聖徳太子には天皇になれない理由があったの?即位しなかった事情を解説

『m』

《法隆寺》
「引用元nsmaibunによるPixabayより」

「聖徳太子」という名前に聞き覚えはあっても、いつの時代のどういう人なのかを説明できる方は、意外に少ないかもしれませんね。

私も大学に入るまでは、「飛鳥時代の政治家で、仏教を広めた人」とだけ思っていました。

聖徳太子は「日本史上初の摂政として、国政をつかさどった人」です。

この記事では、あまり聖徳太子に詳しくない方のために、その「功績」と「天皇に即位しなかった理由」を解説していきます。

これを読んで「聖徳太子」についての理解し、これまでの「わからないモヤモヤ」をスッキリと解消させてくださいね。


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この記事を短く言うと

  1. 聖徳太子とは飛鳥時代・6~7世紀の皇族であり政治家。「冠位十二階」や「憲法十七条」を制定した偉人。
  2. 皇太子だった聖徳太子だが、天皇に即位する前に亡くなってしまった。または天皇に即位しないほうが「天皇に実権を取り戻す」という目的達成に都合が良かったのかもしれない
  3. 【621年2月5日】または【622年2月22】に聖徳太子は亡くなった。妃が亡くなった翌日に聖徳太子も亡くなった・・・という説がある。

聖徳太子とは何者?天皇中心の政治「中央集権」を実現した政治家

聖徳太子(厩戸皇子)とは何者か?

「聖徳太子」は飛鳥時代(592~710年)の皇族政治家です。

「聖徳太子」というのは諡号(しごう・死後に生前の偉業を称えて付けられた名前のこと)で、本名は「厩戸皇子(うまやどのみこ)」と言います。

574年】、聖徳太子は「用明天皇」の次男として、母「穴穂部間人皇女」との間に誕生しました。父方からも母方からも、豪族「蘇我氏」の血を引いて生まれたのです。

子供のころから非常に優秀で、数々の神童伝説が残されています。


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585年】、父「用明天皇」が即位した頃から、「崇仏派(仏教を大切にしようとする一派)」の「蘇我馬子」と、「排仏派(仏教を廃止しようとする一派)」の「物部守屋」との間でいさかいが起きるようになっていたのです。

即位からわずか2年で「用明天皇」は、天然痘に罹り崩御します。

次の天皇を誰にするかで、「蘇我氏」と「物部氏」が争う中、物部氏が推していた「穴穂部皇子」が暗殺されてしまいました。

「穴穂部皇子」は、厩戸皇子から見ると、母「穴穂部間人皇女」の弟なので、「叔父」にあたる人物です。

この暗殺をきっかけに、蘇我氏と物部氏との間で戦争が勃発。厩戸皇子は「蘇我氏」の側に付きました。

戦争は蘇我氏の勝利に終わり、物部氏は滅ぼされたのです。

戦争終結後、「穴穂部間人皇女」のもう1人の弟で、廐戸皇子の叔父「崇峻天皇」が即位します。

しかし天皇とは名ばかりで、政治の実権は「蘇我馬子」が握っていました。

「崇峻天皇」は政治の実権を握れないことに不満を募らせ、「蘇我馬子」との関係は次第に悪化。即位から5年後、「崇峻天皇」は蘇我馬子によって暗殺されます。

こうして【592年】、初の女性天皇「推古天皇」が即位することとなります。


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「聖徳太子(厩戸皇子)」の功績

「推古天皇」が即位すると、厩戸皇子(聖徳太子)は「摂政皇太子」となり、蘇我馬子と協力しながら、推古天皇を政治的に補佐。以下のような功績を残します。

603年 「冠位十二階の制度」を制定し、出身ではなく能力で人を登用する制度を作ります。
604年 「十七条憲法」を制定し、官僚や貴族に対する法的規範を制定しました。
607年 「遣隋使」を大国「隋」に送り、「小野妹子」らに隋の文化や制度を学ばせます。
613年 飛鳥から難波に向かう街道(現在の竹内街道)を通し、交通を容易にしました。
620年 「蘇我馬子」とともに『天皇記』『国記』をつくり、推古天皇に献上します。
622年 聖徳太子死去。斑鳩宮で妃の後を追うように亡くなりました。

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聖徳太子は摂政としての在位中に、叔母「推古天皇」を補佐し、「冠位十二階」と「十七条憲法」を制定していますが、これらは大国「隋」にならった中央集権国家を築くための施策です。

「中央集権国家」とは、統治権と財源が国家中枢に集中している国家のことを言います。

力のある勢力が分立して覇権争いを繰り返す中で、勝ち上がった勢力が他の勢力を支配下に置き、権力が政権中枢に集中したとき、中央集権国家は生まれます。

古代の大和盆地では「蘇我氏」「物部氏」など多くの「豪族の先祖たち」と、「大王家(古代の天皇家)の先祖」による勢力争いがあり、それに勝ち残った「大王家(古代天皇家)」が権力を握るようになっていったのでしょう。


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聖徳太子が生まれた頃には、古代天皇家が政治権力を握り、豪族が大王の元に集まり、合議して政治を行っていました。

素朴ながらも「中央集権国家」ができつつあったと言えます。

ただし、その頃の王朝は「隋」のような古代中国を統一した巨大国家に比べると、まだ日本国内への支配も隅々まで行き渡っておらず、法整備もない、とても未熟なものでした。

「厩戸皇子」はこうした状況を打開し、「隋」と対等に渡り合える中央集権国家を構築するために、「推古天皇」を助け、画期的な政策を打ち出しました。

「冠位十二階」を制定して氏姓と世襲によらない「優秀な人材」を登用できるようにしました。

次に「十七条憲法」で国を統治する官僚や貴族に対する法整備を行い、古代世界における日本の近代化を図ったのです。


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皇太子だった聖徳太子が「天皇」に即位しなかった理由!

皇太子だった「聖徳太子(廐戸皇子)」が天皇に即位しなかったのはなぜでしょう?

理由の1つは、叔母「推古天皇」が飛鳥時代の人としては長命で【75歳】まで生きたため、「厩戸皇子」が天皇位に就く前に亡くなってしまった・・・・ということは言えると思います。

しかし、私は他に理由があるのではないかと思っています。

「推古天皇」は容色に優れているだけでなく、聡明で、政治家としての能力も大変高い人だったと言われています。

父「欽明天皇」、夫「敏達天皇」、兄「用明天皇」、弟「崇峻天皇」と、4代の天皇の治世を見てきた「推古天皇」は、蘇我氏が天皇をしのぐ政治権力を持っていることを熟知していたに違いありません。

自分もその血を引いているとはいえ、蘇我氏に政治権力を渡したままにはしておきたくない。

しかし正面から蘇我氏に歯向かえば、自分も2人の弟たち「穴穂部皇子」や「崇峻天皇」のように、命を絶たれる危険がある。

では、どうやって政治権力を天皇家に取り戻したら良いか?

推古天皇がそう考えた時に、甥の「厩戸皇子」も同じ考えを持っていたのではないでしょうか。


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廐戸皇子(聖徳太子)と推古天皇は、政治権力を有力な豪族から天皇家に取り戻す・・・という共通の目的を抱いていたのです。

推古天皇は「蘇我馬子」には大臣(おおおみ)として面目を保たせつつ、厩戸皇子を摂政として政治諸事を任せました。

摂政は「天皇が女性、病弱、年少で自ら司れない場合に、天皇に代わって政治を執り行う為政者」で、政治の最終的な決裁権を持ちます。

推古天皇は厩戸皇子を「摂政」として現実の為政者にし、豪族たちから政治権力を天皇家に取り戻したのです。

厩戸皇子が即位しなかったのは、「推古天皇の長命」よりも、蘇我氏と天皇と摂政間のパワーバランスを保ち続け、政治権力を大王家が握り続けるためだった・・・・と私は思います。

つまり聖徳太子は「天皇になりたかったけど、なれなかった」

のではなく

「天皇に即位するよりも、摂政のほうが『天皇家に権力を取り戻す』という目的を果たすのに好都合だったから天皇にならなかった」

と考えられるのです。


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聖徳太子の最期!妻「膳大郎女」のあとを追うように亡くなった

聖徳太子は【622年2月22日】に、妃の後を追うように、相次いで亡くなりました。

病に倒れた「厩戸皇子」の看病を続けていた妻「膳大郎女」は、看病疲れからか病に倒れ、前日の【622年2月21日】に亡くなったのです。

『日本書紀』では、聖徳太子は【621年2月5日】に亡くなり、その月に「磯長陵」に葬った・・・と記録されています。

その記録が「法隆寺」に伝わる記録や、「仁和寺」にある『上宮聖徳法王帝説』と、亡くなった日の記述が異なることから、聖徳太子の実在や功績を疑う学者もいます。

聖徳太子の時代、身分のある人が亡くなると、「殯(もがり)」と言って、棺に納めた遺体を墓に埋葬する前に長期間、別れを惜しむ習慣がありました。

例えば「天武天皇の殯(もがり)」は、1年以上の長期間行われています。

それに対して「聖徳太子」の場合はかなり短かったのではないか・・・と考えられます。


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『日本書紀』の記録通り【621年2月5日】に亡くなりその月に葬ったのであれば、「殯(もがり)」の期間が1か月もなかったことになるのです。

殯(もがり)が短かった(というよりなかった)人といえば、聖徳太子の叔父「崇峻天皇」です。なんと暗殺されたその日に埋葬されています。

他のも、暗殺されたなど、異常な亡くなり方をした人の場合「殯(もがり)」が短い例が、とても多いのです。

聖徳太子も妃と相次いで亡くなっていることを考えると、「伝染病」で相次いで亡くなったか、あるいは斑鳩宮が「何者かに襲撃」され、負傷した夫妻が相次いで亡くなったのかもしれません。

はっきりと死因が記録されていませんが、当時の人々にとって聖徳太子は、「異常な死に方だった」と受け止められたのでしょう。

そのため聖徳太子は、殯(もがり)も短く、亡くなった月中の埋葬になったのだと私は思います。


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『聖徳太子』について「ひとこと」言いたい!

推古天皇が年をとってきても厩戸皇子に譲位しなかったのは、厩戸皇子を天皇にした場合に、摂政として蘇我氏に対抗できる適任者が皇子にいなかったからではないか・・・と思います。

死期を悟った「推古天皇」は、「敏達天皇」の孫「田村皇子(後の舒明天皇)」と聖徳太子の子「山背大兄皇子」を病床に呼びましたが、2人に対して諭しただけでした。

推古天皇はこの2人のどちらも、後継者としては指名していないのです。

このことは「田村皇子」と「山背大兄皇子」が、2人とも「為政者として蘇我氏と渡り合うには役不足」・・・と推古天皇が認識していたからだと思います。

恐らく「聖徳太子」もそう思っていたのでしょう。

「冠位十二階」を導入し、氏姓によらずに人材を登用する道を開いていた聖徳太子は、息子だからといって「山背大兄皇子」を身びいきするつもりはなかったはずです。

もしかしたら、我が子の政治家としての能力も認めていなかったのかもしれません。


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推古天皇崩御後、朝廷は次の天皇を「田村皇子」にするか「山背大兄皇子」にするかで二分されます。

蘇我馬子の子「蘇我蝦夷」の推挙によって、「田村皇子」が即位。舒明天皇となりますが、朝廷の実権は蘇我氏が再び握ることになりました。

推古天皇と聖徳太子が取り戻した為政者としての古代天皇家の実権は、またしても蘇我氏に抑え込まれます。

そして「山背大兄皇子」は蘇我蝦夷の子「蘇我入鹿」に攻められたことで亡くなります。こうして聖徳太子の一族は滅亡したのです。

蘇我氏は朝廷の実権を握り、「蘇我入鹿」は自分の子供を「皇子」と呼ばせるなど、専横を極めました。

645年】に蘇我氏の専横に反感を持った「中臣鎌足」が、「中大兄皇子」とともに「乙巳の変」を起こして入鹿を滅ぼすまで、それは続いたのです。

古代日本で天皇家に政治実権を取り戻し、女帝である「推古天皇」を助け、古代世界における近代化を果たした「聖徳太子」は、偉大な政治家だったと私は思います。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 聖徳太子とは6~7世紀の皇族であり政治家。「冠位十二階」や「憲法十七条」を制定し、「小野妹子」を「遣隋使」として派遣するなど、数々の功績を残した偉人。
  2. 皇太子だった聖徳太子だが、天皇に即位する前に亡くなってしまった。天皇になりたかったがなれなかったわけではなく、もしかすると「皇太子」のほうが、「天皇へ実権を取り戻す」という目的達成に都合が良かったのかもしれない
  3. 【621年2月5日】または【622年2月22】に聖徳太子は亡くなった。妃が亡くなった翌日に聖徳太子も亡くなったわけだが、伝染病または何者かによる暗殺だった可能性も考えられる。

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この記事を短くまとめると、以下の通り

「聖徳太子」は飛鳥時代に生きた皇族政治家でした。

推古天皇の即位の際、「摂政・皇太子」となり、「蘇我馬子」と共に推古天皇の治世を支えます。

「冠位十二階」を制定し、氏姓によらず優秀な人材を登用しました。

また「十七条憲法」を制定し、官僚と貴族に対する法的基盤を整備したのです。

これらの施策は、日本を中央集権国家とし、大国「隋」と対等に渡り合えるような国家とすることを目的としたものです。

古代世界における「日本の近代化」とも言える施策です。

622年2月22日】、聖徳太子は1日前に亡くなった妃の後を追うようにして、49歳の生涯を閉じました。

聖徳太子が暮らした「斑鳩宮跡地」には、現在「法隆寺東院伽藍」が建っています。

《奈良・法隆寺》
『引用元ni2687378によるPixabayより』

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「聖徳太子の別名全部紹介!2017最新教科書での名前といなかった説」の記事はコチラ

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