皆さんは、花山天皇から異常な寵愛を受けた、藤原忯子の子孫の現在を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 藤原忯子の【現在の子孫】池氏
- 【有名人・芸能人の子孫】織田信成?
- 藤原忯子の【主要な子孫】平重盛、平維盛、平資盛、池禅尼、平頼盛、織田信長?
この記事では「藤原忯子の子孫」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は「藤原忯子の子孫」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「藤原忯子の子孫」に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原忯子の子孫の現在
結論からいえば、藤原忯子には子供がいません。
花山天皇の子供を身ごもったまま亡くなったので、子孫も当然ながらいません。
しかし忯子の兄弟を通じて子孫が続いたので、その方々をご紹介いたします。
池氏
池氏は、平清盛の異母弟・平頼盛の子孫にあたる一族。
この池氏は、藤原忯子の兄・藤原斉信の子孫にあたる。
ただし、藤原斉信の養子・藤原経任の子孫なので、斉信と血縁はない。
池氏は、鎌倉時代・室町時代・戦国時代を生き抜き、現在の鹿児島・新潟・福岡などに住み着いたという。
現在も、池氏の子孫は全国各地に散らばっている。
藤原忯子の子孫に有名人・芸能人はいるのか?
藤原忯子の直系子孫はいません。
ここでは忯子の兄・藤原斉信または弟・藤原公信の子孫などについて解説いたします。
織田信成?
元・フィギュアスケート選手の織田信成氏は、藤原忯子の弟・藤原公信の子孫の可能性が、あるかもしれない。
藤原公信と、その妻である紫式部の娘・藤原賢子の女系子孫は、平清盛の最初の正室。(最初の正室は病死し、二人目のむかえた正室が、平時子こと二位尼)
その平清盛と最初の正室のあいだに生まれたのが、清盛の長男・平重盛。
重盛の次男・資盛の子孫を自称したのが、織田信長。
織田家は、平資盛が亡くなった後、その側室が産んだ子が、始祖であると自称した。
平資盛が、藤原忯子の弟・藤原公信の子孫ならば、当然だが、資盛の子孫を自称する織田信長も、藤原公信の子孫にあたる。
そのため、織田信長の子孫を自称する織田信成氏も、当然ながら藤原忯子の弟・藤原公信の子孫にあたる。
しかし、織田信長が平資盛の子孫である可能性は、限りなく低いとされている。
また、織田信成氏が織田信長の子孫であるという説も、確たる証拠があるとはいえないらしい。
そのため織田信成氏が、藤原忯子の弟・公信の子孫である可能性も、低いのかもしれない。
藤原忯子の主要な子孫一覧
藤原忯子の子孫はいませんが、忯子の兄弟の子孫には、歴史上における有名人が多数います。
以下の子孫一覧は、藤原忯子の弟・藤原公信の子孫たちです。
公信は、兄である藤原斉信の養子になったため、血縁はないものの、以下の人々は系図上では藤原斉信の子孫にもあたります。
公信の妻は、あの紫式部の娘である藤原賢子(通称・大弐三位)という人です。
忯子の弟と、紫式部の娘の子孫は、以下の通り、平家一門へとつながっているのです。
平重盛
藤原忯子の弟・藤原公信の子孫。
平清盛の長男。
母親である平清盛の正室が、藤原公信と、紫式部の娘・藤原賢子の子孫にあたる。
つまり重盛は、藤原忯子の兄弟の子孫であると同時に、紫式部の子孫でもある。
父・平清盛をしばしばいさめたため、おごりたかぶる平家の良心として知られた常識人。
母を早くに亡くしたため、後ろ盾となる母の実家を持たなかった。
そのため、異母弟・宗盛に、平家の棟梁の座を奪われかねない地位にいた。
後白河法皇に忠誠を誓っていたが、父・清盛と後白河法皇との関係が悪化すると、板挟みにあう。
その心労が祟ったのか、「早く死にたい」という言葉を口にしたという。
父・清盛より先に病死。
その後、滅びゆく平家の暴走を止めるものは、誰もいなかった。
平維盛
藤原忯子の弟・藤原公信の子孫。
平重盛の長男。
紫式部の子孫でもある。
紫式部の子孫だと知ってか知らずか、その美しさから、「光源氏の再来」と呼ばれた悲劇の貴公子。
重盛の長男として、たびたび源氏と戦う軍団の総大将を任せられた。
しかし、源頼朝との富士川の戦いで、水鳥の音に驚き退却。(真相は食糧不足により、戦う前に撤退しただけだった)
木曾義仲との倶利伽羅峠の戦いなどで惨敗。(主力部隊の大半が、崖に落ちて亡くなったというが、火牛攻めは創作)
その後、平家一門での居場所を失ったのか、入水して亡くなった。
平資盛
藤原忯子の弟・藤原公信の子孫。
平重盛の次男で、平維盛の弟。
紫式部の子孫でもある。
幼い頃、摂政・藤原基房の牛車とすれ違った際に、馬から降りなかったという非礼を働き、乱闘で怪我をさせられたという。
その仕返しとしてか、資盛の父・重盛、または祖父の清盛によって、藤原基房は髪を切り落とされるという乱暴狼藉を受けた。
平家悪行の始まり、そのきっかけとなった張本人。
壇ノ浦の戦いで、弟の有盛やいとこの行盛とともに入水した。
生存説がいくつもある人物。
織田信長が、平資盛の子孫を自称したが、信ぴょう性に乏しい。
池禅尼
藤原忯子の兄・藤原斉信の養子・藤原経任の子孫。
平清盛の父・忠盛の後妻。
平清盛の継母。
清盛の異母弟にあたる平家盛や頼盛を産んだ。(家盛は幼くして亡くなった)
平治の乱で清盛が源頼朝を捕らえると、池禅尼は清盛に命乞いをしたという。
まだ13歳だった頼朝が、亡くなった家盛と瓜二つだったため、命乞いをしたのだといわれている(実際には頼朝の母方の実家から頼まれたためだという)
その後、清盛は亡くなり、源頼朝は平家打倒のため挙兵。
頼朝はそのときの音を忘れず、池禅尼の息子・頼盛を厚遇する。
平頼盛
藤原忯子の兄・藤原斉信の養子・藤原経任の子孫。
平清盛の異母弟。
池禅尼の息子。
清盛の異母弟でありながら、その立場は微妙だったという。
なぜなら、平家が源頼朝の軍団に攻められている理由は、頼盛の母である池禅尼が、頼朝の命乞いをしたためだったため。
そのせいか、頼盛は平家が木曾義仲に攻められて都落ちする際に、平家一門から離脱。
鎌倉の頼朝に降伏したという。
頼盛は、母・池禅尼に救われた恩により、源頼朝から大切にされた。
壇ノ浦で平家が滅亡した後、頼盛はひっそりと亡くなった。
その子孫は、池氏と名乗って、現在も続いているという。
織田信長?
戦国三英傑のひとり。
平資盛の子孫を自称していた。
もしも資盛の子孫なら、織田信長は藤原忯子の弟・公信の子孫ということになる。
平氏を名乗っていた織田信長は、自分が平清盛の子孫であることを、暗に主張していたという。
しかし、資盛の子孫であるという可能性は、極めて低い。
そもそも織田家は、平氏を名乗る以前は、藤原氏を名乗っていた。
徳川家康も、豊臣秀吉も、系図を詐称して自らの出自を装飾したという。
織田信長が、資盛の子孫ではないという確固たる証拠もないことから、確証はないが、資盛が藤原公信や平資盛の子孫である可能性は、限りなく低いのかもしれない。
逆にいえば、子孫ではない証拠がないので、断定することはできないのかもしれないが・・・。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 藤原忯子の【現在の子孫】池氏
- 【有名人・芸能人の子孫】織田信成?
- 藤原忯子の【主要な子孫】平重盛、平維盛、平資盛、池禅尼、平頼盛、織田信長?
以上となります。
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