今回のテーマは豊臣秀長です。
この記事では豊臣秀吉の弟・豊臣秀長について、わかりやすく、短く、カンタンに解説しております。
これを読めば豊臣秀長を、カンタンに理解できます。
豊臣秀長が長生きしていたら、徳川家康の天下は実現しなかったかもしれないのです。
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この記事を短く言うと
1,豊臣秀長の凄さとは?
豊臣秀長は、兄・豊臣秀吉をいさめてその暴走を食い止め、さらには部下と秀吉の間を調整する中間管理職として、優れた能力を発揮した。軍事と内政の両方に力を発揮した万能な人物だった
2,豊臣秀長の最期とは?
【1591年】、兄・豊臣秀吉が天下統一をなしとげた翌年、秀長は病死した。兄・秀吉は、秀長が亡くなった翌年【1592年】に朝鮮出兵を無理やり実行し、【1598年】に病死している。
3,もしも秀長が長生きしていたら、歴史はどのようにかわっていたのか?
秀長が長生きしていたら、甥・豊臣秀次の切腹はなかっただろう。それだけではなく、徳川家康による天下の乗っ取りも阻止できていたかもしれない
豊臣秀長が生きていたら?
甥・豊臣秀次は死なずに済んだ
もしも豊臣秀長が長生きしていたら、おそらく豊臣秀次が切腹させられることはなかったと思います。
実は秀長と秀次は、とても良好な関係にあったのです。
【1584年】、小牧・長久手の戦いで徳川家康に大敗して豊臣秀吉を激怒させた秀次ですが、その失敗を取り戻させようと奮闘したのが秀長でした。
秀長は、秀次を連れて紀州征伐・四国征伐を成功させ、秀吉からの信頼回復を手助けしているのです。
秀次は秀長の病気が悪化した【1590年】に、奈良県桜井市の談山神社を訪れて、叔父・豊臣秀長の病気回復祈願をしています。
秀長が生きていたら、兄・秀吉と甥・秀次の仲を調整して、その関係を良好なものとしていたはず。
そうなっていたら、秀次切腹もなかったでしょう。
秀次が生きていたら、のちの秀頼を補佐する人材が残っていたこととなります。
秀次はかなり優秀な人物だったといわれているので、家康による豊臣家滅亡を阻止できていたかもしれません。
豊臣秀次が生きていたら、徳川家康の天下はなかった
秀長が徳川家康よりも長生きしていたら、徳川家康の天下はなかったと思います。
もしも秀長が長生きしていたら、豊臣秀次が亡くなることはなかったと、さきほど申しました。
そうだとすれば、秀長と秀次という二人が、豊臣秀頼を補佐するという強力な体制が完成していたはずです。
ここに家康が付け入るスキは、なかったのではないでしょうか。
徳川家康は、【1598年】に豊臣秀吉が亡くなると、秀吉が作ったルールを次から次へと破り続け、石田三成たち文治派を激怒させます。
同時に、武断派と呼ばれる福島正則や加藤清正を味方につけて、豊臣家を2つに割り、派閥抗争を引き起こしたのです。
真っ二つに別れてしまい、さらにはその片方(石田三成の一派)が滅びてしまった「豊臣家」は文字通り、力が半減してしまいます。
豊臣家は、関ヶ原の戦いで勝利した家康によって、200万石の大勢力から、わずか65万石の少勢力におとしめられるのです。
もしも、軍事・内政ともに優れた万能な武将・豊臣秀長が生きていたら、秀長は前田利家や豊臣秀次と協力して、家康という反乱分子を封じ込めることに成功していたでしょう。
まるで徳川家康が、野心家であった独眼竜・伊達政宗を封じ込めたように。
【1591年】に亡くなった秀長ですが、あと20年生きていたら、豊臣家の補佐役を甥・秀次にゆずって、安定した豊臣政権を引き継いでいたはずです。
秀長の死という損失は大きすぎたのでしょうか。
【1615年】、秀長の死から24年後、豊臣家は大坂夏の陣で徳川家康によって滅ぼされてしまいます。
統治が難しいといわれていた大和国の支配を、ほとんど反乱を起こさずに成功させ、大納言さんと呼ばれて親しまれている豊臣秀長。
長生きしていたら武田家の滅亡を阻止できたかもしれない、と言われている武田信玄の弟・武田信繁と同じく、豊臣秀長の早すぎた死は、豊臣家の崩壊を予感させるものだったのです。
【2016年】の大河ドラマ【真田丸】にて、俳優・千葉哲也さんが豊臣秀長を演じていました。
千葉哲也さん演じる豊臣秀長は、兄・秀吉に対し、亡くなる直前、こんなことを言っていました。
「私が長生きできたとしたら、徳川家康を見張り、豊臣家を守ってみせましょう。
しかし私は長く生きられそうもない」
その言葉通り、もし秀長が長生きしていたら、と考えずにはいられません。
→→→→→【関ヶ原の戦いを簡単解説】についてくわしくはこちら
豊臣秀吉の弟・豊臣秀長の凄さとは?兄の暴走を止めた万能な調整役
天下人・豊臣秀吉の偉業を、内政と軍事の両面で、もっともよく支えたのが、秀吉の実弟・豊臣秀長です。
これまでの通説では、兄・秀吉とは父親が異なり、父親は竹阿弥という人物だと考えられてきました。
しかし最近では、秀長の父親は弥右衛門という人物で、秀吉と父を同じくする同父母の兄弟であると考えられています。
秀吉の主君・織田信長が美濃攻略を行なっていた【1561年】から【1567年】までの間に、秀長は兄・秀吉に仕えはじめたと考えられます。
豊臣秀長は兄・秀吉の代理として、戦争や内政に力を発揮しました。
秀長の役割は、兄・秀吉の代理であり、同時に秀吉と部下たちのあいだを取り持つ調整役でした。
それだけではなく、兄・秀吉のブレーキ役、つまり兄を諌めるのも秀長の役割だったのです。
兄がむちゃくちゃな行動をとろうとするときは、秀長がそれを注意して止めていたのが、秀長でした。
また、秀長は温厚な性格だったため、部下からの信頼も厚く、部下の要望と兄・秀吉の要望の双方を聞き、両者から不満が漏れない適切な落とし所を探って両者を納得させる、いわば優秀な中間管理職だったといわれています。
秀長は、軍事に内政と、その優れた才能を発揮して、豊臣政権の中心人物となっていきます。
「内々のことは千利休に。公のことは秀長に相談せよ」
豊臣秀吉は、自らに屈服した九州の戦国大名・大友宗麟に対して、このように言ったといわれています。
秀吉が、秀長をどれほど信頼していたかがうかがいしれる一言です。
豊臣秀長の最期!兄や母よりも先に病死していた
豊臣秀長は、秀吉や母・大政所よりも先に、【1591年】に52歳で病死しています。
前年の【1590年】に、秀吉は小田原の北条氏直を屈服させて、天下統一をなしとげているので、それを見届けて、安心して亡くなったのかもしれません。
しかし、秀吉は秀長が亡くなった後、ブレーキが無くなったかのように暴走を開始します。
秀長が亡くなった翌年の【1592年】、秀吉は朝鮮出兵を開始。
【1595年】、甥である豊臣秀次を切腹させ、その一族数十名をことごとく処刑。
秀吉はこれらの暴走によって、豊臣政権の土台を自ら崩壊させることとなります。
おそらく、秀長は秀吉にとって、信頼できる相談役だったのでしょう。
人間が暴走するときというは、おそらく
「目的を達成するために、何をすれば良いのかがわからなくなったとき」
であると思います。
秀吉は、豊臣の天下を長く続けるにはどうすれば良いのかが、わからなくなったのだと思います。
さらに秀吉は、我が子・秀頼に天下をゆずるには、何をすれば良いのか、どうすれば良いのかが、わからなくなっていたのでしょう。
そのとき、秀長という相談相手がいたら、秀吉の行動も変わっていたのかもしれません。
【1598年】、豊臣秀吉が亡くなると、傾きかけていた豊臣政権は、【1600年】の関ヶ原の戦いをきっかけにして、徳川家康によって滅亡へと追いつめられていくことになるのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 豊臣秀長は、兄・豊臣秀吉をいさめてその暴走を食い止め、さらには部下と秀吉の間を調整する中間管理職として、優れた能力を発揮した。軍事と内政に力を発揮した万能な人物だった。
- 【1591年】、兄・豊臣秀吉が天下統一をなしとげた翌年、秀長は病死した。兄・秀吉は、秀長が亡くなった翌年【1592年】に朝鮮出兵を断行し、【1598年】に病死している。
- もしも秀長が長生きしていたら、甥・秀次の切腹はなかっただろう。それだけではなく、徳川家康による天下の乗っ取りも阻止できていただろう。
以上となります。
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