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「大化の改新」と言えば、「ムシゴロシ(645)の大化の改新」。
【645年】の「蘇我入鹿」暗殺事件(乙巳の変)を思い浮かべる人は多いと思います。
しかし「乙巳の変」は「大化の改新」の始まりの事件ではあっても、「乙巳の変」=「大化の改新」ではありません。
「大化の改新」とは、中大兄皇子が中臣鎌足と主導した、古代日本の政治改革のことです。
この記事では「大化の改新」についてあまり詳しくない人向けに、わかりやすく解説します。
これを読んで「そうだったのか、大化の改新!」と、スッキリ理解してくださいね。
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この記事を短く言うと
- 「大化の改新」とは、「中大兄皇子」と「中臣鎌足」が行った古代日本における「政治改革」。
これにより当時の日本は「中央集権国家」として大きく前進した。
- 「大化の改新」とは、当時の最大権力者「蘇我入鹿」が暗殺された「乙巳の変」より始まった。皇極天皇の子「中大兄皇子(のちの天智天皇)」と、藤原氏の祖先「中臣鎌足」が中心となって行われた。
- 「大化の改新」の目的は、日本を隣国「唐」にならった「中央集権国家」とすること。「中央集権国家」とは読んで字の如く、「中央(首都)に権力を集中させた、中央からの命令で地方を指導する国家」のこと
大化の改新とは何か?その内容を簡単に解説
「大化の改新」とは、「中大兄皇子」と「中臣鎌足」が主導した古代日本の政治改革です。
【645年】、「乙巳の変」で蘇我氏を滅亡させた「中大兄皇子」と「中臣鎌足」は、これまでの朝廷を一新。
国の政治改革を始めました。
改革の手始めとして、まず中大兄皇子の叔父「孝徳天皇」が即位し、難波に遷都(首都を移すこと)します。
次いで、日本で初めて「元号」を定め、「大化」と名付けました。
「大化の改新」という名称は、この日本初の元号によるものです。
翌【646年正月】、朝廷は4か条からなる「改新の詔」を発し、以下のように宣言。
- 土地と人民はすべて国家のものである
- 地方に行政区画を作り、中央集権的な国家体制を作る
- 戸籍を作り、6歳以上の男女に「区部田」を与える
- 統一的な税制を施行する
「孝徳天皇」の在位中に行われたこうした一連の国政改革を、「大化の改新」と言うのです。こうして、隣の大国「唐」にならった中央集権的な国家体制を作るための政策が次々と打ち出されました。それらに続いて新しい官職・位階を定めるなど、他にも数々の改革を行っていきました。
ただし、近年の研究によってこれらの事績の中には、これら改革の記録が記された歴史書『日本書紀』が書かれた時に、若干脚色されたものもあると指摘されています。(つまり大げさに記した・・・ということ)
いずれにせよ、「大化の改新」は国の仕組みを大きく変える政治改革であり、古代日本における「近代化改革」とも言えます。
徳川家康がひらいた「江戸幕府」を倒し、天皇親政による政府を樹立した「明治維新」に似ていますね。
大化の改新の中心人物まとめ!中大兄皇子・中臣鎌足など
「中大兄皇子(天智天皇)」の生涯まとめ
大化の改新の中心人物、「中大兄皇子」と「中臣鎌足」、そして「乙巳の変」で暗殺された「蘇我入鹿」とは、どんな人だったのでしょう?
「中大兄皇子」は、【626年】に第34代「舒明天皇」と第35代「皇極天皇(重祚して第37代斉明天皇)」との間に生まれました。
本名は「葛城王」と言い、その名は育てられた蘇我氏の勢力地域に由来します。
中大兄皇子は「乙巳の変」の後、「大化の改新」を推し進め、また政敵を排除し、権力地盤を固めました。
【660年】、唐と高句麗に滅ぼされた朝鮮半島の国「百済」救援のため、「白村江の戦い」を起こします。ところが大国「唐」に敗北。「遣唐使」を送り、唐と和睦します。
百済復興の戦いの最中、【661年】に母「斉明天皇」が崩御しますが、なぜか息子の「中大兄皇子」は天皇に即位しませんでした。
中大兄皇子が即位して、第38代「天智天皇」となるのは【668年】ことです。【645年】の入鹿暗殺事件から、実に23年も経過してからです。
即位が遅くなったのは、他に皇位につく資格のある「年長の皇子」がいたからだ・・・とも言われていますが、はっきりした理由はわかっていません。
【672年】、天智天皇(中大兄皇子)は近江大津宮において、46歳で崩御しました。
「中臣鎌足」の生涯まとめ
「中臣鎌足」は平安時代に権勢をふるった名門「藤原氏」の祖先です。
鎌足については、生年も出生地も、はっきりしたことはわかっておらず、『日本書紀』に初めて登場するのは【644年】、「入鹿暗殺事件」の前年です。
隋・唐で学んだ「南淵請安(みなみぶちのしょうあん)」に弟子入りして学ぶうち、蘇我氏を倒す決意を秘かに固めた中臣鎌足。共に闘う大王家の人間を探すうち、飛鳥寺でひらかれた蹴鞠の会で「中大兄皇子」と出会いました。
「乙巳の変」後は中大兄皇子の側近となり、「大化の改新」を推し進め、内大臣に出世します。
【669年】に天智天皇(中大兄皇子)から藤原姓を賜った翌日、一説によれば、56歳で亡くなりました。
「蘇我入鹿」の生涯まとめ
「蘇我入鹿」は飛鳥時代の豪族で、「蘇我馬子」の孫、「蘇我蝦夷」の息子です。
生年ははっきりしておらず、享年も定かではありません。
【642年】に「皇極天皇」の即位にあたり、父「蘇我蝦夷」のあとを継ぎ、国政を掌握し始めます。
【643年10月】、蘇我蝦夷は朝廷に無許可で、大臣(おおおみ)の地位を息子「蘇我入鹿」に譲ってしまいました。
【翌11月】、入鹿は「聖徳太子」の息子で、有力な大王位継承候補者である「山背大兄王」を襲撃。聖徳太子の一族を滅亡させてしまいます。
そればかりか、入鹿と蝦夷の邸宅を、天皇の住まいを意味する「宮」と呼び、自分の子を天皇の子供を意味する「皇子(みこ・おうじ)」と呼ばせました。
こうした入鹿の振る舞いが、大王家や他の豪族の反感を呼び、「乙巳の変」を起こす下地となっていったのです。
「大化の改新」の目的は何だったの?改革の前と後で、何が変わった?
「大化の改新」その目的は「唐」にならった国造り
「大化の改新」の目的は、蘇我氏に代表される有力豪族から、大王家(古代の天皇家)が支配権を取り戻し、唐にならった「中央集権国家」を作り上げることだったと言えます。
当時の日本では、各豪族が土地と人民を支配し、朝廷での役目を代々世襲していました。(世襲・せしゅう・・・・一族で代々役目を引き継ぎ、独占すること)
豪族の中で一番力を持っていたのが、朝廷の財政を担当していた「蘇我氏」です。蘇我氏の勢いは、大王家さえしのぐほどでした。
しかし唐から留学生や僧が帰国し、唐の官僚制や中央集権制が伝えられると、蘇我氏に反感を抱いていた大王家や豪族たちの間から、「唐にならった国家を作るべきだ」という声が高まっていったのです。
こうした気運の中で「中臣鎌足」は、蘇我氏を倒して大国「唐」にならった国家をつくるため、共に闘う大王家の人間を探し始めました。
中臣鎌足は初め、「軽皇子(後の孝徳天皇)」に近づきます。しかし役不足と判断し断念。その後、飛鳥寺で「中大兄皇子」と出会います。この出会いが「大化の改新」を生むこととなるのです。
「乙巳の変」で、「中大兄皇子」と「中臣鎌足」が飛鳥板葺宮において「蘇我入鹿」を暗殺。その父「蘇我蝦夷」も邸宅に追い詰め自害させ、蘇我氏を滅亡させました。
「蘇我入鹿」が殺害された理由!
なぜ「蘇我入鹿」は暗殺され、蘇我氏は滅亡させられたのでしょうか?
中大兄皇子と中臣鎌足の「中央集権国家をつくる」という目的を果たすためには、一番力がある豪族で邪魔な存在でしかない「蘇我氏」は、絶対に排除しなくてはいけなかったからです。
もしも「中央集権国家」をつくろうとすれば、「蘇我氏」は強く反対していたでしょう。当然です。「中央集権国家」ということは、「蘇我氏」がそれまで独占していた権力を「天皇家」に奪い返さなくては行けないのです。
そんなことを「蘇我氏」が認めるはずがありません。「蘇我馬子」の代にせっかく手にした「既得権益」を、みすみす手放すはずが無いのです。
「蘇我氏」が権力を手放さないなら、滅ぼすしかありませんでした。
こうして、蘇我氏を滅亡させた中大兄皇子と中臣鎌足は、これまでの朝廷を一新。
唐にならった新しい中央集権国家を作るため、国政の改革を始めました。
この改革により、土地と人民は国のもの(公地公民制)となり、それまで土地と人民を私有して財を成していた豪族たちには、代わりに国から「食封(じきふ)」が配布されるようになりました。
また、豪族の役職の世襲も廃止されました。
これらの施策によって、豪族たちは「乙巳の変」以前の力を大きく削がれることとなります。
「唐」にならった中央集権国家を作るためには、「律令(りつりょう)」も定める必要がありました。
「律」とは今でいう「刑法」のこと。「令」とはそれ以外の法律(主に行政法など)のことです。
中大兄皇子が即位して「天智天皇」となった後、【668年】に遷都先の近江で「中臣鎌足」に作らせた「近江令」が日本で最初の律令と言われています。しかしその「近江令」の原本は存在しないため、実在が疑われています。
近江令の実在が疑われているため、【689年】天智天皇の娘「持統天皇」によって発令された「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」が、日本で最初に施行された法律だった・・・・という説が有力となっているのです。
『大化の改新』について「ひとこと」言いたい!
「乙巳の変」から始まる「大化の改新」の真の主導者は、「中大兄皇子」ではなく、「中臣鎌足」だったと私は思います。
中臣鎌足は蘇我氏を倒し、自分が政治の実権を握るため、共に闘う大王家の人間を探す中で中大兄皇子と出会い、「乙巳の変」を起こしました。
なぜ中臣鎌足は「中大兄皇子」のような「大王家の協力者」を必要としたのでしょうか?
その理由は「中臣鎌足が大王家の血を全くひいていなかったから」だと私は思います。
「自分が蘇我氏を倒すのは、出世などの私利私欲のためではなく、『国を建て直したい』という自分と同じ志を持つ「中大兄皇子」のためである」
「乙巳の変」を起こす大義名分として、それを他の豪族たちに納得させる必要があったのです。
私利私欲のために暗殺・改革をしたのでは、周囲の豪族が協力しません。
そうなると改革は失敗します。
あくまでも『国のため』であるということを、豪族たちに知らしめるためにも、中臣鎌足は「中大兄皇子」を必要としたのです。
その目論見は見事に当たり、中臣鎌足は改革に成功。
日本は徐々にではあるものの、中央集権国家へ近づいていくのです。
ところが「中臣鎌足」が亡くなった後、「天智天皇(中大兄皇子)」が、「白村江の戦い」で敗北した後始末に失敗。
さらには「後継者争い」を招いてしまうような失敗も続けたため、天智天皇の死後に「壬申の乱」が勃発。
天智天皇の息子「大友皇子」が、天智天皇の弟「大海人皇子(天武天皇)」に倒されてしまうことになるのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「大化の改新」とは、「中大兄皇子(天智天皇)」と「中臣鎌足」が行った古代日本における「政治改革」。
- 「大化の改新」は、当時の最大権力者「蘇我入鹿」が暗殺された「乙巳の変」より始まった。のちの「天智天皇」こと「中大兄皇子」と、藤原氏の祖先「中臣鎌足」により行われた。
- 「大化の改新」の目的は、日本を「中央集権国」とすること。中大兄皇子と中臣鎌足は、「大化の改新」という政治改革で、日本を隣国「唐」のような強力な国家にしようとした
この記事を短くまとめると、以下の通り
「大化の改新」は、中大兄皇子の叔父「孝徳天皇(軽皇子)」の在位中に行われた一連の政治改革の総称です。
「中大兄皇子」と「中臣鎌足」が主導し、唐にならった「律令(法律)による中央集権国家の樹立」を目指しました。
それは国の仕組みを変える大改革だったため、彼らが目標とした「律令による中央集権国家の樹立」は、「乙巳の変」からさらなる歳月を要しました。
律令制は、【701年】の「大宝律令」の発布を経て、【757年】の「養老律令」の施行で最盛期を迎えることになったのです。
以上となります。
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