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子供の頃、修学旅行で奈良の「法隆寺」を訪れた人は結構いるでしょう。
しかし、いつ、誰が、何の目的で「法隆寺」を建てたのか・・・説明できる人は意外に少ないかもしれませんね。
「法隆寺」は飛鳥時代に、父親の菩提を弔うために「聖徳太子」が建てたお寺です。
この記事では、法隆寺にあまり詳しくない方に向けて、いつ、何の目的で「法隆寺」が建立されたのかをわかりやすく解説していきます。
これを読んで「法隆寺」についてよく知らなかったことをスッキリと解消させましょう!
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この記事を短く言うと
- 奈良「法隆寺」を建てたのは「聖徳太子」。聖徳太子とは、7世紀・飛鳥時代の政治家で「冠位十二階」「憲法十七条」を制定した人物。
- 法隆寺が建てられたのは、諸説あるが【607年】とされている。
聖徳太子が「いかるが」という地に宮(自宅)を建てた際、隣に「斑鳩寺」をつくった。この「斑鳩寺」がのちの「法隆寺」。
- 「法隆寺」が建てられた目的。それは、聖徳太子の父「用明天皇」が、自分の病気が治ることを願って建てようとしたが、果たせず亡くなったため、父「用明天皇」の代わりに息子「聖徳太子」が「法隆寺」を建てたこと。
法隆寺を建てた人物は誰なのか?
法隆寺を建てたのは、飛鳥時代の王族・政治家である「聖徳太子」です。
聖徳太子とは、亡くなった後に生前の功績を称えてつけられた諡号(しごう)で、本名は「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と言います。
「厩戸皇子」は【574年】に第31代「用明天皇」と、正妃「穴穂部間人皇女」との間に生まれました。
母「穴穂部間人皇女」が馬屋の戸に手を触れた時に生まれたので、「厩戸皇子」と名付けられたと言われています。
子供の頃から非常に利発だったので、神童伝説が数多く残されています。
【585年】に即位した「用明天皇」は、在位僅か2年で天然痘のため崩御しました。
次の大王を誰にするかで朝廷が荒れる中、大王の最有力候補だった厩戸皇子の叔父「穴穂部皇子」が暗殺されます。
この事件がきっかけとなり、「崇仏派」の「蘇我馬子」と「排仏派」の「物部守屋」との間で戦が起こってしまいます。(崇仏派とは「仏教を大切にしようとする一派」。排仏派とは「仏教を廃止しようとする一派」)
「厩戸皇子」は崇仏派「蘇我馬子」の側に加わり、自ら戦場に赴いて四天王に戦勝を祈願。ライバル「物部守屋」を撃破することに成功します。
この時の戦勝祈願成就のお礼として、四天王に捧げて作られたのが現在の大阪「四天王寺」です。
「蘇我馬子」は「物部守屋」を討ち果たしたのち、聖徳太子の叔父「崇峻天皇」を即位させました。
しかし政治の実権を「蘇我馬子」が握ったことに「崇峻天皇」が不満を持ったことがきっかけとなり、蘇我馬子は【592年】に崇峻天皇を暗殺させます。
この事件は、日本初の臣下による天皇暗殺事件と言われています。
その後、聖徳太子の叔母「推古天皇」が日本史上初の女性天皇として即位しました。
推古天皇は厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子にして「蘇我馬子」とともに政治を補佐させます。推古天皇の治世は30年以上続くことになるのです。
厩戸皇子は推古天皇の在位中、政治で数々の功績を残しました。
「小野妹子」ら「遣隋使」を派遣し、大国「隋」の最先端の政治体制・文化を学ばせます。
【603年】に「官位十二階」を、【604年】に「十七条憲法」を制定します。
【620年】に蘇我馬子と協力し、『天皇記』、『国記』を編纂しました。
【621年】、母「穴穂部間人皇女」が病に倒れ、亡くなります。
母を看病していた「聖徳太子」も妃「膳手大娘」とともに病に倒れてしまいました。
【622年2月22日】、1日前に亡くなった妃の後を追うように、聖徳太子は49歳で亡くなったのです。
法隆寺はいつ建てられたのか?
法隆寺が建てられたのは、【607年】と言われています。
【601年】、厩戸皇子は斑鳩(いかるが)に宮を作り始めました。(斑鳩は、現在の「奈良県生駒郡斑鳩町」。法隆寺周辺のこと)
当時の斑鳩は、大和国(奈良県)と河内国(大阪府東部)を結ぶ交通の要だったので、廐戸皇子はこの地を選んだのでしょう。
【605年】、厩戸皇子はそれまで住んでいた「池辺双槻宮」から、「斑鳩宮」に住まいを移し、宮の隣に斑鳩寺(いかるがでら)を作り始めました。
この斑鳩寺が、のちに「法隆寺」と呼ばれるようになったのです。
現在、私たちが見ることのできる「法隆寺」の東院は、厩戸皇子が作った「斑鳩宮」の跡地です。
『日本書紀』には、斑鳩寺がいつ頃建てられたか記述がありません。
現在、京都の「知恩院」に残されている『上宮聖徳法王帝説』の記載と、法隆寺の金堂の「薬師如来像の光背に刻まれた銘」から、「斑鳩寺」が完成したのは【607年】だったといわれています。
しかし以下の3つの理由から、本当に【607年】に完成したのか疑問をもつ学者もいます。
- 『上宮聖徳法王帝説』がいつ、誰によって書かれたか不明であること
- 【607年】頃は日本に薬師如来信仰がまだ根付いていなかったこと
- 薬師如来像の製作が様式と鋳造から【7世紀後半】と思われること
いずれにせよ、『日本書紀』には「【670年】に法隆寺が全焼した」という記録があるので、それ以前に法隆寺の伽藍が整っていたのは確実です。
法隆寺の前身の斑鳩寺が【607年】に作られた事実が何らかの形で伝えられており、後年、その情報が薬師如来像の光背に刻まれたのではないか・・・と私は思います。
法隆寺の歴史!何の目的で作られたのか?
法隆寺は【607年】に父「用明天皇」の菩提を弔うため、聖徳太子によって作られました。
【587年】に天然痘にかかった用明天皇は、病気が治ることを願い、お寺を作ると誓いました。ところがその願いを果たせず崩御します。
そのため、父「用明天皇」の果たせなかった願いを叶え、その菩提を弔うため「厩戸皇子」は、斑鳩宮の隣に「斑鳩寺」を作りました。
金堂の薬師如来像の光背に刻まれた銘によれば、【607年】に「斑鳩寺」は完成します。
【622年】に「厩戸皇子」が亡くなり、翌【623年】、その冥福を祈るため「止利仏師」が、法隆寺金堂の本尊「釈迦如来像」を作ります。
その後【643年】に、「蘇我馬子」の孫「蘇我入鹿」が斑鳩宮を攻撃。聖徳太子の息子「山背大兄王」とその一族を滅亡させる事件が起こりました。
この事件によって、聖徳太子の一族は滅亡します。
この時、斑鳩宮は焼失しましたが、『日本書紀』には「斑鳩寺も焼けた」という記録がないので、このとき斑鳩寺は無事だったと考えられています。
ところが「天智天皇(中大兄皇子)」の治世、【670年】に法隆寺は全焼してしまいました。
明治時代、『日本書紀』のこの記述から、「法隆寺の西院は全焼し再建された」とする説と、「推古天皇の時代のままである」とする説とで、「再建・非再建論争」が起きました。
しかし【1944年】の発掘調査で、西院の南東にある若草伽藍が元々の斑鳩寺だということが判明し、論争に決着がついたのです。つまり「法隆寺の西院は全焼し再建された」ものだったということです
『法隆寺資材帳』(法隆寺の財産目録とその由来を記録したもの)によれば、【711年】に中門の金剛力士像が完成した・・・という記録があるので、法隆寺の再建はその頃完成したようです。
『法隆寺』について「ひとこと」いいたい!
『日本書紀』が書かれた時、「天智天皇」をモデルに創作した功績を、斑鳩にいた有力な王族「厩戸皇子」にあてはめて「聖徳太子」を作り出したとする学説があります。
しかし「蘇我入鹿」が「山背大兄王」を滅ぼしたときに、厩戸皇子の一族は滅亡しました。
「法隆寺」は、滅亡した一族が作ったお寺です。
何故そんなお寺を、焼失から40年以上もかけて、再建を続けさせたのでしょうか?
当時は「大化の改新」後で、「すべての土地と人民は国家のもの」という「公地公民制」の時代ですから、法隆寺の再建には国費が使われたはずです。
同じ大王家の一族とはいえ、再建が進んだ治世の「天智天皇」「天武天皇」「持統天皇」「元明天皇」の4代の天皇は、聖徳太子一族とは直接の血縁関係はありません。
しかも天智天皇が生まれたのは、厩戸皇子が亡くなってから4年後のことで、面識さえないのです。
ただ、あったことがなかったとはいえ4代の天皇たちは、周囲の人間から「聖徳太子の大いなる功績」について聞かされたことはあったと思います。
おそらく厩戸皇子は「偉大な尊敬すべき政治家」として、「天智天皇」や「天武天皇」が生きた時代の人たちの記憶に残っていたのでしょう。
聖徳太子の一族が滅亡してしまったので、その追悼と菩提を弔うために、法隆寺を再建させたのではないでしょうか。
『日本書紀』が書かれた時に、「天智天皇」をモデルにした功績を創作し、かつて斑鳩にいた「厩戸皇子」という人物にあてはめて「聖徳太子」がつくりだされた・・・と考えるよりも、死後にそう称えられる偉大な人が「天智天皇」以前にいた、と考えたほうが自然ではないか・・・と私は思います。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「法隆寺」は「聖徳太子」によって建てられた。聖徳太子とは、7世紀日本の政治家。「冠位十二階」「憲法十七条」を制定した人。
- 法隆寺は【607年】に建てられたとされている。ただ、建てられた時期については諸説ある。
- 「法隆寺」が建てられた目的は、聖徳太子の父のため。聖徳太子の父「用明天皇」が、自分の病気が治ることを願って「寺」を建てようとしたがその前に亡くなった。父が望んだ「寺の建立」を息子の「聖徳太子」が実現した。
この記事を短くまとめると、以下の通り
「法隆寺」は、父親の菩提を弔うため、「聖徳太子」が飛鳥時代に作ったお寺です。
【607年】に完成し、その後【670年】に全焼してしまいました。
法隆寺は全焼後、4代にわたる天皇の治世の間に再建が続けられ、【711年】に再建が完成しました。
4代にわたる天皇の治世に行われた再建によって、世界最古の木造建築である【法隆寺】を、私たちは今でも見ることができるのです。
【1993年】に世界遺産に指定された法隆寺は、現在気軽に訪れることのできる人気の観光スポットになっています。
以上となります。
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