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前田慶次の妻とは?子供や子孫の現在をわかりやすく簡単に解説

皆さんは前田慶次を、ご存知でしょうか?

この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

  1. 前田慶次の妻は、養父・前田利久の弟・前田安勝の娘。
  2. 慶次の子孫が現在どこにいるかは不明。娘が嫁いだ先で、孫・今井局や、ひ孫・北条主殿介などの子孫を残している
  3. 慶次の息子は、前田正虎という人物だが、子供を残さず亡くなり、男系子孫は断絶した

歴史の教科書には載っていない、戦国時代の人気者、前田慶次。

近年、小説や漫画、ゲームでその名を馳せ、自由奔放なイメージが定着している。

しかし、彼の名前はなんと多彩なことか!

宗兵衛そうべえ慶次郎けいじろう慶二郎けいじろう啓次郎けいじろう啓二郎けいじろう慶次けいじなど、まるであだ名のようなものから

利益とします利太としたか利貞としさだ利大としひろ利興としおきなど、いかにも武将らしいものまで

その数なんと10以上!(本人は、①啓次郎②慶次③利貞、この三つしか名乗っていない)

晩年には、穀蔵院飄戸斎こくぞういんひょっとこさい龍砕軒りゅうさいけん不便斎ふべんさいなど、奇抜なあだ名まで名乗っていたというから、よほどの変わり者だったようだ。

そんな前田慶次、本当にいたの?という疑問も。

まだ研究途上の人物であり、その実像は謎に包まれている。

はたして彼は実在の人物なのか、それとも創作上の存在なのか?

戦国一の奇人、前田慶次の足跡を辿りながら、その真実に迫ってみよう。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

前田慶次の妻は誰?

前田慶次の妻は、前田安勝まえだやすかつの娘であるといわれています。

前田安勝とは、槍の又左またざとよばれた前田利家の兄です。

前田利家
引用元ウィキペディアより

豊臣政権の五大老の筆頭までのぼりつめた前田利家には、三人の兄がいました。

  • 長男・利久
  • 次男・利玄
  • 三男・安勝
  • 四男・利家

前田慶次は、長男・前田利久の養子です。

実の父は、織田四天王のひとり・滝川一益かずますの親戚の滝川益氏たきがわますうじという武将だとか。

慶次の妻は、養父・前田利久の弟で三男の前田安勝の娘なのです。

慶次は、前田利久(前田利家の兄)の養子として育てられました。

そして、養父・利久の弟である前田安勝は、慶次にとって義理の叔父です。

そのため、慶次は義理の従妹いとこと結婚しことになります。

しかし、その彼女の名前は伝わっていません。

彼女は傾奇者かぶきものとして有名な夫・前田慶次を支え、一男四女をもうけました。

自由奔放な夫を支えるとは、彼女は忍耐力や調整能力に優れていた可能性があります。

なお、彼女の子供の数については諸説あります。

女子が2人から5人といわれています。

しかし、正確なところは分かりません。


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前田慶次の子孫の現在とは?

結論からいえば、前田慶次の子孫が現在どこで何をしているのか、はっきりしません。

なぜなら、長男・正虎には子供がいないため、男系子孫は断絶しています。

さらには娘たちが嫁ぎ先で、どんな子孫につながっているのかが、はっきりしていないのです。

戦国武将・前田慶次は、数々の逸話を持つ豪快な人物として知られています。

彼は妻との間に一男四女をもうけたと言われています。

長男は正虎と名乗り、加賀藩主・前田利家に仕えました。

慶次と利家が対立して出奔つまり家出をした際には、正虎は母と共に加賀に残り、前田家に貢献し続けたようです。

当時、慶次は50代半ばだったといいます。

息子・正虎が、前田家の家臣として活躍していたため、安心して出て行ったのかもしれません。

正虎自身は子宝に恵まれず、前田家系図に記載されている慶次の男系子孫は、正虎までとなっています。

実は、前田慶次の娘のひとりが、戸田方勝まさかつという人物に嫁ぎ、今井局いまいのつぼねとよばれる女児を産んでいます。

今井局は、前田慶次の孫にあたります。

この孫・今井局が、かなりの女傑で、加賀藩の4代藩主で江戸時代前期でも屈指の名君として名高い前田綱紀まえだつなのりを養育したといいます。

前田綱紀
引用元Wikipediaより

ところが今井局には子供がおらず、戸田靱負ゆきえという人物を養子にもらっているとのことです。

つまり、今井局の血筋も断絶しているということです。


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また、もう一人の娘が、後北条氏の3代目・北条氏康の孫・北条庄三郎しょうざぶろうという人物に嫁いだといいます。

北条氏康
引用元ウィキペディアより

北条庄三郎には、北条主殿介とのものすけという子供がいたといいますが、前田慶次の娘が産んだ子なのかどうかは不明です。

この北条主殿介には、息子はいなかったものの、娘がいたといいますが、それ以降の系図はわかりませんでした。

→→→→→【北条氏康の家系図!子孫は、吉良上野介と上杉鷹山】についてくわしくはこちら

しかし、娘たちが現在の岐阜県に嫁ぎ、子孫を残したという伝承が残されています。

余談かもしれませんが、前田利家の子孫は、現在もつづいています。

前田利家の子孫は、徳川家康の子孫と先輩後輩の間柄のようです。

→→→→→【前田利家の子孫】についてくわしくはこちら


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前田慶次とは、どんな人?

前田慶次は、江戸時代最大の外様大名・加賀百万石・前田家の土台をつくった猛将・前田利家の義理の甥です。

マンガやその他の媒体で耳にすることがある前田慶次について、軽く調べてみますと、彼は戦国時代の加賀・前田家の一員であり、織田信長に寵愛され槍の又左衛門とよばれた猛将「前田利家」の甥に当たります。

慶次は様々な功績を残したようですが、特に有名なのはイタズラの話です。

利家にも、ひどいイタズラを仕掛けて前田家を出奔しました。(寒い冬に、利家を騙して水風呂に入れたという)

出奔という言葉は聞こえが良いですが、怒られる前に逃げ出したという記述もあります。

前田家を離れた後、慶次は越後(新潟県)で上杉景勝うえすぎかげかつに仕えました。


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上杉家が豊臣秀吉の命令で、越後(新潟)から今の会津若松、その後は現在の山形県米沢市に転封されると、それに従って居を移し、米沢ではいおりを結んで隠居生活を送りました。

また、上杉景勝の家臣である直江兼続なおえかねつぐとは親しい関係にあったようです。

直江兼続
引用元Wikipediaより


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前田慶次は実在したのか?

実在するかどうかを疑われている前田慶次ですが、実在していたことは間違いありません。

慶次とは、結局どんな人物なのでしょうか?

前田慶次とは、戦国時代に名高い傾奇者かぶきものとされています。

傾奇者とは、普通でない外見や行動を好む人のことを指し、変わった方向に興味を持つ人々です。

茶道や和歌を好む数寄者すきものとは異なり、傾奇者は、より風変わりな趣味を持ち、乱暴狼藉を行うこともあります。

武将としては、慶次は散々な評判を受けていましたが、逸話によれば、彼は強者をくじき、弱者を助ける町の人気者であったとされています。

果たして、このような興味深い武将が、本当に実在したのでしょうか?


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前田慶次の名前が登場する歴史資料とは?

慶次に関する文献は多いです。

しかし、慶次が生きたとされる戦国時代以降に書かれたものが多いようです。

前田慶次が実在しないと主張する人々は、後世の創作である可能性を指摘しています。

前田慶次に関連する文献には

  • 上杉将士書
  • 常山紀談
  • 可観小説
  • 翁草
  • 加賀藩史料
  • 前田慶次道中日記

などが挙げられます。

彼が実在しないとする意見には

  • 織田信長の一代記である『信長公記』に彼の名前が載っていないこと
  • 上杉家に在籍した武将の略伝である『上杉将士書』が捏造された可能性がある

などの理由があります。

前田慶次という武将については、まだ謎が残っています。

マンガ「花の慶次〜雲のかなたに〜」のファンであれば、「だからこそ愛されるのだ」とおっしゃるかもしれません。


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前田慶次が自分で記した日記が現存する

『前田慶次道中日記』という文書は、前田慶次自身が執筆したものだといわれています。

この日記は、1601年、慶次が50代から60代の間の頃に、京都から米沢への旅行中に記されたものです。

旅の途中で彼が目にした庶民の日常や風習などが記されており、歴史的・民俗学的な価値が高く評価されています。

戦国時代の人々の生活に興味がある方にとって、この文書は興味深いものでしょう。

この文書は山形県米沢市の文化財として登録され、写本が読めるようになっています。

しかし、古文や崩し字が得意でない方にとっては少々難解です。歴史家・磯田道史先生は、そのまま読めるらしいですが・・・。

このような資料が存在するなら、慶次が実在したことは疑いようがないのではないでしょうか。

実際に旅をしているかのような感覚を味わえるような道中日記を偽造するのは困難です。

もし偽造されているとしたら、捏造した人物は、かなりの前田慶次のファンであるといえるでしょう。

さらに、『前田慶次道中日記』以外にも、慶次は和歌や連歌に優れた才能を持っており、文学関連の資料にも彼の名前が残っているようです。

このような事実を考えると、彼が架空の人物だった可能性は非常に低いのではないでしょうか?


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前田慶次の身長は?

前田慶次の身長は、当時の平均身長である155cm前後であったと考えられます。

前田慶次を描いた小説や漫画では、彼が190センチを超える巨漢として描かれることがありますが、この描写は実際の彼の身長と一致しているのでしょうか?

190センチという身長は現代でも、かなりの長身です。

メジャーリーガー・大谷翔平おおたにしょうへいさんは、193cmです。

戦国時代の男性の平均身長が155cmといわれる中で、そんな長身は目立つ存在でしょう。

彼が町を歩いていたら、首一つ分以上も他の人より高く、肩から上が遠くからでも目立ったことでしょう。

しかし、彼が使用していたとされる鎧や兜は、他の武将のものと比べて特に大きくはなかったようです。

前田慶次郎利益の甲冑
米沢市宮坂考古館所蔵
引用元Wikipediaより

彼の身長はそこまで高くなかったようですが、横幅はかなりのもので、ずんぐりむっくりとした体型だったと考えられます。

その横幅だけで、彼を「大男」と呼ぶのならば、納得できます。

ちなみに、戦国武将の中でも特に高身長だったのは、豊臣秀頼だといいます。

豊臣秀頼 京都市養源院蔵:Wikipediaよりパブリックドメイン

秀頼は、小柄だったことで有名な父・秀吉とは異なり、なんと195センチほどの身長で、体重も100kg以上あったといわれています。

そのことから、豊臣秀頼は秀吉の子ではないのではないかと疑われたといいます。

とはいえ、秀頼の母・淀殿(茶々)は、かなりの高身長だったというので、母のおかげで高身長になったのかもしれません。

→→→→→【秀頼は秀吉の子ではなかった?】についてくわしくはこちら

→→→→→【淀殿(茶々)の身長と、美人かどうかを検証】についてくわしくはこちら


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 前田慶次の妻は、養父・前田利久の弟・前田安勝の娘。
  2. 慶次の子孫が現在どこにいるかは不明。娘が嫁いだ先で、孫・今井局や、ひ孫・北条主殿介などの子孫を残している
  3. 慶次の息子は、前田正虎という人物だが、子供を残さず亡くなり、男系子孫は断絶した

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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