皆さんは七日関白と呼ばれた藤原道兼の子孫が現在どうなっているのかを、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 藤原道兼の子孫は、北関東を制覇した宇都宮氏で、現在も続いている
- 道兼の死因は病死とされているが、疫病が原因ではないか。または毒殺かもしれない。
- 道兼は、とても嫌われていた人物らしく、歴史書には悪人として記されている
藤原道兼は、平安時代中期のお公家さんです。
道兼は、藤原北家出身で、摂政や関白そして太政大臣を歴任した藤原兼家の三男です。
その生涯は、政治的な野望、歴史に名を刻んだ家族、そしてわずか七日で終わった関白としての役割によって、彩られています。
ここでは、藤原道兼の子孫や家系図、そして生涯と性格、死因を解説いたします。
道兼の子孫は、現在も続いているようです。
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藤原道兼の【子孫】の現在
鎌倉時代の宇都宮貞綱と、戦国時代の宇都宮成綱は、藤原道兼の子孫とされています。
そしてその宇都宮氏は、現在でも続いています。
宇都宮氏は北関東を支配し、その起源は藤原道兼にまでさかのぼると考えられています。
道兼の武勇を継承したのか、宇都宮氏には、歴史にその名を刻む猛将が多数います。
宇都宮貞綱
鎌倉時代後期に活躍した猛将。
宇都宮貞綱は、わずか16歳で6万の大軍を指揮。
1281年、モンゴル軍の侵攻【弘安の役】に立ち向かったといわれています。
宇都宮公綱(初名・高綱)
鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した猛将。
精鋭部隊・紀清両党を率いて、名将・楠木正成から「坂東一の弓取り」と恐れられた人物。
紀清両党について、その強さを、楠木正成は次のように証言しています
「戦場で命を捨てること、まこと塵芥(ゴミ)の如く」
武名を轟かせるために、戦場で己の命を捨てること、まるでゴミを捨てるような捨て身の軍団だ
楠木正成はその武勇を恐れ、直接対決を避けたといわれています。
後醍醐天皇から離反した足利尊氏と戦うも敗北し、降伏。
その後、足利軍が京都で北畠顕家に敗北した際、今度は北畠顕家に降伏し、その配下として各地を転戦。
北畠顕家が亡くなった後も、南朝勢力の中心として活躍したものの、晩年は不遇のままに亡くなったといわれています。
宇都宮成綱
戦国時代の名将である宇都宮成綱は
- 奇蹟の武人
- 宇都宮氏の中興の祖
として称賛されました。
宇都宮成綱は、蘆名氏や佐竹氏などの強大な勢力との壮絶な戦いに勝利し、北関東の覇者として名を馳せました。
これこそ、勇猛な藤原道兼の子孫だからこそ、なせる業でしょう。
宇都宮政綱
33代目の宇都宮政綱は、大正時代を生きた人物です。
宇都宮家の代々の墓は、栃木県益子町の尾羽寺にあります。
道兼の曾孫である初代・宇都宮宋円から、33代の宇都宮政綱まで、この墓所に埋葬されています。
現代においても、宇都宮氏は存続しています
道兼の息子と、紫式部の娘の関係
余談かもしれませんが、道兼の次男である藤原兼隆と、紫式部の娘である大弐三位(藤原賢子)は結婚しています。
兼隆と大弐三位は、一人の娘を産んでいます。
紫式部の孫娘にあたるその女性が、源良房と結婚。
源知房という子をもうけました。(源知房は紫式部のひ孫)
その後、兼隆と大弐三位は、何らかの理由があって別れています。(もともと結婚していたわけではなく、藤原公信が大弐三位の夫だったという説がある)
大弐三位と再婚相手の間に生まれた子を通じて、紫式部の子孫は、平家一門へと続いています。
藤原道兼の【家系図】
藤原道兼の家系図をご用意いたしました。
道兼の次男・兼隆は、紫式部の娘である大弐三位と結婚しています。
しかし兼隆には、他にも妻がおり、その子供が宇都宮氏へとつながっているのです。
とはいえ、宇都宮氏が本当に藤原道兼の子孫なのかどうかは、はっきりしていないともいわれています。
道兼の【死因】とは?
これは筆者の推測でしかないのですが、藤原道兼は疫病で病死したのではないでしょうか。
道兼は、長い間望んでいた関白の位に就任して、わずか七日で病死しています。
疫病が死因だと推測する理由は簡単です。
道兼がなくなった時、京都では疫病が大流行していたのです。
とはいえ藤原道兼の死因は、詳細な史料が残っていないため、特定の理由を明確にするのは難しいです。
当時の日本、平安時代中期においては医学的知識や病気の理解が今とは異なり、多くの死因が不透明なまま史書に記載されていることが普通でした。
ただし、彼の生涯と没の状況から、いくつかの可能性を検討することができます。
藤原道兼は父・兼家の命により政治的な動きを進め、多くの権力争いに巻き込まれていました。
花山天皇の出家させて権力の座から引きずり下ろすような、歴史に刻まれた政変にも関与しています。
このような混乱した時代において、ストレス・心労が、死因のひとつとなった可能性は考えられます。
当時の医療水準は現代ほど進んでおらず、急死することは感染症や急激な病気によるものが一般的でした。
道兼が「七日関白」と呼ばれ、関白に就任してからまもなく死去したことを考えると、急激な健康悪化や自覚症状のない疾患が原因である可能性も考えられます。
また、当時の貴族社会では政治的な軋轢や権力争いが激しく、この争いが道兼の死に何らかの形で影響していた可能性も排除できません。
ただし、これに関する具体的な証拠や記録はなく、単なる仮説に過ぎません。
藤原道兼の死因は、当時の医学的、歴史的な背景を踏まえ、複数の要因が複雑に絡み合っていた可能性が高いと言えます。
彼の死に影響を与えた要素は、ストレスや心労、急激な病気、政治的な状況など、多岐にわたるものであったと考えられ、単一の原因を特定することは難しいでしょう。
もしかすると、何者かに毒殺されたのかもしれません。
道兼が亡くなって、もっとも得をしたのは、その後に権力を独占した弟・藤原道長です。
道兼は、弟・道長の恨みを買うような何かをしてしまったのかもしれません。
藤原道兼と【紫式部】は、どういう関係なの?
藤原道兼と紫式部は、同じ藤原家の家系で、遠い親戚の関係です。
さらに、紫式部は道兼の弟である藤原道長の娘・彰子の女房つまり部下でした。
道兼からすれば紫式部は、【姪・彰子の女房であり部下だった】ということです。
また、紫式部は藤原道長の愛人だったという説もあるので、【弟の愛人】なのかもしれません。
藤原道兼と紫式部の関係を理解するには、平安時代の政治と文化に注目する必要があります。
藤原道兼とその一族は、藤原北家に生まれて、摂関政治の中心的な存在でした。
道兼は、父・兼家や兄・道隆とともに、当時の政治において重要な人物でした。
一方の紫式部は、道兼らが活躍した時代に宮廷の女官として働き、後に「源氏物語」を誕生させています。
道兼たち藤原氏は、紫式部が輝いた時代の政治舞台を整え、彼女が生きた宮廷社会の基盤を築きました。
紫式部の文学作品には、当時の貴族社会の複雑な様子が映し出されています。
つまり道兼たち藤原氏の政治的な動きや暗躍・策謀が、彼女の作品に影響を与えた可能性があります。
なんといっても源氏物語にも、権力闘争などの宮廷社会の男性的な面が描かれているのですから。
藤原道兼の時代には、宮廷の文化が栄えていました。
この時代に生まれた紫式部は、文化的な雰囲気で才能を発揮し、「源氏物語」を書くことができました。
道兼の政治的な安定と経済的な繁栄は、紫式部のような文学者が活動するための環境を整えたと言って良いでしょう。
道兼の時代の宮廷文化は、女性の文学的な才能を評価する雰囲気があり、紫式部はこの中で自身の文学的な才能を発揮することができたのです。
道兼と紫式部の関係は、直接の交流よりもむしろ、時代が生み出した文化的な相互作用によるものと考えられます。
藤原道兼の政治的な力と紫式部の文学的な才能は、平安時代の宮廷社会の二つの大切な側面を示しています。
政治的な側面と、文学的な側面。
道兼たち藤原氏は、政治的な戦略と権力の掌握で、一時代をつくりあげました。
紫式部は、文学と物語を通して、その時代の精神面を表現しています。
紫式部の作品には、道兼の時代の政治的な裏舞台や社会的な構造が入念に描かれており、源氏物語には宮廷の権力構造や人間関係が繊細に絡み合っています。
このように、藤原道兼と紫式部の関係は、政治と文学が入り組む興味深いつながりであり、平安時代の宮廷社会の様々な側面を示しています。
言ってみれば、道兼と紫式部は、政治面と文化面で、それぞれ才能を補い合う関係だったのかもしれません
とはいえ、紫式部といえば、道兼よりその弟・道長との関係の方が有名です。
紫式部は、藤原道長の愛人だったという説もあります。
道長の妻・源倫子が嫉妬に狂って菊の花を贈ったという、「菊の露」の逸話は有名です。
→→→→→【源倫子と紫式部の関係とは?】についてくわしくはこちら
道兼とはどんな人?【人物像】を解説
藤原道兼は、平安時代中頃のお公家さんです。
「この世は我が世である」
と豪語するほど権力を独占した政治家・藤原道長の実の兄にあたる人物です。
道兼自身も、天皇の次に位置する関白という位に登りつめた人物です。
摂政と関白さらには太政大臣まで登りつめた藤原兼家の三男として生まれています。
藤原氏の権力闘争で活躍し、説得により花山天皇を退位させた人物として有名です。
父・兼家や兄・道隆の死後、念願だった関白に就任を果たしています。
ところが、関白就任からわずか7日で病死。
そのため「七日関白」と呼ばれています。
道兼は、【冷酷な性格】だったの?
当時の歴史書である栄花物語や大鏡などによれば、藤原道兼はとても残酷で礼儀知らず、しかも醜い人物だったとのことです。
道兼は見た目は顔色が悪く、毛深い人物で、しかも人から恐れられていたといいます。
意地悪い面を持っていて、いつも言動が矛盾だらけで周囲を振り回していたといいます。
兄・道隆に対しても、兄に対する礼儀を無視して、偉そうに兄を注意するようなこともしていたようです。
年上の人への敬意の不足、他の人を見下すなど、自尊心が強くて、極めて付き合いづらい人物だったようです。
また、もしかすると、顔色悪く毛深いというのは様子から、冷酷な性格だと勘違いされていた可能性もあります。
実は、一部資料では
「まるで年齢を重ねたような老練で、男らしい人だった」
と評価もされています。
これは、道兼が冷静な判断力やリーダーシップを持っていたことを指しているのかもしれません。
難しい状況でもしっかりと決断できる、強い意志を持った人だった可能性を示唆しています。
その影響なのか、道兼の子孫である宇都宮氏は、非常に有力な戦国大名としてその名を轟かせています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 藤原道兼の子孫は、北関東を制覇した宇都宮氏で、現在も続いている
- 道兼の死因は病死とされているが、疫病が原因ではないか。または毒殺かもしれない。
- 道兼は、とても嫌われていた人物らしく、歴史書には悪人として記されている
以上となります。
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