皆さんは藤原道長の妻たちについて、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 藤原道長の妻は、源倫子・源明子・源重光の娘・源簾子・藤原儼子・藤原穠子
- 道長の正室は、源倫子だが、源明子もまた正室だという説がある
- 紫式部と藤原道長は表向きは、彰子の女房と、彰子の父という関係だが、もしかすると愛人関係だったのかもしれない
この記事では「藤原道長の妻たち」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は「藤原道長の正室や側室・妾」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「藤原道長の妻」について詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原道長の妻の名前一覧
藤原道長の正室・側室をまとめて一覧でご紹介すると以下の通りです。
- 正室・源倫子
- 側室・源明子
- 妾:源重光の娘
- 妾:源簾子
- 妾:藤原儼子
- 妾:藤原穠子
正室・源倫子
藤原道長の正室(正妻)は、源倫子という人です。
藤原道長は、天皇の妻として娘を嫁がせたことで権力を手に入れた人物です。
源倫子は道長の娘を4人も出産し、その栄華を支えた女性として有名です。
倫子の父は、宇多源氏出身の左大臣・源雅信。
その正室・藤原穆子との間に生まれたのが、源倫子です。(藤原穆子は、醍醐天皇の外戚である右大臣・藤原定方の孫娘)
父・雅信はもともと、娘の倫子を花山天皇の妻にしようと考えていました。
ところが花山天皇が、藤原兼家・道兼親子の策謀により出家・退位してしまったため、その計画は失敗に終わりました。
そんな中で倫子は、兼家の子である藤原道長に求婚されるのです。
これには母の穆子も賛成しており、道長と倫子の結婚が決まりました。
娘を臣下に嫁がせることに抵抗を感じた雅信でしたが、最終的には同意しました。
倫子は24歳のときに道長と結婚し、その後20年間にわたり6人の子供をもうけました。
倫子が産んだ2男4女は、以下の6人です。
- 長女:藤原彰子(一条天皇の妻(中宮)、後一条天皇と後朱雀天皇の母)
- 長男:藤原頼通(摂政と関白に就任。後冷泉天皇の皇后となった藤原寛子の父、後朱雀天皇の妻となった藤原嫄子の伯父で養父)
- 次女:藤原妍子(三条天皇の皇后、後朱雀天皇の皇后となった禎子内親王の母)
- 五男:藤原教通(関白に就任、後冷泉天皇の皇后となった藤原歓子の父)
- 四女:藤原威子(後一条天皇の皇后、後冷泉天皇の中宮となった章子内親王や後三条天皇の中宮となった馨子内親王の母)
- 六女:藤原嬉子(後朱雀天皇がまだ皇太子だった時の妻だった、後冷泉天皇の母親)
このうち4人の娘は全員が天皇に嫁ぎ、特に彰子は一条天皇の中宮、つまりは妻となっています。
ゆいいつ天皇の妻になっていない六女・嬉子も、後朱雀天皇の皇太子時代の妻となっていました。
2人の男子は摂政や関白などの最高の位を継承しています。
倫子は、当時としては長生きをし、90歳で亡くなりました。
→→→→→【源倫子はどんな人なの?】についてくわしくはこちら
側室・源明子(正室という説あり)
実は道長が倫子との結婚前に、すでに妻にしていたかもしれないと言われている女性が、道長の側室・源明子です。
ただ側室とはいっても、歴史書『大鏡』などでは倫子と並んで、正室を意味する【北の方】とも呼ばれていたりします。
そのため源明子は、正室と同格の側室だったようです。
源明子の父は、醍醐天皇の皇子で臣籍降下した源高明。(臣籍降下とは、皇族の身分を捨てること)
母親は、藤原道長の叔母・愛宮(藤原師輔の娘)です。
本来ならば倫子よりも血筋の良い女性なのですが、父・高明が安和の変で失脚していたこともあり、恵まれない幼少期を送っていました。
父の没落後、彼女は叔父である盛明親王の養女となります。
しかし、この叔父も早いうちに亡くなってしまいます。
そんな時に手を差し伸べたのが、藤原道長の姉であり、一条天皇の母でもある藤原詮子(別名・東三条院)でした。
藤原詮子は、摂関家の陰謀に巻き込まれて没落した人々を積極的に庇護したようです。
藤原詮子は明子を引き取って大切に育て、そして可愛がっていた弟・藤原道長と結婚させました。
藤原詮子は後年、道長の兄・道隆の死後に、道隆の息子である藤原伊周ではなく、道長を摂政関白に准ずる地位につけるように画策し、道長の出世を助けた人物です。
もしかしたら弟・道長の出世を後押しした理由は、道長が自分の娘のように可愛がった源明子の夫であったことも、ひいきした理由の一つだったのかもしれません。
道長と明子の間には、4男2女が生まれています。
- 次男:藤原頼宗 – 右大臣(中御門流の祖)
- 三男:藤原顕信 – 入道前右馬頭
- 四男:藤原能信 – 権大納言
- 三女:藤原寛子 – 敦明親王の女御
- 五女:藤原尊子 – 源師房の妻
- 六男:藤原長家 – 権大納言(御子左家の祖)
道長の正室・倫子が産んだ子どもたちと比べると、明子が産んだの子たちは、明らかに昇進の速度や結婚相手の格が落ちるような状態でした。
しかし明子は特にそのことに対して文句を言わず、道長を支え続けました。
子供たちもその姿を見ていたのか、明子の長男・頼宗らは、異母兄である藤原頼通と協調することで、徐々に昇進を果たしてきます。
道長の娘の中で唯一臣下に嫁いだ五女・尊子(源師房の妻)も、多くの子を産み、摂関家や天皇家と血縁関係を築いていきます。
しかし、すべての子供たちが異母兄であり長兄である藤原頼通らと強調したわけでもありません。
明子が産んだ四男・藤原能信は、正室・源倫子が産んだ子供たちと差が付けられる待遇に不満を持っており、異母兄・藤原頼通らと敵対的でした。
能信は摂関家の血が薄い(母親が藤原氏ではなく皇女)だった後三条天皇の即位に尽力し、摂関家の権力を弱体化させるきっかけとなっています。
後三条天皇は、自ら政治を行うことで藤原氏の栄華を終わらせた人物です。
その後三条天皇の子である白河法皇は、院政という政治のやり方で、絶大な権力を保持した人物です。
院政によって、藤原氏の栄華はほぼ完全に終わりました。
つまり藤原能信は、藤原氏の栄華を終わらせる、つまり藤原氏没落のきっかけをつくった人物でもあるのです。
源明子が産んだ五女・藤原尊子の孫である藤原賢子は、白河法皇から寵愛を受けて、堀河天皇を産んでいます。
側室・源重光の娘
大納言・源重光の娘は、道長の側室である源明子の従兄弟の娘にあたる女性です。(ちなみにこの女性の姉妹には、道長のライバル藤原伊周の正室がいます)
藤原道長の子供たちは、そのほとんどを、源倫子または源明子が産んだ子供たちです。
しかし源倫子と源明子以外で、ゆいいつ道長の子を出産した女性が、源重光の娘なのです
彼女が産んだ息子・長信は、父である藤原道長が年を取ってから生まれた子どもでした。
長信は、他の兄弟のように公家として昇進することはなく、出家して僧として余生を送りました。
長信は、東寺長者や仁和寺の別当など、僧侶として摂関家にふさわしい昇進を果たしました。
ちなみに、長信の師である僧侶・延尋は、道長の側室であるともいわれている源簾子の兄弟でした。
側室・源簾子
宇多源氏の参議・源扶義の娘、または源扶義の兄弟・時通の娘で、源扶義の養女とされる女性です。
この源簾子は、藤原道長の正室である源倫子の姪にあたる女性です。
最初は、醍醐源氏の受領・源長経の妻のひとりでした。
彼女には、源長経とのあいだに、娘を産んでいます。
この娘は母と同じく、藤原道長の娘であり一条天皇の妃だった上東門院彰子につかえていました。
通称【小兵衛】と呼ばれていたのだとか。
のちに女房として、彰子のもとに奉公するようになりました。
源簾子は女房として非常に優れており、1011年には、彰子の息子である東宮・敦成親王(後一条天皇)の上級女官に任じられました。(東宮とは、次の天皇のこと。皇太子)
こうして彼女は、道長の側室として知られるようになりました。
道長の娘・彰子の側近として、後宮の様々な事務を取り仕切っていたことがきっかけで、道長と親しい関係となったのでしょう。
ただし、彼らの関係が具体的にどれほど深かったかは不明です。
むしろお互いに、一時的な情事だったと割り切った関係であった可能性もあります。
側室・藤原儼子
藤原儼子は、ある意味で藤原道長の出世を決定づけた女性であるかもしれません。
なんといってもこの藤原儼子は、藤原道長がライバルである藤原伊周を没落させたきっかけをつくった女性なのですから。
彼女は太政大臣・藤原為光と、その継室・藤原伊尹の娘として生まれました。
道長にとっては従姉妹にあたり、もともと繋がりが深い女性でした。(藤原為光は道長の父・兼家の弟)
実はこの藤原儼子は、通称【四の君】と呼ばれており、花山法皇の愛人でした。
花山法皇が【四の君】に会いに行っていたところ、彼女の姉【三の君】の恋人であった藤原伊周が、これを誤解します。
なんと藤原伊周は、花山法皇が自分の恋人である【三の君】と浮気していると思い込んでしまったのです。
激怒した藤原伊周は、乱暴者で有名だった弟・藤原隆家に相談しました。
すると隆家は、花山法皇に弓を射かけて着物の袖を貫くという暴挙に出たのです。
これが大問題となり、伊周と隆家の兄弟は、叔父でライバルだった藤原道長によって左遷され、失脚に追い込まれたのです。
このような複雑な事情もあり、花山法皇の心は別の女性に傾いてしまいます。
太政大臣の娘として生まれながら、既に父を失った源儼子は、最大の後ろ盾であった花山法皇の寵愛を失ってしまったのです。
生計を立てるためか、彼女は三条天皇の中宮である藤原妍子のもとで、女房として仕えるようになりました。
その後、彼女は妍子の父である藤原道長と親交を深めます。
そして1016年に、道長の子を出産します。
ところが不幸にも、子供は死産となり、彼女自身も出産後に亡くなりました。
生年は特定できませんが、享年は30代後半くらいだったと考えられます。
側室・藤原穠子
藤原儼子の同母妹である藤原穠子も、姉と同じく道長の側室となりました。
彼女は若い頃に、中級貴族だった源兼資の妻になりました。
太政大臣の娘としては、やや身分が低い印象があり、年齢も20歳くらい異なるようですが、大恋愛の末の結婚だったのでしょうか。
あるいは父・為光の死で家が没落した影響していたのかもしれません。
夫の兼資は彼女が23歳の頃に亡くなります。
彼女は身を立てるためには女房としての生活を選ぶしかありませんでした。
穠子も姉・儼子同様に、三条天皇の妻(中宮)だった藤原妍子の女房となりました。
そして、儼子と同じ時期か、もしくは儼子の死後かはわかりませんが、穠子もまた道長の側室となりました。
ただし、二人の関係はあまり長続きしなかったようです。
おそらく、道長が出家した1019年の頃には、二人の関係は終わっていたのでしょう。
これは姉である藤原儼子の死後、約3年後のことでした。
穠子は道長との別れを経て、道長の娘・妍子が産んだ禎子内親王に仕えるようになりました。
藤原穠子は道長に先立って、1025年に亡くなっています。
藤原道長と紫式部の関係とは?二人は恋人同士だったのかを考察
藤原道長は、紫式部と恋愛関係にあった可能性があります。
実は道長は、夜にこっそり紫式部の家を訪れたことがあるのです。
表向き紫式部は、藤原道長の娘である彰子の女房です。
しかし道長は、先ほども説明しましたが、同じく自分の娘・藤原妍子の女房だった藤原儼子と穠子の姉妹を妾にしています。
藤原道長と紫式部の関係を物語る、ある逸話が有名です。
それは、道長があるとき、こんなことを言って紫式部をからかったというのです。
「紫式部は源氏物語を書くほど男好きなのだから、色々な男性に口説かれているのだろう」
それを聞いた紫式部は道長に対して怒ったのだとか。
「私を好色だなんて心外だ」
と返事をしたといわれています。
「紫式部日記」によれば、ある夜、藤原道長が紫式部のもとを訪れ、戸を叩いて中に入れてくれるよう頼んだものの、紫式部はそれを許さなかったといわれています。
これ以後、道長が紫式部のもとを訪れたのか、そしてそれがどのような結末を迎えたのかについては記述がありません。
ただし、この意味深な記述から、紫式部と道長の関係についての、どういう関係だったのか議論がされています。
実は後世の系図には、紫式部は【藤原道長の妾】とはっきりと書かれているのです。
紫式部は道長の妾であった可能性があります。
また、紫式部は道長の正室・源倫子とも遠縁であり、結婚前には倫子の女房をしていたとの説もあります。
もしもこれらの説が事実だとすると、道長と紫式部の関係は複雑で、愛憎に満ちたものであった可能性があります。
後年、紫式部は中宮彰子や道長に敵対的であった右大臣・藤原実資との間を取り持っています。
その結果、道長によって彰子のもとから追放されたとする説も存在しています。
これらの説がすべて真実であれば、道長と紫式部の関係は非常に複雑であったことでしょう
愛人でありながら、追放処分となったのですから、愛憎入り混じる関係だったと思われます。
ただ、道長は紫式部が描いた源氏物語をとても気に入っていたといいます。
自分をモデルにした登場人物のその後が気になり、紫式部に対して何度も続きを読ませるように催促していたのだとか。
そんな紫式部と藤原道長の子孫は、ともに現在まで続いています。
二人の血筋がともに現在の皇室につながっており、現在の天皇陛下は、紫式部の子孫であり、藤原道長の子孫でもあるのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 藤原道長の妻は、源倫子・源明子・源重光の娘・源簾子・藤原儼子・藤原穠子
- 道長の正室は、源倫子だが、源明子もまた正室だという説がある
- 紫式部と藤原道長は表向きは、彰子の女房と、彰子の父という関係だが、もしかすると愛人関係だったのかもしれない
以上となります。
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