皆さんは藤原道兼の性格や人柄を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 藤原道兼の性格は、礼儀を知らず、冷酷で乱暴、それでいて小心者だったらしい。
- 道兼は、兄・道隆を馬鹿にし、父・兼家の死を悲しまず、主君・花山天皇すら騙したエピソードがある。
- 道長は、男らしい人だったという逸話もあるが、その戦闘力は、子孫に引き継がれたらしい
この記事では藤原道兼の性格や人柄を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は藤原道兼の性格について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、藤原道兼の性格に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原道兼の性格とは?
関白・藤原道兼の性格は、兄を年長者であるにもかかわらず見下し、父の死を悲しまず、とても冷酷で、肝試しで逃げ帰ってくる小心者なところがある人物とされています。
藤原道兼は、あの有名な藤原道長の兄にあたる人物です。
道兼は、父・藤原兼家の命令に従って、藤原氏の権力を確固たるものにするため、花山天皇を騙して出家させた人物です。
藤原道長の栄華を強調するためなのか、道兼は悪役とされており、評判はよくありません。
また、その死はとても突然で、暗殺などの可能性があったのではないかと思わせる最後でした。
→→→→→【藤原道兼とは、どんな人?】についてくわしくはこちら
藤原道兼の人柄をあらわすエピソード・逸話
兄・道隆に諭すような話し方をする人だった
藤原道兼は、兄である藤原道隆に対して、兄であるにもかかわらず、常に諭すような態度だったといいます。
大河ドラマ「光る君へ」にも登場する女流作家・赤染衛門が記したとされている栄花物語に、道兼の性格について記されています。
平安時代の当時は、長幼の序、つまり年長者に対しては、礼を尽くさなくてはいけないというのが当然の時代でした。
ところが、そんな時代でも、藤原道兼は兄・道隆に対して、諭すような態度で会話していたといいます。
つまり、兄・道隆のあげ足をとっていたということでしょう。
自分の先輩格の人物でも見下し、間違いを指摘して有利な立場を取ろうとするのが、道兼という人物の特徴のようです。
父の命令で、花山天皇を罠にかける(寛和の変)
寛和の変と呼ばれる政変で藤原道兼は、ずる賢さを発揮して、主君である花山天皇をだまして出家させています。
985年、藤原道兼は、父・兼家の命令で、花山天皇を出家させようとします。
最愛の女性であった藤原忯子を亡くした花山天皇は、悲しみのあまり、出家を考えるようになります。
実は、道兼や父・兼家からすると、花山天皇は邪魔者でした。
なぜなら、花山天皇の皇太子つまり次の天皇は、兼家の孫にあたる懐仁親王(のちの一条天皇)だからです。
孫を天皇に即位させ、自分はその外祖父として摂政に就任し、政治を思うままに操れるわけです。
そのため兼家は、花山天皇の側近だった息子・道兼に命じて、出家をすすめさせたのでした。
道兼は、「自分も一緒に出家します」と言って、花山天皇を出家に導き、そのまま天皇の位から退位させてしまったのです。
その結果、一条天皇が即位し、藤原兼家と道兼の権力は、さらに強まりました。
ところが土壇場になって、道兼は出家せず、騙されたことを悟った花山天皇でしたが、すでに出家した後だったので手遅れでした。
この政変を、当時の元号から名前をとって、寛和の変と呼びます。
道兼は、自らの主君である花山天皇すらも欺くような、ずる賢い人物だったといわれているのです。
父の死の直後、後継者に不満で宴会騒ぎ
道兼は、父・兼家が亡くなった時、悲しむどころか憂さ晴らしに宴会をやっていたといいます。
道兼の働きで花山天皇が出家したことにより、道兼の父・藤原兼家は、権力を独占しました。
その兼家が亡くなる前に後継者として指名したのは、三男だった藤原道兼ではなく、長男の藤原道隆でした。
道兼は、これに不満を抱いたといいます。
兄・藤原道隆は、父・兼家から関白の職をゆずられています。
父・兼家が亡くなると、当然ながら家族は喪に服します。
ところが、父から後継者として指名されなかった道兼は、不満を抱いていたため、喪に服するどころか、客をまねいて宴会をやっていたとのことです。
寛和の変などで、父のために働き、功績を残した自分こそ後継者にふさわしいと、道兼は思っていたのです。
道兼は、恩がある父の死すら弔わない人柄だったようです。
顔色が悪く毛深く醜い姿だった
道兼は、顔色が悪く、毛深く、醜い人物だったと、栄花物語には記されています。
それに対して、兄・藤原道隆は、要望が端正であった、つまりイケメンだったという記録が残っています。
見た目が恐ろしく、毛深いつまり不潔だったということでしょう。
さらには容姿端麗な兄と同じ両親から生まれたのに、醜かったといわれてしまっています。
醜かったと記した栄花物語は、道兼の死後に成立したものです。
そのため、顔色が悪い、毛深い、醜い、というのは後世の創作でしかないという意見もあります。
そうだったとしても、道兼はとても嫌われていたことがわかります。
肝試しで逃げ帰ってきた
道兼は、花山天皇から命じられてやった肝試しで、逃げ帰ってきたという逸話があります。
ある日、花山天皇は、道隆・道兼・道長の三兄弟に、宮中での肝試しを命じたといいます。
道隆と道兼は、恐ろしさのあまり逃げ帰ってきました。
しかし道長は平然と屋敷の奥までいって、柱を削って戻ってきたのです。
翌日、道長がもってきた木片を、柱の傷に合わせてみると、ぴったり一致したといいます。
道兼は、とても乱暴で、嫌な性格をしていたにもかかわらず、肝試しで逃げ帰ってくる小心者だったのでしょう。
七日関白と呼ばれた最後
道兼は、兄・道隆が病死すると、そのあとを受け継いで、念願の関白に就任したのですが、わずか数日で亡くなってしまいます。
極めて短期間しか関白でいられなかったため、藤原道兼は、「七日関白」とあだ名されたのです。
父・兼家から関白の職を譲られた長男・藤原道隆は、病気で余命が残り少ない状況になっていました。
道隆は、息子の藤原伊周に関白の職を譲ることを希望しました。
しかし年少である為、その願いはかないませんでした。
代わりに関白となったのは、道隆の弟・道兼でした。
念願の関白になった藤原道兼ですが、関白就任からわずか数日で病死してしまいます。
これにより、道兼は【七日関白】というあだ名をつけられるのです。
道兼は、おそらくその性格のせいで、各方面から恨みをかっていたと思われます。
もしかすると、誰かに毒でも飲まされたのでしょうか?
とはいえ、その証拠はまったくありませんので、これは筆者の妄想でしかありません。
当時は感染症が流行していたらしいので、もしかすると感染症が原因で亡くなったのかもしれません。
冷酷で人から恐れられていた
歴史書の「大鏡」には、道兼はとても冷酷で、人々から恐れられていたと記されています。
面倒な性格で、しかも意地が悪いと記されています。
もはや長所がない人物のように思われます。
道兼の死後、権力を握ったのは、道兼の弟・藤原道長でした。
道長が権力を握って、本当に良かったのだと、後世の人々に思わせるために、道兼は極めて悪どい人物として描かれているのかもしれません。
栄花物語も大鏡も、道兼の死後に成立した歴史書です。
もしかすると、道長の時代を良いものだったと評価するために、道長自身が道兼を酷評したのかもしれません。
息子の方が乱暴だった?紫式部の娘と結婚した息子の暴挙
道兼の息子・藤原兼隆は、父よりも乱暴な人物だったかもしれません。
馬の世話をする従者を殴って殺し、自分の下女に乱暴を働いた藤原実資の下女の家を襲撃、破壊して略奪したといわれています。
そんな藤原兼隆は、一説によると、源氏物語の作者である紫式部の娘である藤原賢子(別名・大弐三位)と結婚しているのだとか。(賢子の夫は兼隆ではなく、藤原公信という人物だったという説もある)
そんな乱暴が過ぎたためか、兼隆はいつの間にか、藤原賢子と別れていたようです。
2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、紫式部の母親が藤原道兼に刺し殺される因縁がありましたが、二人の子供同士が結婚していたという縁があるのです。
藤原道兼は、とても男らしい性格だった?
老成して男らしい人だったと評価されている
栄花物語には、藤原道兼は老成つまり年齢を重ねた後は、とても男らしい人物であったと評価しています。
道兼は、肝試しでは逃げ帰ってくるような人物でしたが、花山天皇を出家させるという政変を成功させる度胸のある人物でもありました。
道兼の兄・道隆は、容姿端麗でおとなしく、とても気軽に声をかけられる人物だったといわれています。
弟・道長も、ボーっとした責任感のとぼしい一番下の弟という感じの人物だったようです。
カリスマ性を持つ兄・道隆と、人からかわいがられる弟・道長。
道兼は、そんな二人のあいだにはさまれ、自分なりの独自性を持った、独特な男らしさをもった人物だったのかもしれません。
子孫は伝説の猛将ぞろい
藤原道兼の子孫は、宇都宮氏と名乗り、北関東で勢力を拡大していました。
道兼は「男らしい人物だった」といわれていると解説しましたが、子孫はそんな道兼の武勇を引き継いだのかもしれません。
実は道兼の子孫は、猛将ばかりなのです。
- 源頼朝から「関東一の弓取り」と呼ばれた宇都宮朝綱
- 元寇のときに、わずか16歳で6万の軍団を率いて出陣した宇都宮貞綱
- 楠木正成から「坂東一の弓取り」と呼ばれた宇都宮公綱
- 戦国時代、奇蹟の武人と呼ばれ、宇都宮氏の全盛期を築き上げた宇都宮成綱
宇都宮氏は、その持ち前の武力と外交力で、全盛期には北関東を制圧したといいます。
兼家の戦闘能力・闘争心を、宇都宮氏は引き継いだのかもしれません。
元寇・弘安の役で、宇都宮貞綱の活躍がなければ、日本はモンゴル帝国・元に滅ぼされていたかもしれません。
それを考えると、藤原道兼の男らしさ・戦闘力は、日本を救ったといえるのかもしれないです。
→→→→→【藤原道兼の子孫の現在と家系図】についてくわしくはこちら
→→→→→【元寇での対馬の女子供へのむごい仕打ちとは?】についてくわしくはこちら
→→→→→【楠木正成の銅像は、なぜ皇居にあるの?】についてくわしくはこちら
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 藤原道兼の性格は、礼儀を知らず、冷酷で乱暴、それでいて小心者だったらしい。
- 道兼は、兄・道隆を馬鹿にし、父・兼家の死を悲しまず、主君・花山天皇すら騙したエピソードがある。
- 道長は、男らしい人だったという逸話もあるが、その戦闘力は、子孫に引き継がれたらしい
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
コメント