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豊臣秀長の側室は何人?正室・慈雲院と光秀尼の史実を徹底整理

※当サイトはアフィリエイトプログラムに参加しています。この記事は【2026年4月】時点の史料・学術情報をもとに作成しています。

この記事を書いた人

レキシル史郎|歴史専門の調査・編集ライター/大河ドラマ研究家/経営者視点の歴史分析

歴史学者ではないが、一次史料・学術書を徹底調査し歴史をわかりやすく整理する編集者。大河ドラマほぼ全作品の視聴経験をもとに史実と演出の違いを分析。経営経験から歴史上の決断を現代ビジネスに接続する解説が得意。大阪城・名古屋城・岐阜城・犬山城・関ヶ原・比叡山延暦寺等に複数回訪問、京都市各所にも何度も訪問。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」で注目が集まる豊臣秀長ですが、兄・秀吉に比べてその妻や側室についてはあまり知られていません。秀長の側室は一体何人いたのか。正室・慈雲院とはどんな人物だったのか。そしてドラマに登場する「直」と「慶」は史実ではどうなのか。

この記事では、柴裕之氏・黒田基樹氏・和田裕弘氏らの学術書やWikipedia等の情報をもとに、豊臣秀長の正室と側室について複数の説を整理しました。さらに、大河ドラマでの演出と史実の違いも比較しながら、秀長の「家族」の実像に迫ります。

  • 豊臣秀長の側室として確認できるのは光秀尼(摂取院)の1人のみで、正室の慈雲院と合わせて妻は計2人とされています
  • 正室・慈雲院の出自は不明ですが、信長直臣の娘とする説や尾張神戸氏の出とする説など複数の見解があります
  • 大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場する「直」は架空の人物であり、史実には存在しません
  • 秀長の実子は一男二女ですが、いずれも早世や若死にしており、秀長の直系子孫は途絶えています

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目次

豊臣秀長の側室は何人いたのか?正室と合わせた妻の全体像

大納言塚(豊臣秀長の墓・奈良県郡山市)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

確認できる側室は光秀尼(摂取院)の1人

豊臣秀長の側室として史料から確認できるのは、光秀尼(こうしゅうに)とも摂取院(せっしゅいん)とも呼ばれる女性の1人だけです。正室の慈雲院(じうんいん)と合わせると、秀長の妻は計2人ということになります。

光秀尼は大和国の国人・秋篠氏の出身とされ、柴裕之氏の研究によれば、『多聞院日記』の記述から、当初は秀長の妾であったものの、のちに別妻(正妻に準じる扱い)として遇されるようになったと推測されています(出典:Wikipedia「光秀尼」)。

ただし、川口素生氏は光秀尼が秀長の側室になったという話そのものに懐疑的な見方を示しており、「真偽不明」としています(出典:新人物往来社編『豊臣秀長のすべて』1996年刊)。このように、秀長の側室がはっきりと何人いたかという問いに対しては「確実に確認できるのは1人」というのが現時点での結論ですが、そもそもその1人でさえ議論の余地があるのです。

【筆者考察】

秀長は兄・秀吉の「右腕」として政治・軍事・外交のすべてを担い、110万石を超える大名にまでなった人物です。それほどの地位にありながら、側室が1人しか確認できないというのは異例といえます。筆者は、秀長が側室を積極的に迎えなかったのではなく、あまりにも多忙だったことが大きいのではないかと考えています。経営者が事業に没頭するあまり家庭を顧みる余裕がなくなる構図は、現代にも通じるものがあります。その結果、経営者の家庭は崩壊しやすいのかもしれません。


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兄・秀吉との女性関係の違い

秀長の側室が1人(確認できる範囲で)であるのに対し、兄の秀吉には少なくとも5人以上の妻がいたとされています。正室の北政所(ねね)に加え、淀殿(茶々)・松ノ丸殿(京極龍子)・三の丸殿(織田信長の娘)・加賀殿(前田利家の娘)などが知られ、一説には300人もの女性と関係したとも伝わっています。

豊臣秀吉
Wikipediaコモンズ」より引用

歴史学者の磯田道史氏は、文藝春秋のインタビューにおいて「お嬢様系側室10人超の秀吉、女より金勘定の秀長」と評しており、兄弟の対照的な性格を浮き彫りにしています。秀長は政務や財務管理に徹し、女性関係は非常に質素であったと推察されます。

ただし、秀長の側室が少ないのは「質素だったから」だけが理由とは限りません。秀長に関する史料そのものが兄に比べて格段に少なく、記録に残っていない女性がいた可能性は否定できません。史料の制約を念頭に置いて考える必要があります。


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正室・慈雲院の出自と生涯

慈雲院の名前と法名をめぐる諸説

豊臣秀長の正室は「慈雲院」(じうんいん)と呼ばれていますが、この法名にすら複数の表記が存在します。文化6年(1809年)成立の『森家先代実録』には「智雲院」(ちうんいん)とあり、一方で天正19年(1591年)の高野山奥之院の石塔銘には「慈雲院芳室紹慶」と刻まれています。

黒田基樹氏は「慈雲院殿」が正しいとし、柴裕之氏や河内将芳氏もこの名を採用しています(出典:Wikipedia「慈雲院 (豊臣秀長室)」)。実名についてはまったく不明であり、「慶(ちか)」という名前は大河ドラマ「豊臣兄弟!」の創作です。

このように、秀長の正室は法名すら確定していないほど記録が少なく、その存在が学術的に認められたのも平成に入ってからのことでした。

【史料比較】

高野山奥之院の石塔銘「慈雲院芳室紹慶」(天正19年)と『森家先代実録』の「智雲院」(文化6年)では、200年以上の時間差があります。史料の成立年代から判断すると、同時代史料である石塔銘の「慈雲院」がより信頼性が高いと考えられますが、いずれの表記も現在の研究で併記されています。柴裕之氏『豊臣秀長』(戎光祥出版、2024年)、黒田基樹氏『羽柴秀吉とその一族』(KADOKAWA、2025年)を参照しました。


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慈雲院の出自に関する3つの説

慈雲院の出自については、研究者によって異なる見解が示されています。以下に主要な3つの説を整理します。

提唱者根拠
織田信長直臣の娘説黒田基樹氏秀長の婚姻時期(永禄9年頃)に秀長が信長直臣だったと推測されることから、その婚姻相手も信長直臣の娘とみる
尾張神戸氏の出(神戸伝左衛門秀好の娘)説和田裕弘氏柴・黒田両氏が側室の父とした「伝左衛門」は慈雲院の父であるとし、尾張神戸氏の出とする
安藤守就の娘説大河ドラマ「豊臣兄弟!」設定ドラマの創作。美濃三人衆の一人・安藤守就の娘として描かれている

いずれの説も決定的な証拠があるわけではなく、研究者の間でもまだ議論が続いている状況です。大河ドラマの「安藤守就の娘」という設定はあくまでフィクションですので、史実と混同しないよう注意が必要です。

柴裕之氏は、秀長と慈雲院の婚姻時期を永禄10年(1567年)頃と推定しています。天正10年(1582年)に死去していた嫡男・与一郎が元服して仮名を名乗っていたことが根拠です(出典:柴裕之編『豊臣秀長』戎光祥出版、2024年刊)。


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秀長没後の慈雲院と千利休事件

天正19年(1591年)1月に秀長が亡くなった後、慈雲院は「大和大方様」と呼ばれるようになりました。秀長の死からわずか1か月後、千利休に連座して大徳寺の僧が磔にされそうになった際、慈雲院は大政所(秀吉の母)とともに秀吉に働きかけ、僧たちの刑を免れさせたという記録が『北野社家日記』に残されています。

この逸話は、慈雲院が夫の死後もなお豊臣家中で一定の発言力を持っていたことを示しています。慶長10年(1605年)頃には、徳川幕府から大和国内に2,000石を知行していたことが確認されており(出典:Wikipedia「慈雲院 (豊臣秀長室)」)、豊臣家が大坂の陣で滅亡(1615年)した後の元和6年(1620年)に亡くなっています。

大坂冬の陣図(真田丸)
Wikipediaコモンズ」より引用
【筆者考察】

大河ドラマ「秀吉」(1996年)では渡哲也さんが信長を、竹中直人さんが秀吉を演じていましたが、秀長の妻が大きく取り上げられることはほとんどありませんでした。ただ、ドラマで秀長は、千利休の娘のお吟と恋仲になり、織田信長が亡くなった後に、二人は結婚したことになっていました。話を戻しましょう。史料を読み比べると、慈雲院は夫の死後も30年近く生き延び、豊臣家の滅亡すら見届けたことになります。その間の心境を想像すると、歴史の重みを感じずにはいられません。


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側室・光秀尼(摂取院)の出自と逸話

法華寺の比丘尼が秀長に見初められた伝承

光秀尼(こうしゅうに)は天文21年(1552年)生まれとされ、大和国の国人・秋篠氏の娘です。母は同じく大和の国人である鷹山頼円の娘とされています(出典:Wikipedia「光秀尼」)。

延宝6年(1678年)成立の『奈良名所八重桜』には、もとは法華寺の比丘尼だった光秀尼が、ある時法華寺を訪ねた秀長に見初められて城へ連れていかれたという逸話が記されています。一夜を過ごした後に寺へ帰されたものの、懐妊が判明し、娘を出産。秀長はその事情を知ると、光秀尼と娘を郡山城に迎え入れたとされています。

ただし、この伝承には異論もあります。柴裕之氏は、『庁中漫録』に「秋篠某の娘である摂取院光秀は秀長の死後に比丘尼になった」と記されていることから、『奈良名所八重桜』の「もとから比丘尼だった」という記述は誤りであると指摘しています。諸説ある中で、光秀尼の経歴にはなお不明な点が多いといえます。

光秀尼の娘は誰に嫁いだのか?諸説の整理

光秀尼が生んだ娘をめぐっても、研究者間で見解が分かれています。

論点説A説B
秀保の妻の母は?光秀尼(柴裕之氏・黒田基樹氏)光秀尼ではない(和田裕弘氏)
おきく(大善院)の母は?光秀尼(『奈良名所八重桜』)別の女性の可能性あり(柴裕之氏)
秀保の妻とおきくは同一人物?同一(新人物往来社1996年刊の説)別人(『駒井日記』の記述から)

文禄3年(1594年)の祝言の様子を記した『駒井日記』では、秀保の妻を指す「御うへさま」と「おきく」が別々に贈物を贈られていることから、柴裕之氏は両者が別人であると結論づけています。このように、秀長の娘たちについても、誰がどの母親から生まれたのかは完全には解明されていません。

【筆者考察】

史料を読み比べて感じるのは、秀長の家族に関する情報が断片的であることの裏に、「権力の中心にいなかった女性たちの記録は残りにくい」という歴史の構造的な問題があるということです。秀長自身が「表に出ない補佐役」だったがゆえに、その妻や側室の情報はさらに埋もれやすかったのではないかと、筆者は考えます。


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豊臣秀長の子供と家系図|一男二女の運命

嫡男・与一郎の早世と養子・秀保の断絶

秀長の嫡男・羽柴与一郎(木下与一郎)は、天正10年(1582年)までに早世しています。まだ元服して仮名を名乗る年齢であったことから、おそらく10代半ばかそれ以前に亡くなったと推測されます。与一郎の生母は正室・慈雲院と考えられています。

与一郎の死後、その妻であった岩(智勝院、名古屋山三郎の妹)は秀長・慈雲院夫妻の養女となり、のちに森忠政に嫁いでいます(出典:Wikipedia「慈雲院 (豊臣秀長室)」)。

跡継ぎを失った秀長は、天正16年(1588年)に姉・ともの子(三男)にあたる羽柴秀保を養子に迎えました。秀保は秀長の死後に家督を継ぎましたが、文禄4年(1595年)にわずか17歳前後で死去し、秀長家は断絶しました。

秀長の娘たちと秀長家の終焉

秀長には二人の娘がいたとされています。

人物生年(推定)婚姻相手没年
長女(名前不詳)天正15年(1587年)頃豊臣秀保不明
次女・おきく(大善院)天正16年(1588年)毛利秀元慶長14年(1609年)、享年22

長女は秀保の妻となりましたが、その後の消息は不明です。次女のおきくは秀吉の養女として毛利秀元に嫁ぎましたが、慶長14年(1609年)にわずか22歳で亡くなっています(出典:Wikipedia「大善院 (毛利秀元室)」)。おきくと秀元との間に子があったかどうかは確定していませんが、秀元はその後側室との間に子をもうけ、長府毛利家の血統を残しています。

豊臣秀吉・秀長の家系図

なぜ秀長も秀吉も子宝に恵まれなかったのか

秀長の実子は一男二女、秀吉も確実な実子は鶴松と秀頼の2人(石松丸秀勝や女児の存在も指摘されますが確定していません)。110万石の大大名であった秀長に男児が1人しかいないのは、前田利家に十数人、徳川家康にも十数人の子がいたことと比べると、際立って少ないといえます。

一説には、秀吉が子宝に恵まれなかった理由として、正室・北政所の意向が大きかったとする説があります。正室が強い権限を持ち、側室の出産を管理していた可能性があるというものです。この説では、北政所が茶々(淀殿)にのみ出産を許した理由として、茶々が織田信長の姪であり、豊臣家に織田家の血を取り込む政治的意味があったからだとされています。

しかし、秀吉には信長の実の娘である三の丸殿という側室もおり、なぜ三の丸殿ではなく茶々だったのかという疑問は残ります。この説はあくまで一つの仮説にすぎません。

【筆者考察】

秀吉と秀長の兄弟がそろって子宝に恵まれなかったことは、単なる偶然と片付けるにはやや不自然にも思えます。筆者は、遺伝的な要因の可能性も含め、何らかの体質的な事情があったのではないかと推測しています。もちろんこれは証明のしようがない仮説ですが、もし秀長の嫡男・与一郎が長生きし、さらにその子が豊臣家を支える立場になっていたなら、秀長の正室・慈雲院の名前も、もっとはっきり歴史に刻まれていたのではないでしょうか。実子がいなかったために生涯すら定かでない織田信長の妻・濃姫の例と同じく、子供の有無は歴史的な記録量に直結するのです。


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大河ドラマ「豊臣兄弟!」での側室・妻の描かれ方

白石聖さん演じる「直」の正体と退場

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、白石聖さんが演じる「直(なお)」という女性が、小一郎(のちの秀長)の幼なじみ・初恋の相手として登場しました。直は尾張国・中中村を支配する土豪・坂井氏の娘として描かれましたが、これは完全な創作であり、歴史上に実在した人物ではありません。

直は第8話「墨俣一夜城」において、農民同士の水争いに巻き込まれ、少女をかばって命を落とすという悲劇的な最期を迎えました(出典:NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式)。この退場は「直ロス」として大きな話題を呼び、白石聖さん自身も「すごく悲しく、衝撃的でした」とコメントしています。

直が「どうなるのか」という疑問を多くの視聴者が抱いていましたが、結論としては第8話での退場という形になりました。もともと永野芽郁さんが演じる予定だった役を白石聖さんが引き継いだ経緯もあり、話題性の高いキャラクターでした。

吉岡里帆さん演じる「慶」と史実の慈雲院の違い

第12話から登場した吉岡里帆さん演じる「慶(ちか)」は、秀長の正室・慈雲院をモデルとしたキャラクターです。ドラマでは美濃三人衆の一人・安藤守就の娘として設定されていますが、前述のとおり、史実における慈雲院の出自は不明です。

「慶」という名前も大河ドラマの創作であり、実際の名前はわかっていません。ただし、高野山の石塔銘にある法名「慈雲院芳室紹慶」の「慶」の字を取って名づけられた可能性が指摘されています。

ドラマでは吉岡里帆さんの登場に合わせて「不穏な慶の描かれ方」も話題となっており、吉岡さんは「受け入れていただけるか緊張」とコメントしています。今後の展開で、史実の慈雲院のように秀長を支える妻として描かれるのか、注目されます。

【筆者考察】

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の演出で注目すべきは、「直」という架空のキャラクターを物語の前半に配置し、その退場後に史実の正室「慶」を登場させるという二段構成です。大河ドラマ「おんな太閤記」(1981年)では田中好子さんが「しの」という名で秀長の妻を演じていましたが、「しの」もまた盲目の女性という創作でした。秀長の妻について史料がほとんど残っていないからこそ、脚本家や演出家が自由に物語を紡げるという面がある一方で、創作と史実の区別がつきにくくなるリスクもあります。筆者は、ドラマを楽しみつつも、学術書で史実を確認するという「両方の目」を持つことをおすすめします。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、仲野太賀さんの秀長と池松壮亮さんの秀吉の兄弟関係が丁寧に描かれているほか、小栗旬さんの織田信長や宮﨑あおいさんの市など、豪華キャストの演技も見どころです。史実と演出の違いを自分の目で確認してみると、ドラマの楽しみ方がさらに広がります。

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過去の大河ドラマにおける秀長の妻

秀長の正室が大河ドラマに登場した例は限られています。主な作品を整理すると以下のとおりです。

作品名放送年秀長の妻役演者設定
おんな太閤記1981年しの田中好子盲目の女性(創作)
江〜姫たちの戦国〜2011年秀長の妻柴垣亜希名前の設定なし
豊臣兄弟!2026年慶(ちか)吉岡里帆安藤守就の娘(創作)

いずれの作品においても、秀長の妻の設定には大幅な創作が加えられています。これは史実の情報が極端に少ないことの裏返しでもあります。ドラマの設定を鵜呑みにせず、史実と比較する楽しみ方を意識したいものです。


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秀長の側室と正室から学べること|現代への示唆

豊臣秀長の妻たちの生涯を調べていくと、戦国時代の女性たちが権力構造の中でどのような立場に置かれていたかが浮かび上がってきます。正室・慈雲院は秀長の死後も千利休事件で影響力を発揮し、徳川幕府から2,000石の知行を受けるなど、一定の社会的地位を維持しました。一方、側室の光秀尼は秀長の死後に出家して興福院に入り、尼僧としての後半生を送っています。

両者の対照的な人生は、「組織における立場が人生を大きく左右する」という普遍的な教訓を示しています。経営の現場でも、創業者や経営トップを支える「ナンバー2」の家族や関係者は、本人の在・不在によって大きく運命が変わることがあります。秀長の死後、その家が急速に衰退していった経緯は、組織における特定のリーダーへの依存度の高さが持つリスクを改めて考えさせます。

【筆者考察】

筆者が経営者として学んだことの一つに、「記録されなかった功績は存在しなかったことになる」という厳然たる事実があります。慈雲院や光秀尼の名前が長く埋もれていたのは、彼女たちに功績がなかったからではなく、記録する者がいなかったからです。現代のビジネスにおいても、成果を可視化し記録に残すことの重要性を、秀長の妻たちの歴史は教えてくれます。そうでないと、歴史でもビジネスでも、人は同じ失敗を繰り返してしまうのです。


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よくある質問(FAQ)

Q. 側室を持たなかった武将はいますか?

戦国時代において側室を持たなかったとされる武将は複数います。代表的な人物としては、明智光秀・山内一豊・黒田孝高(官兵衛)・石田三成・伊達輝宗・武田義信などが挙げられます。上杉謙信は正室も側室も持たず生涯独身を貫いたとされています。ただし、史料が残っていないだけで実際には側室がいた可能性は否定できません。特に黒田官兵衛は、晩年に梅毒の症状らしきものが現れたといいますので、側室はいなくても、愛妾はいたかもしれません。

Q. 秀長の甥・豊臣秀次は側室が多かったのですか?

はい、豊臣秀次には正室2人のほかに30人を超える側室がいたと伝わっています。関白の地位にあった秀次は多くの公家や大名の娘を側室に迎えており、その中には最上義光の娘・駒姫や、菊亭晴季の娘・一の台なども含まれていました。文禄4年(1595年)の「秀次事件」では、秀次の切腹後に妻子・側室合わせて39人が処刑されるという悲劇が起きています。

豊臣秀次と、殉死した家臣たち
引用元「Wikipediaコモンズ」より

Q. 家康が最も愛した側室は誰ですか?

徳川家康
引用元「Wikipediaコモンズ」より

徳川家康が最も愛した側室については諸説あります。よく名前が挙がるのは、2代将軍秀忠の生母である西郷局(お愛の方)と、家康から絶大な信頼を得ていた阿茶局(あちゃのつぼね)です。西郷局は温和な人柄で家康に愛されたといわれ、阿茶局は武芸にも優れた聡明な女性として知られています。家康の側室は20人前後とされていますが、「最も愛した」が誰かは見る人の基準によって異なるでしょう。


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まとめ|豊臣秀長の側室と正室を振り返って

豊臣秀長の側室として確認できるのは光秀尼(摂取院)の1人のみであり、正室の慈雲院と合わせて妻は計2人というのが現在の研究で整理されている姿です。兄・秀吉が多くの側室を抱えたのとは対照的に、秀長の女性関係は極めて控えめだったことがうかがえます。

慈雲院の出自については、信長直臣の娘説・尾張神戸氏の出説などがあり、大河ドラマの「安藤守就の娘」はフィクションです。側室・光秀尼についても、法華寺の比丘尼が秀長に見初められたという伝承がある一方で、その信憑性を疑う研究者の声もあります。

秀長の実子は一男二女でしたが、いずれも早世や若死にをしており、秀長の直系子孫は途絶えています。大河ドラマ「豊臣兄弟!」の架空の人物「直」をきっかけに秀長に興味を持った方も多いと思いますが、ぜひ史実の秀長の家族にも目を向けてみてください。歴史の陰に埋もれた女性たちの姿が、そこにはあります。

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参考資料

  • 柴裕之 編『豊臣秀長』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第14巻〉、2024年
  • 黒田基樹『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』KADOKAWA〈角川選書〉、2025年
  • 和田裕弘『豊臣秀長』中央公論新社〈中公新書〉、2025年
  • 河内将芳『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』戎光祥出版、2025年
  • 新人物往来社 編『豊臣秀長のすべて』新人物往来社、1996年
  • 天野忠幸『大和大納言 豊臣秀長 補佐役か、もう一人の秀吉か』平凡社〈中世から近世へ〉、2025年
  • 福田千鶴『豊臣家の女たち』岩波書店〈岩波新書〉、2025年
  • Wikipedia「慈雲院 (豊臣秀長室)
  • Wikipedia「光秀尼
  • Wikipedia「豊臣秀長
  • Wikipedia「大善院 (毛利秀元室)
  • NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」公式サイト
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最終更新日:2026年4月3日

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