皆さんは藤原道兼を、ご存知でしょうか?
藤原道兼は、あの有名な藤原道長の兄です。
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 藤原道兼は、藤原道長の兄。関白に就任して数日で病死したので【七日関白】と呼ばれた
- 道兼は、父・兼家の指示で、花山天皇を出家させた(寛和の変)
- 道兼は、乱暴ではあるものの男らしい人物だったといわれてはいるものの、肝試しで逃げ帰る小心者でもあった
この記事では藤原道兼を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は藤原道兼について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、藤原道兼に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原道兼の基本プロフィールと家系
藤原道兼の基本プロフィール
【名前】藤原道兼
【生誕】961年
【死没】995年
【享年】35歳
【別名】七日関白【官位】関白・右大臣
【氏族】藤原北家
【父】藤原兼家
【母】藤原時姫
【兄】藤原道隆
【妹】藤原詮子
【弟】藤原道長
【妻】藤原遠量娘、藤原繁子、名前不明
【子】尊子、兼隆、兼綱
藤原道兼は、藤原北家嫡流の公卿です。(公卿とは、特に身分の高いお公家さんのこと)
994年に右大臣、995年には関白として、権勢を振るいました。
父は藤原兼家、母は藤原時姫。
995年に兄・藤原道隆が亡くなると、道兼は35歳で念願の関白に就任し、一条天皇を補佐しました。
しかし関白就任から、わずか7日で急死してしまいます。
そのため兼家は、「七日関白」とあだ名されることになるのです。
藤原道兼の家系:藤原氏との関係
藤原道兼は、藤原北家の出身です。
藤原氏とは、乙巳の変や大化改新で有名な、中臣鎌足の子孫の一族のことです。
藤原北家とは、そんな中臣鎌足の息子・藤原不比等の四人の子供のうちの一人によってつくられた家系・名門貴族です。
藤原氏は、数多くの家系に別れましたが、特に藤原北家がもっとも栄えたのでした。
道兼は、そんな藤原北家のうち、藤原氏の全盛期の基礎をつくりあげた藤原兼家の息子なのです。
父・兼家の指示にしたがって、道兼は数々の権力闘争を勝利してきたのです。
その甲斐あって、藤原氏は栄華を極めたのでした。
つまり道兼は、のちに弟・道長がつくりあげる藤原氏の栄華の、基礎・土台をつくったということです。
道兼の弟・道長がつくりあげた藤原氏の栄華は、実は道兼の力のおかげということも言えるかもしれません。
藤原北家の血筋は、道兼ではなく、弟の藤原道長が子孫をつなげています。(道長の子孫からは内閣総理大臣が出ている)
対して道兼の子孫はというと、その後、出世からは遠ざかってしまいます。
その代わり、道兼の子孫は、『奇蹟の武人』とあだ名される猛将・宇都宮成綱など、北関東を支配した宇都宮氏が有名です。
宇都宮氏は、道兼の勇猛さを引き継いだのか、元寇(蒙古襲来)や南北朝時代さらには戦国時代に活躍しています。
藤原道兼の家とその子孫
藤原道兼の子孫は、宇都宮氏と名乗り、現在も続いています。
先ほど、道兼の子孫は、朝廷では出世できていないと申しました。
その代わり道兼の子孫は、地方で活躍しています。
道兼の子孫である宇都宮氏は、『奇蹟の武人』とあだ名される猛将・宇都宮成綱などを輩出し、戦国時代の最盛期には、北関東を支配したのです。
宇都宮氏は、道兼の勇猛さを引き継いだのか、元寇(蒙古襲来)や南北朝時代さらには戦国時代に活躍しています。
その宇都宮氏は現在も続いており、九州・四国・中部地方など、日本全国に広く分布しています。
藤原道兼の生涯!権力と地位
藤原道兼の生涯をわかりやすく解説!兄の死と関白の座
藤原道兼は、961年に生まれ、995年に亡くなっています。
その生涯は、権力闘争と出世に執念を燃やしたもので、父・藤原兼家の片腕として、藤原氏の栄華をつくる土台を作り上げたのです。
道兼は、父・兼家の指示に従って、妹・藤原詮子が産んだ懐仁親王を天皇に即位させることを目指していました。
孫の懐仁親王が即位すれば、外祖父の藤原兼家は、権力を独占できるからです。
そのためには、天皇の位についていた花山天皇が邪魔でした。
道兼は、花山天皇の側近としてつかえていました。
父・兼家は、息子の道兼に命じて、花山天皇に出家するように説得したといいます。
もともと花山天皇は、最愛の女性である藤原忯子を失い、出家を望んでいたといいます。
藤原兼家は、そんな花山天皇の出家を後押ししたといいます。
途中で思いとどまろうとする花山天皇の背中を押して、無理やり出家させ、天皇の位を一条天皇にゆずらせたのでした。
これにより、父・藤原兼家は摂政となって、幼い孫・一条天皇の政治を補佐する体制が完成。
そして藤原氏は、自分にとって都合の良い政治を行えるようになり、権力の土台がかたまったのでした。
父・藤原兼家は、一族の繁栄の土台をつくりあげたのち病死。
道兼は、自分こそが父の後継者であると自負していたようですが、兼家が後継者に指名したのは、兄・藤原道隆でした。
兄・道隆は、父から関白の職をゆずられるのでした。
これに怒った道兼は、父の死の直後であるにもかかわらず、宴会を行なったといいます。
その後、道兼は関白の位を望むものの、驚くべき運命が待ち受けていたのでした。
関白に就任し、権力を握る藤原道兼
父・藤原兼家から関白職をゆずられた兄・藤原道隆も、父・兼家の死から5年後の995年に病気で亡くなります。
兄・藤原道隆は、自分の関白の職を、息子である藤原伊周にゆずりたいと考えていました。
ところが、伊周がまだ若かったため、関白職をゆずる許可がおりず、断念せざるを得ませんでした。
そこで、関白の職を引き継いだのが、弟の藤原道兼だったのです。
兄の死によって、道兼は念願の関白職に就任。
ところがそんな道兼を、とんでもない運命が待ち受けていました。
七日関白・藤原道兼の最後
藤原道兼は、なんと関白に就任してからわずか数日で急死してしまうのでした。
995年6月8日。享年35歳。
関白になって数日で亡くなったことから、その後、藤原兼家は【七日関白】と呼ばれるようになったのです。
道兼の死因は不明ですが、おそらく当時流行していた感染症が原因だと考えられます。
実はこのとき、京都では疫病(はしか)が流行していたのです。
道兼の死後、その子孫は高い位に出世することができていません。
その後、藤原氏内部での権力闘争は
- 道兼の弟・藤原道長
- 道兼の兄・道隆の息子である藤原伊周
この二人のあいだでおこなわれることとなるのです。
藤原道兼と花山天皇・藤原道長との関係
花山天皇と藤原道兼の関係
花山天皇と藤原道兼の関係は、主君と側近という関係でした。
しかし、実際のところ道兼は、花山天皇に忠誠を誓っていたわけではなく、あくまでも自らが権力を握るための駒であると考えていたようです。
花山天皇が天皇の位に即位すると、同時に道兼は、その側近として蔵人左少弁という職につきます。
その後、道兼は父・藤原兼家の命令で、道兼の姉・詮子の子である懐仁親王を即位させるため花山天皇を出家に追い込むのです。
986年、道兼は策謀を用いて花山天皇に出家を促し、皇位を退かせました。
道兼は、自分も一緒に出家すると言って、出家するかどうかを悩む花山天皇を勇気づけたといいます。
ところが道兼は、花山天皇が出家すると、約束を破って逃亡し、まったく出家しなかったのでした。
騙されたことを悟った花山天皇でしたが、すでに遅く、懐仁親王が即位して、一条天皇となったのでした。
花山天皇は、道兼のことを、つよく恨んだはずです。
この事件は、「寛和の変」と呼ばれています。
藤原道兼と藤原道長の関係
藤原道兼と藤原道長は、兄と弟の関係です。
道兼は三男。道長は五男でした。
2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、道兼は乱暴者で、弟の道長を殴る様子が描かれていました。
実際に、道兼は乱暴者だったようですが、道長との関係がどのようなものであったのかは不明です。
しかし、父・兼家と道兼が、藤原氏繁栄の土台をつくりあげたおかげで、その後の藤原道長の栄華があったといえます。
道兼は、兄である藤原道隆に対して、えらそうに諭すような態度をとっており、年長者への礼儀がなかったといいます。
そんな道兼のことですから、弟・藤原道長のことを、どのように扱ったのかは、想像に難くありません。
藤原道兼と道長による一族間の地位争い
藤原道兼と道長の間で起きた地位争いについては、明確な記録が残っていないため、詳細は不明です。
二人のあいだで権力闘争と呼べるような争いがあったとは思えません。
なにしろ権力闘争するまえに、道兼は病死したのですから。
ただ、その死に方が、あまりにも道長にとって都合の良いものであった気がしないでもありません。
大河ドラマ「光る君へ」では、道兼は道長の大切な女性・紫式部の母親を死なせた人物として描かれています。
たとえば、毒を飲ませた、なんて可能性もあるのでしょうか?
もちろんこれは妄想でしかありません。
実際には病死したと考えるのが自然でしょう。
藤原道兼の家族・家庭
藤原道兼の父母
藤原道兼の父は、右大臣・摂政・関白を歴任した藤原兼家です。
母親は、その正室・藤原時姫です。
父・藤原兼家
道兼の父・藤原兼家は、摂政・太政大臣・関白を歴任し、藤原氏の栄華を決定づけた人物です。
娘を冷泉天皇や円融天皇に嫁入り(入内)させ、生まれた三条天皇や一条天皇の外祖父・摂政として権力を独占するという手法で、政治を支配した人物です。
そのやり方は、息子の藤原道長に引き継がれます。
→→→→→【藤原兼家とはどんな人?】についてくわしくはこちら
母・藤原時姫
道兼の母であり、藤原兼家の正室。
兼家と時姫のあいだには
- 関白・藤原道隆
- 関白・藤原道兼
- 摂政・藤原道長
- 三条天皇の母・超子
- 一条天皇の母・詮子
という子供たちがいました。
いずれも歴史にその名を刻んだ重要人物です。
父・兼家は、藤原氏の栄華の土台をつくりあげ
母・時姫は、藤原氏の全盛期をつくりあげる三兄弟と二人の娘を産んでいます。
藤原道兼の妻
藤原道兼は、複数の妻を娶っていました。
正妻・藤原遠量の娘
彼女は、藤原道兼のいとこにあたる女性です。
藤原遠量は、道兼の父の弟にあたる人、つまり叔父です。
継妻・藤原繁子(藤原師輔娘)
繁子は、藤原道兼の叔母にあたる女性です。
夫・道兼の死後は、藤原道長と良好な関係をつくりあげています。
道長からすれば、彼女は兄・道兼の妻であると同時に、叔母でもあるので、大事に扱う必要があったのでしょう。
名前不明
道兼にはもう一人の妻がいたといわれていますが、名前は不明です。
彼女は道兼の娘を産んだといいますが、その娘の名前も不明です。
藤原道兼は、妻たちとの間に多くの子供をもうけました。彼の子供たちは、藤原氏の繁栄に大きく貢献しました。
藤原道兼の兄弟
藤原道兼は、藤原兼家の三男として生まれました。
兄・藤原道隆
道隆は、父・兼家の後継者として、関白職をゆずりうけた人物です。
道兼は、この兄である道隆を、目の上のコブのように、邪魔にしていたようです。
父・兼家が亡くなった後、その後継者に道隆が指名されて関白に就任すると、兼家は露骨に不満をあらわにしたといいます。
道隆は、とても温厚な人物で、人気があったといわれています。
弟・藤原道長
言わずと知れた、藤原氏の栄華を極めた人物。
娘三人を天皇の妃として入内させるという、前人未到の一家三立后を達成しています。
「この世は我が世」
という望月の歌はあまりに有名です。
肝が据わった人物で、花山天皇から命じられた肝試しで、兄の道隆と道兼が逃げ帰ってきたのに対して、道長は堂々と肝試しを終えて、奥まで行った証拠に柱を削り取ってきたといいます。
姉・藤原超子
冷泉天皇の女御で、三条天皇の母。
若くして亡くなったといわれています
妹・藤原詮子
円融天皇の女御で、一条天皇の母。
弟の道長と仲が良く、甥・藤原伊周と、弟・藤原道長が権力闘争を繰り広げた際には、弟・道長を支援しました。
結果、兄である藤原道隆とその子である伊周の中関白家は没落することになります。
逆に、弟・道長の家は、繁栄を極めていきます。
異母兄・藤原道綱
母を異なる兄・藤原道綱は、父・藤原兼家と、藤原道綱母の子供です。
道綱母は、蜻蛉日記という作品を残した才女でしたが、息子の道綱にはその才能はなかったようです。
賢人右府と呼ばれた藤原実資は、道綱を酷評しており
「40歳になっても自分の名前以外の漢字が読めないやつ」
と言っています。
弓の名手だったといわれています。
藤原道兼の息子・娘
道兼には、何人かの子供がいます。
彼らは、藤原道長の繁栄のかげで、出世の道を失ったまま、歴史の影に埋もれることとなります。
正室・藤原遠量の娘
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- 長男:福足君
- 二男:藤原兼隆
- 三男:藤原兼綱
- 四男:藤原兼信
- 次女:二条殿御方
継妻・藤原繁子
-
- 長女:尊子
名前不明
-
- 女児
この中から、有名な人物をピックアップして解説したいと思います。
藤原尊子
一条天皇の女御となり、のちに藤原通任の妻となっています。
一条天皇と尊子は、いとこ同士。
夫であった一条天皇や通任とのあいだに子供は生まれませんでした。
藤原兼隆
かなりの乱暴者だったらしく、馬の世話をする従者を殴って死なせるという事件を起こしています。
また、賢人右府・藤原実資の下女の家を破壊するなどしています。
妻は、紫式部の娘である大弐三位(藤原賢子)だったという説がありますが、異説もあります。
藤原兼綱
こちらも父に似た乱暴者で、宴会の席で暴力沙汰を起こして謹慎処分を受けたのだとか。
父・道兼が、寛和の変で花山天皇を騙して位をゆずらせたことが原因で、息子の兼綱は信頼を失い、昇進することができないままに、越前や紀伊の地方官になり、紀伊で亡くなっています。
藤原道兼の子孫
下野国(栃木県)の宇都宮氏は、藤原道兼の子孫だといわれています。
宇都宮氏は、武勇に優れた一族です。
道兼は、乱暴者で、人望にはとぼしいものの、武勇に優れていたという評価があります。
もしかしすると、子孫の宇都宮氏は、その血を引いているのかもしれません。
以下に、藤原道兼の血を引くであろう宇都宮氏の名将たちをご紹介いたします。
宇都宮朝綱
源頼朝から「関東一の弓取り」と呼ばれた猛者
宇都宮貞綱
元寇(蒙古襲来)弘安の役では、わずか16歳で6万の大軍団を率いる総大将として、九州に出陣。
宇都宮公綱
名将・楠木正成から「坂東一の弓取り」と呼ばれた猛将です。
「戦場で命を捨てることは、塵や芥よりも軽いもの」
とまで言われるほど、命知らずな戦いぶりだったといわれています。
宇都宮成綱
「奇蹟の武人」または「宇都宮氏の中興の祖」と呼ばれた名将。
優れた外交手腕と戦上手で、北関東を制圧
宇都宮氏は、現在も続いており、33代目までは栃木県益子町の尾羽寺にあるお墓で眠っています。
→→→→→【藤原道兼の子孫と家系図】についてくわしくはこちら
藤原道兼の死とその後
藤原道兼の死因
藤原道兼は、995年6月8日に35歳で亡くなりました。
死因は病死とされていますが、具体的な病名は不明です。
当時、平安京では感染症の「はしか」が流行していたといいます。
兄・藤原道隆は、「はしか」または「糖尿病」で亡くなったといわれています。
ただ、「はしか」で亡くなったにしては、急死している点が気になります。
もしかすると、急死するような病気だったのかもしれません。
または、毒を飲んだなんて可能性が、頭をよぎります。
可能性は限りなくゼロに近いとは思いますが、藤原道兼が亡くなったことでもっとも得をしたのは、弟・藤原道長です。
または、当時本気で信じられていた怨霊に呪い殺されたなんて可能性もあるのでしょうか?
藤原道兼の死後の影響
道兼が亡くなったことで、藤原氏の内部で、権力争いが起こりました。
- 道兼の兄・道隆の子である藤原伊周
- 道兼の弟・藤原道長
この両者が、権力をめぐって争いをはじめたのです。
結果は、一条天皇の生母である藤原詮子の援助を受けた藤原道長の勝利で終わりました。
伊周は、弟の藤原隆家とともに、長徳の変と呼ばれる乱闘騒ぎを起こした責任を取らされて左遷。
長徳の変とは、伊周の愛人であった三の君が、花山法皇と関係をもっていると誤解した藤原伊周が、弟・隆家に相談したところ、隆家は花山法皇を襲撃し、その袖を矢で射抜いたという事件です。
藤原隆家は、刀伊の入寇と呼ばれる海賊の襲撃事件を鎮圧した猛者です。
なんとこのとき、花山天皇の従者二人の首を持ち去ったといわれています。
これにより、伊周と隆家が左遷させられ、権力闘争から脱落。
道長の勝利が決定的となったのです。
ちなみに、花山法皇が関係をもっていたのは、伊周の愛人だった三の君ではなく、その妹の四の君でした。
四の君はその後、藤原道長の愛妾となっています。
→→→→→【藤原道長の正室・側室一覧】についてくわしくはこちら
藤原道兼の晩年
道兼は、兄・道隆が亡くなったことで、念願だった関白の地位についています。
ところが、関白就任からわずか数日で病死してしまっているので、表だった活躍ができていません。
我が子に関白の職を継承させるようなことも出来ないままに、道兼は亡くなったのです。
当時は、出家しないと極楽浄土へいけないと考えられていました。
そのため貴族は、亡くなる前には、ほとんど必ず出家するのですが、どうやら道兼は出家していないようです。
それだけ、急な死だったのでしょう。
道兼は、関白としての功績を残していませんが、一度だけ陣定をおこなっています。
陣定とは、政治の方針を決める重要な会議のことです。
藤原道兼と紫式部の関係
藤原道兼と紫式部の直接的な関係は、明確に記録されていません。
しかし、二人の間には、間接的にではありますが、関係があります。
両者は同じ藤原氏で、遠縁です。
藤原道兼の息子である藤原兼隆の妻が、紫式部の一人娘である大弐三位(別名・藤原賢子)だったという説があるのです。
ただし、大弐三位の夫は、藤原兼隆ではなく、藤原公信だという説もあるようです。
2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原道兼は、紫式部の母親を死なせた張本人として、紫式部にひどく憎まれています。
しかし、現実ではそのようなことは当然起こっていません。
両者は、あまり面識がなかったのではないでしょうか。
紫式部は、道兼の弟・藤原道長の娘・彰子の女房です。
つまり道長は、紫式部の雇い主ですので、道兼は紫式部からすると、雇い主の兄というだけの関係であったと思います。(紫式部は、藤原道長の愛人だったという説もある)
→→→→→【紫式部の子孫は天皇陛下】についてくわしくはこちら
藤原道兼の性格と人物像
道兼は、「顔色が悪く毛深く醜い」といわれています。
性格は、「とても冷酷で、人から恐れられていた」とのことです。
兄の道隆に対して、弟であるにもかかわらず、偉そうにさとすような話し方をしていたといいます。
ところが一方で、とても男らしい人物ともいわれています。
ただ、さきほども説明しましたが、花山天皇から命じられた肝試しで、道兼は弟の道長とは違い、恐ろしさのあまり逃げ帰ってきています。
寛和の変では、花山天皇をだまして出家させるずる賢さを見せています。
さらに、父が亡くなり、兄が後継者になったときには、不満から喪に服すべき時であるにもかかわらず、宴会を行なっていたという逸話があります。
これらのことから
- 礼節が足りていない
- 暴力的で粗っぽい
- しかし肝試しが苦手な小心者
という性格が見えてきます。
藤原道兼の功績と影響
道兼の功績としては、寛和の変で花山天皇を退位させて一条天皇を即位させたことで、藤原氏の栄華を確立させたことが挙げられるでしょう。
とはいえこれは、あくまでも藤原氏への功績であって、天皇家に対してはこの上もなく不忠な行為となります。
道兼が花山天皇を出家させて、一条天皇に位をゆずらせたことにより、父・藤原兼家は一気に権力を独占しました。
孫・一条天皇の外祖父として、政治を思いのまま操れるようになったことで、その後の朝廷は、完全に藤原氏が支配する形となったのです。
兼家・道長・頼通という、親子三代での栄華は、まさに寛和の変で藤原道兼が花山天皇を出家させることに成功したことが原因で実現したといって良いでしょう。
この藤原氏の栄華は、藤原氏と縁が薄い後三条天皇の親政と、その子である白河法皇の院政によって、完全に終わってしまうこととなります。
余談ですが、この白河法皇の隠し子ではないかと噂されているのが
「平家一門でないものは人ではない」
と豪語するほど栄華を極めた平清盛です。
その平清盛亡き後の平家を滅亡させた源頼朝のそばには、藤原道兼の子孫といわれる「関東一の弓取り」と呼ばれた猛将・宇都宮朝綱がいました。
そして1185年、壇ノ浦の戦いで滅亡した平家一門のなかには、紫式部の血を引く子孫・平資盛がいたのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 藤原道兼は、藤原道長の兄。関白に就任して数日で病死したので【七日関白】と呼ばれた
- 道兼は、父・兼家の指示で、花山天皇を出家させた(寛和の変)
- 道兼は、乱暴ではあるものの男らしい人物だったといわれてはいるものの、肝試しで逃げ帰る小心者でもあった
以上となります。
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