皆さんは藤原公任の子孫の現在を、ご存知でしょうか?
この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。
- 藤原公任の【現在の子孫】東京都在住の益田氏
- 【有名人・芸能人の子孫】騎手の御神本訓史さん
- 藤原公任の【主要な子孫】藤原信長、益田元祥、益田親施、周布政之助
この記事では「藤原公任の子孫」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。
今は「藤原公任の子孫」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。
これを読めば、誰かに説明できるほど、「藤原公任の子孫」に詳しくなれます。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原公任の子孫の現在
ここでは、藤原公任の子孫が、現在どこで何をしているのかを解説いたします。
益田氏
藤原公任の現在の子孫は、益田氏という一族に引き継がれている。
益田氏は、もともとは御神本と名乗っていた。
藤原公任の子孫である藤原国兼から、御神本を名乗り、御神本国兼と名乗ったという。(国兼は、藤原公任の孫の孫の孫)
その後、御神本氏は石見(現在の島根県)に本拠を構え、鎌倉時代に益田氏と名乗る。
益田氏はその後、武士として、戦国時代には大内氏や毛利氏に臣従。
幕末には、毛利家の家老となって活躍。
明治以降は山口県萩市ではなく、東京都内に居を移し、子孫は現在も都内在住とのこと。
藤原公任の子孫に有名人・芸能人はいるのか?
藤原公任の子孫について、有名な人物がいるかどうかを調査いたしました。
御神本訓史
藤原公任の子孫と考えられるのが、1981年生まれの騎手・御神本訓史さん。
御神本氏つまりは益田氏の末裔。
父・御神本修さんも、騎手で調教師。
御神本訓史さんは、天才と評価されるほどの騎手。
しかし本人は、それは努力の賜物なので、天才という言葉をそれほど好ましく思っていない様子。
益田競馬場が休止となったため、大井競馬場へ移籍。
御神本訓史さんが、養子などをはさまない藤原公任の血を引く子孫であるならば、先祖には他にも有名人が多数いることになる。
藤原公任の先祖で、のちに学問の神となった菅原道真を太宰府へ左遷した藤原忠平。
忠平の父で、日本史上初の関白・藤原基経。
そして藤原氏の祖である中臣鎌足(藤原鎌足)も、御神本訓史さんの先祖ということになる。
藤原公任の主要な子孫一覧
ここでは、歴史に名を刻んだ、藤原公任の主要な子孫をご紹介いたします。
藤原信長
藤原公任の孫。
同時に藤原道長の孫でもある。
藤原公任の娘と、道長の息子である藤原教通のあいだに生まれたのが、藤原信長。
道長は、息子の藤原頼通に、家督をゆずる。
その頼通は、弟の教通に関白の職をゆずった。
兄・頼通は、弟の教通の次の関白は、自分の息子である藤原師実にゆずるつもりだったという。
しかし教通は、我が子である信長に関白をゆずりたいと考え、数々の手を打ったという。
結局、信長が関白になることはできず、師実が関白に就任。
その後、権力者・白河法皇の権力が増大。
白河法皇が院政で権力を極め、藤原氏の摂関政治による栄華は、終わりをむかえることになる。
ちなみに白河法皇は、藤原道長の孫・後朱雀天皇のそのまた孫にあたる。
つまり白河法皇も、藤原道長の子孫ということになる。
益田元祥
戦国時代から江戸時代にかけての武将。
毛利家につかえた重臣であり、歴戦の武将。
父が大内氏から毛利氏に屈服したあとで誕生した。
妻は毛利元就の息子・吉川元春の娘。
元服の際に、毛利元就を烏帽子親としているため、益田元祥の「元」の1文字は、元就の片諱。
元就の孫・毛利輝元につかえ、上月城の戦いや、備中高松城の戦いに参戦。
毛利輝元が豊臣秀吉に臣従すると、四国征伐・九州征伐・小田原合戦・文禄の役などに参戦。
関ヶ原の戦いにも参戦したが、戦闘には加わっていない。
関ヶ原の戦いの後、毛利家が徳川家康により領地を4分の1に削減されると、新たな本拠地となる萩城の築城を担当。
江戸城の普請なども担当。
藩政改革にも着手し、軍事のみならず、内政にも長けた武将だったという。
ちなみに毛利元就は、藤原公任と同じ時代を生きた女流歌人・赤染衛門の子孫にあたる。
益田親施
幕末の毛利家の家老。
益田元祥の子孫にあたる。
益田親施は、松下村塾の塾生ではないものの、吉田松陰先生から兵法を学んだという。
ペリーが浦賀に来航すると、浦賀総奉行として就任。
八月十八日の政変で、京都から追放され、七卿と呼ばれた七人の公家とともに長州へ帰国。
禁門の変で、薩摩と会津の連合軍に敗北し、長州へ帰還。
その後、幕府軍が「第一次長州征伐」を計画すると、責任を問われて切腹。
この切腹は、長州藩と、幕府側にいた西郷隆盛のあいだで行われた会談により決まったという。
益田親施の切腹の甲斐あって、第一次長州征伐は中止され、長州藩は滅亡の危機を脱した。
その後、高杉晋作による功山寺挙兵が成功し、長州藩は再び倒幕のために活動を開始。
第二次長州征伐で幕府軍に勝利した長州藩は、幕府打倒に成功し、明治維新を成功させる。
ちなみにこのとき、同じ長州藩士として活躍した松下村塾の塾生・前原一誠は、藤原道長の妻の父・源雅信の子孫にあたる。
周布政之助
藤原公任の子孫。
周布氏は、益田氏の支流。
幕末に長州藩士・毛利家家臣として活躍した人物。
上海で西欧列強の強さを目の当たりにした高杉晋作とともに、長州藩士の暴発をおさえようとしたが失敗。
その後、長州藩は、禁門の変や長州征伐などの危機を迎えた。
周布はそれらの解決にも奔走したものの、対抗勢力に実権を奪われ、責任を感じて切腹した。
かなり酒癖が悪かったという。
孫の周布兼道は貴族院議員。
兼道は副島種臣の娘と結婚し、長男と次男をもうけて、1955年に亡くなった。
つまり、藤原公任の子孫には、佐賀の七賢人のひとりに数えられた副島種臣の血も引き継がれているということです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 藤原公任の【現在の子孫】東京都在住の益田氏
- 【有名人・芸能人の子孫】騎手の御神本訓史さん
- 藤原公任の【主要な子孫】藤原信長、益田元祥、益田親施、周布政之助
以上となります。
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