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【十七条の憲法とは】その目的と作った理由を簡単にわかりやすく解説

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Jorg PeterによるPixabayからの画像

「十七条の憲法」の制定者が「聖徳太子」であると知っていても、制定の理由を説明できる人は少ないのではないでしょうか。

実は私も、大学で歴史を勉強するまで詳しく知りませんでした。

「十七条憲法」は「聖徳太子」が古代の東アジアにおいて、日本を大国「隋」にならった国家とするため行った政策の一つです。

この記事では「十七条憲法」について、あまり詳しくない人のために、わかりやすく解説していきます。

これを読んで「そうだったのか十七条憲法!」と、スッキリしてくださいね。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 「十七条の憲法」とは、西暦【604年】に聖徳太子らが制定した法律。西暦【600年】に送った「遣隋使」が、倭国の政治を随の「文帝」から批判されたことにより制定された
  2. 「十七条憲法」には「和を以て貴しとなす(わをもってとうとしとなす)」や「勧善懲悪(かんぜんちょうあく)」など、現代でも大切にすべき教えが記されている。
  3. 「十七条憲法」は後世の創作である・・・という説が古くから存在しているが、筆者は「十七条憲法」は聖徳太子によって制定された真正なものであると考えている

十七条の憲法とは、一体なに?作られた目的と当時の時代背景

「十七条の憲法」がつくられた目的とは?

「十七条憲法」が制定されたのは、第1回「遣隋使」を派遣した際、隋の皇帝「文帝」から

「日本の国政のあり方が道理から外れたものだから改めるように」

と指摘されたからです。

この当時、中国大陸では長く戦乱が続いていました。

有名な「三国志」の英雄「司馬懿仲達」の孫「司馬炎」が建てた統一国家「晋」が滅びた後、「五胡十六国時代」「南北朝時代」という混乱の時代が約【300年】も続いたのです。

その戦乱の世をおさめ、統一国家だった「西晋」が滅亡した後、約300年ぶりに中国大陸を統一したのが大国「隋」だったのです。



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世界最強「随」の皇帝に叱られる

隋の文帝は建国後、【581年】に「律令(法律)」を制定し、それまで貴族が官僚の任命権を持っていたことを改め、「科挙かきょ(試験のこと)」によって優秀な人材を登用できるよう、国家に数々の改革を行いました。

文帝の治世は、元号をとって「開皇の治」と呼ばれています。

倭国(日本)の豪族たちは、それまで朝鮮半島との関係を強く持っていました。

しかし「聖徳太子」は、300年ぶりに中国を統一し、数々の改革を行っている「隋の文帝」の政策を取り入れようと考え、「遣隋使」という使節団の派遣を決めたのです。

中国の『隋書』によれば、【600年】に倭国から「遣隋使」が派遣されてきました。

「隋の文帝」から倭国の政治について尋ねられた倭国の使者は、以下のように応えます。

「倭王は天を兄とし、日を弟とし、夜が明ける前に出廷して政を聞き、日が昇ると仕事を止めます」

これに対して文帝は応えます。

「倭国の政治のあり方はおかしい、治しなさい」

第1回遣隋使の文帝とのやりとりは、このように『隋書』に記載されていますが、『日本書紀』には一切記述がありません。

政治のやり方がなっていない!!

と叱られたわけですから、おそらく、恥ずかしくて正史には残さなかったのでしょう。



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聖徳太子、政治改革を急ぐ

文帝から叱責を受けた「推古天皇」「聖徳太子」「蘇我馬子」の3人は、至急自分たちの国を隋と対等に外交関係を結べる状態にしなければならない・・・と思ったはずです。

そうでなければ「野蛮な国」として相手にしてもらえないだけではなく、海を越えて「隋」に攻め込まれ、隋の領土にされるかもしれませんからね。

では倭国を隋にならった国家に作り変えるために、何をどうすれば良いか?

そう聖徳太子が考えた時に出した答えが

1,「氏姓によらず優秀な人材を積極的に朝廷に採用する制度をつくる」

2,「採用した官僚たちの行動規範となる法律をつくる」

この2つだったのです。

この2つのアイディアに強く影響を与えたのは、隋で文帝が行った「律令の制定」と「科挙の実施」だったのでしょう。

聖徳太子は、隋にならって古代東アジアにおける「日本の近代化政策」を打ち立てたのです。

こうして聖徳太子は、【603年】に「冠位十二階」を制定して、氏姓によらず優秀な人材を登用し始めました。

さらに翌年の【604年】に、採用した官僚たちの行動規範となるように【十七条の憲法】を制定したのです。



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『十七条の憲法』の内容と意味を、1条から17条まで全てわかりやすく現代語訳

十七条憲法の内容を、読み下し文と1条につき1文程度の現代語訳とともに解説していきます。

第1条「和を以て貴しとなし、忤(さから)ふることを無きとせよ」

(お互いに和を大切にし、争わないことをモットーとしなさい)

豪族同士が争いあっているばかりでは、いつまでたっても国がまとまりませんよね。

だから「人と和する事を大切にし、お互いに争い合うことがないように」と説いています。

 

第2条 「篤く三宝を敬(うやま)へ、三宝とは仏・法・僧なり」

(仏、仏法、僧侶を篤くうやまいなさい)

「聖徳太子」と「蘇我馬子」は仏教を篤く信仰していたので、『仏教と仏典、僧侶を大切にせよ』と説いています。

 

第3条「詔を承りては必ず謹め、君をば天とす、臣をば地とす」

(天皇の詔(命令)には、必ず従いなさい。天皇は天であり、臣下は地です)

十七条憲法が定められる以前は「朝廷での合議制」で政治が行われていましたが、この1文で『国で一番偉いのは天皇だ』と明確に宣言して、天皇の命令には必ず従うように説いています。



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第4条「群臣百寮、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり」

(民衆を治める基礎になるのは、礼儀だから、群臣は礼儀を大切にしなさい)

国を治める立場の者の礼儀がなっていないと、民衆が朝廷の言うことに従いませんよね。

だから「民衆を治めるための基本である礼儀を大切にしなさい」と説いています。

 

第5条 「饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁めよ」

(賄賂をもらうような心は捨てて、訴訟は公平に行いなさい)

「十七条憲法」以前、日本は法治国家ではなく、人治国家でした。

賄賂によって、処罰が変わることは当たり前に行われていたでしょう。

だから「賄賂を要求するようなことはせず、訴えは公平に裁きなさい」と説いたのです。

 

第6条「悪しきを懲らし善を勧むるは、古の良き典なり」

(悪いものを懲らしめ、善を勧めるのは、古くからの定めです)

現代でも通じる「勧善懲悪」を進めていますよね。

「悪いものを懲らしめ、善いことを勧めるのは道理だ」と説いています。



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第7条「人各(おのおの)任(よさ)有り」

(人にはそれぞれの良さがあります)

「人にはそれぞれに良さがあるのだから、欠点を見たりせず、お互いに認め合うように」と説いています。

 

第8条「群卿百寮、早朝晏退でよ」

(群臣は、朝早く出勤し、夜は遅くに帰りなさい)

「官僚は朝早く出勤し、夜は遅くまで仕事してから帰るように」・・・・説いています。

なんだか、現代のブラック企業のようなことを言っていますが、官僚が公務に励む習慣が「十七条憲法」以前になかったことを考えると、仕事への取り組み方を説いたのでしょう。

 

第9条「信は是義の本なり」

(「信用」は義の基礎です)

「人から信用されるのが全ての基礎だ」と説いています。



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第10条 「忿を絶ちて、瞋を棄て、人の違うことを怒らざれ」

(人はそれぞれ異なる考えを持っているから、人が自分と違っても怒りを表に出さないように)

第7条とも相通ずる内容ですが、「自分と他者は異なり、人それぞれに考え方があるのだから、その考えを尊重し、自分の意見と異なっていても腹を立てたりするなど、その感情を表に出すな」と説いています。

 

第11条「功と過を明らかに察て、賞罰を必ず当てよ」

(功績と過失は正しく評価し、賞罰は間違いなく行いなさい)

「感情に左右されず、功績と過失を正しく見極めて賞罰を行え」と説いています。

 

第12条「国司・国造、百姓に収斂することなかれ。国に二君非く、民に両主無し」

(国を治める立場の者は、民衆から二重に税を取ってはなりません)

「国に王が2人いないように、民衆が使える王もまた1人だから、民衆を治める官僚が、国とは別個に民衆から税をとってはならない」と説いています。



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第13条「諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ」

(上司は部下に任せる仕事の内容を、必ず把握していなければなりません)

「人に仕事を任せる人は、必ず任せる仕事の内容を把握していなければならない」と説いています。

自分がよく分からない仕事を人に押し付け、まだかまだかと催促したり、こんなこともできないのかと叱責したりするのは、現代のブラック企業のパワハラ、モラハラと同じですよね。

 

第14条「群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ」

(官僚は、他人に嫉妬してはなりません)

「官僚は、同僚に嫉妬してはならない」と説いています。

 

第15条「私を背きて公に向くは、是臣が道なり」

(公務に私情を捨てて励むことは、臣下のあるべき姿です)

「私情を挟まずに公務に励むことは、官僚のあるべき姿だ」と説いています。

仕事に私情を挟むな、というのは現代にも通じることですね。



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第16条「民を使うに時を以てするは、古の良き典なり」

(民衆を使う時はタイミングに気をつけるのが、古くからの定めです)

「民衆を使って何かをするときは、負担にならないようタイミングに気をつけるように」と説いています。

人に何かを頼むときには、相手の都合を考えて頼みなさい、ということですね。

 

第17条「夫れ事独り断むべからず。必ず衆とともに宜しく論ふべし」

(大切なことを決める時は独断で決めず、必ず大勢で話し合って決めなさい)

「大切なことを決める場合は、独断で決定したりせず、必ず大勢で話し合って決めるように」と説いています。

 

こうしてみると1400年前の「十七条憲法」ですが、現代でも通用する内容ばかりですね。

しかも「やらなければならないけれど、やろうとしてもなかなかできないこと」が多く書かれています。

他人と自分との違いを認め、他者を尊重し、無駄に争わず、調和を重んじる・・・・というのは、現代に生きる私たちの日々の生活に通じることばかりです。

筆者も現代語訳していて「聖徳太子」からお説教を受けたような気持ちになってしまいました。



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「十七条の憲法」は創作されたものだったのか?

「十七条憲法」の実在を疑い、『日本書紀』が書かれた時に創作されたものだ・・・・・・という学説があります。

もっとも古いものは、江戸時代末期の考証学者「狩谷?斎」によるもので「十七条憲法」を「聖徳太子」によって制定されたものではなく、『日本書紀』の作者によるものである・・・と主張しました。

1930年】には早稲田大学教授の「津田左右吉」が、十七条憲法の第12条に使われている「国司」と「国造」という言葉が「推古天皇」の御代に使われていないこと、条文の内容が推古天皇の御代の国制と一致していないとし、「狩谷?斎」と同様に『日本書紀』編纂時の創作、と発表したのです。

日本語学者の「森博達」も、「十七条憲法」に使われている漢文の特徴から「推古天皇」の時代のものとは考えられない、と主張しています。



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十七条の憲法が創作か否かを考察

さて「十七条憲法」は、後世の創作なのでしょうか?

筆者が大学生だった頃のことです。

「古代の日本の文献で使われている漢文は、日本人が書いた漢文だから、中国の古典に書かれている漢文と比べると、文法のおかしなところがいくつもある」

と大学の教授から教わったことがあります。

「十七条憲法」は日本人が「書いたところどころ文法が間違っている不自然な漢文ということ」ですね。日本語学者の森博達の主張は、まさにこの「不自然な漢文」に基づくものですが、同時に、こうも主張しています。

「聖徳太子が制定した十七条憲法が存在したかもしれないが、現状ではそれを証明できないので、『日本書紀』が書かれた時に創作されたと推定するしかない」

と。

十七条憲法が実在していたとしても、最初に記された「十七条憲法」の原本はおそらく、【623年】の斑鳩宮の焼失か、【645年】の蘇我蝦夷の屋敷焼失で失われてしまったでしょう。

十七条憲法が制定されたのは【604年】のことで、『日本書紀』が完成したのは【720年】です。

両者の間には「約110年」の開きがありますよね。

約110年の開きであれば、「十七条憲法」が口伝で残っていたと考えることは可能だと思います。

口伝で残っていたものを書き記した時に、『日本書紀』が書かれた時代に使われていた制度や言葉を使って表現したとしたら、それは十分にあり得ることでしょう。



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結論!後世の創作ではない

筆者個人の考えとしては

「『十七条憲法』は実在した。そして口伝で伝えられていた『十七条憲法』が、『日本書紀』に書かれた際に、当時の言葉と制度の影響を受けて記録されたのだ」

と思います。

つまり「創作ではない」ということです。

隋の文帝の政策にならって、「聖徳太子」が古代世界における日本の近代化を図ったのだとすれば、『冠位十二階』と『十七条憲法』が実在したと考えるのは、決して突飛なことではありません。

ただし『推古天皇』の時代に作られた原本が残っていない以上、それを証明することは出来ません。



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『十七条の憲法』について「ひとこと」言いたい!

「天皇は神の子孫」である、という明治時代に作られた「皇国史観」が絶対だった時代、早稲田大学教授だった「津田左右吉」は、「聖徳太子」の実在を疑い、「十七条憲法」を後世の創作だと発表しました。

その言動によって不敬罪に問われた津田は、早稲田大学を辞職させられただけではなく、著作も発禁処分となったのです。

あの時代に随分と勇気があったというか、気骨のある行動をとったものだと思います。「津田左右吉」は、気骨のある学者だったのでしょう。

しかし一方で、歴史学者としての津田は考古学や民俗学の成果を重視せず、文献史料を絶対としており、その点を批判されています。

「十七条憲法」の条文に「推古天皇」の御代には使われていない言葉が含まれているから「後世の創作」、と断じているのも文献至上主義の表れですね。



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たとえは悪いですが「小倉百人一首」を思い浮かべてみましょう。

絵札で「天智天皇(中大兄皇子)」が狩衣を、「持統天皇」が十二単を着た姿が描かれています。

しかし飛鳥時代に生きていた2人が、その服装で描かれているのはおかしいですよね。

あの絵札は「小倉百人一首」が平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて生きた「藤原定家」という人の手によって成立したので、その当時の服装を反映して描かれているのです。

つまり成立した時代の影響を受けているわけですね。



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現代の時代劇などは、「時代考証」を行って製作されています。(「時代考証」とは、映画などの作品で描かれる時代の物・風習などが、現実の史実と比べて適正かどうかを検証すること。例えば「江戸時代」の作品に「飛行機」や「自動車」が登場してはならない・・・など。)

しかし『日本書紀』の書かれた時代や、「小倉百人一首」が成立した時代に、それ以前の飛鳥時代の言葉や服装を考証して製作する、というのは考えにくいですよね。

ということは『日本書紀』の文章も、編纂された時代の言葉の影響を免れないはずです。

「国司」と「国造」という言葉が使われているから「推古天皇」の時代の文章としてはおかしい・・・・と考えるよりも、原本が失われて口伝で残っていたため、編纂された時代の言葉で記録された、と考える方が素直な気がします。

歴史は文献だけではなく、考古学や民俗学・建築や美術など、残されているものを多面的にとらえながら、同時代の他国の歴史も参照し、科学的に研究されるべきものなのです。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「十七条憲法」とは、【604年】に「聖徳太子」らが制定した法。随の文帝から「倭国の政治のやり方」を叱責されたことから、「冠位十二階の制」とともに制定された。
  2. 「十七条憲法」には、「和を以て貴しとなす」などの、現代日本でも有名な言葉や法が記されている。
  3. 「十七条憲法」は後世の創作である、という説があるが、筆者は「十七条憲法は実在した」と思っている。

この記事を短くまとめると以下の通り

「十七条の憲法」は、西暦【600年】の第1回遣隋使で、隋の文帝から「日本の政治のやり方はおかしい」と叱責を受けたことから、隋にならった制度・国家をつくる一環として制定されたのです。

603年】に「冠位十二階」が制定されたのち、【604年】に「十七条憲法」が制定されました。

おそらくその成立には、隋の文帝が「科挙(かきょ・試験のこと)」によって才能のある者を朝廷に採用できる制度を始めたこと、律令を定めたことが大きな影響を与えたはずです。



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「十七条憲法」は、江戸時代から実在を疑われています。

実在していたとしても、おそらく斑鳩宮や蘇我蝦夷の屋敷が消失した時に「十七条憲法」が記された原本は消失してしまったでしょう。

証明は出来ませんが、口伝で伝えられたものが『日本書紀』編纂時の言葉や制度の影響を受けて書き残されたのではないでしょうか。

「十七条憲法」が説くものは、現代に生きる私たちにとっても、取り入れるべき行動規範が書かれています。

「聖徳太子」の精神は、今も私たちの心に生き続けているのです。

《聖徳太子》
「引用元ウィキペディアより」

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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飛鳥時代 聖徳太子の功績 仏教拡大、遣隋使派遣、冠位十二階、十七条の憲法 | GARAN へ返信する コメントをキャンセル

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