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聖徳太子(厩戸皇子)がした事とは?何した人なのかわかりやすく簡単解説

皆さんは聖徳太子しょうとくたいし厩戸皇子うまやどのみこ)をご存知でしょうか?

この記事の内容を簡単にまとめますと以下の通りです。

  • 聖徳太子は推古天皇の甥であり、日本の基礎を作り上げた政治家でした。
  • 彼は冠位十二階の制や十七条憲法などの制度を定めました。
  • 622年に推古天皇より先に亡くなったため、天皇に即位することはありませんでした。

この記事では聖徳太子(厩戸皇子)をわかりやすく、簡単に解説しました。

今は聖徳太子について漠然としか知らなくても、大丈夫です。

この文章を読めば、誰かに説明できるほど、聖徳太子(厩戸皇子)に詳しくなれます。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。


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目次

聖徳太子しょうとくたいしって何した人?

聖徳太子(またの名を厩戸皇子)は、飛鳥時代の政治家であり、日本で仏教を広めた人物です。

 

聖徳太子(厩戸皇子)・・・近年では別人を描いたものだともいわれている
引用元ウィキペディアより

彼は用明天皇の子として生まれ、後に推古天皇の摂政として影響力を持ちました。

その時期に、蘇我馬子とともに

  • 冠位十二階の制度
  • 十七条の憲法
  • 遣隋使の派遣
  • 仏教の振興

など、革新的な政策を推し進めました。

彼の仏教への貢献は大きいですが、その一方で、彼をめぐるさまざまな伝説や逸話も残っています。


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聖徳太子のプロフィール

厩戸皇子(聖徳太子) 引用元Wikipediaより

【名前】厩戸皇子

【生年月日】574年2月7日

【没年月日】622年4月8日

【諡号】聖徳太子

【お墓】叡福寺北古墳

【父】用明天皇

【母】穴穂部間人皇女

【妻】菟道貝蛸皇女、刀自古郎女、橘大郎女、膳大郎女

【兄弟】田目皇子、豊聡耳皇子、当麻皇子、来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子、酢香手姫皇女
、佐富女王

【子】山背大兄王やましろおおえのおう、財王、日置王、白髪部王、長谷王、三枝王、伊止志古王、麻呂古王、片岡女王、手島女王、舂米女王、久波太女王、波止利女王、馬屋古女王


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聖徳太子の生涯年表

出来事
574年 聖徳太子(厩戸皇子)誕生
585年 父・橘豊日皇子が天皇に即位(用明天皇)
587年 用明天皇死去。丁未の変で厩戸皇子が物部守屋討伐軍に加わり、守屋を討伐
592年 馬子が泊瀬部皇子(崇峻天皇)を皇位に就けるが、実権を掌握。崇峻天皇が馬子と対立
593年 馬子が豊御食炊屋姫を擁立(推古天皇)。厩戸皇子が皇太子となり、共に天皇を補佐。四天王寺を建立。
594年 仏教興隆の詔
595年 高句麗の僧・慧慈が来日し、仏教について伝える
600年 新羅への使者の派遣や交戦の末、調を貢ぐことを約束させる
601年 斑鳩宮を造営
602年 新羅征討の軍を再び起こすが中止。聖徳太子が書生に暦を学ばせる
603年 冠位十二階を定める
604年 十七条憲法を制定。朝礼や宮門出入りの作法を定める
605年 諸王諸臣に褶の着用を命じる
607年 屯倉を各国に設置、大溝を掘る
612年 百済の味摩之が伎楽を伝える
613年 難波から飛鳥まで、大道を築く
614年 最後の遣隋使を派遣
615年 聖徳太子が三経義疏を著す
620年 国記などを編纂
622年 厩戸皇子の妻・膳大郎女が死去。翌日に厩戸皇子も死去

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聖徳太子とはどんな人?生い立ちから最期まで、生涯を簡単解説

生い立ち

聖徳太子は574年に、当時は橘豊日皇子として知られる用明天皇の子として生まれました。

彼の母は欽明天皇の娘であり、蘇我稲目の孫にあたる穴穂部間人皇女でした。

最初は厩戸皇子と呼ばれていましたが、後に聖徳太子と称されるようになりました。

幼少期からその聡明さが伝えられ、数々の逸話が語り継がれています。

物部守屋を討伐

87年、用明天皇の死後、蘇我馬子と物部守屋の対立が激しくなり、仏教を受け入れるか受け入れないかをめぐる問題が武力衝突に発展しました。

馬子は兵を動員し、仏教を取り入れることに反対していた物部守屋の拠点である河内国渋川郡(今日の大阪府八尾市周辺)を攻撃しました。

聖徳太子は蘇我氏と血縁があり、仏教を尊重していたため、馬子の軍に参加して守屋と戦いました。

当時、聖徳太子は14歳でした。

守屋は軍事的な力を持つ一族で、最初は馬子側が苦戦しましたが、聖徳太子が四天王像を彫って祈ると戦況が好転し、勝利に導かれたという伝説が伝えられています。

この感謝の意を示すため、後に聖徳太子は四天王寺を建立しました。


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推古天皇の摂政となる

聖徳太子は、推古天皇の摂政に就任しています。

太子は蘇我馬子の権力を確立するため、物部守屋との戦いに勝利しました。

その後、政治は変化し、崇峻天皇の即位後、593年、推古天皇が次の天皇として即位します。

推古天皇の下で、甥にあたる聖徳太子は摂政として任命されました。

この時、聖徳太子は20歳でした。

摂政は天皇の政務を助ける役割です。

20歳で摂政に任じられた聖徳太子は、非常に優れた能力を持っていたと考えられます。

また、彼は次期天皇として期待されていた存在でした。

推古天皇・蘇我馬子と協力して政治を行う

推古天皇と蘇我馬子の連携により、政治が行われるなかで、聖徳太子は新しい政策を取り入れました。

聖徳太子は、高句麗から来た高僧・恵慈から多くを学びました。

仏教だけでなく、大陸の政治制度や文化にも積極的に関心を寄せました。

彼の政策の主な目標は、天皇を中心とした中央集権国家体制の確立でした。

豪族同士の争いを抑え、天皇を核とした統一された国家へと変えることを目指したのです。

聖徳太子が進めた政策には

  • 仏教興隆の詔
  • 冠位十二階の制
  • 十七条の憲法
  • 遣隋使の派遣

などが含まれています。

仏教興隆の詔

594年、聖徳太子は仏教の振興を宣言しました。

これが仏教興隆の詔です。

詔とは、天皇からの命令を指します。

この宣言により、国として公式に仏教を支持する姿勢を示しました。

仏教の促進を訴えるこの宣言では、三宝(仏・法・僧)の発展を奨励し、それによって豪族たちも寺院建設に積極的に参加するようになりました。

この動きが飛鳥文化の繁栄に繋がったのです。


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冠位十二階の制

冠位十二階の制度は603年に導入されました。

それまでは血縁に基づいていた冠位でしたが、この新制度では実力に応じて決まり、出自に関係なく才能で高位に登用されるという画期的なものでした。

ただし、蘇我氏などには特例があり、例外も存在しました。

この制度は後に律令制へとつながっていきました。

十七条の憲法

604年には十七条の憲法が制定されました。

この憲法は現代のものとは違い、豪族や臣下たちに道徳的な指針を示しました。

天皇に忠誠を尽くし、仏法を敬うことを重んじています。


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遣隋使の派遣

遣隋使とは、日本から隋へ派遣された使節団のことです。

600年から614年ごろまで何度か派遣されました。

最初の使節は小野妹子であり、最後の使節は犬上御田鍬が派遣されました。

この派遣の理由はいくつかありますが、日本の地位を東アジアで強化したいという考えがありました。

当時、日本は朝鮮半島の新羅と対立していました。

聖徳太子の摂政期間中にも朝鮮に軍を送りましたが、大きな成果はありませんでした。

そこで朝鮮を超えて隋と国交を築くことで、国の地位を高めようとしました。

『隋書』倭国伝によると、小野妹子は隋の煬帝に宛てて国書を送ったとされています。

「日出る国の天子より、日没する国の天子へ」

という言葉で始まる国書は有名です。

この際、対等な外交を意図していたと伝えられています。

隋との交流は政治だけでなく、学問や留学によって多くの制度や文化を吸収し、日本の文化と政治の発展に貢献しました。

聖徳太子の最期

聖徳太子は後半生を、政治の中心地である飛鳥(現在の奈良県明日香村)から斑鳩宮(現在の奈良県斑鳩町)に移り住みました。

そこでは、仏教の研究に没頭し、政治からは距離を置くようになったと伝えられています。

この変化の理由として、蘇我氏の権力が強まり、聖徳太子の政策を実現する障害となったことが考えられます。

例えば、冠位十二階の制度では蘇我氏が特例として除外されていました。

真相は明らかではありませんが、聖徳太子が政治に興味を失ったか、蘇我氏との対立があった可能性も指摘されています。

聖徳太子は49歳のとき、斑鳩宮で倒れ、そこで亡くなりました。

死因は流行した病気で、具体的には疱瘡ほうそうと言われています。

疱瘡は、現代でいうところの天然痘てんねんとうのことです。


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聖徳太子の逸話・エピソード

聖徳太子にまつわる伝説や逸話は数多くあります。

まず、生まれたばかりの彼が即座に話したという伝説や、幼少期に動物たちが彼の周りに集まり、鳥が彼の手に止まって歌ったという話が伝わっています。

さらに、予知能力を持っていたとも言われています。

日本書紀によれば、未来の出来事を知り、自身の死期まで予言していたとされています。

また、「未来記」という予言の書を記していたという伝承もありますが、現在のところその存在は確認されていません。

鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ名将・楠木正成は、聖徳太子の予言書に、自分が鎌倉幕府を滅亡させると記されていたことに驚いたといわれています。

これらの話は、聖徳太子に謎めいた面を与えています。

近年では、彼の実在を否定する説も広まっています。

彼は10人の話を同時に理解し、的確な返答を行ったという逸話から、豊聡耳とよさとみみと称されていたとも伝えられています。

これらのエピソードは、聖徳太子を神格化するため、後世の人々によって創作された可能性があります。

聖徳太子の生誕から、お釈迦さまやイエス・キリストのエピソードを取り入れた話や、後世の予言など、彼に関するエピソードは後世に追加されていったものと考えられています。

楠木正成が鎌倉幕府を滅亡させると予言した書についても、楠木正成のでっちあげだという説が一般的です。


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聖徳太子は仏教と、どういう関係?

聖徳太子は、仏教を受け入れるかどうか葛藤しましたが、最終的には仏教を尊重し、その後の仏教文化に大きな影響を与えました。

高句麗の僧、恵慈から仏教を学び

  • 『法華経』
  • 『勝鬘経』
  • 『維摩経』

の3つの経典の注釈書である『三経義疏』を著したとされています。

そのため、後に仏教界では、日本で仏教を広めた聖人として、聖徳太子自体が信仰の対象とされるようになりました。このことが聖徳太子信仰として知られています。

本来の厩戸皇子の名前が「聖徳太子」と呼ばれるようになったのも、この信仰に関連しています。

彼にまつわる伝説も生まれましたが、その中には馬小屋で生まれたという話や、生後すぐに言葉を話したとか、動物が集まってきたという話は、イエス・キリストやお釈迦さまを思わせるものです。

聖徳太子としての伝説と、政治を行った厩戸皇子としての実際の姿が、混ざり合った形で伝えられています。

→→→→→【聖徳太子が仏教を広めた理由】についてくわしくはこちら


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聖徳太子が天皇にならなかった理由

聖徳太子が天皇にならなかった理由は何だったのでしょうか?

彼は有望な皇位継承者であり、将来的には天皇になる可能性が高かった人物でした。

しかし、実際には天皇に即位することはありませんでした。その理由は何だったのでしょうか?

崇峻天皇が暗殺された後、いくつかの皇位継承者がいましたが、皇位継承争いを避けるため、女性の推古天皇が即位しました。

推古天皇は当初は暫定的な地位にありましたが、非常に有能であり、健康で長寿でした。

もし推古天皇が早く亡くなっていたら、聖徳太子が後継者として即位していた可能性もありました。

しかし、推古天皇は長寿であり、一方で聖徳太子は早世しました。

そのため、「なぜ聖徳太子は天皇にならなかったのか?」という問いの答えは、推古天皇が長生きしたからだと言えます。

また、天皇が在位中に皇位を譲ることも考えられます。

もしも推古天皇が在位中に、聖徳太子が積極的に皇位を譲るよう働きかけていたら、推古天皇はそれに応じたかもしれませんでした。

ただし、これは推測に過ぎず、聖徳太子が積極的に天皇になろうとしなかった可能性もあります。

その後、斑鳩宮に移住し、政治から距離を置いたことからも、聖徳太子は学者としての性格が強く、政治や権力にはあまり興味を示さなかったかもしれません。

→→→→→【聖徳太子が天皇にならなかった理由】についてくわしくはこちら


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聖徳太子とお札の関係!7度もお札になっていた!

聖徳太子の肖像は日本のお札に7回も使用されてきました。

彼の肖像はお札で最も多く採用されています。

彼の肖像が使われたお札は

  • 100円札に4度
  • 1000円札に1度
  • 5000円札に1度
  • 10000円札に1度

聖徳太子の十七条の憲法にある

をもってとうとしとなす」

という言葉が、彼の業績を日本の文化や平和の象徴として示しているかもしれません。

彼の古代日本における政治、文化、教育、社会制度への貢献は確かです。

また、彼の肖像が描かれたお札にはプレミア価値がついているものもあるそうです。もし手元にあれば、調べてみると良いかもしれませんね。

おばあちゃんの家にあった記憶がありますね。


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聖徳太子の子孫の現在とは?

聖徳太子の子孫は、現在まで続いてはいません。

すでに断絶しているといわれています。

聖徳太子には4人の妻がいて、14人の子供がいたと言われています。

そのうち、直系の男子は山背大兄王やましろおおえのおうです。

後に、山背大兄王は天皇の後継者争いに巻き込まれ、蘇我入鹿の軍に攻められて自らや一族とともに命を絶ちました。

この出来事で、聖徳太子の直系の一族は途絶えたとされています。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 聖徳太子とは、推古天皇の甥で、日本の基礎を作り上げた政治家
  2. 聖徳太子は、冠位十二階の制・十七条憲法などの制度を定めた
  3. 622年に推古天皇より先に亡くなったため、天皇に即位できなかった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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