「明智光秀 洞ヶ峠 筒井順慶」——この3つの言葉を並べると、多くの歴史ファンは「日和見の代名詞」を思い浮かべるのではないでしょうか。
「洞ヶ峠を決め込む」ということわざは、現代でもビジネスや政治の場面で「有利な方につこうと形勢をうかがう」という意味で使われています。
その語源となったのが、天正10年(1582年)6月13日の山崎の戦い直前、大和の戦国大名・筒井順慶が明智光秀と羽柴秀吉のどちらに味方するか、洞ヶ峠で日和見をしたという逸話です。
しかし、実はこの通説は史実ではない可能性が高いと、近年の歴史研究では指摘されています。
順慶は本当に洞ヶ峠へ行ったのか、なぜ光秀を見捨てたのか、そして「洞ヶ峠を決め込む」ということわざはどうして生まれたのか。
この記事では、明智光秀と筒井順慶と洞ヶ峠をめぐる3つの真相を、史料と最新研究に基づいて歴史編集者が徹底解説します。
2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』第29回「天下への道」の予習にもお役立てください。
- ことわざ「洞ヶ峠を決め込む」の意味と正しい語源が分かる
- 筒井順慶は本当に洞ヶ峠へ行ったのか、史実の真相を解説
- 明智光秀が山崎の戦いで孤立した本当の理由が理解できる
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順慶の判断が山崎の戦いにどう影響したのか、戦いの全体像を先に押さえたい方はこちら。
明智光秀・筒井順慶・洞ヶ峠とは何か【基礎知識】
「洞ヶ峠を決め込む」ということわざは知っていても、筒井順慶がどんな武将で、洞ヶ峠がどこにある峠なのか、正確に把握している方は意外と少ないのではないでしょうか。まずは3つの基礎知識を整理しておきます。
筒井順慶とはどんな武将か
筒井順慶(つつい じゅんけい)は、天文18年(1549年)に大和国(現在の奈良県)に生まれた戦国大名です。父・筒井順昭を2歳で亡くし、幼少期から一族の重圧を背負って育ちました。同じ大和を狙う松永久秀との激しい抗争を長年繰り広げ、20代半ばで大和一国をほぼ制圧するに至ります。

織田信長の家臣となってからは、明智光秀の与力(よりき)として活動しました。与力とは、大名クラスの武将に付属して軍事行動を共にする立場のこと。光秀は順慶にとって、いわば直属の上司にあたる存在でした。光秀は順慶の大和支配を後押しし、順慶もまた光秀の丹波攻略を支援するなど、両者の関係は単なる同僚以上の深い絆で結ばれていたと伝えられています。
また、順慶は信長からも高く評価されており、天正8年(1580年)には大和郡山城主として大和一国の統治を任されました。光秀・順慶の連携は織田政権にとって畿内支配の要であり、両者の絆は本能寺の変直前まで揺るぎないものだったと言われています。
洞ヶ峠の場所と地理的重要性
洞ヶ峠(ほらがとうげ)は、現在の京都府八幡市と大阪府枚方市の境界に位置する標高約70mの小さな峠です。京都と大阪を結ぶ京街道(東高野街道)沿いにあり、山城・河内・摂津の3国を見下ろせる交通の要衝として、古くから軍事的に重要視されてきました。
特に山崎の戦いの舞台となった大山崎からは南東に約10km、明智光秀の居城・坂本城からは南西に約30km、そして筒井順慶の居城・大和郡山城からは北に約25kmという、まさに3勢力の中間地点に位置していました。この地理的な絶妙さが、後の「洞ヶ峠伝説」を生む土壌となったと考えられています。
現在、洞ヶ峠には「洞ヶ峠茶屋」という食事処が残っており、日和見の代名詞として歴史ファンに知られる観光地となっています。ただし、後述するように順慶が実際にここで日和見をしたという記録は、同時代の一次史料には見当たりません。
明智光秀と筒井順慶の主従関係
光秀と順慶の関係は、単なる寄親・与力という制度的な結びつきを超えた、個人的な信頼関係でも結ばれていました。両者は書状のやり取りを頻繁に行い、光秀は順慶の息子・定次を養子として引き取ることまで検討していたと伝えられています。
光秀にとって順慶は、細川藤孝と並ぶ最も信頼できる盟友でした。だからこそ、本能寺の変の直後、光秀は真っ先に順慶と藤孝に援軍を要請したのです。しかし、その信頼が裏切られたとき、光秀の孤立は決定的になりました。

筆者は先日、京都市内にある明智光秀の首塚を夜に訪れました。昭和を思わせる細く薄暗い路地、人が2人並んで歩けばそれだけで塞がれてしまうほどの狭い道の途中に、突如として「明智光秀公」の提灯が輝く祠が現れます。近づくと自動でセンサーライトが点灯し、防犯カメラの存在にも気づいて、少し驚きました。光秀の孤独と、それでも400年経った今もこの場所を守る人々の存在——順慶の判断が光秀にどんな影響を与えたのか、この場所で改めて考えさせられました。
ことわざ「洞ヶ峠を決め込む」の意味と明智光秀・筒井順慶の逸話
それでは本題に入りましょう。「洞ヶ峠を決め込む」ということわざは、いつ、どのように生まれ、現代までどう伝わってきたのか。明智光秀・洞ヶ峠・筒井順慶の3つを繋ぐ物語の核心を、まずは通説として整理します。
「洞ヶ峠を決め込む」の意味と現代での使い方
「洞ヶ峠を決め込む」の意味は、「有利な方に付こうとして、形勢をうかがう。日和見的な態度をとる」というものです。国語辞典『ことわざを知る辞典』では「自分に確たる信念がなく、形勢を見て分のいいほうに付き従う。日和見的な態度をとる」と定義されています。
現代でも「彼は選挙で洞ヶ峠を決め込んでいる」「A社は洞ヶ峠の姿勢を崩さない」といった形で、政治・ビジネスの場面で使われることがあります。派生語として「順慶流(じゅんけいりゅう)」という言葉も存在し、こちらも同じく日和見主義を意味します。大和郡山市の公式サイトでも、この2つの言葉が順慶に由来することが明記されています。
ただし、このことわざには重要な注意点があります。それは、語源となった順慶の逸話が、実は後世に作られた創作である可能性が極めて高いということです。この点は後の章で詳しく検証しますが、まずは通説がどのような物語だったのかを見ていきましょう。
通説——順慶は洞ヶ峠で日和見をした
江戸時代以降に広まった通説では、次のような物語が伝えられてきました。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、翌6月3日から諸大名に援軍要請の書状を送ります。かつての盟友・細川藤孝と、与力だった筒井順慶にも当然のように使者が飛びました。しかし、藤孝は剃髪して不参戦を表明。順慶もまた、光秀と秀吉のどちらに味方するかを決めかねます。

そして山崎の戦い当日の6月13日、順慶は大和郡山城から兵を率いて洞ヶ峠まで進軍し、光秀軍と秀吉軍の戦況を眺めながら、どちらが優勢になるかを見極めようとした——これが通説の骨子です。結果として順慶は光秀を見捨て、秀吉方に付いたことで、光秀は決定的な兵力不足に陥り敗北したとされます。
この逸話は、江戸時代の軍記物『川角太閤記』や『太閤記』などで面白おかしく脚色され、庶民の間に広まっていきました。「一族を守るためとはいえ、恩義ある光秀を見捨てた卑怯者」というイメージが順慶に定着し、「洞ヶ峠を決め込む」ということわざへと結晶化していったのです。
なぜこの逸話が広まったのか
なぜ順慶の日和見逸話は、これほどまでに広く流布したのでしょうか。理由は3つ考えられます。
第一に、江戸時代の軍記物における物語性の追求です。『川角太閤記』や『太閤記』は、秀吉の天下取りを英雄譚として描くために、敵味方の心理描写を大げさに脚色しました。「光秀を見捨てた順慶」という構図は、秀吉の勝利を際立たせるドラマチックな装置として機能したのです。
第二に、洞ヶ峠という地名の絶妙さです。実際に光秀軍は山崎の戦い前後に洞ヶ峠付近に布陣していた可能性が高く、後世の人々が「光秀の陣所=順慶が来るはずだった場所」と混同した結果、順慶が洞ヶ峠にいたという誤解が定着したと考えられています。
第三に、順慶の早世による弁明の機会喪失です。順慶は山崎の戦いから2年後の天正12年(1584年)8月11日、36歳の若さで肺結核により病死しました。自らの行動を後世に対して弁明する機会を得られないまま亡くなったため、江戸期以降の脚色に反論する者もなく、日和見の汚名だけが独り歩きしていったのです。江戸時代の随筆『閑窓瑣談』にも「面白おかしくでっち上げた話が今に伝わり、ご先祖の汚名となったに違いない」との記述が残されています。
明智光秀はなぜ筒井順慶に援軍を求めたのか
ここまで通説を整理してきましたが、そもそも明智光秀と筒井順慶と洞ヶ峠を巡る物語の起点は、本能寺の変直後の光秀の必死の援軍要請にあります。光秀は絶望的な状況の中で、なぜ順慶に望みを託したのか。両者の絆の深さと、光秀が置かれた孤立無援の状況を見ていきましょう。
本能寺の変後の光秀が置かれた状況
天正10年6月2日、明智光秀は本能寺で織田信長を、二条御所で織田信忠を討ち、事実上の天下人となりました。しかし、この時点で光秀に味方するはずだった諸勢力は、次々と離反または沈黙を選びます。

「Wikipediaコモンズ」より引用
まず、光秀の娘・玉(後の細川ガラシャ)の嫁ぎ先である細川藤孝・忠興親子が、6月9日には剃髪して信長の弔意を示し、光秀への協力を拒絶。次に、光秀の甥の娘婿にあたる津田信澄が、6月5日には織田信孝によって大坂城で誅殺されます。四国長宗我部氏との交渉役として光秀の意向を汲むはずだった人物すら失われたのです。
光秀の頼みの綱は、大和一国を治める与力・筒井順慶ただ一人となりました。順慶が動員できる兵力は約3,000〜4,000。光秀本隊の1万数千と合わせれば、秀吉軍(推定3〜4万)に対抗できる可能性がまだ残されていた——光秀はそう考えたはずです。
光秀から順慶への援軍要請の実際
光秀は6月2日の変直後から、順慶に対して繰り返し使者を派遣しました。『多聞院日記』(奈良興福寺多聞院の僧侶・英俊が記した日記)によれば、6月4日には光秀の使者が郡山城を訪れ、順慶に上洛を促しています。
興味深いのは、順慶自身も当初は光秀方として動く姿勢を見せていたという点です。順慶は6月5日には家臣を率いて河内方面へ出陣し、光秀と合流する構えを見せました。この段階では順慶に日和見の意図はなく、恩義ある寄親・光秀のために戦うつもりだったと考えられています。
ところが、6月9日に順慶は突如として軍を返し、郡山城に帰還してしまいます。この方針転換の背景には、①秀吉が驚異的な速度で中国地方から引き返してきているという情報、②細川藤孝の不参戦表明、③大和国内の反筒井勢力(高山右近ら)の動向、という3つの要因が複雑に絡んでいたと推定されます。
順慶の決断——光秀を見捨てる理由
6月10日、順慶は家臣を集めて評定を開き、最終的に光秀を見捨てて秀吉方につくことを決定します。この決断は「日和見」という言葉で片づけられるほど単純なものではなく、大和一国と一族数千人の命を背負った戦国大名の苦渋の選択でした。
筆者は明智光秀の首塚を訪れた際、光秀という人の孤立の深さを改めて実感しました。信長から丹波と坂本を与えられ、娘を織田一門の津田信澄に嫁がせるほど厚遇されながら、その恩義ある信長を討ったことで、光秀は味方になってくれるはずだった全ての人から見放されていきます。順慶もまた、光秀の絆を裏切ることに苦しんだはずです。首塚に手向けられていた花々を見ながら、光秀の不運と、それでも彼を選べなかった順慶の立場の両方が、静かに胸に迫ってきました。
順慶が秀吉方についた決定的な理由は、次章で詳しく検証する「史料が語る順慶の実際の行動」を見れば、より鮮明になります。順慶は本当に洞ヶ峠へ行ったのか——通説を疑うところから、真相への扉が開かれます。
順慶に見捨てられた光秀の陣営で、最後まで戦った家臣・斎藤利三の生涯についてはこちらをご覧ください。
史実——筒井順慶は本当に洞ヶ峠へ行ったのか【新説】
ここからが本記事の核心です。江戸時代以降に広まった「洞ヶ峠伝説」は、近年の歴史研究によって史実ではない可能性が極めて高いと指摘されています。同時代の一次史料は、順慶の実際の行動について、通説とは全く異なる姿を伝えているのです。
『多聞院日記』が語る順慶の実際の行動
順慶の行動を知る最も重要な史料が、奈良興福寺の僧侶・英俊が記した『多聞院日記』です。英俊は順慶の同時代人で、大和国の政情に精通していたため、その記述は極めて信頼性が高いとされています。
『多聞院日記』の記述によれば、山崎の戦い当日の天正10年6月13日、順慶は大和郡山城から一歩も動いていません。日記には順慶が郡山城で防備を固め、大和国内の情勢を注視していたことが記されており、洞ヶ峠に出陣したという記述は一切存在しないのです。
順慶が郡山城から動かなかった理由は、大和一国の防衛にありました。当時の大和国内では、松永久秀の残党や高山右近ら反筒井勢力が依然として存在し、順慶が本拠を留守にすれば領国が崩壊する危険があったのです。順慶の判断は「日和見」ではなく、大和一国の統治者としての当然の防衛判断だったと考えられています。
洞ヶ峠に布陣していたのは実は明智光秀だった
さらに驚くべき事実があります。山崎の戦い前後、洞ヶ峠に実際に布陣していたのは、順慶ではなく明智光秀自身だった可能性が高いのです。
光秀は6月10日から11日にかけて、洞ヶ峠周辺に本陣を置き、順慶の到着を待っていたと記録されています。京都・大阪・奈良を結ぶ交通の要衝であるこの地は、順慶の郡山城から北上する軍勢を迎え入れるのに最適だったからです。光秀は洞ヶ峠から順慶が来るのを待ち続けましたが、順慶はついに姿を現しませんでした。
つまり、「洞ヶ峠で日和見をしていた」のは順慶ではなく、順慶を待ちわびて洞ヶ峠に留まっていた光秀の姿だった——というのが、近年の歴史学界における有力な見解です。後世の人々が光秀と順慶を混同し、「順慶が洞ヶ峠で日和見をした」という物語が独り歩きしていったと考えられています。歴史学者の呉座勇一氏らも、この逸話は江戸時代の軍記物による創作であると指摘しています。
順慶の「日和見」は本当に卑怯だったのか
順慶が郡山城から動かなかったという事実は、彼が「卑怯な日和見主義者」だったという通説を大きく揺るがせます。順慶は光秀と秀吉のどちらか一方に加勢して雌雄を決するのではなく、大和一国の民と家臣を守るために中立を保った——というのが、現代の再評価です。
実際、順慶が光秀に加勢していれば、秀吉の勝利後に筒井家は取り潰されていた可能性が高く、大和一国は戦火に巻き込まれていたでしょう。順慶の決断は、戦国大名として一族と領民を守り抜く「合理的な選択」であり、決して個人的な保身のためではなかったと再評価されつつあります。

筆者は光秀の首塚を訪れた際、光秀の生涯を改めて振り返って胸が痛みました。信長から丹波と坂本を与えられ、娘を津田信澄に嫁がせるほどの信頼を得ながら、甲州征伐・家康接待・秀吉援軍と休む暇もないほど酷使され、最後は取次役だった長宗我部氏への討伐で面目を潰される。それでも光秀は忠誠を尽くしましたが、本能寺の後は細川藤孝も筒井順慶も高山右近も、皆が光秀を見放しました。順慶を責めるだけでは、光秀の孤立の本質は見えてこないのだと、首塚の前で改めて感じました。
山崎の戦いで明智光秀を見捨てた諸将たち
順慶だけを「光秀を裏切った男」として非難するのは、歴史の一面しか見ていません。実は、山崎の戦い直前の光秀は、順慶以外にも複数の重要な武将から次々と見放されていました。彼らの動向を整理することで、光秀の敗北の真の構図が見えてきます。
細川藤孝・忠興親子の剃髪と離反
光秀にとって最大の打撃は、盟友・細川藤孝の離反でした。藤孝の嫡男・忠興には光秀の三女・玉(細川ガラシャ)が嫁いでおり、両家は姻戚関係で結ばれていました。光秀は当然、藤孝が味方すると信じていたのです。
しかし、藤孝は6月9日に剃髪し、信長の弔意を示すことで光秀への協力を拒否。忠興も父に従い、玉を丹後国の味土野に幽閉するという形で、光秀との縁を事実上断ち切りました。光秀は藤孝に宛てた「愛宕百韻」の書状で必死の説得を試みましたが、藤孝の決意は変わりませんでした。
高山右近・中川清秀の秀吉方合流
摂津国の要衝を治めていた高山右近と中川清秀も、当初は光秀方に加わる可能性があった武将です。両者は光秀の与力として摂津に配置されており、地理的にも光秀に近い立場にありました。
ところが、6月11日に秀吉が驚異的な速度で摂津富田に到着すると、状況は一変します。高山右近は6月12日に秀吉方へ合流を決断し、中川清秀もこれに続きました。両者の秀吉方合流により、光秀は摂津方面からの脅威に晒され、洞ヶ峠から山崎方面へ後退せざるを得なくなったのです。

「Wikipediaコモンズ」より引用
キリシタン大名として知られる高山右近の判断は、宗教的な影響もあったと言われています。信長から棄教を迫られていた右近にとって、信長を討った光秀に味方する選択肢は限られていたのかもしれません。
光秀の孤立と山崎の戦いへの道
細川藤孝の剃髪、筒井順慶の郡山城籠城、高山右近・中川清秀の秀吉方合流——これらが立て続けに起こったことで、光秀は当初期待していた3〜4万の連合軍を組織できず、1万数千の本隊のみで秀吉軍3〜4万と戦わざるを得なくなったのです。
山崎の戦いにおける光秀の敗北は、単なる戦術的な失策ではなく、本能寺の変から11日間で光秀を取り巻く人的ネットワークが崩壊した結果でした。順慶一人を責めるのではなく、光秀を取り巻いていた戦国武将たち全員の判断を総合的に見ることで、初めて山崎の戦いの本質が理解できます。
光秀敗北の3つの要因:①細川藤孝の剃髪離反(6月9日) ②筒井順慶の郡山城籠城(6月10日) ③高山右近・中川清秀の秀吉方合流(6月12日)。この11日間で光秀の連合軍構想は崩壊した。
明智光秀と筒井順慶、そして山崎の戦いを巡る物語は、2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』第29回「天下への道」でも描かれるとされています。放送を機に、大河ドラマや戦国時代の映像作品で復習したい方には、動画配信サービスの活用がおすすめです。U-NEXTでは以下のような戦国関連作品が配信されています。
『豊臣兄弟!』(2026年放送予定)は同時配信、明智光秀を主人公にした『麒麟がくる』(2020年)は光秀と順慶の関係が丁寧に描かれた名作、『秀吉』(1996年)は秀吉視点で山崎の戦いを描いた古典大河として知られています。放送後に見返したい方にも便利です。
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そもそも本能寺の変で光秀が信長を討った真相と、その後の11日間の全体像はこちらで詳しく解説しています。
明智光秀と筒井順慶と洞ヶ峠に関するよくある質問
Q1. 明智光秀と筒井順慶は洞ヶ峠でどちらが日和見をしたのですか
通説では筒井順慶が洞ヶ峠で日和見をしたと伝えられていますが、『多聞院日記』などの一次史料によれば、順慶は山崎の戦い当日も大和郡山城から動いていません。実際に洞ヶ峠周辺に布陣していたのは明智光秀本隊であり、光秀は順慶の到着を待ちながらこの地に留まっていました。後世の人々が両者を混同した結果、順慶の日和見伝説が生まれたと考えられています。
Q2. 「洞ヶ峠を決め込む」とはどういう意味ですか
「洞ヶ峠を決め込む」とは、有利な方につこうと形勢をうかがう日和見的な態度を意味することわざです。派生語に「順慶流」もあります。ただし、語源となった筒井順慶の逸話自体が史実ではない可能性が高いため、順慶にとっては400年以上にわたる不名誉な誤解が続いているとも言えます。現代でも政治やビジネスの場面で使われる表現ですが、本来の史実に基づけば、順慶を「日和見の代名詞」とするのは正確ではありません。
Q3. 筒井順慶はなぜ明智光秀を裏切ったのですか
順慶が光秀に加勢しなかった理由は、単なる保身ではなく、大和一国と一族数千人の命を守るための苦渋の決断でした。秀吉の中国大返しによる圧倒的な戦力集中、細川藤孝の離反、大和国内の反筒井勢力の存在という3つの要因が重なり、順慶は光秀を見捨てる以外に選択肢がなかったと考えられています。戦国大名として合理的な判断だったと近年は再評価されつつあります。
Q4. 洞ヶ峠は現在どこにありますか
洞ヶ峠は現在の京都府八幡市と大阪府枚方市の境界に位置する標高約70mの小さな峠です。京阪本線・樟葉駅から北東に約4km、京都と大阪を結ぶ京街道沿いにあります。峠には「洞ヶ峠茶屋」という食事処が残っており、日和見の代名詞となった歴史の舞台として、戦国ファンや歴史散策の観光客が訪れる隠れた名所となっています。順慶が実際には行かなかった史実を知った上で訪れると、より味わい深い場所です。
Q5. 筒井順慶はその後どうなったのですか
順慶は山崎の戦い後、秀吉に恭順し大和一国の統治を引き続き認められました。しかし、天正12年(1584年)8月11日、36歳の若さで肺結核により病死します。順慶の死後、養子の筒井定次が家督を継ぎましたが、後に改易されて筒井家は大名としては断絶しました。順慶自身が自らの行動を後世に対して弁明する機会を得られなかったことが、日和見の汚名が独り歩きした一因ともされています。
明智光秀と筒井順慶と洞ヶ峠の真相まとめ
明智光秀と筒井順慶と洞ヶ峠を巡る物語は、400年以上にわたって「日和見の代名詞」として語り継がれてきました。しかし、『多聞院日記』などの一次史料が示す真実は、通説とは大きく異なります。順慶は郡山城から動かず、洞ヶ峠に布陣していたのは光秀本隊だった——この事実は、江戸時代の軍記物が創作した物語が、いかに強力に日本人の歴史認識を規定してきたかを物語っています。
筆者は光秀の首塚を離れる際、寂しく目立たないはずのその場所に、美しい花がいくつも手向けられていることに気づきました。光秀という人の人徳は、順慶を含む戦国武将たちが誰も味方しなかった孤独な最期を経てもなお、400年経った現代の人々の心に静かに息づいています。順慶を「日和見の卑怯者」と切り捨てるのではなく、両者の苦渋の判断を歴史の文脈で理解することが、大人の歴史ファンとしての楽しみ方ではないでしょうか。
2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』第29回「天下への道」では、山崎の戦い前後の光秀と諸将の心理が描かれるとされています。放送を機に、明智光秀と筒井順慶と洞ヶ峠の真相に、改めて思いを馳せてみてください。
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