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聖徳太子が仏教を広めた理由をわかりやすく解説!なぜ仏教だったのか

『m』

《法隆寺》
「引用元ウィキペディアより」

「聖徳太子」は「仏教」を日本に広めた人ですが、なぜ仏教を広めたのか・・・その理由を説明できる人は意外に少ないかもしれません。

私も大学で歴史を学ぶまで、「仏教を布教させた理由」について、よく知りませんでした。

聖徳太子は「中央集権国家を作り、国家を安寧に統治するため、仏教の力を利用した」のです。

この記事では「聖徳太子と仏教の関係」について、あまり詳しくない方のために、わかりやすく解説します。

これを読んで「そうだったのか!聖徳太子と仏教!」とスッキリ理解してくださいね。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 聖徳太子は「仏教を広めることで、官僚や国民に道徳を学ばせて中央集権化を進め、国を平和に治めるため」だった。
  2. 聖徳太子ゆかりのお寺が「聖徳太子建立七寺」として今も各地に残っている。大阪の「四天王寺」や奈良の「法隆寺」が有名
  3. 聖徳太子は、「イエス・キリスト」と似たような誕生の仕方をしている。キリストの誕生秘話を知る渡来人が、その逸話を盛り込んだのかもしれない

聖徳太子が仏教を広めた理由は、何だったの?

結論から言ってしまうと、「聖徳太子」が仏教を日本に広めた理由は

「日本を中央集権国家として、国家を平和で安寧に統治するため」

(中央集権国家とは、中央政府に権限や力を集中し、地方の各地を支配し命令できる国家のこと)

です。



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仏教が日本へ伝わった直後の「蘇我氏」と「物部氏」の戦い

日本に仏教がもたらされた頃「排仏派(仏教に反対する一派)」の「物部守屋」と、「崇仏派(仏教を支持する一派)」の「蘇我馬子」は、何度も争いを起こしていました。

この2人の争いは、聖徳太子の父「用明天皇」が即位2年後に「天然痘」で崩御(亡くなった)したことで、戦争に発展してしまいます。

自分の病気平癒を願った「用明天皇」は、お寺の建立を願いました。しかし果たせず崩御なさいます。のちに父「用明天皇」の冥福を祈るために、息子「聖徳太子」が建てたのが法隆寺です。

用明天皇の後に「天皇」となる後継者を誰にするかの争いの中で、「聖徳太子」の叔父「穴穂部皇子」が蘇我氏によって暗殺されます。これをきっかけに「蘇我氏」と「物部氏」という2つの豪族は、遂に開戦したのです。

蘇我氏側に付いた「聖徳太子」は出陣。戦場で四天王に戦勝祈願し、蘇我氏側は勝利します。「物部氏」は滅ぼされました。

この時の戦勝祈願のお礼として建てられたのが、現在の大阪にある「四天王寺」です。

聖徳太子の大叔父にあたる「蘇我馬子」も、父「用明天皇」も仏教に熱心な人でした。

そのように仏教に熱心な人に囲まれた環境で育ったのが「聖徳太子」なのです。

「蘇我馬子」の元にいた渡来人からも仏教に触れる機会はあったでしょうし、「聖徳太子」は自然と仏教を深く信仰するようになったのでしょう。

叔母「推古天皇」の摂政となった聖徳太子は

「篤く三宝を敬へ。三宝とは、仏、法、僧なり」

と、仏教を信仰するように「十七条の憲法」の中でも説きました。

「中央集権国家」を構築するためには、「行政権と財源」を政権中枢に集中する必要があります。

そして「行政権と財源」を政権中枢に集中するためには、官僚たちに「共通した道徳・認識を持たせる必要があった」はずです。

その共通道徳・認識に、大臣「蘇我馬子」が篤く信仰し、自身も深く信仰する【仏教】を、聖徳太子は選んだのだと私は思います。



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仏教の「道徳」により「犯罪」を抑止し、「随」に認めさせようとした

道徳・・・つまり人として守るべき最低限度のルールのことです。

当時は犯罪を犯しても、現代日本ほど犯人を捕まえことができなかったはずです。

犯罪を抑止するためには、警察組織を充実させたり刑罰を厳しくするよりも「良いことをしたら天国行き。悪いことをしたら地獄行き」という仏教の基本的な教えを国中に広めたほうが効果的だったはずです。

もう一つの理由としては、「八百万の神」を信じる日本古来の信仰が素朴なものだったから・・・・ということもあると思います。

八百万の神を信じる古代日本の神道は、ネイティブアメリカンやオーストラリアのアボリジニの信仰のように、「すべてのものには霊が宿る」と考えるアニミズムの一種で、素朴な信仰だったでしょう。

隣の大国「隋」と対等な関係を築くために、素朴な信仰である神道よりも、「隋」で信仰されている最新の宗教「仏教」を受容し、官僚たちにも信仰させることは、文明が進んでいることの証になったはずです。

隋の使節に対して、「自分たちはこのように学問的に仏教の経典を読み、理解することのできる文明人である」と示すためにも、聖徳太子は仏教を広めたのだと私は思います。

もしも「隋」で信仰されていたのが、仏教ではなく別の宗教だったら、日本はその宗教を受け入れていたかもしれませんね。

仏教を広めることは、「冠位十二階」や「十七条憲法」と同様、古代世界の日本を近代化する政策の一環だったのではないでしょうか。



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今も残る「聖徳太子」の仏教文化!聖徳太子ゆかりのお寺とは?

聖徳太子建立七寺

【747年】の『法隆寺縁起』には、「聖徳太子建立七寺」として伝わっている寺があります。

  1. 四天王寺
  2. 法隆寺
  3. 中宮寺
  4. 法起寺
  5. 橘寺
  6. 広隆寺
  7. 葛木寺

の7つです。

このうち、聖徳太子が確実に建立に関わっているのは、「四天王寺」と「法隆寺」の2寺です。

四天王寺

日本における初の本格的の仏教寺院です。

『日本書紀』によれば、「推古天皇」即位後、【593年】に「物部守屋」の所有していた土地(一説には守屋の邸宅跡ともいわれています)で建立が始められました。

蘇我氏と物部氏の戦争の際、「聖徳太子」が四天王に戦勝を祈願し、戦争に勝利したお礼として建立されたのが「四天王寺」。寺内には「守屋祠」が設けられているので、物部氏の供養も兼ねていたのかもしれません。

残念ながら度重なる火災で飛鳥時代の建物は残っておらず、現在の建物は太平洋戦争の空襲で焼失後、飛鳥時代の建築様式で再建された鉄筋コンクリート作りです。



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法隆寺

即位後2年で天然痘に罹った「用明天皇」は、病気平癒を願い、お寺の建立を願いますが、果たせず崩御します。

その後、「推古天皇」の治世で摂政となった「聖徳太子」は【605年】に斑鳩宮に移り住み、父「用明天皇」の菩提を弔うために、斑鳩宮に隣接して「斑鳩寺」・・・つまり元の「法隆寺」を建立したのです。

その後【670年】に火災で焼失し、再建が始められた「法隆寺」は、『法隆寺資材帳』(法隆寺の財産目録)によれば、【693年】に仁王会が開かれ、【711年】に中門の金剛力士像が完成した記録があります。つまりこの頃に再建が完成しました。

西院伽藍の東南にある「若草伽藍」が焼失した「元の法隆寺」で、現在の「法隆寺」は斑鳩宮跡に再建されたものですが、世界最古の木造建築です。



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中宮寺

「中宮寺」創建の詳しい事情は不明ですが、『聖徳太子伝歴』によれば、聖徳太子の母「穴穂部間人皇女」が発願し、自分の住まいをお寺としたのが「中宮寺」創建の由来です。

この「中宮寺」は16世紀に現在地に移転・建築されたもので、旧中宮寺のあった場所の発掘調査から、元の「中宮寺」は「法隆寺」と同じころの創建だったと考えられています。

鎌倉時代の中宮寺の中興の祖「信如」が、法隆寺の蔵から発見した「天寿国繍帳」は、聖徳太子の死後に追善供養のため、妃「橘大郎女」が作ったものです。現代まで伝わる飛鳥時代の貴重な染色遺品とされています。



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法起寺

1242年】に書かれた『聖徳太子伝私記』の中に、【706年】ごろ完成した国宝「三重塔」の路盤銘の写しが引用されています。

それによると、「聖徳太子」が臨終の際、息子「山背大兄皇子」に対して

「我が宮を寺とするように」

と遺言したのに従い、「法起寺」が創建されたと伝えられています。

ただ、その「路盤」の現物は現存せず、文意も通らないところがあるため、後世の偽作だという学説も提唱されました。

しかし【1931年】に「会津八一」によって、『聖徳太子伝私記』に誤写を指摘。路盤銘の復元がなされてから、信頼に足る資料と考えられるようになっています。



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橘寺

付近に「聖徳太子が生まれた場所」と伝わるところがあり、聖徳太子が父「用明天皇」の住まいを寺にした・・・という伝承があります。

『日本書紀』に【680年4月】に火災があったという記録があるので、その頃にはお寺として完成していたようです。だた、創建のはっきりした由来はわかっていません。



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広隆寺

「広隆寺」は京都・太秦にある渡来人「秦氏」の創建した氏寺です。

『日本書紀』に、聖徳太子が諸臣に

「わたしは尊い仏像を持っているが、誰か祀るか」

と聞いた時、「秦河勝」という人物が名乗りを上げ、その仏像を譲り受けて「蜂岡寺」というお寺を建立したとあります。

一方『広隆寺資材交替実録帳』によると、【622年】に聖徳太子が亡くなったので、その菩提を弔うために建てたのが「広隆寺」である・・・・という縁起が書かれています。

「蜂岡寺」と「広隆寺」が同じ寺のことなのか・・・別々に創建されたものが聖徳太子の死後に合併されたのか・・・詳しいことはわかっていません。

この広隆寺には不思議な秘儀があります。

代々の天皇が即位式で着用した装束を「広隆寺」に寄進し、在世中【33歳】の聖徳太子木像に着せている・・・という不思議な秘儀があるのです。

この秘儀をもって「聖徳太子は実は天皇に即位していたのではないか」と考える人もいます。

渡来人豪族の建てた氏寺でありながら、その秘儀が伝わるところに、何か「秘密といわく」がありそうなお寺だと思います。



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葛木寺

聖徳太子が存命中に建立した寺と言われていますが、現存していません。

現在は「橿原市和田町」にある「和田廃寺」がその跡地として有力になっており、発掘調査によって「7世紀後半から8世紀後半まで存続した」と考えられています。

これら七寺以外に近畿圏にある「聖徳太子創建」と伝わるお寺は、聖徳太子信仰が高まる中で、根拠もなしに「創建を聖徳太子に結び付けたお寺」と考えたほうが正しいでしょう。



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仏教を広めた聖徳太子。しかし「キリスト」のような産まれ方をしていた

《地蔵菩薩》
「引用元Pixabayより」

「聖徳太子」は仏教を広めた人物です。ところが「聖徳太子」誕生にまつわる話は「イエス・キリストの生誕と似ている」と言われています。

『聖徳太子伝歴』によれば、臨月を迎えていた聖徳太子の母「穴穂部間人皇女」が、正月1日に宮の中を散策していて馬屋の戸に触れた時、「厩戸皇子(聖徳太子)」が生まれたので、それにちなんで「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と名付けられたそうです。

また別の説では、母「穴穂部間人皇女」がその母親「蘇我小姉君」の家(蘇我馬子の邸宅)で出産したので、「馬子屋敷」にちなんで「厩戸皇子」と命名された・・・・とも言われています。

いずれにせよ、出生地が命名の由来となったと考えられています。馬屋の戸に触れて生まれた・・・・という話。馬小屋で生まれた「イエス・キリスト」の生誕伝説に似ていますよね。

新約聖書のルカによる福音書によれば、「ヨセフ」が住民登録のために「ベツレヘム」に帰郷した時、妊娠していた婚約者「マリア」を伴っていました。

宿を取ろうとした「ヨセフ」と「マリア」でしたが、あいにく満室で部屋がとれず、やむを得ず馬やロバを休ませる「小屋」で寝ることになってしまいます。

臨月だったマリアは、そこで「イエス」を出産。飼い葉桶に生まれたばかりのイエスを寝かせたのでした。

中国には「唐」の時代、【635年】に「キリスト教ネストリウス派」の教えが伝わり、「景教」と呼ばれました。唐の都「長安」には、「大秦寺」というキリスト教の教会も建てられていたのです。

その景教が、日本へ「秦氏」によって伝えられていた・・・・と考える学者もいます。

秦氏と言えば、「聖徳太子建立七寺」の1つ、太秦(うずまさ)の「広隆寺」を建立した渡来人でしたよね。

『聖徳太子伝歴』は平安時代に書かれた書物ですが、日本に「景教(キリスト教)」を伝えたのが秦氏だとしたら、「イエス・キリストの生誕伝説」が秦氏によって聖徳太子の誕生譚に反映されたとしても、おかしくはないでしょう。

偉大な政治家だった「聖徳太子」の貴人としての伝承を強化するために、仏教ではない別の宗教の重要人物の出生譚を拝借して彩ったということは、十分ありえることだと私は思います。



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『聖徳太子と仏教』について「ひとこと」いいたい

仏教に熱心な「蘇我氏」の血を引いて生まれ、父「用明天皇」も仏教に熱心だった「聖徳太子」は、仏教に囲まれて育ったと言えるでしょう。

聖徳太子はそういった環境の中で「蘇我馬子」の元に来ていた渡来人からも仏教を学び、深く帰依していったに違いありません。

「推古天皇」の治世で摂政となった「聖徳太子」は、隋と渡り合うために、日本を文明開化された国と見せる必要があったはずです。

それまでの素朴な「八百万の神を信じる信仰」の「神道」はそのままにしつつも、体系的な学問でもある「仏教」を豪族や官僚にも広め、隋の国使に「倭国(日本)は開かれた国だ」ということを印象付けるため、仏教を広めていったのだと私は思います。

それと同時に、「仏教の教え」によって、国家の安寧を願う・・・という気持ちもあったでしょう。

聖徳太子が広めた仏教は、現代日本の私たちの生活に、深く溶け込んでいます。そのことを考えれば、聖徳太子の影響力の大きさに改めて驚かされます。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 聖徳太子は仏教を広めて「国民に道徳を学ばせ、国を平和に治める」つもりだった。
  2. 聖徳太子ゆかりのお寺、「四天王寺」や「法隆寺」など、「聖徳太子建立七寺」として今も各地に残っている。
  3. 聖徳太子は、「イエス・キリスト」と似たような生まれ方をしている。キリスト誕生の逸話を知る渡来人が、その逸話を「聖徳太子誕生の逸話」に盛り込んだのかもしれない


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この記事を短くまとめると、以下の通り

「聖徳太子」は、中央集権国家を築き上げ、国家を安寧に統治するため、仏教を広めました。

国家を統治する「共通認識・道徳」として、仏教を官僚や豪族に広めたのです。

仏教は聖徳太子自身が子供のころから慣れ親しんでいた宗教であり、大臣「蘇我馬子」が深く帰依している宗教でもあります。仏教を強く推すことは権力者「蘇我馬子」の機嫌を取ることにもつながったでしょう。

仏教の経典を読み、理解する官僚や豪族がいるということを、大国「隋」の国使に見せることは、日本を文明国家に見せることにも役立ったはずです。

聖徳太子の死後も、古代天皇家によって仏教は篤く信仰され、現代に生きる私たちの生活にも、仏教は深く溶け込んでいます。

《法隆寺》
「引用元ウィキペディアより」

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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