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藤原実資と藤原道長の関係とは?家系図で繋がりをわかりやすく解説

皆さんは藤原実資ふじわらさねすけと藤原道長の関係を、ご存知でしょうか?

この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

    1. 藤原実資と藤原道長は、曽祖父そうそふ(ひいおじいさん)が同じ又従兄弟またいとこの関係
    2. 賢人右府けんじんうふと呼ばれた藤原実資は、藤原道長を痛烈に批判した人物であるが、同時に協力者でもあった
    3. 実資の娘が、道長の孫に嫁いでいるが、子供は幼くして亡くなり、家はのちに消滅した
    4. 藤原実資は、小右記という日記を残し、藤原道長の望月の歌を後世に伝えた

この記事では藤原実資を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は藤原実資について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、藤原実資に詳しくなれます。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。


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目次

藤原実資と藤原道長の関係

藤原道長と藤原実資は、二人とも藤原忠平を曽祖父にもつ、又従兄弟またいとこの関係です。

また、道長と実資はライバルであり、同時に良き同僚でもありました。

実資は、ときには道長を批判し、ときには心配をするなど、単純に権力争いをした敵とは言い難い関係だったのです。

藤原道長
引用元Wikipediaより

実資は、よく道長を厳しく批判していました。

一方で、実資は道長の能力と人物をとても評価し、道長も実資を尊敬していました。

1012年、道長が病気になった際、実資たちが道長の不幸を喜んでいると噂が広まりました。

しかし道長は、実資についてはそうではないと述べ、根も歯もない噂が広がってしまい、困惑する実資を安心させました。

ある日、実資が職を務めた際、道長は息子・教通が、なぜ物陰からでも実資の様子を見てその作法を学ばなかったのかと、我が子が実資を見て学ぼうとしないことに嘆いていたのです。

実資は、摂政となった道長が病に倒れて重体になった際、

「朝廷の柱が失われてしまう」

がと、とても心配したと言います。

実資は、道長との権力闘争よりも、政治を正しく行うことに尽力していたのです。

そのため実資は、「賢人右府けんじんうふ」と呼ばれたのです。

これは、「とてもかしこい右大臣うだいじん様」という意味になります。


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藤原実資の家系図と子孫

藤原道長と藤原実資は、同じ藤原北家の同族です。

ちなみに以下の家系図では描かれていませんが、実資は紫式部とも遠い親戚しんせきにあたります。

藤原道長と藤原実資の家系図
【家系図の引用等何卒ご遠慮くださいませ】

藤原実資には、実の息子がいませんでした。

上の家系図には記されていませんが、実資の娘である藤原千古ちふるは、藤原道長の孫・藤原兼頼かねよりに嫁いでいます。

ところが、二人の間に生まれた子供は、若くして亡くなっています。

実資の財産は、藤原千古に相続されたため、夫・藤原兼頼に受け継がれます。

実資の家である藤原北家ふじわらほっけ小野宮流おののみやりゅうはその後、消滅することになるのです。

ちなみに実資のいとこに、藤原公任きんとうがいます。

藤原実資は何した人なの?

藤原実資は、右大臣として活躍した道長のライバルであり、良き相談相手でした。

実資が歴史にその名を刻んだ最大の功績といえば、道長がつくった「望月の歌」を後世に伝えたことでしょう。

道長がつくった有名な和歌「望月もちづきの歌」をご存知でしょうか?

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる ことも なしと思へば」

欠けたところなどない満月のように満たされて、この世はまるで私のためにあるようだ。

道長がこの和歌を披露した際、道長は実資に対して返歌、つまり返事の歌をつくって欲しいと伝えました

しか実資は、歌が完璧なので返歌しようがないと言い、その歌を他のお公家さんたちとともに何度も歌ったといいます。

実は、この和歌が現代に伝えられている理由は、藤原実資のおかげなのです。

望月の歌は、小右記という日記に記されていたため、現代まで伝わっているのです。

実資が、歴史的価値の高い日記【小右記】を残したからこそ、現在我々は、藤原道長が「望月の歌」を歌うほど栄華を極めたことを知っているということです。


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藤原実資の日記【小右記】とは何か?

小右記とは、藤原実資が残した日記です。

藤原実資の出身である【藤原北家ふじわらほっけ野宮流おののみやりゅう】の【大臣うだいじん藤原実資ふじわらさねすけの日】なので、【小右記しょうゆうき】です。

膨大な量の記録が、現代に残されており、歴史的価値の高い、とても貴重な資料となっています。

その小右記のなかに、有名な藤原道長の「望月の歌」が記録されているのです。

当時のお公家さんは、儀礼や式典などで、数多くの古の儀式を行っていました。

その正しいやり方を、後の世の中や子孫に残すために、日記を残していたのです。

これら古式先例にのっとった儀式を行える家は、学者の家柄として重宝されたのでしょう。

藤原道長も、30歳から20年間ほど、御堂関白記みどうかんぱくきという日記を残しています。

その小右記は、とても歴史的価値の高い作品として、後世に残されています。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 藤原実資と藤原道長は、曽祖父そうそふ(ひいおじいさん)が同じ又従兄弟またいとこの関係
  2. 賢人右府けんじんうふと呼ばれた藤原実資は、藤原道長を痛烈に批判した人物であるが、同時に協力者でもあった
  3. 実資の娘が、道長の孫に嫁いでいるが、子供は幼くして亡くなり、家はのちに消滅した
  4. 藤原実資は、小右記という日記を残し、藤原道長の望月の歌を後世に伝えた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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