皆さんは徳川家康とは何をした人なのかを、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 徳川家康とは、戦国時代を終わらせ、江戸幕府を開いた人物
- 家康は、幼い頃は人質として苦労し、成長して織田信長や豊臣秀吉とともに天下統一をめざした
- 1615年の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、1616年に75歳で生涯を終えた
この記事では徳川家康がやったことを、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は徳川家康がやったことについて、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、徳川家康の功績に詳しくなれます。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
徳川家康とは【何をした人】
徳川家康は、戦国時代の戦乱を終わらせ、江戸幕府を開き、260年続く安定した政治を実現した人物です。
徳川家康は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
具体的には、以下の功績を挙げることができます。
- 1600年の関ヶ原の戦いで勝利し、実質的な天下の支配権を獲得
- 江戸幕府を開き、260年続く安定した政治を実現
- 武士の統制や交通・経済の整備など、社会の安定化に努める
幼少期は織田家や今川家の人質として過ごし、かなり厳しい経験をしたといわれています。
しかし、成長してからは、優れた三河家臣団とともに戦国時代を戦い抜き、天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利しました。
関ヶ原の戦いに勝利したことで、家康は天下の実権を握りました。
家康は、武士の棟梁である征夷大将軍に就任し、約260年続く江戸幕府の礎を築きました。
徳川家康は、1467年の応仁の乱から150年近く続いた戦国時代の混乱を終わらせ、平和で安定した江戸時代をつくりあげた人物といえます。
徳川家康の【プロフィール】
- 【名前】徳川家康
- 【別名】竹千代(幼名)、松平元信(初名)、松平元康
- 【出身地】三河・岡崎城(現在の愛知県岡崎市)
- 【生年月日】1542年12月26日(天文11年12月26日)
- 【死亡年月日】1616年4月17日(元和2年4月17日)
- 【享年】75歳(満年齢73歳)
- 【墓】日光東照宮・久能山東照宮
- 【父】松平広忠
- 【母】於大の方
- 【妻】築山殿・旭姫(豊臣秀吉の妹)
- 【子】松平信康(長男)、結城秀康(次男)、徳川秀忠(三男)
徳川家康の【生涯年表】
区分 | 年(年号) | 出来事 | 家康の年齢 | |
---|---|---|---|---|
幼少期 | 1542年(天文11年) | 三河国岡崎城の城主・松平広忠の長男として誕生。生誕地は岡崎(愛知県) | 1歳 | |
1547年(天文16年) | 人質として駿府の今川家へ向かう途中で連れ去られ、尾張の織田家へ送られる。 | 6歳 | ||
1549年(天文18年) | 父・広忠が暗殺される。今川義元の人質となり駿府へ移る。 | 8歳 | ||
青年期 | 1557年(弘治3年) | 今川氏の重臣・関口親永の娘・築山殿と結婚。 | 16歳 | |
1559年(永禄2年) | 墓参りで岡崎へ一時的に帰還。築山殿とのあいだに長男・信康が誕生。 | 18歳 | ||
1560年(永禄3年) | 桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を討ち取る。 | 19歳 | ||
1563年(永禄6年) | 長男・信康が信長の娘・五徳姫と婚約する。元康から家康へと改名する。三河一向一揆を鎮圧する。 | 22歳 | ||
1566年(永禄9年) | 東三河・奥三河を平定し、三河国を統一する。徳川に改姓し、朝廷から三河守に任ぜられる。 | 25歳 | ||
1568年(永禄11年) | 遠江国へ進出し、武田信玄は駿河を、家康は遠江を支配する。 | 27歳 | ||
天下統一へ | 1570年(元亀元年) | 織田信長の援軍で姉川の戦いに出陣。浅井・朝倉軍を破る。浜松城を本拠地とする。 | 29歳 | |
1572年(元亀3年) | 武田信玄が遠江国・三河国への侵攻を開始(西上作戦)。三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗。 | 31歳 | ||
1573年(元亀4年) | 信玄が病死。室町幕府が滅亡。 | 32歳 | ||
1575年(天正3年) | 長篠の戦いで、織田信長との連合軍により、武田勝頼の軍を撃破。 | 34歳 | ||
1579年(天正7年) | 三男の秀忠(後の二代将軍・徳川秀忠)が誕生。築山殿・松平信康を処断 | 38歳 | ||
1581年(天正9年) | 武田家の高天神城を攻略し、遠江を完全に平定。 | 40歳 | ||
1582年(天正10年) | 武田氏の滅亡で駿河国を支配。本能寺の変で織田信長が亡くなる。山崎の戦いで明智光秀戦死。神君伊賀越え。 | 41歳 | ||
1584年(天正12年) | 小牧・長久手の戦いで、秀吉と戦い講和。 | 43歳 | ||
1586年(天正14年) | 浜松城から駿府城へ移る。秀吉の妹・朝日姫と結婚し、秀吉に臣従。 | 45歳 | ||
1590年(天正18年) | 小田原合戦で先鋒を務め、北条家滅亡。秀吉からの移封命令により、江戸城を居城とする。 | 49歳 | ||
1598年(慶長3年) | 豊臣秀吉が亡くなる | 57歳 | ||
1600年(慶長5年) | 会津の上杉景勝の征伐へ向かう(会津征伐)。関ヶ原の戦いで、西軍・石田三成に勝利。 | 59歳 | ||
江戸幕府を開く | 1603年(慶長8年) | 征夷大将軍となり江戸幕府を開く。 | 62歳 | |
1605年(慶長10年) | 秀忠に征夷大将軍の職をゆずり、自らは大御所となる。(二元政治) | 64歳 | ||
1607年(慶長12年) | 駿府城を築き、隠居城とする。 | 66歳 | ||
1614年(慶長19年) | 方広寺鐘銘事件。大坂冬の陣が起こるが、講和して終結。 | 73歳 | ||
晩年 | 1615年(慶長20年) | 大坂夏の陣。淀殿と豊臣秀頼が自害し、豊臣家が滅亡する。 | 74歳 | |
1616年(元和2年) | 朝廷より太政大臣に任命される。4月17日、駿府城で病死。久能山に葬られる。(翌年、日光東照宮へ葬られる) | 75歳 |
徳川家康の【生涯を簡単に解説】
誕生
1542年
徳川家康は、現在の愛知県東部に位置する三河国岡崎城主・松平広忠の長男として生まれました。
家康は幼名を、竹千代といいました。
人質として過ごした幼少の時期
家康は幼い頃、人質として、将来の見通しが立たない不安定な状態で生きていたといわれています。
竹千代こと徳川家康の父・松平広忠は、危険な状況に追い込まれていました。
松平広忠の領地・岡崎は、西を織田家、東を今川家という、強大な勢力に挟まれた国でした。
1545年
西の織田信秀が三河・岡崎に侵攻を開始しました。(織田信秀は、織田信長の父)
それに対して松平広忠は、東の今川義元に助けを求めました。
今川義元は援軍と引き換えに、松平広忠に対して息子・竹千代を人質に出すように要求しました。
1547年
竹千代は、今川家家臣の戸田康光に連れられて、岡崎から駿府へ向かいました。
ところが途中で、戸田康光が今川家を裏切り、竹千代を尾張の織田家へと連れて行ってしまいました。
竹千代は、そのまま織田家の人質となりました。
一説によると、竹千代はこの織田家での人質生活をしていた際に、織田信長と出会ったといわれています。
1549年
竹千代の父・松平広忠が家臣に暗殺されてしまいました。
その後、織田家と今川家は、織田信広と竹千代の人質交換を行い、竹千代は今川家の元へ無事に帰還しました。(織田信広は織田信長の兄)
このように、竹千代は織田家と今川家の間で人質として転々とし、将来がどうなるかわからないような極めて不安定な幼少期を過ごしました。
竹千代は、今川家のもとで元服(成人)します。
今川義元から「元」の1文字をもらい、松平元信と名乗りました。
さらにその後、祖父・松平清康から「康」の字をもらい、松平元康と名乗りました。
桶狭間の戦いから独立へ
今川義元が桶狭間の戦いで戦死するという大事件をきっかけに、松平元康は独立することになります。
1560年
今川義元は織田信長を討つため、4万人の大軍団を引き連れて、尾張(愛知県西部)へ侵攻を開始。
このとき松平元康(徳川家康)は、今川家の先陣として戦いに参加しています。
しかしこの【桶狭間の戦い】で、今川義元は織田信長に討ち取られてしまいます。
元康は、今川義元の討ち死にを知り、戦場から退却。
敗戦のどさくさ紛れに、松平元康は故郷・岡崎城に入城。
この城に入った元康は、西から侵攻してくる織田軍団を防ごうとしたのです。
しかしその後、今川家からの援軍が来なかったため、元康は追いつめられます。
その後、元康は今川家からの独立を模索することとなるのです。
清州同盟と三河一向一揆
桶狭間の戦いで岡崎城へ戻った松平元康は、織田信長と清州同盟を締結したあと、三河一向一揆に苦しめられます。
今川義元が桶狭間の戦いで討たれて今川家が弱体化すると、松平元康は独立を果たしました。
1561年
元康は織田信長と、清洲同盟を締結しました。
この同盟により、元康は織田信長を後ろ盾にして、三河国の統一を目指すことになります。
1563年
西三河で三河一向一揆が勃発しました。
この一揆は、本證寺の僧・空誓が中心となって起こしたもので、三河全域にわたって広がりました。
一揆勢力は、家康の家臣団の多くを味方につけ、家康を窮地に追い込みました。
しかし、家康は冷静に対処し、一揆を鎮圧することに成功しました。
この一揆を鎮圧し、家康は三河国を統一することができました。
同年、松平元康は、家康と改名。
1566年
松平から徳川と姓を変えています。
こうして徳川家康は、戦国大名としての地位を確立し、天下統一へと歩み始めました。
今川家を滅ぼす
桶狭間の戦いで今川義元が倒れ、その息子・今川氏真が当主になっていました。
今川家は今川義元が討たれたことで国力が低下していたのです。
1568年
今川家の本拠地・駿河国(静岡県中部)が、猛将・武田信玄の攻撃を受けています。
家康は信玄と同盟を結び、今川家が支配する遠江国(静岡県西部)を攻撃。
1569年
今川家は滅亡。
当主・今川氏真は妻である早川殿の父・北条氏康のもとへと逃れます。
家康は遠江を支配し、浜松城を築城して、そこに本拠をおきます。
しかし武田信玄の家臣・秋山虎繁が遠江国へ攻め込んできたことがきっかけで、徳川と武田の関係は悪化していきます。
金ヶ崎の戦い〜長篠の戦い
1570年
織田信長は、浅井長政や朝倉義景を相手に、金ケ崎の戦いや姉川の戦いで勝利します。
徳川家康も信長を助け、浅井・朝倉軍を撃破します。
1572年
武田信玄は、信長包囲網を画策し、徳川家康に加わるよう打診しますが、家康は信長との同盟を維持します。
信玄は、家康の領地である遠江や三河に侵攻します。
武田軍の勢いにあらがえず、徳川軍は連戦連敗します。
1573年
武田信玄が率いる武田軍は、家康の本拠地である浜松城に迫ります。
家康は、籠城するか野戦に持ち込むか、対応を迫られます。
武田軍は、浜松城を無視して、三河方面へ進もうとします。
家康は、自分を無視して素通りしようとする武田軍を追撃。
しかし、これは武田軍の罠でした。
武田軍に待ち伏せされた徳川軍1万1千人の軍は大敗し、合計で2000人もの死傷者を出します。
しかしその直後、武田信玄が陣中で病死したことで、武田軍は撤退します。
1575年
織田・徳川連合軍は、武田勝頼率いる武田軍と長篠の戦いで戦い、大勝します。
築山事件から武田家滅亡
1579年
家康は、妻・築山殿と長男・松平信康を処刑します。
なぜ処刑したのかというと、築山殿と信康が、宿敵である武田勝頼と内通したためです。
これまで築山殿と信康の処刑は、織田信長の命令だったといわれていました。
しかし近年の研究では、信長の命令ではなく、家康の独断だったことがわかっています。
1582年
織田信長と徳川家康が、協力して武田勝頼を討ち取り、武田家が滅亡。
この功績により家康は、信長から駿河国を与えられます。
本能寺の変
1582年
明智光秀の謀反で織田信長が本能寺で殺されました。
家康はこの頃、織田信長の配下でした。
その上、家康と信長は親しい関係にあったため、家康は明智光秀から命を狙われたのでした。
このとき家康は、少数の供の者だけを引き連れて、大坂の堺に滞在していました。
本能寺の変の報を聞いた家康は、驚きと恐怖で慌てふためき、信長の後を追って切腹しようとしたといわれています。
しかし、家臣の説得で冷静さを取り戻し、三河国への帰還を決意。
部下・服部半蔵の案内で、伊賀の山道を越えて三河に戻りました。
三河に戻った家康は、織田信長の仇討ちを目指します。
兵を率いて京に向かい、明智光秀と戦おうとしたのです。
ところが、本能寺の変からわずか11日後、山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を討伐。
この知らせを聞いた家康は、やむなく引き返したのでした。
織田信長が死んだ後、旧武田領の甲斐や信濃は、領主を失った空白地帯となっていました。
家康は、この2カ国へ侵攻し、見事に手に入れることに成功したのです。(天正壬午の乱)
こうして家康は
- 甲斐(山梨県)
- 信濃(長野県)
- 駿河(静岡県中部)
- 遠江(静岡県東部)
- 三河(愛知県東部)
合計5カ国を領有する大大名となったのです。
小牧・長久手の戦い
織田信長が死んだ後、羽柴秀吉は勢力を伸ばし、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、天下人を目指すようになります。
一方、信長の次男・織田信雄は秀吉と対立するようになり、信雄は家康に協力を求めます。
1584年
羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康のあいだで、小牧・長久手の戦いが勃発。
この戦いは、家康・信雄連合軍の大勝に終わりました。
ところが、秀吉の外交戦術により、家康は徐々に味方を減らして苦境に立たされます。
追いつめられた家康は、秀吉の妹である旭姫を正室として迎え入れることになります。
1586年
ついに家康は、大坂城へ出向いて、秀吉に臣従。
秀吉は家康を屈服させた直後に、九州の覇者・島津義久を降伏させて、九州を平定。
九州を平定したことで、残る敵は関東・北条氏政と東北・伊達政宗。
秀吉の天下統一は、もうあと一歩のところまで来ていました。
小田原合戦〜関東・江戸城へ移動
1590年
豊臣秀吉は小田原の北条氏を攻め滅ぼしました。
この戦いは小田原合戦と呼ばれています。
このとき東北の伊達政宗が秀吉に屈服したので、秀吉は天下統一を達成しています。
戦後、家康は、これまでの領地である東海地方5カ国を秀吉に召し上げられます。
その代わりに、北条氏の旧領である関東のほぼ全域を与えられました。
これによって家康の領地は、119万石から250万石へと大幅に増加。
その代償として、徳川家のルーツである三河や遠江そして駿河などの地を失うことになるのです。
関東移封により、家康は武蔵国の江戸城を新たな本拠地としました。
江戸は当時、海が入り組んだ湿地帯でした。
しかし家康は、海を埋め立てて土地を広げ、町づくりに尽力。
その結果、現在の大都市・東京の基礎が誕生したのです。
関ヶ原の戦い
1598年
天下人・豊臣秀吉が死去。
その遺言により、家康は豊臣政権のトップである五大老の筆頭に就任します。
家康は、それぞれの大名と婚姻関係を結ぶなどして勢力を広げていきます。
しかしこのことは、大老の前田利家や五奉行の石田三成らとの関係を悪化させてしまいました。。
1600年
石田三成が率いる西軍と、徳川家康率いる東軍による関ヶ原の戦いが勃発。
戦いは、家康率いる東軍が大勝に終わり、家康は一気に天下の覇権を握ることとなるのです。
江戸幕府を開く
1603年
家康は征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きました。
武家の棟梁を意味する征夷大将軍に任命されたということは、日本全国の武士たちが、家康に従わなくてはいけないということを意味します。
これにより家康は、事実上の天下人つまり天下の支配者となりました。
1605年
将軍の座を三男の徳川秀忠に譲って引退しました。
しかし家康は、その後も大御所として、駿府城にて政治の実権を握り続けました。
家康と秀忠この二人による支配体制を、大御所政治(二元政治)といいます。
元和偃武・家康の最期
関ヶ原の戦いで天下人となった家康でしたが、豊臣家は依然として大坂城を拠点に、影響力を保持していました。
そのため、徳川家が完全に天下統一を果たすには、豊臣家を屈服させる必要がありました。
1614年
家康は、豊臣秀頼が再建した京都・方広寺大仏殿の、鐘に刻まれた銘文の一部に激怒します。
この鐘には
- 国家安康
- 君臣豊楽
という文字が刻まれていました。
- 国家安康とは、家康という諱を二つに引き裂く、極めて失礼な文章であること。
- 君臣豊楽とは、豊臣を君主として楽しむ、という意味が隠されていること。
このことに、家康は激怒したのです。
家康から抗議を受けた豊臣家の家老・片桐且元は、事態の打開を図るため、3つの提案を豊臣秀頼に対して示します。
- 秀頼の参勤つまり江戸への移住
- 淀殿の人質つまり江戸への移住
- 秀頼の大坂から大和国(奈良県)または伊勢国(三重県)への国替え
このうち一つを選べば、家康の怒りは静まるだろうと、片桐且元は提案したものの、秀頼は全て拒絶。
なんと片桐且元は、秀頼から裏切り者として認定されて首を狙われてしまうのです。
家康は大坂城を攻めるために挙兵します。
大坂冬の陣です。
この大坂冬の陣では、大坂城の堅固さと、真田信繁(幸村)たち浪人衆の奮戦により、家康は苦戦。
和睦(仲直り)して撤退します。
このときの和睦条件として、大坂城の外堀を埋めるというものがありました。
しかし家康は約束を破って、内堀まで完全に埋めてしまいます。
1615年
秀頼に招かれていた浪人衆が暴走し、勝手に大坂城の堀を掘り返し始めたのでした。
約束違反を理由にして、再び徳川軍は大坂城を攻撃。
大坂夏の陣の勃発です。
この大坂夏の陣で豊臣秀頼とその母・淀殿は自害。
豊臣秀頼の息子・国松丸も処刑されて、豊臣家は滅亡するのです。
→→→→→【豊臣秀頼のご遺体のゆくえ】についてくわしくはこちら
これにより、国内での大きな争乱は終結。
家康は、元号を慶長から、終戦を意味する元和と改めました。
これを、戦のない世を実現したことを祝い、元和偃武と呼ぶのです。
徳川家康の最期
豊臣家を滅亡させた家康は
- 武家諸法度
- 禁中並公家諸法度
- 寺院法度
などの武家・公家・寺社を取り締まる法律を発令。
徳川幕府の支配体制を確固たるものにしました。
家康が築いた支配体制のおかげで、徳川幕府は長く続いたのでしょう。
徳川幕府は明治維新が起こった1868年まで、263年ものあいだ続きました。
1616年
鷹狩りをしていた家康は突然倒れ、駿府城で亡くなりました。
享年75歳(満年齢73歳)
家康の死因は、胃ガンだったという説が有力です。
近年では、鯛の天ぷらを食べて亡くなった説は否定されています。
家康は亡くなった後、駿府・久能山東照宮に葬られました。
そして一周忌を過ぎてから、日光東照宮に改めて葬られました。
これは全て家康の遺言によるものです。
家康は死後、東照大権現という神号を贈られ、神として日光にまつられたのでした。
→→→→→【徳川家康が残した辞世の句】についてくわしくはこちら
徳川家康の【逸話・エピソード集】
家康は倹約家だった
徳川家康は大変な倹約家で、次の世代に莫大な資金を残したといいます。
以下にそれを物語る逸話・エピソードをまとめてご紹介いたします。
侍が座敷で相撲をしていたときは、畳を裏返して叱りました。
商人から献上された蒔絵装飾の便器は、あまりに趣味が悪かったので、直ちに破壊したといいます。
三河にいたときは、夏でも麦飯を食べ、部下が米の飯を上にのせようとしたときは
「百姓は苦労しているのに、自分だけ贅沢な食事ができるか!」
と叱り飛ばしたといいます。
厩が壊れていても、そのままにしておくことで、馬が丈夫になると信じていました。
おそらく厩を修理する費用を惜しんで、そんな言い訳を思いついたのでしょう。
家臣が華美な屋敷を作らないように、敷地を小さくし、自身の屋敷もきわめて質素でした。
名将・蒲生氏郷は、前田利家の方が天下人にふさわしいと考えており、家康は人心を得られないと評しました。
なぜなら家康は、莫大な領地や報酬を与えない人だったのです。
そのため、部下からの人気を得ることが出来ないだろうと考えられていたのです。
家康に対して豊臣秀吉は、家臣に莫大な領地を与えていました。
しかし、秀吉は莫大な領地を与えることでしか部下たちを繋ぎとめておくことができないという弱点もあったのです。
そのため、褒美として与える莫大な領地を必要としていたのです。
与える領地を得るために、朝鮮出兵までやったのが秀吉でした。
逆に家康は、多くの領地を与えることができませんでした。
そのため多数の失業者つまり浪人が生まれ、大坂の陣で真田信繁(幸村)や後藤又兵衛ら浪人衆に苦しめられたのでした。
幼くして戦略の才能を発揮した
徳川家康は、わずか10歳で戦略眼を発揮したといいます。
10歳の竹千代(家康)は、150人対300人の石合戦を見て、少ない方が勝つと予想します。
それを聞いた家臣は竹千代の言葉をまったく信じず、数が多い方の勝利を予想したのでした。
ところが竹千代が言う通りに150人組が勝利し、竹千代は笑いながら家臣の頭を叩いたといいます。
徳川家康は健康オタクだった
家康は長寿で、食事は質素であり、薬学にも詳しく、自己治療を好んだ健康指向の持ち主でした。
家康が天下を取れた理由は、当時としては長寿である75歳まで長生きしたためです。
その長生きの秘訣は、家康の健康指向と質素な食生活にあるといえます。
食事は麦飯や魚、野菜の煮物、納豆などで、食べすぎを避け、酒も控えめにしていました。
また常に暖かいものを好んで食したといいますので、平均体温が上昇し、免疫力が向上していたのでしょう。
また、薬草や海外の医学書に精通し、薬の調合にも興味を持っていました。
病気の際も自己治療を好み、医療の発展にも貢献しました。
関ヶ原の戦いでは、負傷した兵士たちに石鹸を使用させて、感染症を未然に予防。
そのほか、東南アジアから香木を集めて心身の健康に気を配ったそうです。
宿敵・武田信玄を尊敬していた
徳川家康は、三方ヶ原の戦いなど、自分を散々苦しめた敵将・武田信玄をお手本にしていたといいます。
家康は武田信玄との戦いで大変苦労しました。
しかしその反面、政治や軍事の施策には、武田家を手本にする部分が多かったのです。
軍事機密を知り尽くした重臣・石川数正が豊臣秀吉に寝返ったことにより、軍の組織づくりを以前のやり方から変える必要が生じました。
このとき家康は、徳川流から武田流へ、軍法を改めているのです。
1582年に武田氏が滅亡し、天正壬午の乱の後、武田家の残された領地を確保しています。
このとき家康は、多くの武田の家臣たちを自身の家臣団に取り入れました。
さらに、自分の五男に「武田」という苗字を与え、武田信吉と名付け、水戸藩を治めさせました。
武田信吉の母は、武田にゆかりの女性です。
しかし武田信吉は病弱で、子供を残さないまま、若くして亡くなっています。
徳川家康の【現在の子孫のゆくえ】
徳川家康の子孫
徳川家康には、11人の男子と5人の女子がいました。
その子孫は、歴代将軍や徳川御三家の藩主などとして、江戸時代を代表する武家となりました。
1868年の明治維新後も徳川家は存続し、現在も
- 徳川宗家
- 徳川御三家
- 徳川御三卿家
として続いています。
徳川宗家の歴史
徳川宗家は、徳川家康の直系の家系です。
初代当主は、徳川家康。
二代当主、家康の三男である徳川秀忠です。
2022年に、18代当主の徳川恒孝さんが高齢を理由に引退。
評論家や翻訳家として活躍している徳川家広さんが、2023年に19代当主となりました。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 徳川家康とは、戦国時代を終わらせ、260年続いた江戸幕府を開いた人物
- 家康は、幼い頃は人質として不安定な日々を送り、その後は織田信長や豊臣秀吉とともに天下統一へ邁進した
- 1615年の大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、翌年の1616年に75歳で生涯を終えた
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
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