浅井長政はイケメンだったの?肖像画で確認してみた!身長や性格と生涯を解説
皆さんは浅井長政を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 浅井長政は、肖像画で見る限り、決してイケメンではないと、筆者は思う
- 長政は、武将としても領主としても優秀だった
- 長政の妻子は、その後悲劇的な運命をたどるが、娘たちは浅井三姉妹と呼ばれ、豊臣秀頼や、三代将軍・徳川家光を産むなど、日本史にその名を刻んでいる
甲冑に身を包み、名誉をかけて戦いが行われていた戦国時代。
その中で、特に義理と人情に厚い武将として輝いていたのが浅井長政です。
歴史に詳しい方ならば、その名を聞いたことがあるかもしれません。
しかし、歴史に興味がない方にとっては、馴染みの薄い存在かもしれません。
そんな浅井長政とは、どのような人物だったのでしょうか。
イケメンだったという噂もあります。
果たして、それにふさわしい身長や性格を備えていたのでしょうか。
ここでは、戦国武将・浅井長政の人物像を探ってみましょう。
目次
浅井長政はイケメンだったのか?肖像画で確認!
浅井長政は、実際にはそれほどイケメンではなかったと、筆者は思います。
浅井長政は、そのイケメンぶりでよく知られています。
特に、二度目の婚姻において、戦国一の美女として讃えられた【お市の方】との夫婦関係が、美男美女の組み合わせとして広く知られています。
しかし、実際に浅井長政がどれほどのイケメンだったのかについては、現存する肖像画が示唆しています。
有名なのは、お市の方の美しい肖像画と対をなす高野山・持明院像にある浅井長政の肖像画です。
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その絵を見てみると、ふっくらとした体型、色白で餅のような肌、二重顎までが確認できます。
少し太り気味、今で言うところの「ぽっちゃり」な姿が浮かび上がっています。
一方で、お市の方の肖像画にはすっきりとした目元やほっそりとした美しい顔立ちが描かれており、織田信長の肖像画との類似点も指摘されています。
お市の方の次女・お初の証言によると、お市の方は30代過ぎであるにも関わらず、20歳くらいにしか見えない、若づくりの天才だったとのことです。
これらの肖像画は、お市の方の長女・茶々(淀殿)が、二人の死後にその供養のために描かせたものといわれています。
浅井長政の肖像画がもう一つありますので、それもご紹介いたします。
「イケメン」という印象は、物語やアニメ、ゲームなどからの影響が強い可能性があります。
ただし、浅井長政が「イケメン」とされる一因は、彼のまっすぐな生き方や身内、部下への深い愛情が影響していると考えられます。
妻・お市の方との仲睦まじさや、領主としての姿勢が浅井領の民から慕われ、感謝されたことも確かです。
彼がふっくらした体型になったのは、領民たちが北近江の水資源が豊富な土壌で育った野菜や果物、肉や魚を届けてくれた結果ともいわれています。
領民に感謝の手紙を書くなどしていたらしく、長政の人柄が地元で愛された理由の一端でしょう。
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浅井長政とは、何した人なの?
浅井長政とは、戦国の覇者・織田信長を、あと一歩のところまで追いつめた武将です。
現代では、戦国時代をテーマにした小説、漫画、アニメ、そしてゲームが豊富に存在しています。
この中で、有名な武将たちが勇猛果敢に戦う姿が描かれ、その中でも特に織田信長の物語を読み解くと、物語の進行に欠かせない武将が登場します。
その一人が、浅井長政です。
物語やゲームの中で、長政は
といった特徴を持つ、戦国時代では異色の清廉潔白な武将として描かれています。
浅井長政は北近江の国、現在の滋賀県北部を支配した戦国大名でした。
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彼が生まれた当時、浅井家は南近江(滋賀県南部)の六角氏との戦いに敗れ、六角氏に仕える立場にありました。
長政の母が六角氏の城に人質となっていたため、長政は六角氏の城で誕生したとされています。
長政が元服する頃(成人のこと。約15歳の頃)にも、この状況は変わらず続いていました。
長政は、六角氏の当主からは自身の名前から一文字を与えられ、浅井賢政と名乗るように強制されました。
それだけではなく、六角氏の家臣の娘との結婚を命じられ、長政はあくまで六角氏の家臣としての待遇を厳しく求められました。
この状況に反発した若き浅井長政と浅井家の家臣団は、野良田の戦いを引き起こしました。
その戦いで浅井家の家臣たちに卓越した働きを見せた長政は、若いうちから浅井家の当主としての重責を期待されるようになりました。
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長政は、武将や領主として優秀だったのか?
浅井長政は、武将としても強く、領主としてもとても優秀だったようです。
六角氏との戦いで敗北し、長い間厳しい状況に直面していた浅井長政は、父親の浅井久政とともに、野良田の戦いで勝利を収めました。
この勝利により、家臣たちは彼の戦功を高く評価し、浅井家の家督を長政に託しました。
当時、長政はおおよそ15歳であり、まだ若輩者であったはずなのですが、家臣たちは彼に対して多くの期待を寄せていました。
家督を継いだ後、長政は猛威を振るっていた織田家と同盟を結ぶことになりました。
この同盟は、織田信長が長政に対して、妹のお市の方を人質として差し出す形で成立しました。
お市の方はその美しさから戦国一の美女と称され、信長にとっても母を同じくする大切な妹でした。
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信長はこの機会に、隣国・美濃との戦いや京都への上洛において、隣接する北近江の浅井家との同盟が重要であると考え、お市の方を提供することで同盟を強化。
浅井長政は同盟成立の条件として、越前(福井県東部)を支配していた朝倉家との戦いを避けることを要求。
浅井家は、朝倉家とのつながりが深く、父の時代からの恩義があったといわれています。(近年の研究では、浅井と朝倉はそれほど縁があったわけではないともいわれている)
この真面目で誠実な条件が、彼自身の性格を反映しています。
こうして、浅井家は織田家との同盟を結び、朝倉家の安定を確保する一方で、政治的手腕も発揮していたことが窺えます。
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長政の身長と性格とは?
長政の身長は180cmと、当時の平均身長を20cm近く上回っており、性格は義理を大切にして人情深かったようです。
信長の妹との結婚に対して、ほとんどの家臣たちは反対の立場をとりました。
その主な理由は、浅井家が親しい関係にある朝倉家と織田家が敵対していたからです。
しかし、結婚を約束することで、朝倉家には決して攻め込まないという信長の言葉を得て、反対意見を黙らせたようです。
結婚後、長政とお市の方はお互いに引かれあい、互いを尊敬し合う、戦国時代には珍しい、とても仲の良い夫婦となりました。
お市の方は実は身長が165センチもあり、当時の女性の平均身長である150センチを大きく上回っていました。
その長身で美しい体躯のお市の方と、長政は体格的にどれほど釣り合っていたのでしょうか。
当時の男性の平均身長は160センチで、お市の方はこれを抜いていました。
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お市の方の兄である信長も170センチとされており、かなりの大きかったといわれています。
ところが、驚くべきことに、長政は180センチもあったとされています。
現代でも十分に高い身長ですが、当時は驚異的な長身であったことでしょう。
浅井家は恰幅の良い血筋であり、その後の孫にあたる豊臣秀頼も身長190センチを越え、体重160キロを超えていたと伝えられています。
豊臣秀頼 京都市養源院蔵:Wikipediaよりパブリックドメイン母親の茶々(別名・淀殿。浅井長政の長女)も、お市の方よりも身長が高く、170センチ近くあったといいます。
これはまさに浅井・織田家系の特徴でした。
身長が高い一方で、長政は威圧感はなく、義理堅く実直で清廉潔白な人物だったようです。
戦場では信長も一目置くほどの猛将でしたが、一度戦場を離れると、女性にも優しく子煩悩な一面を見せる人物でした。
しかし、その義理堅さと潔白な性格が、悲劇的な最期をむかえる原因となったといっても過言ではないでしょう。
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浅井長政の妻子とその後
浅井長政の妻子は、その後悲劇的な運命をむかえます。
ざっとまとめると以下の通りです。
- 妻・お市の方、織田信長の死後に柴田勝家と再婚したものの、秀吉に攻められ自害
- 長男・万福丸、羽柴秀吉に捕まり、関ヶ原で処刑
- 次男・万寿丸、出家させられる
- 長女・茶々、母の仇である豊臣秀吉の側室となり、秀頼を出産。大坂の陣で自害
- 次女・初、京極高次と結婚し、大坂の陣で姉の茶々を救おうとするも失敗
- 三女・江、二代将軍・徳川秀忠に嫁ぎ、三代将軍・家光を産む
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信長と同盟を結んでしばらくは順調でしたが、驚くべきことに信長はあれだけ約束をしたのに、朝倉家を攻撃し始めました。
お市の方と結婚して数年後のことでした。
この出来事により、長政は困難な決断を迫られました。
長政自身、信長を尊敬しており、義理の兄弟としての親密な関係があったとされています。
突然の信長の裏切りに直面し、長政は自らの選択を迫られました。
- 愛する妻の兄であり、尊敬する信長に味方するか。
- 古くからの縁がある朝倉家に加わるか。
長政が選んだのは、朝倉家への忠誠でした。
実際には、長政自身は信長に協力したかったことでしょう。
しかし家臣たちの反対と、義理堅い性格のために、長政は朝倉家を見捨てることができませんでした。(長政の裏切りの理由には、諸説あります)
→→→→→【浅井長政が信長を裏切った理由】についてくわしくはこちら
この選択により信長は激怒。
お市の方を一番の秘蔵っ子として大切に扱ってきた長政が、自分を裏切ったと感じたのです。
もちろん、最初に約束を破ったのは信長自身であったことは、考慮されるべきですが・・・。
同盟はここで破綻し、長政はお市の方と子供たちを織田家に戻すか、つまり離縁を考えました。
しかし、お市の方はこれを拒絶。
政略結婚であったとはいえ、お互いに引かれあっていたお市の方と長政は離れることができず、結局お市の方は浅井家にとどまることになりました。
この時、お市の方は織田陣営に向けて両端が結ばれた【小豆の袋】を陣中見舞いとして送りました。
通常は片方だけ結ばれたものですが、なぜか両方が結ばれていたのです。
これに気づいた信長勢は急いで退却。
これが「袋のネズミ」を意味しており、織田軍は朝倉と浅井に挟み撃ちにされ絶体絶命だと伝えようとしたのだといわれています。
ただし、これは作り話という説もあるとのことですが、お市の方の苦しい心情を表すエピソードとして広く語り継がれています。
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長政は、織田信長をあと一歩のところまで追いつめたものの
などの必死の奮戦で、なんとか逃げ切ったといわれています(金ヶ崎の退き口)
信長は再び軍を整え、長政が支配する北近江へ攻め込んできました。
これが姉川の戦いです。
川を挟んでの戦いで、その川が死者の血で赤く染まったという説も伝えられています。(現地には血原・血川などの地名が残っている)
非常に激しい戦闘だったようですが、この戦いでは織田側が勝利。
一時は休戦状態に入りましたが、二年後に再び信長が攻めてきます。
1573年、小谷城に住む長政、お市の方、そして子供たちのいる城は炎に包まれました。
長政は自害する覚悟でいましたが、お市の方と子供たちは逃がすことを決断。
長政を討ち取った織田信長はその後、長政たちの首を盃にしたともいわれています。
→→→→→【浅井長政の頭蓋骨を盃にしたエピソード】についてくわしくはこちら
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小谷城を攻めていたのは後の豊臣秀吉こと羽柴秀吉です。
しかも秀吉は長政の長男・万福丸を処刑しています。
万福丸はお市の方の子ではなかったようですが、それでもその後、お市の方は秀吉を特に嫌悪したと伝えられています。
小谷の城から逃れ、織田家に戻されたお市の方は、三人の娘たちと一緒にしばらく織田家で生活することになります。
彼女たちは戦国時代の厳しい世の中の犠牲になったわけですが、お市の方と三姉妹は、それぞれ独自の生き方を歩んでいきます。
長女の茶々は豊臣秀吉の側室となり、淀殿として知られています。
淀殿はその後、1615年の大坂夏の陣で、息子の秀頼と共に自害しました。
次女のお初は、名門・京極家に嫁ぎ、秀吉の死後に、権力争いを繰り返す徳川家と豊臣家の橋渡し役として活躍。
三女のお江は、後に徳川秀忠の妻となり、三代将軍家光の母となりました。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
- 浅井長政は、肖像画で見る限り、決してイケメンではないと、筆者は思う
- 長政は、武将としても領主としても優秀だった
- 長政の妻子は、その後悲劇的な運命を辿るが、娘たちは、豊臣秀頼や、三代将軍・徳川家光を産むなど、日本史にその名を刻んでいる
以上となります。
戦国時代にその名を刻む名将・浅井長政。
確かに、アニメやゲームで描かれるような美男子ではなかったかもしれませんが、彼の生きざまは非常に美しいものだと思います。
戦国時代において裏切りがはびこる中、いつも真摯で正直に生きてきた長政こそ、本当に美しい男性の典型ではないでしょうか。
29歳という若さで自刃してしまいましたが、戦国の名将と言って良いかとおもいます。
義理に殉じた悲劇の武将としても有名ですが、その人生は他の武将よりも豊かで、温かいものだったのかもしれません。
浅井家は長政とともに滅亡しましたが、彼の血は今も、尊敬していた信長の血とともに、現代に引き継がれています。
→→→→→【浅井長政の子孫は天皇陛下】についてくわしくはこちら
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