『m』
「聖徳太子」というと、昔の1万円札の肖像を思い浮かべることは出来ても、果たしてどのような人生を歩み、どんな亡くなり方をしたか、くわしく説明できる人は少ないのではないでしょうか?
私も大学で『聖徳太子伝歴』を読むまで知りませんでした。
聖徳太子は【622年2月】、妃の後を追うように亡くなったのです。
この記事では「聖徳太子の最期」と「実在を疑う説」について、あまり詳しくない方にむけてわかりやすく解説します。
この記事を読んで「聖徳太子の謎」について理解し、ぜひスッキリしてくださいね。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
- 聖徳太子の死因は明らかになってはいないが、妻と1日違いで亡くなっているところをみると、「伝染病」ではないか。亡くなったのは「621年2月」または「622年2月22日」という2つの説がある
- 「厩戸皇子」という人物はいたが、後世に「聖徳太子」として知られる多大な功績を残した政治家は、実在せず、後世の創作ではないか?という説がある。その功績の全てが聖徳太子のものではないかもしれないが、それでも「聖徳太子」という優秀な政治家は実在したと考えられる
- 聖徳太子のお墓は、「大阪府南河内郡太子町」の「叡福寺」にある。お墓は「磯長陵」と呼ばれている
聖徳太子の死因は何か?調査・考察してみた
聖徳太子が亡くなったのは、いつ?
聖徳太子の死亡時期は【621年2月説】と【622年2月22日説】、主に2つの説があるのです。
聖徳太子の最期を記した文献資料によると
「聖徳太子は【622年2月22日】に亡くなった」
と記されています。
「法隆寺金堂釈迦像」の光背銘(仏像の後ろに記された文)によれば、【621年12月】に聖徳太子の母親「穴穂部間人皇女」が亡くなっています。
聖徳太子の母親が亡くなった翌年【622年1月】、聖徳太子と妃「膳大郎女」が同時に病に倒れています。
病気の平癒を願って釈迦像の造像を願いますが、祈りも空しく【622年2月21日】に妃「膳大郎女」が亡くなります。
その翌日【622年2月22日】、聖徳太子も亡くなった・・・・と書かれています。
ところが『上宮聖徳法王』によれば、【621年12月21日】に聖徳太子の母「穴穂部間人皇女」が亡くなり、翌【621年2月22日】に息子の「聖徳太子」が亡くなった・・・・と書かれています。
その一方『聖徳太子伝歴』によれば【622年2月】、聖徳太子は斑鳩宮で妃「膳大郎女」に沐浴させ、自らも沐浴し、新しい清潔な衣に着替えました。
そして妻「膳大郎女」に
「私は今夜亡くなるから、そなたも共にこの世から旅立とう」
と告げて寝室に入ったのでした。翌朝、いつまでも起きてこない2人の様子を見に行った家臣が、亡くなっている2人を発見した・・・・と書かれています。
『聖徳太子伝歴』の記述を読むと、覚悟を決めた上での自決であったことが読み取れますね。
この『聖徳太子伝歴』という記録は、平安時代(794~1185年)に、「聖徳太子」が神格化し始めてから記された書物です。
筆者個人の見解ですが、「聖徳太子伝歴」という書籍は、「聖徳太子」とその妃「膳大郎女」が1日違いで亡くなったことをドラマチックに著述した可能性がかなり高いと思っています。
「仁和寺」に伝わる国宝『上宮聖徳法王帝説』という記録も、いつごろ誰によって書かれたかが不明な資料です。
『聖徳太子伝歴』とともに「上宮聖徳法王帝説」の記述を疑問視する学者もいます。彼らは『日本書紀』の記述こそが正しいと主張しています。
「日本書紀」には
聖徳太子は【621年2月】に亡くなり、その月に磯長陵に葬った
と記されているので、亡くなった日付も、この記述が正しいと主張しているのです。
しかし【621年2月】に亡くなった説では、「聖徳太子」は母「穴穂部間人皇女」より先に亡くなったことになってしまいます。
何か決定的な新資料でも発見されない限り、聖徳太子がいつ亡くなったのかという論争が決着することはないでしょう。
しかし筆者自身は「聖徳太子」が亡くなったのは、法隆寺金堂釈迦像の光背銘にあるとおり、【622年2月22日】だったのだろうと思っています。
聖徳太子の死因!「暗殺」または「伝染病」?
もしかしたら「聖徳太子」とその妻「膳大郎女」は斑鳩宮で何者かに襲われて負傷し、相次いで亡くなったのかもしれません。とはいえ資料が残っていない以上、そう断定することはできません。
前年【621年12月」に、聖徳太子の母「穴穂部間人皇女」が亡くなっていること。その翌月【622年1月】、聖徳太子夫妻がともに病に倒れ、妃「膳大郎女」と「聖徳太子」が1日違いで亡くなったことを考えると、3人は伝染病に感染し、相次いで亡くなったと考えるのが妥当ではないか・・・・と私は思います。
その伝染病の正体は「聖徳太子」の父「用明天皇」の命を奪った「天然痘」だったのかもしれませんね。
聖徳太子は「いなかった」説!実は「聖徳太子」はフィクション?
『日本書紀』に書かれている「聖徳太子」の功績・事績は「後世のフィクションではないか」という学者がいます。
「聖徳太子」の生前の功績を「聖徳太子1人の人間が行える功績ではない」・・・と考えているのです。
「聖徳太子をフィクション」と主張した人物・・・古いところでは「津田左右吉」氏が有名です。
津田左右吉は戦前、『日本書紀』にある聖徳太子の事績に疑問を持ち、その実在性を含めて批判的に考察しました。
早稲田大学教授だった「津田」氏は、その研究によって不敬罪に問われ、著書は発禁処分、大学も辞職させられます。
津田氏は戦後、学会に再び迎え入れられ、皇国史観を否定する「津田史観」は、戦後の日本史学会の主流となりました。
ただし、津田の文字資料を絶対のものとし、考古学や民俗学などの成果を無視する研究手法には批判もあります。
【1999年】、「大山誠一」氏が『聖徳太子の誕生』という書籍を出版して、下記のように主張しました。
- 飛鳥時代、斑鳩に「厩戸王」という有力な王族はいたが、「推古天皇」の皇太子ではなかった
- 『日本書紀』にある「聖徳太子」の事績は「藤原不比等(中臣鎌足の子)」らによる捏造である
- 「法隆寺の仏像の光背」「中宮寺の天寿国繍帳の銘文」は、後世の創作である
「大山誠一」氏の主張は、一時期学会でもてはやされました。ところがその主張は「津田左右吉」と同じ手法を用いて、さらに強引に発展させたものと考えられていました。つまり決して斬新なものとはいえない主張だったのです。
私は大学時代「美術史」を専攻し、「歴史学」というものは文字資料だけでなく「考古学・民俗学・美術」様々な資料を俯瞰し、広い視野で捉えるべき学問だと学びました。
私も『聖徳太子の誕生』を読みましたが、その中には
「美術史学者は『様式がどうのこうの』と、もっともらしいことを言っているが、文献がすべてだ」
という趣旨の発言があり、この「大山誠一」という人は美術史学者に個人的な恨みでも抱いているのだろうか・・・・と思った記憶があります。
この本の中に「厩戸皇子」の名前の由来を「生まれ干支にちなむものだろう」と書いている箇所があります。しかし他に干支を由来とする名前を持った「古代天皇家」の皇子・皇女はいません。
干支にちなんだのなら「厩(うまや)」ではなく、「午(うま)」という字が使われるのではないか・・・・と思いながら読んだことを思い出します。
他にも、資料を自分の説に都合の良いように解釈しているところが何か所もあり、読んでいて「随分と強引な論調だな」と感じたものです。
このように「資料を自分に都合の良いように解釈すること」を「恣意的に解釈する」と言います。
「大山誠一」氏の説は、この『恣意的な解釈』により、現在のところ学会での評価は芳しくないようです。
『日本書紀』にある「聖徳太子の事績」がすべて聖徳太子によるものではないとしても、私は斑鳩にいた「厩戸皇子」は、『天智・天武・持統』など後世の天皇の治世においても、その事績が慕われた、優れた政治家だったのだろうと思っています。
聖徳太子の墓は、どこにある?
聖徳太子のお墓は「大阪府南河内郡太子町」の「叡福寺」にあります。
「磯長陵」と呼ばれ、『日本書紀』にも記載されています。現在は「宮内庁の陵墓指定地」になっているため、当然ですが、中へ入ることはできません。
しかし明治時代の調査を元に製作された模型が、「大阪府立近つ飛鳥博物館」に展示されているので、興味のある方はぜひぜひご覧くださいませ。
現在、「古代の天皇」あるいは「皇族の陵墓」として比定(ひてい・他に適当なものがない意味)されているもので、確実なものは「聖徳太子の磯長陵」と、「天武・持統天皇の合葬陵」だけと言われています。
「陵墓指定地」は過去の資料を基に比定されたのですが、その天皇・皇族が生きていた時代と古墳の築造推定年が合っていないことが多々あるのです。
「天武・持統天皇合葬陵」は盗掘された時の記録が残っており、2人の埋葬の記録と盗掘の際の記録が合致していることから、間違いないと言われています。
「聖徳太子の磯長陵」は、母「穴穂部間人皇女」と妻「膳大郎女」の3人がともに玄室へと葬られております。明治時代以前、お坊さん達が中に入って玄室に棺が3つあるのを確認しているので、「聖徳太子の陵墓」で間違いがないと言われているのです。
玄室内部には奥に石棺が1つ、手前に石台に乗せられた夾漆棺が2つ安置されていました。奥の石棺が聖徳太子の母「穴穂部間人皇女」のもの。手前の夾漆棺が「聖徳太子」と妻「膳大郎女」のものです。
弘法大師「空海」が記したと言われる『弘法大師御記文』には【810年】に、弘法大師が河内で道場を開こうとして場所を探していた時に不思議な霊夢を見、その夢を見せていたのが「聖徳太子」だった、という話があります。
その時に書かれたものかどうかはわかりませんが、「空海」が「聖徳太子」の墓に入り、玄室内部を図面に記したものも『太子御廟図』として現在も伝わっています。
空海がその夢を見たのは、聖徳太子の死後約200年後のことでした。
聖徳太子は「弘法大師」こと「空海」の時代にはすでに神格化され、深く信仰されていたのでしょう。
余談ですが「聖徳太子」は後世の名将「楠木正成」によって利用されています。「楠木正成」は北条一族ひきいる「鎌倉幕府」を討伐する際「聖徳太子が鎌倉幕府滅亡と我らの勝利を予言している」と主張し、軍の士気を高めたといわれています。
「源義経」が兵法を学んだ「鬼一法眼」も、「聖徳太子」兵法の流れをくむと言われています。
「楠木正成」「源義経」のほかにも、「長篠の戦い」で戦死した「望月定朝」という人が、「聖徳太子流」という剣術・軍学を広めていたらしいです。
聖徳太子の影響力は、時代を超えて数々の偉人に受け継がれていったのです。
「聖徳太子の死後」について「ひとこと」いいたい
『日本書紀』が書かれた時に、「天智天皇」の功績をモデルに、かつて斑鳩宮にいた有力な王族「厩戸皇子」を「スーパー皇太子」に仕立てた・・・・・と考える学者もいます。
しかし「聖徳太子」が創建した寺「法隆寺」は、「天智天皇」の治世に火災で焼失。その後再建されています。
その再建は「天智天皇」から4代の天皇の治世に亘って続けられました。
当時は「大化の改新」直後で、人民と土地は天皇のものという「公地公民制」の時代で、法隆寺の再建には国費が使われていたはずなのです。
同じ古代天皇家の血筋とはいえ、「天智天皇」からの4代の天皇は、「聖徳太子」とは直接の血縁関係はありません。(聖徳太子の血を引く一族「上宮王家」は、聖徳太子の子「山城大兄王」を最期に、「蘇我入鹿」に滅ぼされています)
血縁関係のない滅亡した有力な王族を「スーパー皇太子」に仕立てたから、その「スーパー皇太子」の供養のためその人が創建したお寺を国費で再建して辻褄を合わせた・・・・というのはずいぶんとおかしな話だと思います。
『日本書紀』に書かれた「聖徳太子に関する事績」に、後世の創作や誇張があったとしても、そうまでして記録に残そうとした、偉大な政治家「厩戸皇子」はやはり実在したのでしょう。
その敬愛がやがて「聖徳太子信仰へ」と昇華していったのだと私は思います。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 聖徳太子の死因はおそらく「伝染病」ではないか。いつ亡くなったのかについては「621年2月」または「622年2月22日」という2つの説がある
- 後世に「聖徳太子」として知られる多大な功績を残した政治家は実在しておらず、「厩戸皇子」をモデルにして功績を脚色された後世の創作ではないか・・・という説がある。功績をいくつか付け加えられているかもしれないが「聖徳太子」という優秀な政治家は実在したはず
- 聖徳太子のお墓は、「大阪府南河内郡太子町」の「叡福寺」にあり、「磯長陵」と呼ばれている
この記事を短くまとめると、以下の通り
聖徳太子は、【622年2月22日】に亡くなりました。
その前日に妃「膳大郎女」が亡くなり、前年の【621年12月】に聖徳太子の母「穴穂部間人皇女」も亡くなっています。
短期間に相次いで一族の人間が3人亡くなっていることから、おそらく「伝染病」で次々と亡くなったのでしょう。
聖徳太子の墓は大阪の「叡福寺」にあり、母「穴穂部間人皇女」と妃「膳大郎女」と共に葬られ、永遠の眠りについています。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
コメント