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北条政子の死因は何の病気だったのか?最期の様子とお墓の場所を解説

皆さんは北条政子の死因は何の病気だったのかを、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

  1. 北条政子の死因となった病気は、おそらく『赤痢せきり
  2. 政子は亡くなる直前に伊賀氏の変を鎮圧している
  3. 政子の墓は鎌倉駅から徒歩8分の寿福寺にある

この記事では「北条政子の死因」を、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は北条政子について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、北条政子に詳しくなれます。

→→→→→『鎌倉殿の13人』登場人物・関連記事まとめはこちら


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目次

北条政子の死因は何の病気だったのか?

死因となった病気は赤痢せきり

北条政子の死因である病気は、感染症であったと考えられます。おそらく赤痢せきりでしょう。

実は、北条政子が何の病気で亡くなったのか、はっきりとはわかっていないのです。

鎌倉幕府の公的歴史書である【吾妻鏡】には、北条政子が病気で亡くなったということが記されてはいるものの、病気の名前や症状については記録が残っていないのです。

北条政子は病床に伏せってから2ヶ月後の、1225年8月16日に亡くなっています。

実はこのちょうど1ヶ月前の1225年7月16日に、北条政子の参謀・軍師であった大江広元も亡くなっているのです。

大江広元の死因は、赤痢つまり赤痢菌による感染症であるといわれています。

赤痢とは、飲食物に付着した赤痢菌が体内に入り込むことで、下痢や血便などの症状を起こして亡くなる病気です。

北条政子が亡くなった当時、鎌倉では疫病が流行したといわれています。

政子には、行蓮という僧医がついていたといいますが、治療の甲斐なく亡くなっています。

おそらく政子も、大江広元と同じく赤痢菌に感染し、亡くなったのではないでしょうか。

当時としては、後鳥羽上皇ごとばじょうこうの呪いだとか、伊賀の方の怨霊に呪い殺された、なんて噂もたてられたようですが、信憑性にとぼしいものと思われます。

亡くなった時の年齢は69歳

歴史書【吾妻鏡】には、北条政子の享年について

御年69歳

と記されています。

しかし当時は、数え年が一般的です。

現代のように生まれた時に0歳と数えるのではなく、生まれた時に1歳と数えるので、1年分の誤差が生じます。

現代のように年齢を数えるのならば、北条政子が亡くなった時の年齢は68歳となります。


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北条政子の最期の様子とは?

政子は亡くなる直前まで病魔に苦しめられ、病床で意識を失うこともあったといいます。

ただ、亡くなる前年にも政子は精力的に活動しており、1224年に起こった伊賀氏の変いがしのへんを解決し、戦乱を未然に防いでいるのです。

北条政子は、亡くなる2ヶ月ほど前から体調を崩したと記録されています。

1225年8月に亡くなっているわけですから、つまり6月頃に体調を崩したというわけです。

実は、政子は自分が亡くなる前年1224年に、最愛の弟である北条義時ほうじょうよしときを亡くしているのです。

北条義時
「引用元ウィキペディアより」

鎌倉幕府の実質的なトップであった北条義時の死によって、各方面で動揺が広がっていたのです。

これに対して、政子は迅速に対応しています。

まずは義時の息子である北条泰時ほうじょうやすときを次の執権しっけんに定め、混乱を治めます。

そして義時の妻・伊賀の方が、三浦義村みうらよしむらとともに起こそうとした政変【伊賀氏の変】を迅速に沈めてみせています。

まず三浦義村を説得して反乱を思い止まらせ、次に伊賀の方を伊豆へと追放しています。

政子はその後、甥である北条泰時の後見人として、鎌倉幕府の政治運営を助けているのです。

そうした中で、政子は体調を崩し、2ヶ月の静養ののちに亡くなったのでした。

その死後、鎌倉幕府は甥である執権・北条泰時によって、その土台をしっかりとかためていくのです。

→→→→→北条政子の最期について詳しくはこちら


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北条政子のお墓の場所

北条政子のお墓は、鎌倉市の寿福寺じゅふくじというお寺にあります。

寿福寺は、鎌倉駅から徒歩8分ほどにあるお寺です。

このお寺は、源頼朝が亡くなった翌年の1200年に、北条政子によって開かれました。

源実朝は、自分の甥つまり政子の孫にあたる公暁こうぎょうに暗殺された人物です。

実朝の首は、公暁に持ち去られてそのまま行方不明となったらしいです。

このお墓には実朝の胴が納められています。

寿福寺では仏殿を見学する場合には拝観料が必要なのですが、北条政子と源実朝のお墓を見学するだけならば、拝観料も不要のようです。時間も24時間可能なようです。

→→→→→【北条政子のお墓】についてくわしくはこちら


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 北条政子の死因となった病気は、おそらく『赤痢』
  2. 政子は亡くなる直前に伊賀氏の変を鎮圧している
  3. 政子の墓は鎌倉駅から徒歩8分の寿福寺にある

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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