皆さんは円融天皇の子孫の現在を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 円融天皇の【現在の子孫】皇室、山岸美喜
- 【有名人・芸能人の子孫】天皇陛下
- 円融天皇の【主要な子孫】一条天皇、後三条天皇、白河法皇、安徳天皇、後鳥羽上皇、霊元天皇、實枝子女王(徳川實枝子)
この記事では「円融天皇の子孫」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は「円融天皇の子孫」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「円融天皇の子孫」に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
円融天皇の子孫の現在
ここでは、円融天皇の現代の子孫をご紹介いたします。
皇室
皇室の方々、つまり現在の天皇陛下のご家族の方々は、そのほとんどが円融天皇の子孫にあたられる。
円融天皇は、藤原道長の姉・詮子とのあいだに、一条天皇をもうけている。
現在の皇室は、その一条天皇の子孫にあたられる。
そのため、皇室の方々は、円融天皇の子孫ということになる。
もちろん、皇室へ嫁がれた方々は、円融天皇の血を引いているわけではない。
皇室においてお生まれになられた方々のみではあるが、円融天皇の血筋は、現在も続いている。
ただし、円融天皇の次に位についた花山天皇のように、現在の皇室へ、その筋が引き継がれていない天皇も、歴史上には存在する。
山岸美喜
最後の将軍・徳川慶喜の玄孫(孫の孫)。
2023年1月より、徳川慶喜家第5代当主。
慶喜の孫である徳川慶光の孫にあたる。
江戸時代の霊元天皇の子孫である有栖川宮家出身の實枝子女王と、その夫である徳川慶久のひ孫にあたる。
その實枝子女王を通じて、山岸美喜氏には、円融天皇の血が引きつがれている。
徳川慶喜の息子・徳川慶久と、その妻となった徳川實枝子のあいだに生まれたのが、徳川慶光。
山岸美喜氏は、その徳川慶光と徳川和子夫婦の孫にあたる。
徳川慶喜は、明治維新後、徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」という家を起こすことを許された。
そのため徳川慶喜の子孫は、代々「徳川慶喜家」を継承してきた。
ところが、現在の当主である山岸美喜氏を最後に、「徳川慶喜家」は廃家される予定になっている。
祖母である徳川和子は、会津藩主・松平容保の孫にあたる。
そのため山岸美喜氏は、徳川慶喜の孫であると同時に、松平容保の孫でもある。
円融天皇の子孫に有名人・芸能人はいるのか?
円融天皇の子孫で、有名人や芸能人がいるかどうかを、解説いたします。
天皇陛下
当然ながら、現在の天皇陛下は、円融天皇の子孫にあたられるお方。
円融天皇の子孫は、一条天皇を通じて、歴代天皇に現在まで引き継がれている。
円融天皇の子である一条天皇は、藤原道長の娘・彰子との間に
- 後一条天皇
- 後朱雀天皇
という二人の子をもうけた。
このうち、兄・後一条天皇は、男子を残せなかったが、弟・後朱雀天皇が後継者を残した。
そのため、現在の天皇陛下は、円融天皇の子孫というだけではなく、藤原道長の子孫にもあたられる。
円融天皇の主要な子孫一覧
ここでは円融天皇の子孫のうち、歴史に名を刻んだ、有名な子孫をご紹介いたします。
一条天皇
円融天皇と、藤原詮子の子。
藤原道長は、藤原詮子の弟にあたるため、一条天皇は藤原道長の甥にあたる。
一条天皇は、藤原道長の兄・道隆の娘である藤原定子を后としていた。
ところが、定子の兄・藤原伊周とライバルだった道長はこれに対抗し、自らの娘である彰子を中宮として一条天皇へ入内させた。
定子は敦康親王を産み、彰子は後一条天皇と後朱雀天皇を産んだ。
一条天皇は、定子を寵愛していたため、敦康親王を次の天皇にしたいと望んだが、絶対権力者・藤原道長に阻止され、その願いは叶わなかった。
定子に先立たれ、彰子を残し、若くして崩御。
猫好きで有名。
後三条天皇
円融天皇のひ孫。
一条天皇の孫にあたる。
170年ぶりに誕生した、藤原氏を外戚(母方の実家)としない天皇。
つまり後三条天皇の母は、藤原氏の出身ではないということ。
藤原氏は、その170年にわたって、天皇に娘を嫁がせ、生まれた子を天皇に即位させ、その後ろ盾となって権力を独占してきた。
ところが後三条天皇は、藤原氏の血を引くものの、関係は希薄だったため、藤原氏の権力を削ぎ落とす政策を実行した。
これにより、摂関政治で権力を独占してきた藤原氏の栄華は、終わりをむかえることになる。
白河法皇
円融天皇の玄孫(孫の孫)
後三条天皇の子。
後三条天皇が院政を行うため、位をゆずられるが、直後に後三条天皇が崩御。
白河法皇も、息子である堀河天皇に位をゆずり、院政を開始する。
院政によって藤原氏の摂関政治による権力独占は、ほぼ完全に終わりを告げた。
権力を独占することに成功した白河法皇は、天下三不如意という有名な言葉を残した。(つまり思うままにならない三つのものということ)
サイコロ・鴨川・山法師
この3つ以外は、すべて自分の思うがままであると、その権力を誇示したという。(延暦寺の山法師は、サイコロと自然の川と同じくらい思うままにならないと言いたかった、という説もある)
自由奔放な性格で、平清盛は隠し子だったという説があったり、孫・鳥羽天皇の妃に自分の子である崇徳上皇を産ませたという噂があったりと、何かと騒動を起こした。
その死後、息子と噂された崇徳上皇は、保元の乱にて弟の後白河天皇に敗北して流罪となり、悲劇的な一生を終えたという。
安徳天皇
円融天皇の子孫。
後白河法皇の孫。
平清盛の孫。
高倉天皇と、平清盛の娘・建礼門院徳子のあいだに生まれた。
幼くして壇ノ浦へ沈んだ悲劇の天皇。
藤原氏が、天皇に娘を入内させ、生まれた子を天皇に即位させて、その後ろ盾となって政治を思うまま操ったように、平清盛も同じことを狙って、安徳天皇は誕生した。
ところが、即位した直後、絶対権力者だった祖父の平清盛が病死。
源頼朝や木曾義仲が打倒平家をかかげて挙兵。
木曾義仲の軍団から逃れるように、平家に連れられて、安徳天皇は京都から西へ落ち延びたという。
- 一ノ谷の戦い
- 屋島の戦い
と、平家は敗走を続け、1185年、ついに壇ノ浦の戦いで滅亡。
まだ8歳だった安徳天皇は、祖母である平清盛の妻・二位尼に抱えられて、壇ノ浦の海へ入水。
「波の下にも都がございます」
と言って安徳天皇を慰めたという二位尼のセリフは、あまりにも有名。
後鳥羽上皇
円融天皇の子孫。
安徳天皇の異母弟。
異母兄・安徳天皇が都落ちをした直後、祖父である後白河法皇によって即位した天皇。
安徳天皇とともに、三種の神器の一つ・天叢雲剣が海中に没したため、三種の神器なしで即位した(三種の神器とは、天皇が代々受け継ぎ、即位の儀式で使用する神器。この三つの神器なしに即位した天皇はその正当性を認められないという)
源頼朝が鎌倉幕府を誕生させた際に、京都を支配していた絶対権力者。
後鳥羽上皇に心酔していた鎌倉幕府三代将軍・藤原実朝の死後、鎌倉幕府の事実上の王であった北条義時を討伐しようとする。
こうして、1221年、承久の乱が起こった。
絶対勝利間違いなしと思われた承久の乱で、まさかの敗北を喫した。
その後、隠岐へ流罪となった。
歴代天皇の中でも、特に優れた能力を有した天皇として有名で、文武に長けていたという。
余談ながら、北条義時の子孫には、俳優・高倉健さんがおられる。
霊元天皇
円融天皇の子孫。
後水尾天皇の子。
現在の皇室と、戦後の1947年に皇籍離脱した旧皇族とその子孫の、もっとも近い共通の先祖にあたる。
江戸時代の天皇で、息子にあたる職仁親王は、有栖川宮家を継いだ。
異母姉の明正天皇は、徳川家康のひ孫にあたる。
徳川實枝子
円融天皇の子孫。
霊元天皇の子孫である有栖川宮家の出身。
最後の将軍・徳川慶喜の息子・徳川慶久と結婚。
徳川慶光を産んでいる。
徳川慶喜家5代当主・山岸美喜の曽祖母。
1904年、徳川慶久と婚約。
1908年、徳川慶久へ降嫁。
とても美しい容貌で、徳川慶久の友人だった外交官・杉村陽太郎は
「慶久のやつ、うまくやったな」
と発言したという。
娘の喜久子は、大正天皇の第三皇子と結婚。
1933年、ガンを患い、食事も取れない状態だったところへ、見舞いに来た娘の喜久子に
「あなたは宮家へ嫁がれたお方です」
と、すぐに帰るよう、毅然とした態度で言ったという。
同年4月に逝去。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 円融天皇の【現在の子孫】皇室、山岸美喜
- 【有名人・芸能人の子孫】天皇陛下
- 円融天皇の【主要な子孫】一条天皇、後三条天皇、白河法皇、安徳天皇、後鳥羽上皇、霊元天皇、實枝子女王(徳川實枝子)
以上となります。
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