皆さんは赤穂浅野家の子孫の現在を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 浅野内匠頭には子供がいなかったため子孫はいない。弟の子孫も昭和に断絶しているので、現在まで続いていない
- 吉良邸討ち入りで、上野介が討ち取られた6年後、浅野内匠頭の弟・長広によって、赤穂浅野家は再興された
- 浅野長栄の時代に明治維新をむかえた赤穂浅野家だが、1986年(昭和61年)に、浅野長楽の代で断絶した
この記事では浅野家の子孫を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は浅野家の子孫について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、浅野家の子孫に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
浅野内匠頭の子孫の現在とは?
結論からいえば、浅野内匠頭の子孫は、現在断絶しています。
そもそも浅野内匠頭には子供がいなかったため、直系子孫はいません。
ただし、浅野内匠頭の弟・浅野大学長広が、赤穂浅野家を再興して、子孫を続けていました。
ところが、その浅野内匠頭の弟の子孫も、浅野長楽という人の代に、妻も子もいない状態で1986年(昭和61年)に病死したため断絶。
浅野大学長弘から、枝分かれした分家の子孫がいる可能性はあるものの、赤穂浅野家の本家は断絶して、現在まで続いてはいません。
「吉良邸討ち入り」後の浅野家はどうなった?
赤穂浪士たちの吉良邸討ち入りで、吉良上野介が討ち取られた6年後、浅野内匠頭の弟・浅野大学長広によって、旗本ながら赤穂浅野家は再興されています。
浅野内匠頭の弟・浅野大学は、広島の浅野本家お預かりという厳しい処分を受けながらも、1000俵の支給を受け、罪人扱いではなかったようです。
5代将軍・徳川綱吉の死による大赦で許され、6代将軍・徳川家宣から安房国(千葉県南部)500石の領地を与えられ、小規模ながら6年後にお家再興を果たしました。
広島本家からも300石の支給を受け、旗本として幕末まで領地を守り続けました。
大学は討ち入りから31年後、65歳で亡くなり、兄や浪士たちと同じ泉岳寺に葬られ、以降、当主は代々同寺に葬られることとなりました。
跡を継いだ浅野長純は、8代将軍・徳川吉宗に御目見し、小姓組番士として江戸城内で勤務しました。
その後
- 長延
- 長貞
- 長邦
と続き、長邦は11代将軍・徳川家斉の馬廻衆である書院番士を務めました。
- 長年
- 長栄
と続き、この浅野長栄の代に1868年の明治維新を迎えたのです。
明治維新後の浅野家
浅野長栄の時代に明治維新をむかえた赤穂浅野家ですが、1986年(昭和61年)に、浅野長楽の代で断絶します。
長栄は書院番士として幕府に仕え、明治維新後は朝臣、つまり明治天皇の部下に転身しました。
多くの徳川家の旗本が徳川慶喜とともに静岡藩に移住する中、浅野家が朝臣となったのは、明治天皇による赤穂浪士の顕彰が影響したと考えられます。
明治天皇は、赤穂浪士を反逆者ではなく忠臣として称賛し、勅使を派遣して泉岳寺に文書を贈りました。
浅野家も改めて禄高300俵を与えられました。
長栄は明治22年に亡くなり、娘の静子が家督を継ぎました。
しかし、その静子の後継である浅野長楽は妻をもたず、当然ですが子もいなかったため、赤穂藩浅野家の嫡流は途絶えました。
一方、忠臣蔵は明治時代以降も歌舞伎の人気演目として上演され続けました。
大正時代には海外進出も果たしましたが、第二次世界大戦後にはGHQによって上演禁止となりました。
しかし、のちに禁止令は解かれ、戦後も忠臣蔵は愛され続けています。
大名としての再興は叶わなかったものの、内匠頭の弟・浅野大学は旗本として、血脈を現代に伝えました。
また、大石内蔵助の息子である大石大三郎は、広島藩浅野家に召し抱えられています。
赤穂藩浅野家の血筋は途絶えてしまいましたが、忠臣蔵の人気は衰えず、泉岳寺には多くの人が訪れています。
浪士たちの討ち入りは語り継がれ、浅野家的事績も後世に残されていくでしょう。
余談ですが、大石内蔵助の先祖は、徳川家康のため関ヶ原の戦いの前哨戦で亡くなった「鳥居元忠」と、武田四天王のひとり「馬場信春」です。
→→→→→【鳥居元忠の子孫の現在と、大石内蔵助との関係】についてくわしくはこちら
赤穂浪士たちは「討ち入り」より「お家再興」を目指していた
浅野内匠頭が切腹したあと、すぐにかたきうち、つまり討ち入りをしようとしたと考えられているかもしれませんが、赤穂浪士たち特に大石内蔵助は、討ち入りよりも「お家再興」を目指していました。
吉良邸討ち入りの後、お家再興に成功
大石内蔵助たち赤穂浪士が目指していたお家再興は、一度は失敗したものの、吉良邸討ち入りに成功したあとに成功しています。
浅野内匠頭の弟・浅野大学長広によって、藩主ではなく旗本ではあるものの、お家再興に成功しているのです。
当初、大石内蔵助ら浪士たちは、吉良への仇討ちを計画していませんでした。
堀部安兵衛ら一部は主張していましたが、大石は、浅野家再興と吉良への処分の二つの条件が満たされない場合のみ、討ち入りを決行するとしていました。
浅野内匠頭の切腹後、赤穂藩は改易、赤穂城も引き渡されましたが、内匠頭の弟・浅野大学への処分はまだ決まっていませんでした。
浅野大学は、浅野内匠頭の弟であり養子として、3000石を与えられ、将軍・徳川綱吉にもお目見えを果たしており、後継者にふさわしいと考えられていました。
しかし、大学は広島藩・浅野本家へ預かりという処分を受け、御家再興の望みは絶たれてしまいます。
その結果、大石ら赤穂浪士たちは吉良への仇討ちを決意し、実行に移します。
江戸市民から英雄として称賛された浪士たちは、最終的には切腹となりました。
しかし彼らは、武士の鑑として称えられました。
その後は、先ほど解説した通り、徳川綱吉の死によって、安房に500石の領地を与えられ、赤穂浅野家は再興されたのです。
赤穂市と吉良町は和解していた
赤穂浅野家があった兵庫県赤穂市の市長と、吉良上野介の領地があった愛知県吉良町の町長が、1990年に公式に和解を成立させています。
赤穂浅野家の子孫は断絶しており、吉良上野介の直系子孫も断絶しているため、浅野と吉良の子孫同士の和解は成立しないのです。
代わりということなのか、市長と町長が、和解をされたようです。
両市町は、1990年11月により歴史的な和解を成立させました。
和解の舞台となったのは、討ち入りの舞台である東京都墨田区の吉良邸です。
余談かもしれませんが、吉良上野介の直系子孫は断絶したものの、その血筋は現在も続いています。
吉良上野介の先祖は、あの今川義元とその息子・氏真です。
→→→→→【今川氏真の子孫は、吉良上野介さらには宇宙工学の博士だった】についてくわしくはこちら
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 浅野内匠頭には子供がいなかったため子孫はいない。弟の子孫も昭和に断絶しているので、現在まで続いていない
- 吉良邸討ち入りで、上野介が討ち取られた6年後、浅野内匠頭の弟・長広によって、赤穂浅野家は再興された
- 浅野長栄の時代に明治維新をむかえた赤穂浅野家だが、1986年(昭和61年)に、浅野長楽の代で断絶した
以上となります。
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