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茶屋四郎次郎清延の最後と死因!徳川家康を救った豪商の知られざる最期

皆さんは茶屋四郎次郎ちゃやしろうじろうを、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

 

  1. 茶屋四郎次郎清延きよのぶとは、徳川家康につかえた豪商であり、武士でもある
  2. 四郎次郎の死因は不明だが、おそらく病死。1596年、52歳で亡くなった
  3. 四郎次郎の子孫には、2000年に東北福祉大学を設立した中島恒雄氏がおられる

 

この記事では茶屋四郎次郎を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

 

今は茶屋四郎次郎について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

 

これを読めば、誰かに説明できるほど、茶屋四郎次郎に詳しくなれます。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

茶屋四郎次郎の死因と最期の様子

茶屋四郎次郎とは、徳川家康に部下としてつかえ、神君伊賀越しんくんいがごえの際に家康を救った京都の豪商です。

《徳川家康》
「引用元ウィキペディアより」

本名は中島清延なかしまきよのぶといいます。

 

死因について

茶屋四郎次郎の死因は不明ですが、おそらく病死であると思われます。

 

最期の様子とは?

茶屋四郎次郎は、1596年に亡くなっています。享年52歳。

 

この頃の日本は、豊臣秀吉が天下を支配していた時代です。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)
「引用元ウィキペディアより」

秀吉は天下統一を達成し、朝鮮出兵をしていた頃です。

 

そんな頃に、茶屋四郎次郎は亡くなったのでした。

 

余談ですが、この1596年は、徳川家康が内大臣に就任しています。


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茶屋四郎次郎とは、何者なのか?

茶屋四郎次郎は、安土桃山時代に活躍した豪商で、徳川家康に仕えたことで知られています。

 

彼は本名を中島清延といい、京都の呉服商人でした。

 

室町幕府13代将軍・足利義輝がたびたび彼の店に立ち寄り、お茶を飲んだため、屋号として茶屋と名乗ったのでした。

《足利義輝》
「引用元ウィキペディアより」

当時、茶屋四郎次郎は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった戦国大名たちと交流がありました。

 

特に徳川家康には、武士としてもつかえていました。

 

実は茶屋四郎次郎の父と祖父は、武士だったため、商人としての才能だけではなく、武人としての能力も持ち合わせていたのです。

 

1573年、徳川家康が武田信玄に大敗北した三方ヶ原の戦いに参戦した茶屋四郎次郎は、その活躍を褒められて、橘の家紋を許されたのでした。

 

橘紋
引用元Wikipediaより

 

その後、1590年の小田原征伐まで、合計53回もの戦争に参戦したといわれています。

 

茶屋四郎次郎は、呉服商人として家康に呉服を売っていたようですが、それのみならず、情報や鉄砲に火薬に弾丸も徳川家康へ供給したのです。

 

しかし、やはり茶屋四郎次郎がもっとも活躍した場面は、1582年の本能寺の変と、神君伊賀越えの時でしょう。


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本能寺の変に茶屋四郎次郎が与えた影響とは?

本能寺の変は、1582年に織田信長が明智光秀によって襲撃され亡くなった事件です。

 

このとき、茶屋四郎次郎は徳川家康の命を救う大活躍をしています。

《織田信長》
クリックすると拡大できます
「引用元ウィキペディアより」

この事件が起こった際、徳川家康は本能寺の変が起こった京都に近い和泉国の巨大都市・堺(現在の大阪府堺市)で、家臣たちとともに観光旅行をしていました。

 

そんな家康に対して、本能寺の変で織田信長が亡くなったことを伝えたのが、この茶屋四郎次郎と本多忠勝だったといいます。

本田忠勝
引用元Wikipediaより

実は徳川家康は、このとき絶対絶命の危機にひんしていました。

 

明智光秀は、堺で少数の家臣とともに観光していた家康を殺害しようと、その首に懸賞金をかけたのです。

 

家康は落武者狩りなどに命を狙われましたが、本拠地である三河国(愛知県東部)への逃亡を試みます。

 

このときの逃亡劇は、家康が伊賀国を通ったため、神君伊賀越しんくんいがごえと呼ばれ、徳川家康の苦難の多い人生の中でも、最大の危機だったといわれています。

 

途中まで家康と一緒に逃げていた穴山梅雪という武将が、別行動をとった途端に、落武者狩りによって討ち取られたほどです。

 

落武者狩りや野盗から逃亡した家康でしたが、このとき、茶屋四郎次郎の助けによって無事に逃げ延びることができました。

 

茶屋四郎次郎は、家康より先を歩き、各地で黄金の小判をばら撒き、野盗などを満足させて安全を確保したといいます。

 

これにより、家康は三河国へ無事に戻ることができ、後に徳川家の全国統一へと繋がる礎を築くこととなりました。

 

→→→→→【本能寺の変】についてくわしくはこちら


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茶屋四郎次郎の子孫と後世の評価

四郎次郎の子孫について

茶屋四郎次郎の子孫は、後に家康の家臣として重用されました。

 

実は、茶屋四郎次郎の子孫は、当主がみんな【四郎次郎】と名乗る習わしだったため、正確にいえば、茶屋四郎次郎という名前の人はたくさんいます。

 

代々【半蔵】と名乗るのが習わしだった服部家でも、服部半蔵はっとりはんぞうはたくさんいるといいます。

《服部半蔵正成》
「引用元ウィキペディアより」

神君伊賀越えで家康を助けた初代・茶屋四郎次郎清延の息子である三代目・茶屋四郎次郎清次きよつぐは、家康の代官などを務めた上に、朱印船貿易しゅいんせんぼうえきで北ベトナムへ船を派遣し、大富豪になったといいます。

 

角倉了以すみのくらりょうい後藤四郎兵衛ごとうしろべえと並んで、茶屋四郎次郎清次は、【京の三長者】と呼ばれています。

 

その子孫たちも、商人として活躍していますが、鎖国が成立してからは朱印船貿易が出来ず、新田開発に着手しているようです。

 

2000年に東北福祉大学を創立した教育者の中島恒雄なかじまつねお氏は、茶屋四郎次郎の17代目の直系子孫にあたられるお方です。

 

→→→→→【服部半蔵とはどんな人なのか】についてくわしくはこちら

茶屋四郎次郎の後世の評価

茶屋四郎次郎は、江戸幕府を開いて260年の長い平和を実現した徳川家康の命を、神君伊賀越えにおいて救ったため、後世の評価は非常に高いです。

 

それのみならず、武人として三方ヶ原の戦いから小田原征伐までの、53回もの戦を戦い抜いたことも、評価されており、人気があります。

 

京都の豪商として名を刻み、家康を物心両面で支えた茶屋四郎次郎は、歴史を動かした御用商人なのではないでしょうか。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 茶屋四郎次郎清延とは、徳川家康につかえた豪商であり、武士でもある
  2. 四郎次郎の死因は不明だが、おそらく病死。1596年、52歳で亡くなった
  3. 四郎次郎の子孫には、2000年に東北福祉大学を設立した中島恒雄氏がおられる

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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