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早川殿(今川氏真の妻)の死因と最後!後北条氏の賢夫人の運命と子孫

引用元Wikipediaより(夫・今川氏真と対になっている)

皆さんは早川殿はやかわどの(今川氏真の妻)を、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

 

  1. 早川殿の死因は、病死または老衰
  2. 1613年4月5日(旧暦・慶長18年2月15日)に亡くなった
  3. 早川殿は、今川氏真を守り通し、吉良上野介・上杉鷹山などの子孫を残した

 

この記事では早川殿を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

 

今は早川殿について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、早川殿に詳しくなれます。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

早川殿はやかわどのの死因とは?

【結論】早川殿の死因は病死または老衰。1612年に江戸へ引っ越した翌年に亡くなっている

死因についての説

【結論】早川殿の死因は、病死または老衰であると考えられます。

 

実は、早川殿の死因は、はっきりした記録が残っていません。

 

しかし彼女の享年が、おそらく70代と考えられるため、病死または老衰で間違いないと思います。くわしい病名は不明。

 

何がしらの戦争や天災・事故などで亡くなったという記録はありません。

 

2023年の大河ドラマ【どうする家康】では、女優・志田未来しだみらいさんが早川殿を演じていました。ドラマ内での早川殿は、【糸】という名前に設定されています。

 

【どうする家康】で志田未来さんが演じた【糸】は、足が不自由という設定になっていました。しかし史実において、早川殿の足が不自由だったという事実はありません。

 

→→→→→【早川殿の足が不自由という設定になった理由を考察】についてくわしくはこちら

亡くなるまでの経緯

1613年4月5日(旧暦・慶長18年2月15日)に、早川殿は亡くなりました。

 

生まれた日が不明であるため、早川殿の享年は不明です。

 

1554年、早川殿は戦国大名・今川義元の息子である今川氏真いまがわうじざねに嫁いでいます。

今川氏真
引用元ウィキペディアより

1560年、桶狭間おけはざまの戦いで、今川義元が織田信長に討たれると、今川家は弱体化。

 

1568年、武田信玄と徳川家康が、協力して今川氏真と早川殿が支配していた駿河(静岡県中部)と遠江(静岡県西部)へ攻撃を開始。

 

1569年、今川氏真が徳川家康に降伏することで、今川家は事実上滅亡。

 

その後、早川殿と今川氏真は、早川殿の実家である北条家へ身を寄せることになります。(このとき彼女は、小田原城ちかくの早川郷に住んだため、のちに早川殿と呼ばれるようになったという)

 

1573年の頃、今川氏真と早川殿は、今度は徳川家康によって引き取られることになり、遠江・浜松城のちかくに引越したと考えられます。

 

1582年、本能寺ほんのうじの変で、織田信長が明智光秀に討たれます。このころの早川殿と氏真は、浜松ではなく駿府で生活していたと思われます。

 

1590年、早川殿の実家である後北条氏ごほうじょうしが、豊臣秀吉の小田原征伐おだわらせいばつによって滅亡。これをきっかけに、早川殿は今川氏真とともに京都へ引越しています。

 

1600年、関ヶ原の戦いが勃発し、勝利した徳川家康の天下がほぼ確定します。

 

1612年、後北条氏の支配地域だった関東を支配していた徳川家康の本拠地・江戸へ移動。品川の屋敷に住んでいます。

 

一説によると、今川氏真が徳川家康をたびたび訪ね、長々と話をするから、家康が氏真を遠ざけるために、江戸・品川にお屋敷を与えたという説があります。

 

1613年、早川殿は江戸で亡くなります。


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早川殿の最期

1613年4月5日(旧暦・慶長18年2月15日)に、早川殿は亡くなりました。

 

このとき、夫の今川氏真と早川殿は、江戸・品川の屋敷で暮らしていました。

 

二人のあいだには、4男1女がいました。(長男・範以のりもちは若くして亡くなっている)

 

また、この頃の日本は、1600年の関ヶ原の戦い以降、大きな戦いもない平穏な時代でした。

 

早川殿は、夫の氏真や子供達に見守られ、静かに亡くなったと考えられます。

 

→→→→→【今川氏真の最期】についてくわしくはこちら

 


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早川殿とは、どんな人?

【結論】早川殿は、後北条氏ごほうじょうしの三代目・北条氏康ほうじょううじやすの娘。今川氏真に嫁ぎ、夫を守り通した賢夫人という声もある

人物像と経歴

早川殿は、関東を支配した後北条氏の三代目・北条氏康うじやすの娘として誕生しました。(四代目・北条氏政の姉なのか妹なのか、どちらなのかは不明)

 

1554年、早川殿は今川氏真と結婚しています。

《早川殿の父・北条氏康》
「引用元ウィキペディアより」

 

早川殿が氏真と結婚した理由は、甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめいと呼ばれる同盟関係を強化するために、政略結婚でした。

 

甲相駿三国同盟については、あとでくわしく解説いたします。


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早川殿の戦国時代での活躍とは

早川殿は今川氏真の妻として、その影響力を駆使して、夫を守り通しています。

 

今川家は、1568年に始まった武田・徳川の攻撃により、翌年1569年に戦国大名としては事実上滅亡しています。

 

このとき、娘を守ろうとした北条氏康が、今川氏真と早川殿を保護しています。

 

その後、北条氏康が亡くなるまで、早川殿は夫を守り通しているのです。

 

一説によると、1571年に父・北条氏康が亡くなると、後継者である早川殿の兄弟・北条氏政うじまさが、今川氏真を暗殺しようとしたといいます。

 

このことを前もって知った早川殿は激怒。氏真を救うために船で小田原から逃げたのだとか。(ただしこのエピソードは、史実の状況とは合致しないともいわれている)

 

実は、のちにくわしく解説する甲相駿三国同盟で結婚した人たちは、全員が悲惨な目に遭っています。

 

ところが早川殿だけは、夫・今川氏真を守り通し、70代まで長く生き残っているのです。

 


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早川殿と後北条氏について解説

【結論】早川殿は、関東を100年にわたって支配した後北条氏ごほうじょうしの姫として誕生し、甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめいを強化するための政略結婚で、今川氏真と結婚した

後北条氏の一員としての早川殿の役割とは?

早川殿は、甲相駿三国同盟とよばれる同盟を強化する政略結婚のために、今川氏真と結婚したのでした。

 

甲相駿三国同盟とは

 

  • 駿河(静岡県中部)の今川義元
  • 相模(神奈川県)の北条氏康
  • 甲斐(山梨県)の武田信玄

 

この三者が結んだ同盟のことです。

 

このとき、三者はそれぞれの同盟を強化するために、自分の娘をお隣りの息子さんに嫁がせているのです。

 

つまり

  • 黄梅院おうばいいん(武田信玄の娘)と北条氏政(北条氏康の息子)
  • 嶺松院れいしょういん(今川義元の娘)と武田義信(武田信玄の息子)
  • 早川殿(北条氏康の娘)と今川氏真(今川義元の息子)

 

    この三組の婚姻が成立したというわけです。

     

    早川殿は、北条家と今川家そして武田家による三国同盟を保証するという役割を期待されたと考えられます。

     

    ところが、桶狭間の戦いで今川義元が亡くなって今川家が弱体化したため、三国同盟は崩壊します。

     

    早川殿は、三国同盟強化という、当初の役割は果たせなかったともいえるのかもしれません。

     

    しかし、彼女は実家である北条家とのパイプを駆使して、最後まで夫の今川氏真を守り通しているのです。

     

    実は甲相駿三国同盟で結婚した者たちは、氏真と早川殿を除いて、全員が悲惨な結末をむかえています。

     

    • 【武田義信よしのぶ】は、父・武田信玄によって切腹。
    • 嶺松院れいしょういん】は、夫・武田義信の死後に実家の今川家へ返されたあと消息不明。しかも今川家は直後に武田信玄の攻撃で滅亡。
    • 【北条氏政うじまさ】は、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐で攻め滅ぼされ切腹。
    • 黄梅院おうばいいん】は、夫・北条氏政に愛されたが27歳という若さで病死。父・武田信玄より先に亡くなった。

     

    そのなかで、夫・氏真を守り通して天寿を全うした早川殿は、やはり賢夫人なのかもしれません。

     

    余談かもしれませんが、2022年の大河ドラマ【鎌倉殿の13人】の主人公である北条義時ほうじょうよしときと、早川殿の実家・後北条氏の関係についてくわしくは、以下のリンク記事で解説しております。

     

    →→→→→【早川殿と北条義時の関係】についてくわしくはこちら


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    彼女が残した政治的影響力とは?

    早川殿は、滅亡寸前の今川家を守り通すことに成功しています。

     

    今川家が、武田信玄と徳川家康によって滅亡に追い込まれる際、北条氏康は娘の早川殿を救出する名目で、援軍を送り、武田信玄の軍団と戦っているのです。

     

    つまり、早川殿という北条家とのパイプのおかげで、今川氏真は北条家に保護され、命を救われたわけです。

     

    早川殿は、その後も夫・氏真を守り通したため、その政治的な影響力は、相当大きなものであったといえます。

     

    なんといっても今川家の完全な滅亡と血脈の断絶を阻止することに成功しているのですから、賢夫人といって間違いないでしょう。

     

    彼女が今川家の血筋を守り通したおかげで、のちの世で活躍する吉良上野介と上杉鷹山が誕生しているのです。


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    早川殿の子孫は【有名な悪役】と【名君】

    【結論】早川殿の子孫には、忠臣蔵で有名な吉良上野介きらこうずけのすけと、名君・上杉鷹山うえすぎようざんがいる

    吉良上野介義央きらこうずけのすけよしなお

    早川殿の孫の孫にあたるのが、忠臣蔵で有名な悪役・吉良上野介です。

    吉良上野介と浅野内匠頭の松の廊下刃傷の場面
    引用元Wikipediaより

    今川氏真と早川殿の長女が、徳川家康の従兄弟いとこにあたる吉良義定という人物に嫁いでいるのです。

     

    その吉良義定の曾孫ひまごが吉良上野介というわけです。

     

    忠臣蔵では、浅野内匠頭あさのたくみのかみをいじめる悪役として描かれる吉良上野介ですが、実際には領民想いの優しい名君だったともいわれています。

     

    そんな吉良上野介の子孫は、令和の現在でも続いています。


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    上杉鷹山うえすぎようざん上杉治憲うえすぎはるのり

    早川殿の子孫である吉良上野介ですが、その吉良上野介の孫の孫にあたるのが、上杉鷹山です。

     

    上杉鷹山
    引用元Wikipediaより

     

    上杉鷹山といえば、上杉謙信うえすぎけんしん以来の名門である上杉家の領地・米沢藩を、破産寸前の状態から見事に再建させた名君です。

     

    キューバ危機という核戦争寸前の危機を解決したアメリカのケネディ大統領が、もっとも尊敬した政治家として有名です。

     

    上杉鷹山もまた、女系ではあるものの、早川殿と今川氏真の子孫にあたるのです。

     

    そのほかにも、今川氏真の子孫は、明治維新まで続いています。

     

    →→→→→【今川氏真の子孫】についてくわしくはこちら


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    まとめ

    本日の記事をまとめますと

    1. 早川殿の死因は、病死または老衰
    2. 1613年4月5日(旧暦・慶長18年2月15日)に亡くなった
    3. 早川殿は、今川氏真を守り通し、吉良上野介・上杉鷹山などの子孫を残した

    以上となります。

    本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

    よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

    ありがとうございました。


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