足利義昭と織田信長の関係を3分で理解するポイント
- 足利義昭は兄・義輝の暗殺後に各地を流浪し、最終的に織田信長の力を借りて上洛、第15代将軍に就任しました。二人の関係は当初「相互補完」の蜜月状態でした。
- 信長が義昭に突きつけた「殿中御掟」や「十七ヶ条の意見書」がきっかけで関係が決裂。義昭は将軍としての権威を利用し、武田信玄や朝倉義景らを巻き込んだ「信長包囲網」を形成しました。
- 1573年の槇島城の戦いで義昭は敗北し京都を追放されますが、将軍職は辞しておらず、毛利氏のもとで「鞆幕府」と呼ばれる亡命政権を維持し続けました。
- 義昭は本能寺の変の「黒幕」とする説もあり、明智光秀との因縁は現在も研究者の間で議論が続いています。最終的に義昭は秀吉の時代を生き延び、慶長2年(1597年)に61歳で病没しました。
足利義昭とは何者か? 流浪の将軍候補が歩んだ茨の道
足利義昭は何をした人なのか。一言でいえば、室町幕府最後の第15代征夷大将軍です。しかし、その人生は「将軍」という肩書きから想像される華やかさとはかけ離れたものでした。もともと将軍になる予定などなく、出家して僧侶として生きるはずだった人物が、兄の非業の死をきっかけに戦国の荒波に放り出されたのです。
兄・足利義輝の暗殺と奈良からの脱出
永禄8年(1565年)、第13代将軍・足利義輝が三好三人衆と松永久秀の連合軍によって暗殺されました。「剣豪将軍」の異名をとった義輝は、名刀を何本も畳に突き刺して最後まで戦い抜いたと伝えられています。この壮絶な最期により、足利将軍家は存亡の危機に立たされました。

「Wikipediaコモンズ」より引用
義輝の弟であった覚慶(のちの義昭)は、当時奈良の興福寺で僧侶として暮らしていました。将軍になるのは兄・義輝であり、覚慶にはそもそも政治の世界に入る予定がなかったのです。しかし兄の暗殺を受けて、覚慶は三好勢に幽閉されてしまいます。この幽閉から脱出できたのは、細川藤孝や和田惟政ら忠臣たちの尽力によるものでした。
各地を転々とした義昭がたどり着いた織田信長
奈良を脱出した義昭は、まず近江の六角氏を頼りましたが、色よい返事は得られませんでした。次に越前の朝倉義景のもとに身を寄せますが、朝倉義景は義昭を丁重にもてなしたものの、上洛のための軍事行動を起こそうとはしなかったのです。義昭にとって、この越前での日々は焦りと失望の連続だったことでしょう。
転機が訪れたのは、永禄11年(1568年)のことです。美濃を平定したばかりの織田信長が、義昭を岐阜の立政寺に迎え入れました。信長は義昭を迎えると、わずか一か月あまりで上洛の準備を整え、電撃的な進軍を開始します。六角承禎を一蹴し、三好勢を退けて京都に入った信長は、義昭を第15代征夷大将軍に就任させることに成功しました。

「Wikipediaコモンズ」より引用
ここで注目すべきは、信長の行動の速さです。朝倉義景のもとで数年間も足踏みを強いられていた義昭にとって、信長のスピード感はまさに衝撃だったことでしょう。上洛戦はわずか一か月足らずで完了し、行く手を阻んだ六角氏はたった二日で壊滅させられています。この電撃的な上洛は、信長の戦い方の特徴である「圧倒的なスピードと集中投入」がいかんなく発揮された事例として、戦国史のなかでも特筆に値するものです。義昭が朝倉義景ではなく織田信長を選んだ(あるいは選ばざるを得なかった)ことは、結果的に歴史の歯車を大きく動かすことになりました。もし義昭が越前に留まり続けていたら、室町幕府再興の機会は永遠に訪れなかったかもしれません。
織田信長と足利義昭の上洛 ── 二人三脚の蜜月時代
上洛を果たした信長と義昭の関係は、当初きわめて良好でした。戦国時代の足利将軍の研究をリードしてきた山田康弘氏は、二人の関係を「互いに補完し合っていた」と表現しています(サライ)。義昭は信長の強大な軍事力を頼りにし、信長は義昭の将軍としての権威を利用することで、自らの軍事行動に正当性を持たせていたのです。
なぜ信長は義昭を将軍にしたのか?
ドラマや映画では、信長が「天下布武」すなわち天下の支配者になるための布石として、義昭を神輿として担いだという描かれ方がよくされます。しかし、近年の研究では、上洛を果たした段階の信長には、まだ日本全国を自ら支配するという明確なビジョンはなかったとする見方が主流になりつつあります。信長の目的はあくまでも室町幕府の再興であり、義昭を将軍にすることで幕府の権威を高め、その後ろ盾として支えるという意識だったと考えられているのです。
【筆者考察】信長はなぜ義昭を将軍にしたのか?
ドラマや映画では、よく信長が天下布武つまり天下の支配者になるために、神輿として担がれた、利用されたという設定になっています。しかし本当にそうなのでしょうか?信長は日本全国を自分で支配するという野望を、描くことができていたのでしょうか?私はそれほどまでに壮大な夢を抱いていたとは思えません。おそらくですが信長は、足利義昭という人を征夷大将軍に据えることで、名前を歴史に刻もうと考えていただけなのではないかと思うのです。尾張から美濃を切り従えた直後の織田信長が、北は津軽から南は薩摩まで、全部自分の領土にしているところなど、果たして想像できていたのか。絶対にしていないと、私は思っています。信長が足利義昭を将軍にした理由それは、「自分の名前を歴史に刻むため」だと考えています。実際に、1573年に足利義昭を京都から追放した後、義昭に京都へ戻ってくるようにと、信長は説得しています。その説得に対して足利義昭は「信長から人質を出すなら戻ってやる」というなんとも上から目線での要求をしているのです。こんな要求のめるはずもなく、交渉は決裂。為政者がいなくなったことで、仕方なく信長が足利義昭の代わりに政治を取り行っていたわけです。天下への野心など、この時の信長にはなかったと、私は思っています。
信長が義昭のために築いた城「旧二条城」の意味
「織田信長と足利義昭が築いた城は?」という質問への答えは、永禄12年(1569年)に築かれた「旧二条城」です。現在の京都にある二条城(徳川家康が建てたもの)とは別の城で、現在の京都御苑の南西付近にありました。信長はわずか70日ほどの突貫工事でこの城を完成させたとされています。

注目すべきは、この旧二条城の規模と構造です。発掘調査では、石垣に寺院から運び込まれた石仏や墓石が大量に使われていたことが判明しており、信長の合理性と大胆さを示す証拠として研究者の間で注目されています(サライ)。信長がこれほどの労力をかけて義昭のための居城を築いたという事実は、この時点での二人の関係がいかに良好であったかを物語っています。
管領・副将軍を辞退した信長の真意
将軍に就任した義昭は、信長の功績に報いるために「管領」や「副将軍」への就任を打診しました。管領は室町幕府の最高職のひとつであり、細川・畠山・斯波の三家からしか選ばれない慣例がありました。織田家は斯波家の家臣筋ですから、これは破格の待遇といえます。
しかし信長は、足利家の桐紋と斯波家並みの礼遇だけを受け取り、管領・副将軍の就任はきっぱりと断っています。大正大学准教授の木下昌規氏によれば、かつて将軍を支えた三好氏や細川氏は「御供衆」「御相伴衆」といった称号を受けていたため、信長が何の役職も帯びない状態は当時としては「異様」だったといいます(サライ)。信長は幕府の体制に組み込まれることを避け、自律性を保ったまま将軍と並び立つ立場を目指していた可能性があるのです。
この管領辞退のエピソードは、信長と義昭の関係を理解するうえできわめて重要です。信長が幕府の体制内に入ることを拒んだということは、二人の間に最初から微妙な緊張関係が存在していたことを意味しています。義昭としては、信長を幕府の正式な役職に就けることで「自分の部下」として取り込みたかったはずです。しかし信長はその意図を見抜き、あえて幕府の外側に立つことを選びました。この時点ですでに、将軍と後ろ盾という関係のバランスは不安定さをはらんでいたのです。信長にとって室町幕府とは、利用すべき権威ではあっても、自らを縛る枠組みであってはならなかったのでしょう。
足利義昭と織田信長はなぜ対立したのか?
蜜月関係は長くは続きませんでした。上洛からわずか2年ほどで、信長と義昭の間には決定的な亀裂が走ります。その原因は、将軍としての権限をめぐる主導権争いにありました。
殿中御掟と十七ヶ条の意見書── 信長が突きつけた最後通牒
永禄13年(1570年)、信長は義昭に対して「殿中御掟」と呼ばれる九ヶ条の規則を突きつけました。その内容は、将軍が直接諸大名に御内書(命令書)を出すことを制限するなど、義昭の政治的自由を大きく縛るものでした。さらに元亀3年(1572年)には「十七ヶ条の意見書」を追加で送りつけ、義昭の行動を逐一批判しています。
この十七ヶ条の内容は、義昭が約束を守らないこと、家臣に対する賞罰が不公平であること、領地の横領を行っていることなど、きわめて具体的な非難が並んでいます。信長から見れば、義昭は将軍としての責務を果たしていない「問題のある君主」だったのでしょう。一方、義昭から見れば、いくら恩人とはいえ家臣の分際で将軍に意見書を突きつけるなど、到底許しがたい侮辱だったはずです。
この対立において見逃せないのは、義昭が信長に対して密かに進めていた外交工作です。義昭は信長に内緒で各地の大名に御内書を送り、反信長の気運を醸成しようとしていました。信長がこの動きを察知し、十七ヶ条の意見書でそれを厳しく糾弾したことが、二人の決裂を決定的なものにしたと考えられています。義昭にとっては将軍として当然の外交行為であっても、信長にとってはそれは明確な裏切りでした。同じ行為が、立場によってまったく異なる意味を持つ。この認識のずれこそが、二人の関係を修復不可能なものにした本質的な原因だったといえるでしょう。
義昭は「現実と理想の区別がついていない人」だった?
対立の根本には、義昭の人物像そのものが深く関わっています。義昭はもともと将軍になる予定のない人物でした。幼少期から僧侶として育てられ、政治や人心掌握術といった「帝王学」を学ぶ機会がなかったのです。にもかかわらず将軍の座についたことで、「自分は天下の頂点にいるのだから、周囲は従って当然だ」という意識だけが膨らんでいったと考えられます。
【筆者考察】足利義昭はどんな人だったのか?
私の勝手な考えなのですが、足利義昭は、現実と理想の区別がついていない人だった気がします。足利義昭を見ていると、後白河法皇を思い出します。とてもよく似ている気がするのです。どういうことかというと、後白河法皇は、「自分は一番偉いのだから、自分の命令に、周囲は文句を言わずに従うべきだ!そうでなければおかしいし、周囲が悪い」と考えている人でした。そのため平清盛は、後白河法皇の無茶な命令に従うことができず、幽閉せざるをえなくなりました。足利義昭も同じです。「自分が一番偉いのだから、部下は私の命令に従うべきだ」と思い込んでいて、人を動かすための原理について何もわかっていません。織田信長にかわいがられた名将・蒲生氏郷はこんなことを言ったと聞いたことがあります。「人は利(利益)と仁(人から受ける思いやり)の両輪をもって動く」。つまり、人は常に思いやりをかけられて、しかも利益があるから動くのだということです。しかし後白河法皇も足利義昭も、その利益も思いやりも、どっちもなくても、自分は偉いのだから、部下たちは動かなくてはいけないと思い込んでいます。これで人がついてくるはずがありません。なぜそんなことがわかっていないかというと、足利義昭も後白河法皇も、征夷大将軍や天皇になる予定がない人たちだったので、帝王学を学んでいないのです。だから、人の統率の仕方がわかっていないのです。ちなみに、織田信長もそれがわかっていないと思います。信長についていくと、無尽蔵の利益はあります。しかし思いやりがありません。人の面子を立てるということができていない信長は、利益を与えるだけで人がついてくると勘違いしています。その人の面子を立てる、つまり思いやりがない信長は、浅井長政、松永久秀、荒木村重、明智光秀と、優秀な盟友や部下の面子を叩き潰して、その全てに裏切られています。面子を保つ思いやりが、この時代はとても大切だったのでしょう。
信長包囲網の全貌 ── 将軍・義昭が仕掛けた一大包囲作戦
信長との関係が決裂した足利義昭は、ただ泣き寝入りする人物ではありませんでした。義昭が切った次のカードは、自らが持つ「将軍の権威」を最大限に利用した外交戦略です。将軍の名のもとに各地の有力大名へ御内書(命令書)を次々と送りつけ、信長を四方から包囲する一大同盟を作り上げようとしたのです。これが世にいう「信長包囲網」です。
武田信玄・朝倉義景・浅井長政── 反信長同盟の顔ぶれ
義昭が結集させた反信長勢力の顔ぶれは、まさに戦国オールスターといえる豪華さでした。甲斐の武田信玄、越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、石山本願寺の顕如、さらには紀伊の雑賀衆に至るまで、信長を取り囲むように各地の勢力が包囲網に加わっています。元亀年間(1570年〜1573年)を通じて、信長はこの包囲網との多方面作戦を強いられることになりました(サライ)。
なかでも信長にとって最大の脅威は、元亀3年(1572年)に西上作戦を開始した武田信玄です。三方ヶ原の戦いで徳川家康を完膚なきまでに打ち破った信玄が、そのまま西へ進軍してくれば、信長は東西から挟撃される絶体絶命の窮地に陥るはずでした。義昭の外交戦略は、まさに信長を追い詰める寸前にまで達していたのです。
しかし、ここに義昭の限界がありました。包囲網に参加した大名たちは、それぞれの思惑で動いています。浅井長政は朝倉氏との同盟義理を守るため、朝倉義景は自領の防衛が最優先、武田信玄には東海方面の領土拡大という固有の目的がありました。義昭の将軍としての号令は彼らを「一つの目標」に向かわせるだけの求心力を持っていなかったのです。各大名にとっての「利」と「仁」を提供できなかった義昭のもとでは、包囲網の足並みはどうしても揃いませんでした。
包囲網はなぜ崩壊したのか?── 信玄の死と1573年の決着
元亀4年(1573年)4月、信長包囲網の要であった武田信玄が西上の途上で病死します。享年53。信長を最も追い詰めていた男の突然の死により、包囲網の最大の柱が一気に崩れ去りました。さらに、朝倉義景も降雪を理由に越前へ引き上げてしまい、武田信玄は生前に義昭へ遺憾の意を示していたほどです(WEB歴史街道)。

「Wikipediaコモンズ」より引用
信玄の死を知った信長は、ここぞとばかりに反攻を開始します。まず朝倉義景を刀根坂の戦いで壊滅させ、返す刀で浅井長政の小谷城を攻略。元亀4年7月には、挙兵した義昭が籠もる槇島城を包囲し、これを攻め落としました。義昭は降伏し、京都から追放されます。これにより、足利将軍家が京都に拠点を置いた約240年の歴史に、事実上の幕が下ろされたのです。1573年という年号は、室町幕府滅亡の年として教科書にも記されています。
【筆者考察】信長包囲網が崩壊した本当の理由
信長包囲網が失敗した原因は、信玄の病死という偶然だけではないと私は思っています。そもそも、この包囲網を束ねていたのは足利義昭の「将軍」という肩書きだけでした。経営に例えるなら、社長の肩書きだけで部下を動かそうとして、具体的な報酬も将来のビジョンも示さなかったようなものです。朝倉義景が雪を理由に撤退したのも、義昭に命を懸けてまで従う理由がなかったからでしょう。武田信玄ですら、義昭のためではなく自国の領土拡大のために動いていたに過ぎません。肩書きだけで人を動かそうとした義昭と、圧倒的な利益で人を動かした信長。その差が、最終的な勝敗を分けたのだと思います。
足利義昭の最後 ── 追放された将軍のその後と死因
京都を追われた足利義昭の人生は、ここで終わったわけではありません。むしろ追放後の義昭が見せた執念こそが、この人物の本質を浮き彫りにしています。
毛利氏を頼った「鞆幕府」と将軍職への執念
槇島城を追われた義昭は、まず堺へ移り、その後河内国、紀伊国と転々とした末に、天正4年(1576年)、中国地方の大大名・毛利氏を頼って備後国の鞆(とも、現在の広島県福山市)へ落ち延びました。ここで義昭は「鞆幕府」とも呼ばれる亡命政権を構えます。
驚くべきことに、義昭は京都を追放された後も将軍職を正式には辞任していませんでした。朝廷からの将軍宣下は取り消されておらず、形式上は義昭こそが「現職の征夷大将軍」だったのです。義昭はこの将軍の地位を武器に、毛利氏の後ろ盾を得ながら各地の大名へ御内書を送り続け、信長への対抗勢力を結集しようと画策し続けました。京都から遠く離れた鞆の浦で、義昭は将軍としての権威をひたすら振りかざし続けていたわけです。
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死します。義昭にとって宿敵の死は千載一遇のチャンスに見えたことでしょう。しかし時代は、もはや足利の権威を必要としていませんでした。信長亡き後の天下は羽柴秀吉が急速に掌握し、義昭の出る幕はなかったのです。

鞆での義昭の暮らしは、決して惨めなだけのものではありませんでした。毛利氏は義昭を丁重に扱い、将軍としての体面を保てるだけの待遇を提供しています。義昭はこの地で「鞆幕府」とも称される独自の政治体制を構え、九州の大友氏や島津氏にまで書状を送って反信長の連携を呼びかけました。京都を離れてなお将軍として振る舞い続けた義昭の姿は、見方によっては滑稽にも映りますが、別の見方をすれば、将軍の権威が地方にいてもなお一定の効力を持っていたことの証でもあります。実際に、毛利氏が義昭を手元に置き続けたのは、将軍という「政治的カード」に利用価値があると判断していたからにほかなりません。
秀吉の時代を生き延びた義昭の最期と死因
天正16年(1588年)、義昭はついに京都へ戻り、将軍職を正式に辞任して出家しました。法名は「昌山」。この瞬間をもって、室町幕府は名実ともに終焉を迎えたのです。京都を追放されてから実に15年もの間、義昭は将軍の座にしがみついていたことになります。
その後の義昭は、秀吉から意外にも厚遇されています。前将軍という格式を認められ、山城国に一万石の領地を与えられ、旧守護大名たちとともに秀吉の「御伽衆」(相談相手のような側近)として暮らしました(WEB歴史街道)。戦国の荒波に翻弄された将軍の晩年としては、意外に穏やかなものだったといえるかもしれません。
慶長2年(1597年)8月28日、足利義昭は腫物を病み、61歳でこの世を去りました。室町幕府の歴代将軍のなかでは最も長寿であったとされています。死因は腫物による病死というのが通説です。その翌年には秀吉も亡くなっており、義昭と秀吉は期せずして相次いで世を去ることになりました。信長の死から15年、義昭は信長よりもはるかに長く生き延びたのです。
足利義昭・織田信長・明智光秀 ── 本能寺の変「黒幕説」の真相
足利義昭と織田信長の関係を語るうえで避けて通れないのが、天正10年(1582年)に起きた本能寺の変です。明智光秀が信長を討ったこの大事件の背後に、足利義昭がいたのではないかという「義昭黒幕説」は、長年にわたり議論の的となっています。
光秀はもともと義昭の家臣だった?── 三者を結ぶ因縁
明智光秀の前半生には不明な点が多いのですが、信長に仕える以前に足利義昭(当時は還俗前の覚慶)の側近として活動していた時期があったとされています。光秀は細川藤孝とともに義昭の上洛を支援した功労者の一人であり、義昭と信長の仲介役を果たした人物でもありました。つまり光秀は、義昭と信長の双方に深い縁を持つ、稀有な立場にいたのです。

「Wikipediaコモンズ」より引用
のちに光秀は信長の直臣となり、義昭のもとを離れますが、旧主である義昭との関係が完全に途切れていたとは考えにくいでしょう。本能寺の変の直前、光秀が四国の長宗我部氏との取次役を外されるなど、信長との関係が悪化していたことは複数の史料から確認されています。こうした状況下で、旧主・義昭から何らかの働きかけがあったのではないかというのが、黒幕説の出発点です。
義昭黒幕説の根拠と矛盾を検証する
義昭黒幕説の主な根拠は、本能寺の変の直後に義昭が素早い政治行動を見せていることです。変の情報をいち早く入手し、毛利氏や各地の大名に書状を送って自らの復権を図ろうとした動きが確認されています。事前に変が起こることを知っていなければ、これほど迅速な対応は不可能だったのではないかという推測です。
しかし、この説には大きな矛盾も指摘されています。まず、備後の鞆にいた義昭が、京都にいる光秀と密に連絡を取り合うことは当時の通信手段では極めて困難でした。また、光秀が変の後に義昭を迎え入れるための具体的な行動を起こした形跡がないことも、黒幕説を否定する根拠となっています。歴史研究者の間でも、和樂webの記事によれば「足利義昭説以外の黒幕説で研究者が支持しているものは現在ない」としつつも、「義昭説にも多くの疑問が提示されており、最新研究の大勢は光秀の単独決行説」とされています(和樂web)。真相は今なお歴史の闇のなかにあるのです。
「殺してしまえホトトギス」── 信長の性格と愛した人物
「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」。この有名な句は、織田信長の苛烈な性格を端的に表現したものとして広く知られています。ただし、この句は江戸時代後期に作られたもので、信長本人が詠んだわけではありません。豊臣秀吉の「鳴かせてみしょう」、徳川家康の「鳴くまで待とう」とあわせて、三者の性格を対比するために創作されたものです。
では、そんな苛烈な性格の信長が最も愛した人は誰だったのでしょうか。通説では、側室の生駒吉乃(いこまきつの)が「信長が最も愛した女性」とされています。吉乃は信長の嫡男・信忠、次男・信雄、そして長女・徳姫を産んだ女性で、信長は吉乃の死を深く悲しんだと伝えられています。ただし吉乃に関する史料は限られており、愛情の深さについては軍記物語による脚色が含まれている可能性も否定できません。
一方で、信長が義昭との関係においても、単なる「利用」だけではない感情を持っていた可能性はあります。追放後に京都へ戻るよう説得した事実は、信長なりに将軍と幕府という仕組みを尊重していた証拠ともいえるでしょう。信長の人間関係は、ホトトギスの句が示すほど単純ではなかったのかもしれません。
【筆者考察】信長の人間関係における致命的な弱点
信長は「利」を与えることにかけては天才的でした。戦に勝てば領地が増え、功績を挙げれば破格の報酬が与えられる。しかし、蒲生氏郷が言ったとされる「利と仁の両輪」のうち、信長には「仁」つまり思いやりの車輪が欠けていました。浅井長政の面子を潰し、松永久秀を追い詰め、荒木村重の立場を無視し、明智光秀の面目を叩き潰した。これらの裏切りを並べてみると、信長が「人の面子を立てる」ということをいかに軽視していたかが浮かび上がります。足利義昭もまた、面子を潰された側の人間でした。将軍でありながら意見書で公然と非難され、行動を制限される屈辱は、いかばかりだったでしょうか。信長包囲網は、義昭の野心というよりも、踏みにじられた面子への反撃だったのだと、私は考えています。
まとめ ── 足利義昭と織田信長の関係が戦国史を動かした
足利義昭と織田信長の関係は、「蜜月から対立、そして追放」という劇的な展開をたどりました。流浪の身から将軍の座を勝ち取った義昭と、一介の地方大名から天下人への道を歩み始めた信長。この二人の出会いが、戦国時代の歴史を大きく動かしたことは間違いありません。
しかし、義昭を単なる「操り人形」や「愚かな将軍」として片付けてしまうのは、あまりに一面的な見方です。将軍の権威を武器に信長包囲網を組織し、追放後も15年にわたって将軍職を手放さなかった執念は、ただの無能な人物にできることではありません。近年の研究では、義昭の外交手腕を高く評価する声も増えており、戦国最高峰の「ロビイスト」という側面が再認識されつつあります。
そして、二人の対立の裏には「人を動かす原理」をめぐる根本的な違いがありました。将軍の権威だけで人を動かそうとした義昭、圧倒的な利益で人を動かした信長。しかし、その信長もまた「仁」を欠いたために足元を掬われることになります。義昭と信長の関係は、リーダーシップとは何かという普遍的な問いを、現代の私たちにも投げかけているのではないでしょうか。
最後に、足利義昭という人物をもう一度振り返ってみましょう。義昭は確かに、信長に敗れて京都を追放された「敗者」です。しかし、僧侶の身分から将軍にまで上り詰め、追放後も15年間将軍職を手放さず、秀吉の時代まで生き延びて61歳の天寿を全うしています。室町幕府の歴代将軍のなかには、若くして暗殺された者や、戦乱のなかで命を落とした者も少なくありません。そのなかで最も長く生きた義昭は、ある意味で「最もしたたかな将軍」だったともいえるのです。歴史は勝者の側から語られがちですが、敗者の側から見つめ直すことで、新たな発見が生まれることもあります。足利義昭と織田信長の物語は、まさにそうした再発見の宝庫なのです。
参考資料
- サライ「将軍足利義昭と織田信長の不可思議な関係」
- サライ「信長を窮地に陥れた〈信長包囲網〉」
- サライ「旧二条城の発掘調査から見えてきた、信長と足利義昭との関係」
- WEB歴史街道「信長包囲網~足利義昭、室町幕府再興の夢」
- WEB歴史街道「足利義昭の数奇な生涯」
- 和樂web「本能寺の変はなぜ起きた?明智光秀”黒幕”説に迫る」

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