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「聖徳太子」は「推古天皇」の摂政をつとめた偉人です。「摂政」とはどんな役割を果たす役職なのか。説明できる人は意外に少ないかもしれません。
実は私も大学に入るまで、「摂政」という役職や「聖徳太子と推古天皇の関係」について、教科書に書いてあることしか知りませんでした。
「摂政」とは、「天皇が女性または病弱・年少の場合に、天皇の代わりに為政者となる人のこと」です。
この記事では「聖徳太子」が叔母「推古天皇」の摂政として、どんな役割を果たしたのかについて、よくご存じない方のためにわかりやすく解説します。
これを読んで『そうだったのか!推古朝!』と、疑問をスッキリと解消してくださいね。
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この記事を短く言うと
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- 「摂政(せっしょう)」とは、「天皇が女性・病弱・年少で、自ら直接政治を行えない場合、天皇の代わりに政治を行って最終的な決定権を持つ者」のこと。最初の摂政は「聖徳太子」。
- 「推古天皇」の摂政「聖徳太子」が、最初の摂政。推古天皇は幼少ではないのに聖徳太子を摂政とした理由は、「蘇我氏」から政治の実権を取り戻すため。
- 「聖徳太子」と「推古天皇」は、「甥と叔母」の関係だった。二人とも「蘇我氏」の血を引いていた。
「摂政」とは何か?天皇と摂政は、どういう関係?
「摂政(せっしょう)」というと、「藤原氏の摂関政治」を思い浮かべる人もいるかもしれませんね。
摂政とは『天皇が女性・病弱・年少で、直接政治に携われない場合に、代わりに為政者となって政治の最終決裁権を持つ人』のことを言います。
これに対して「関白(かんぱく)」は、平安時代にできた役職です。『成人した天皇を補佐』する役職であり、あくまでも政治の最終決裁権は天皇が持ちます。
「推古天皇」が即位した時に「聖徳太子」は摂政となったことが、「摂政」の始まりでした。
それ以来【866年】に「藤原良房」が臣下から「摂政」になるまで、摂政の役職は「皇族」が務めてきました。
「聖徳太子」は関白ではなく摂政だったので、「推古天皇」の代わりに政治の最終決裁権を持っていた・・・ということになります。
「推古天皇」は幼少ではないのに、なぜ聖徳太子は「摂政」になったの?
「推古天皇」は日本史上初の女性天皇で、即位したのは【39歳】のときでした。
初の女性天皇とはいえ、もう成人して子供も持つ年齢だったのです。十分に分別のある「推古天皇」に、はたして摂政が必要だったのでしょうか?
しかも「推古天皇」は容姿端麗であるだけでなく、政治手腕も相当な力量だったと言われています。
そんな名君「推古天皇」に「聖徳太子」を摂政にする必要があったのか?
実は「推古天皇」と「聖徳太子」、2人がともに目指していた目的を達成するために、「聖徳太子」が摂政となる必要があったのです。
父「欽明天皇」、夫「敏達天皇」、兄「用明天皇」、弟「崇峻天皇」、4代に渡り天皇の治世を見てきた聡明な「推古天皇」は、「蘇我稲目」とその子「蘇我馬子」を頭領とする「蘇我氏」の勢力が、古代天皇家のそれを凌駕することを熟知していたでしょう。
古代天皇家は「大王」として朝廷に存在しても、「政治の実権」は蘇我氏が握り続けていたのです。
「推古天皇」は、何とかして政治の実権を蘇我氏から古代天皇家へ取り戻せないかと考えたことでしょう。
恐らく「聖徳太子」も同じ気持ちだったと思います。
推古天皇は、以下のように思いを巡らせたのではないでしょうか。
正面だって蘇我氏に逆らえば、聖徳太子の叔父「穴穂部皇子」や「崇峻天皇」のように、蘇我氏に殺されかねない・・・。
「蘇我馬子」は自分(推古天皇)に「天皇として即位してください」と迫ってくる。
「女なら傀儡(あやつり人形)として好都合だ」・・・と考えているのだろうが、何とかならないだろうか?
それならば・・・甥の「厩戸皇子(聖徳太子)」を摂政にして、政治に当たらせてみてはどうだろうか?
あの子は我が子「尾張皇子」に比べてずっと優秀だし、蘇我馬子を良く抑えてくれるだろう。
そのためには「廐戸皇子」を摂政とすることを馬子に納得させなくてはいけない。馬子には、いずれ我が子「尾張皇子」に譲位するつもりでおり、「尾張皇子」が即位した後も「厩戸皇子」に摂政として務めてもらいたいのだ。そのため、今から摂政として「廐戸皇子」を任命し、政治経験を積ませたい・・と説明し納得させよう。
「厩戸皇子」を摂政に任命して為政者とし、我が天皇一族に政治の実権を取り戻す。馬子には大臣(おおおみ)として、朝廷を取りまとめさせ、私(推古天皇)は彼らが争わないよう、調整すれば互いに面目も保てよう・・・。
実際に推古天皇がこのように考えたのかどうかはわかりません。
しかし推古天皇がそのまま即位し、蘇我馬子が大臣として君臨した場合は、これまでと変わりなく、政治の実権は蘇我氏が握ったままです。
それに対し「厩戸皇子」を摂政として天皇の代わりの為政者とし、馬子を朝廷の取りまとめ役とした場合は、政治の実権は古代天皇家が取り戻すことになります。
聖徳太子も、自分が摂政となって政治の実権を取り戻す推古天皇の考えには反対はしなかったでしょう。
「推古天皇と聖徳太子」にとって、聖徳太子が摂政になることは、「蘇我氏から古代天皇家が政治の実権を取り戻す」ために、必要なことだったのです。
聖徳太子と推古天皇の関係!甥と叔母の関係だった!
「聖徳太子」と「推古天皇」は、「甥と叔母」の関係です。
古代天皇家は血族結婚を繰り返しており、異母であれば兄弟姉妹で結婚することも可能でした。
聖徳太子は父「用明天皇」と母「穴穂部間人皇女」の間に生まれました。
両親とも「欽明天皇」の子で、聖徳太子の父「用明天皇」は「推古天皇」の同母兄にあたります。
聖徳太子から見ると「推古天皇」は父の妹にあたる人なのですが、それだけの関係ではありません。
聖徳太子の妃に「菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ)」という人がいます。2人の間に子供は生まれず、菟道貝蛸皇女はどうやら若くして亡くなったようですが、この人が実は「推古天皇の娘」なのです。
「聖徳太子」と「推古天皇」は「甥と叔母」の関係であるだけでなく、「婿と姑」の関係でもあったのです。
それだけではありません。「聖徳太子」の妃には「橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)」という人もいますが、この人は推古天皇の息子「尾張皇子」の娘ですから、「推古天皇の孫」にあたります。
推古天皇は、聖徳太子との関係を深く保つために、娘だけでなく孫も妃として嫁がせていたのかもしれませんね。
推古天皇も聖徳太子も、ともに「蘇我氏」の血を引いており、蘇我馬子とも血縁関係があります。
しかし蘇我氏との血縁以上に、推古天皇と聖徳太子の絆は深かったと考えるべきでしょう。
『推古天皇』について「ひとこと」言いたい!
推古天皇には、2人の皇子「竹田皇子」と「尾張皇子」がいました。
『日本書紀』には「竹田皇子」が登場します。蘇我馬子と物部守屋の戦争に、「竹田皇子」が馬子側で従軍したという・・・記録がありますが、それ以降は名前が出てきません。
「竹田皇子」は恐らくその戦争直後に亡くなってしまったと考えられています。
そうすると、我が子で天皇位に就ける残りの皇子は「尾張皇子」です。
しかし「尾張皇子」については、聖徳太子の妃「橘大郎女」の父親であることくらいしか記録がありません。
よほど病弱で影の薄い存在だったのでしょうか。何とか一度は結婚して「橘太郎女」をもうけたものの、早くに亡くなったのか・・・。
いずれにせよ、推古天皇が男子の実子にはあまり恵まれなかった・・・ということは言えるかもしれません。
だからこそ、兄の子で子供の頃から神童と謳われていた「厩戸皇子」に期待をかけていたのではないでしょうか。
推古天皇は甥の「廐戸皇子(聖徳太子)」を、蘇我氏から古代天皇家に政治的実権を取り戻すためのパートナーとして、頼りにしたのでしょう。
推古天皇は聖徳太子を摂政とし、蘇我氏が握っていた政治の実権を古代天皇家に取り戻すことに成功します。
【622年】に聖徳太子が亡くなり、【626年】に蘇我馬子が亡くなったのを見送った「推古天皇」は、【628年】に75歳で崩御しました。
推古天皇の崩御後、天皇位に就いたのは「舒明天皇」でしたが、政治の実権は再び蘇我氏に戻り、蘇我馬子の子「蘇我蝦夷」が実権を握ります。
その後「蘇我蝦夷」は朝廷の許可を得ずに息子「蘇我入鹿」に大臣の位を譲ります。この「蘇我入鹿」は自分の子を「皇子」と呼ばせ、専横を極めました。
蘇我氏に握り返された政治の実権を古代天皇家が取り返したのは「中大兄皇子」と「中臣鎌足」でした、推古天皇と聖徳太子が執った政策「遣隋使」で隋に学んだ「南渕請安(みなみぶちのしょうあん)」の教え子だった「中大兄皇子」と「中臣鎌足」は、「乙巳の変」という政変によって「蘇我入鹿」を暗殺したのです。
推古天皇と聖徳太子の政策は、古代日本を大きく動かしたというわけです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「摂政(せっしょう)」とは、「天皇が女性・病弱・年少で、自ら直接政治を行えない場合、天皇の代わりに政治を行い、最終的な決定権を持つ者」のこと。
- 「推古天皇」の摂政「聖徳太子」が、日本最初の摂政。推古天皇が聖徳太子を摂政とした理由は、「蘇我氏」から政治の実権を取り戻すため。
- 「聖徳太子」と「推古天皇」の関係は、「甥と叔母」。推古天皇は甥の「聖徳太子」を皇太子(次期天皇候補)とした
この記事を短くまとめると、以下の通り
「聖徳太子」は「推古天皇」の摂政でした。
「摂政」とは、天皇が年少、病弱、女性だった場合に、代わりに政治を司り為政者となる人のことです。
聖徳太子は推古天皇の摂政となり、政治の実権を蘇我氏から古代天皇家に奪還します。そして数々の政治改革を行いました。
そんな2人の関係は「甥と叔母」であるだけでなく、「婿と姑」でもあったのです。
推古天皇と聖徳太子は、「蘇我馬子」とも血縁関係にありましたが、甥と叔母、婿と姑でもあった2人の絆はそれ以上に深いものだったでしょう。
実の息子との縁が薄かった推古天皇は現在、息子「竹田皇子」とともに、「磯長山田陵」に合奏されて永遠の眠りについています。
以上となります。
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