作らせた・・・・という記述も、天皇に即位したかった山背大兄王が、伯父である「蝦夷」の関心を買うために、自ら積極的に部民を差し向けたかもしれませんよね。


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642年】に皇極天皇が即位した際、息子「入鹿」は父「蝦夷」に代わって国政に携わるようになります。

643年10月6日】に、「蝦夷」は朝廷の許可を得ないまま「入鹿」に大臣の位を譲りました。

643年11月1日】、「入鹿」は「山背大兄王」を攻め滅ぼします。

蝦夷はこれを聞いて激怒。

「災いを招かなければ良いが・・・。」

と言いますが、その災いは【645年】に「乙巳の変」として、実現しました。

「入鹿」の行動が蘇我本家に災いをもたらす危険性があると判断した「蝦夷」は、冷静で現実的な判断を下す政治家だったと言えるでしょう。

645年】に「乙巳の変」で、息子「蘇我入鹿」は暗殺され、その翌日に蝦夷も自害します。

《乙巳の変・蘇我入鹿暗殺》
「引用元ウィキペディアより」

父「馬子」が54年間も大臣でいたのに対し、「蝦夷」が大臣だったのは16年。息子「入鹿」が大臣だったのは、わずか2年間でした。


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蘇我蝦夷と聖徳太子はどういう関係?

「蝦夷」と「聖徳太子」は義兄弟

「蘇我蝦夷」と「聖徳太子」は、どういう関係だったのでしょう?

蝦夷の妹「刀自古娘」は聖徳太子との間に「山城大兄王」を産んでいます。つまり蝦夷にとって「聖徳太子」は義理の弟となるわけですが、それだけではありません。

2人の関係を、2人が生まれた「年」から考えてみましょう。

聖徳太子は【574年】の生まれです。

一方の「蘇我蝦夷」は、生年がはっきりしていませんが、おそらく「用明天皇」が即位した【585年頃】の生まれではないか、と言われています。

ということは「聖徳太子」と「蘇我蝦夷」は、約10歳程度の年齢差がある、と考えられますよね。

この年齢推定があっていると仮定すると、推古天皇の御代で聖徳太子が「摂政」として、蝦夷の父「馬子」が大臣として政治を司っていたのを間近に見ながら、成長していたことになります。

蝦夷が【585年】に生まれて15歳くらいで元服したと考えれば、その15年後・・・【600年】ごろに政治の世界に入ったのではないでしょうか。

603年】の「冠位十二階」、【604年】の「十七条憲法」、【607年】の「遣隋使派遣」・・・・これら馬子が聖徳太子と共に行っていた政治を、蝦夷は間近で見て、政治を学んでいったのでしょう。


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聖徳太子と蝦夷は師弟関係だった

聖徳太子と蘇我蝦夷は、直接には共同で政治を行っていません。

しかし馬子と共に朝廷へ出仕していたことで、父だけではなく、「推古天皇」と「聖徳太子」からも政治をつかさどる方法を吸収していったのではないか、と私は思います。

その間に身につけた「政治のバランス感覚」があったからこそ、推古天皇崩御後に、馬子が亡くなって蘇我氏への反感が噴き出し始めたのを敏感に察知した「蘇我蝦夷」は、田村皇子を即位させ、蘇我氏の安泰を図ることができたのでしょう。

政治では直接の関係はありませんが、「蝦夷」は「聖徳太子」を間近で見て、その政治のやり方などを学んだと考えられます。

聖徳太子は蝦夷にとって、政治上のお手本のような存在だったのでしょう。

そういう意味では、聖徳太子と蘇我蝦夷は、間接的な師弟関係だったと言えるかもしれません。


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聖徳太子の息子「山背大兄王」と蝦夷の「呪われた予言」

「蘇我蝦夷」は、息子「入鹿」が「山背大兄王」を滅ぼしたと聞き、激怒。

「災いを招く」

と嘆きました。

蝦夷はなぜ激怒し、「災いを招く」と嘆いたのか、見てみましょう。

「山城大兄王」の死!蝦夷は「災いを招く」と激怒

643年10月6日】、「蘇我蝦夷」は息子の「入鹿」に大臣の位を譲りました。

朝廷の許可なく勝手に・・・と言われていますが、父「馬子」が亡くなるまで54年も大臣であったことを考えると、蝦夷は当時かなり高齢だったはずです。もしかしたら病気か何かが原因で家督を譲ったのかもしれません。

それから1ヶ月も経たない【643年11月1日】、入鹿は100名以上の兵を集め、斑鳩宮に「山背大兄王」を攻めさせたのです。

「山背大兄王」は一族を連れ、斑鳩宮から生駒山に逃れます。

このとき「山背大兄王」臣下からは

「東国に逃げて挙兵しましょう」

と進言されたのですが、それを断っています。

『戦を起こせば、民百姓を苦しめるだけだ』

と言い、一族を連れて生駒山を降りた「山背大兄皇子」は、斑鳩寺(法隆寺)で自害し、「上宮王家」は滅亡。(「上宮王家」とは、「聖徳太子」の血を引く家系のこと)

蘇我入鹿が山背大兄王を自害に追い込んだことを知った父「蘇我蝦夷」は激怒。

「災いを招く」

と嘆きました。


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蝦夷が「山背大兄王」の死に激怒した理由

もしも蝦夷が山背大兄王をうとましく思っていたのなら、滅ぼしたと聞いて激怒するでしょうか?

逆に、邪魔者を排除した息子を「よくやった」と褒めていたかもしれませんよね。

『日本書紀』に

「蝦夷は入鹿の行動を知って激怒した」

と書かれています。

「日本書紀」を書かせたのは、「蘇我氏」を滅亡させた「天智天皇(中大兄皇子)」の弟「天武天皇(大海人皇子)」です。

「蘇我氏」を滅ぼした側が書いた「日本書紀」に、「蝦夷は激怒した」と記されているので、これは真実であると考えられます。

または「乙巳の変」の勝利者側である「中大兄皇子」や「天武天皇」には、息子「入鹿」のことは暗殺するほど敵視していたものの、父「蝦夷」に対する悪感情はあまりなかったのかもしれません。


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推古天皇崩御後の後継者選びで、蝦夷は「山城大兄王」ではなく「田村皇子(舒明天皇)」を即位させたことからもわかるように、「蘇我蝦夷」は冷静かつ現実的な判断を下せる政治家でした。

推古天皇、舒明天皇、皇極天皇と3代の天皇の御代に大臣として仕え、蘇我本家に、皇族や豪族が反感を持たないよう、言動には相当注意していたはずです。

ところが何らかの事情で家督を譲った息子「入鹿」は、譲られた途端に「山背大兄王」を攻め滅ぼすという大事件を起こしてしまいました。

この事件は入鹿1人で起こしたわけではなく、入鹿に従った豪族もいましたし、皇族の中にも「山背大兄王」に対して良い感情を抱いていない人たちもいたようです。

しかし蝦夷から見たら、父「馬子」から大臣を引き継ぎ、蘇我本家に対する反感を買わないように細心の注意を払ってきたのに、息子「入鹿」が引き起こした事件のせいで、これまでの努力が水の泡というわけです。

入鹿の起こした事件は入鹿本人だけではなく、蘇我本家に皇族や豪族の反感は高めてしまいますから。

蝦夷が激怒し、蘇我本家に「災いを招く」と嘆いたのも無理のないことです。

入鹿は蘇我本家の家督を譲り受け、一族の長として君臨するにはまだまだ未熟だったのかもしれません。

病床で「推古天皇」が山背大兄王に

「他人の言うことを聞きなさい」

と言い残していることから考えると、山背大兄王は人の意見に耳を貸さない、独善的な性格。

そんな山城大兄王を良く思わない豪族が、数多くいたはずです。


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入鹿による「山城大兄王」暗殺!その黒幕は「中臣鎌足」?

私は個人的には、「山背大兄王襲撃事件」には、蘇我本家を排除しようとする「中臣鎌足」が暗躍していたのではないか・・・・と考えています。

伯父「蝦夷」に2度までも天皇にしてもらえず、不遇を囲っていた「山背大兄王」。。そんな「山城大兄王」にたいして、伯父の「蝦夷」へ憎しみをつのらせるような言葉を耳打ちし、疑心暗鬼を煽る・・・。

その一方で、まだ政治家としての判断が未熟で、直情径行型と考えられる息子「入鹿」には

「山背大兄王が謀反を企てているようだ」

・・・と伝える。

もちろん、それらを中臣鎌足自身が直接2人に伝えるようなことはせず、舎人や女官たちにそれぞれの屋敷で噂させ、自然に耳に入るように仕向けるのです。

蝦夷はもしかしたら「山背大兄王」と「入鹿」が互いに疑心暗鬼になり、蘇我本家と上宮王家の信頼関係が崩れていくのを家来から聞き、2人の関係を修復するために2人を諌めたかもしれません。(上宮王家とは、聖徳太子の血を引く家系。つまり聖徳太子の子「山城大兄王」の一族)

しかし、2度も天皇にしてもらえなかった山背大兄王は、伯父「蝦夷」の言葉にたいして「今更何を言っているのだ!」と、耳を貸さなかったでしょう。

入鹿もまた、山背大兄王をよく思っていない皇族や豪族にあおられるうち、従兄弟である「山背大兄王が謀反を起こそうとしている」と聞きつけ、「謀反を起こされる前に山城大兄王を討ち果たさなくてはならない」・・・・・と思ったのです。


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蘇我本家と上宮王家を葬り去り、政治の中枢に躍り出ようとした「中臣鎌足」の暗躍によって、入鹿は操られたのではないか、と私は思っています。

「乙巳の変」は【643年】に入鹿が大臣になった時から、中臣鎌足によって用意周到に計画され始めたのです。決して突発的な計画ではありませんでした

入鹿がそそのかされるままに「山背大兄王」を襲撃したのだとしたら、蝦夷が

「バカなことをしてくれたものだ、蘇我本家に災いが降りかかるかもしれないのに」

と嘆いたのもうなずけます。

「蝦夷」は蘇我本家を滅亡に追い込もうとする「何か」が働いていると気付き

「このままでは蘇我本家に災いを招く」

と言ったのです。


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中臣鎌足の罠に引っかかった蘇我入鹿

蝦夷は、裏で暗躍するのが「何者か」を探らせたのでしょうが、掴めなかったのでしょう。

下手に外を出歩くと暗殺の危険があると考えた蝦夷は、入鹿にも屋敷から外出する機会を減らさせました。

朝鮮半島の使者が訪れて儀式を行うから

という理由で「飛鳥板蓋宮」に入鹿を呼び出して「乙巳の変」を決行したのは、蝦夷と入鹿が暗殺を恐れて外出しなかったからです。

《蘇我入鹿・暗殺の図》
「引用元ウィキペディアより」

「聖徳太子」や「馬子」に比べると、政治家として未熟だった「山背大兄王」と「入鹿」・・・。

この2人が、「上宮王家」と「蘇我本家」を滅亡に導いてしまったのでしょう。

もしもこの解説の通り、「中臣鎌足」が「蘇我蝦夷」をも欺いて「乙巳の変」を成功させたのだとしたら、それを実現した鎌足の策略は、おそろしいものだったと言えますね

「災いを招く」

蝦夷の不吉な予言は、見事に当たってしまったのです。


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『蘇我蝦夷』について「ひとこと」言いたい!

蘇我蝦夷は優れた調整者だった

父「馬子」や息子「入鹿」に比べると、「蝦夷」は影が薄い存在のようにも感じられます。

しかし別の見方をすれば「推古天皇」末期から「皇極天皇」即位まで、蝦夷ひきいる蘇我氏は皇族や他の豪族と争ったりせず、大臣として朝廷を大過なくまとめていた、とも言えるのです。

蝦夷が大臣だった間に争って滅ぼしたのは、馬子の弟「境部臣摩理勢」だけでした。

身内同士で争っただけだったのです。

推古天皇が崩御した後に、「田村皇子」を推す蝦夷は、「山背大兄王」を推す叔父「摩理勢」と対立。

父「馬子」が亡くなっていたこともあり、朝廷内では蘇我本家に対する風当たりが強くなっていました。

そんな状況で「上宮王家」の後ろ盾でもあった摩理勢は、強硬に「山背大兄王」を次の天皇に推します。

蝦夷に代わって自分が蘇我本家の長になろうとする「摩理勢」にとって、後ろ盾を務める「上宮王家」から「山城大兄王」という天皇が出れば、外戚として自分が朝廷内で権力を握ることができるようになりますから。

しかし朝廷内のバランスを重んじた蝦夷は、田村皇子を推す朝廷内の豪族の意見に賛成。田村皇子を即位させるため、朝廷内の意見を取りまとめていきました。

こうして叔父「摩理勢」に味方し、「山背大兄王」を推す群臣は、徐々に少なくなっていきます。


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蘇我蝦夷の苦渋の決断!叔父を殺害し平和を取り戻す

伯父である蝦夷に、天皇として推挙してもらえず、「山背大兄王」は天皇位を諦めました。この事態に「摩理勢」は激怒したのです。

造営中だった馬子の墓(石舞台古墳)を放り出し、山背大兄王の弟「泊瀬王」の邸宅に籠もり、蝦夷に抵抗を開始。

山背大兄王に説得され、「摩理勢」は「泊瀬王」の邸宅から出て自分の屋敷に戻りましたが、その直後に「泊瀬王」は病死。

かばって匿ってくれた味方の「泊瀬王」を失い、朝廷内でも孤立してしまった「摩理勢」は、甥の「蝦夷」に攻め滅ぼされました。

冷静で現実的な判断を下す蝦夷にとって、上宮王家にこだわる叔父「摩理勢」を生かしておけば、いずれ朝廷の和を乱すような行動を取りかねません。叔父とはいえ当然生かしてはおけませんよね。

摩理勢は蝦夷にとって叔父であると同時に、皇族や他の豪族と手を組んで甥「蝦夷」の追い落としを図るかもしれない危険な存在でもあったのです。

実の叔父を殺さなければならないのは、苦渋の決断だったことでしょう。

この事件以降「舒明天皇」の御代で、豪族同士の争いは起きていません。

父と息子に比べると影が薄いように見える「蘇我蝦夷」ですが、大臣として大過なく朝廷をまとめ上げていた、と言っても良いと思います。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「蘇我馬子」「蘇我蝦夷」「蘇我入鹿」は、「父・子・孫」の関係。蘇我一族は「蘇我入鹿」が「乙巳の変」で「中大兄皇子・中臣鎌足」に暗殺されて滅亡した
  2. 蘇我蝦夷にとって「聖徳太子」は義理の弟。それだけではなく、聖徳太子は蘇我蝦夷にとって「政治のお手本」だったのではないか
  3. 蘇我蝦夷は息子「入鹿」が「山城大兄王」を殺害したことに対して「災いを招く」と予言。予言は的中し「蘇我本家」は滅亡した

この記事を短くまとめると、以下の通り

「蘇我蝦夷」は「蘇我馬子」の子で、馬子亡きあと、大臣と成りました。

「乙巳の変」で「中大兄皇子・中臣鎌足」に暗殺された「蘇我入鹿」は「蘇我蝦夷」の息子。「馬子・蝦夷・入鹿」の3人は、「父・子・孫」の関係に当たります。

600年】ごろに元服した蝦夷は父「馬子」の側で、古代日本の近代化政策を目の当たりにしました。

「聖徳太子」と父が協力して「冠位十二階」や「十七条憲法」を制定したり、「遣隋使」を派遣して「隋」の優れた文化を吸収したりしたことです。

直接的な政治上の関わりはありませんでしたが、「聖徳太子」と「蝦夷」は、間接的な師弟のような関係だったと考えられます。

蝦夷は「推古天皇」の崩御後、朝廷内の他の豪族の意見を取りまとめ、「山城大兄王」ではなく「田村皇子(舒明天皇)」を即位させました。

そのことで「山背大兄王」を推す叔父「境部臣摩理勢」と争い、これを滅ぼしたのです。


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しかし蝦夷が表立って争ったのはこの時だけ。

舒明天皇(田村皇子)の御代は、豪族同士の大きな争いがありませんでした。

舒明天皇が崩御した後も、蝦夷は「山背大兄王」を即位させず、舒明天皇の皇后「宝皇女(皇極天皇)」を即位させます。

その後、大臣と蘇我本家の家督を息子「入鹿」に譲りました。

しかしそれから1ヶ月も経たないうちに、入鹿は「山背大兄王」を滅ぼしてしまったのです。

おそらく「上宮王家」と「蘇我本家」を排除し、政治の中枢に食い込もうとする者が裏で暗躍したのでしょう。(おそらく中臣鎌足)

事件を知った蝦夷は激怒。

災いを招く

と不安を漏らしました。


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暗殺を恐れた蝦夷は邸宅にこもり、入鹿にも同じよう警戒させます。

しかし【645年】、蝦夷の杞憂は的中してしまいます。飛鳥板蓋宮におびき出された息子「入鹿」は、「中大兄皇子(のちの天智天皇)」と「中臣鎌足」に暗殺され、蝦夷も屋敷に火を放ち、自害しました。(乙巳の変)

こうして蘇我本家は滅亡。代わって「中臣鎌足」からはじまる「藤原氏」が、政治の表舞台に躍り出るのです。

蘇我氏邸宅があった甘樫丘から見た明日香村:eriko.Nさんによる写真photoACより

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「聖徳太子の別名全部紹介!2017最新教科書での名前といなかった説」の記事はコチラ

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