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平安京に都を移した理由を簡単にわかりやすく解説!政策や政治のやり方も解説

『m』

『長岡京跡地』ゲタゲタさんによる写真ACからの写真

「鳴くよ(794)ウグイス平安京」という語呂合わせは覚えていても、「桓武天皇が平安京へ遷都した理由」を説明できる人は意外に少ないかもしれませんね。

実は私も大学に入るまで、よく知りませんでした。

「桓武天皇が遷都した理由」は、「平城京の寺院と天武天皇系の貴族の影響を排除し、物流の効率を良くするため」と「怨霊の祟りを恐れたため」です。

この記事では「桓武天皇にあまり詳しくない方のために、わかりやすく解説」いたします。

これを読んで「そうだったのか!平安京遷都!」と、疑問をスッキリと解消してくださいね。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 「桓武天皇」が「長岡京」から「平安京」へ都を移した理由は、「早良親王」の怨霊を恐れたため
  2. 桓武天皇は、征夷大将軍「坂上田村麻呂」に「蝦夷」を討伐させ、「健児制」「続日本紀の編纂」などを行った。「天皇親政(天皇みずから政治を行うこと)」を行ったことで有名。
  3. 桓武天皇の母「高野新笠」は百済からの「渡来人」の末裔。

桓武天皇はなぜ「長岡京」を捨てて「平安京」へ遷都したの?

「遷都(せんと)」とは、「首都を他の土地に遷(うつ)すこと」です。遷都には大規模な土木工事が必要となるため、一大事業なのです。

784年】に「桓武天皇」は、それまで都であった「平城京」から「長岡京」へ遷都しています。

「平城京」から「長岡京」へ遷都した理由。それは「3つ」あります。

《桓武天皇》
「引用元ウィキペディアより」

 



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「平城京」から「長岡京」へ遷都した3つの理由

1つは、「平城京」で寺院勢力がが力を持ちすぎたためです。朝廷の権力を拡大する上で、その「寺院勢力」が大きな障害となっていました。そのため寺院の影響力を低下させる目的で遷都したのです。

寺院は簡単には移転させられません。しかし遷都して朝廷が移動することで、寺院と距離を置けば、朝廷への寺院の影響力を簡単に削ぐことができます。

 

遷都した2つ目の理由は、「平城京に住む『天武天皇』系の貴族たちの影響力を避けるため」です。

「桓武天皇」のご先祖様は「天智天皇(中大兄皇子)」です。天智天皇の子「施基皇子」のそのまた息子である「白壁王(のち即位して光仁天皇)」の子供が「桓武天皇」。すなわち「桓武天皇」は、「天智天皇」の曾孫(ひまご)にあたります。

「称徳天皇」が崩御する前、度重なった政変が原因で「天武天皇」系の直系男子皇族は少なくなっていました。それでも平城京は「天武天皇」系の貴族・皇族の力が強い都だったのです。

同じ天皇家の人間とはいえ、血統の違う「桓武天皇」は、天武天皇系の皇族・貴族に嫌われていました。命を狙われかねないほどに。(天智天皇の子「大友皇子」が『壬申の乱』で天武天皇に倒されているので、天智系と天武系は仲が悪かった)

桓武天皇が為政者として思う存分に政治にあたるためには、天武天皇系の皇族・貴族と物理的に距離を取ることが必要でした。そのために「遷都」という方法は、極めて合理的な手段だったのです。



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3つめの理由は、「物流の効率を上げるため」です。

奈良の「平城京」のあたりには、大きな川がありません。そのため平城京へ物資を運ぶためには、陸路しか手段がありませんよね。

昔は「自動車」や「鉄道」のような、自動的に物資を運んでくれる乗り物がありませんでした。そのため水の流れと風の力によって自動で動いてくれる「水路」と「船」を物流に活用しなくては、都のような大人数がすむ地域では、簡単に飢餓が発生してしまうのです。

長岡京には大きな川が3つあります。効率的に水路を使い、物資の運搬ができる土地柄だったわけですね。

こうして【784年】、桓武天皇は長岡京へ遷都しました。

ところがその長岡京から、たった10年で「平安京」に遷都してしまうのです。



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「長岡京」から「平安京」へ遷都した理由

わずか10年での「平安京」への遷都。その理由は「怨霊の祟りを恐れたから」です。

「桓武天皇」は父「光仁天皇」から譲位され、【781年】に即位しています。その時、同母弟の「早良親王」を皇太子にします。

その後【785年】に「長岡京」で、「桓武天皇」の信任が厚かった「藤原種継」が暗殺される事件が発生しました。

この「藤原種継」は、桓武天皇お気に入りの臣下であり、「長岡京遷都」という大仕事を桓武天皇から任されていた人物でした。

その「藤原種継」とあまり仲が良くなかった「早良親王」は、種継暗殺の首謀者として廃太子となったのです。

「早良親王」が本当に事件に関わっていたのかどうかは不明です。

しかし「桓武天皇」が即位するまで東大寺の僧侶だった「早良親王」は、東大寺にとって良い相談相手でもあったのです。



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「東大寺」・・・・つまり平城京の寺院と関係が深いということは、「長岡京遷都」の責任者であった「藤原種継」を暗殺された桓武天皇からすれば、「早良親王」は暗殺を疑われやすい状況にあったということです。

遷都に反対して「藤原種継」を暗殺する動機があるとされた「早良親王」は、淡路島へと流罪になります。淡路に流される途上、無実を訴えて絶食。河内で亡くなりました。

それ以降、桓武天皇の近親者が次々と亡くなり始めます。

妃が3人立て続けに亡くなり、桓武天皇と早良親王の母「高野新笠」も亡くなり、新しく皇太子にした「安殿親王」も病気になってしまいました。

この不幸の連鎖を「早良親王の祟り」と考えた桓武天皇は、鎮魂の儀式を何度も行います。しかしそれでも都で病気が流行。災害までも発生するなど、災難が続きます。

追い詰められた桓武天皇は、怨霊の祟りを避けるため、つくったばかりの新都「長岡京」を諦め、【794年】に「平安京」へ遷都したのです。

masa2さんによる写真ACからの写真

遷都された「平安京」は、平安時代末期に「平清盛」が一時的ながらも強引に都を「福原京(現在の神戸市)」へと移したことを除けば、明治維新後に「東京遷都」がなされるまで、約「1000年」にわたり都であり続けました。



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桓武天皇の政治・政策とはどんなもの?坂上田村麻呂と蝦夷

桓武天皇の父「光仁天皇」は62歳になってようやく天皇に即位したお方でした。

元々「光仁天皇」は、天皇の位につく見込みのないお方だったのです。

そんな「光仁天皇」の第一子「桓武天皇」もまた、父が天皇位に就く見込みもないと思われていたため、当然「天皇即位」などあり得ないと考えられてきたお方だったのです。

そのため「桓武天皇」は、天皇ではなく、優秀な官僚となるためのエリート教育を施されました。

その教育は「桓武天皇」を、歴代の天皇の中でも珍しい「積極的に親政を行う天皇」へと育てあげます。



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「蝦夷討伐」

当時世界最大の都市だった「唐」の都「長安」をモデルに、桓武天皇は「平安京」を建築させます。

「平安京」へ遷都した後、桓武天皇は「東北地方の蝦夷平定」に取り組み始めました。

最初の東北平定は、「紀古佐美」を征夷大使に任命して向かわせました。ところがこの征討軍は、蝦夷の族長「アテルイ」に反撃され、惨敗に終わります。

2度目の遠征は征夷大使に「大伴弟麻呂」、征夷副大使に「坂上田村麻呂」を任命して向かわせます。ところがまたしても蝦夷の族長「アテルイ」に反撃され、惨敗。

《坂上田村麻呂》
「引用元ウィキペディアより」

3度目の遠征では、「坂上田村麻呂」を征夷大将軍に任命して向かわせ、ようやく蝦夷の討伐に成功。

蝦夷の族長「アテルイ」と、その側近の「モレ」は降伏。坂上田村麻呂は2人を都へと連行します。

田村麻呂は、蝦夷を降伏させるためにも「アテルイを生かし、説得に当たらせるべきだ」と朝廷へ進言。

ところが群臣に反対され、「アテルイ」と「モレ」は河内国(現在の大阪府東部)で処刑されてしまったのです。



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その他の政治改革

桓武天皇は「律令制」が実態とかけ離れていた問題を再編するため、国家の軍事組織として各地に置かれていた軍事集団を廃止。「健児制」を導入して、農民を兵役の義務から解放しました。

『続日本紀』を編纂させ、「唐」へ「最澄」を留学させ、天台宗を学ばせました。その一方では「平城京」で力を持ちすぎた「南都六宗」に圧迫を与え続けて仏教勢力の弱体化を図ります。

親政を続けた「桓武天皇」は、「坂上田村麻呂」が【803年】に「志波城」を築いて東北をほぼ平定させた3年後、崩御。

806年】、享年70歳でした。



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桓武天皇と百済の関係!現在の天皇陛下は百済の末裔?

2002年】、上皇陛下がサッカーワールドカップ日韓共催大会にあたって、以下のように仰せられました。

「桓武天皇の母は、百済王の末裔であると書かれていることに、韓国とのゆかりを感じます」

桓武天皇は現在の皇室の直接の祖先にあたる天皇です。その母親「高野新笠」も、皇室の直接の祖先の1人にあたるということになるのです。

桓武天皇の母「高野新笠」は、どういう出自の人なのでしょうか?

実は「高野新笠」は、「渡来人の子孫」なのです。

「高野新笠」の父「和乙継」は百済系渡来人。百済の「武寧王」の子孫だと言われています。

ということは「高野新笠」は百済王の末裔ということになりますね。

そうした歴史的な背景があって、上皇陛下はワールドカップによせてお言葉をくださったのです。



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ところでその「武寧王」が亡くなったのは【523年】でした。

一方「高野新笠」が生まれたと考えられるのは【720年】頃だったと考えられているので、本当に「武寧王」の子孫だったとしても、武寧王が渡来してから「200年近く経った後のこと」ですよね。

渡来人としてはかなりの古株一族だったと言えるでしょう。

「桓武天皇」は母の遠い祖先の地である「百済」に想いを馳せ、百済最後の王「義慈王」の末裔の渡来人「百済王氏(くだらのこきし)」を外戚として重用しました。

後宮にも、百済王氏一族の女性を何人も入内させるほど、「桓武天皇」は百済に強いこだわりを持っていたようです。



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『桓武天皇』について「ひとこと」言いたい!

平城京では政変が度重なり、天武天皇直系としては最後の天皇「称徳天皇」が崩御した時、「天武天皇」直系の男系皇子は数少ない状況になっていました。

称徳天皇は結婚しなかったため子供がおらず「誰を後継者にするか」という争いが起きます。

そうした政変に巻き込まれないよう「白壁王(のちの光仁天皇)」は愚鈍なふりをして、したたかに生き延びました。

称徳天皇の崩御後、「長屋王」の子供を天皇にしようという動きもありました。ところが「聖武天皇」の皇女を妃にしていたこともあって、称徳天皇の遺言により「白壁王」が62歳で即位。光仁天皇となります。

「藤原京」「平城京」と続いた天武天皇系の天皇は称徳天皇で絶え、それ以来、「天智天皇系」の天皇の即位が今日まで続いているのです。

王統の血統が、天武から天智に戻ったのは「光仁天皇」が即位した時でした。

「白壁王(光仁天皇)」と「渡来人を祖先に持つ母」から生まれた「桓武天皇」は、皇族の中でも、天皇位など到底望めない立場にありました。

父「光仁天皇」が老獪に生き延びたからこそ、桓武天皇は天皇になるチャンスに恵まれたのです。

もし「白壁王(光仁天皇)」が政争に巻き込まれ、命を落としていれば、桓武天皇はどうなっていたでしょうか?良くても官僚止まりの人生。悪ければ父とともに殺されていたかもしれません。

「桓武天皇」は官僚として国を見ていた経験から、即位後に思い切った政策をとり、思うままに親政を行いました。

晩年「長岡京」から「平安京」へ再度遷都したことと、東北への遠征・・・この2つが民衆を苦しめていると臣下から忠告された桓武天皇はこれを聞き入れ、どちらも中断しています。

「桓武天皇」は若い頃に大変苦労してきたお方です。そのため人の忠告を素直に聞き入れる度量を持つ「為政者」だったのではないか・・・と私は思います。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

    ふじ

  1. 「桓武天皇」が「長岡京」から「平安京」へ都を移した理由は、桓武天皇の臣下「藤原種継」暗殺容疑をかけられて自害した「早良親王」の怨霊を恐れたため
  2. 桓武天皇は、外政では征夷大将軍「坂上田村麻呂」に「蝦夷」を討伐させ、内政においては「健児制の制定」「続日本紀の編纂」などを行った。天皇親政をおこなった天皇だった
  3. 桓武天皇の母「高野新笠」は百済からの「渡来人」の末裔。2002年のサッカーワールドカップで、上皇陛下がこのことを仰せられた


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この記事を短くまとめると、以下の通り

桓武天皇は、平城京から初め長岡京に遷都しています。ところがその「長岡京」をたった10年で放棄。今度は「平安京」に遷都しました。

遷都の理由は、3つ。

  1. 「平城京で力を奮っていた寺院勢力による政治への影響力を低下させること」
  2. 「天武天皇系の貴族の影響を遠ざけること」、そして「物流の効率を上げること」
  3. 「長岡京からは早良親王の怨霊の祟りを恐れて平安京に遷都したのです。

平安京へ遷都した後、「坂上田村麻呂」を「征夷大将軍」に任命して東北の「蝦夷」を平定させます。さらには僧侶「最澄」を大国「唐」に遣わして天台宗を学ばせました。

各地の国家軍事集団を解散させ、農民を兵役から解放。

坂上田村麻呂が東北平定を成し遂げた3年後、【806年】70歳で崩御しました。

桓武天皇が遷都した平安京は、その後「明治天皇」が東京に遷るまでの1000年以上、日本の都であり続け、今も世界中からの観光客を魅了し続けています。

Michelle MariaによるPixabayからの画像

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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