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北条政子の死因は何の病気だったのか?最期の様子とお墓の場所を解説

源頼朝の妻として鎌倉幕府の創設を支え、夫の死後は尼将軍として実権を握った北条政子。

承久の乱における名演説や、日本三大悪女の一人として語られるなど、その波乱万丈な人生は現代でも多くの人を魅了しています。

しかし、北条政子がどのような死因で生涯を閉じたのか、その最期の様子はどのようなものだったのかについては、あまり知られていません。

彼女は69歳という当時としては長寿を全うしましたが、その背景には夏の暑さと当時流行していた病気が深く関わっていました。

また、4人の子供全員に先立たれるという母としての壮絶な悲しみを抱えながら、最後まで幕府を守り抜いた政子の生き様には、感動と尊敬の念を禁じ得ません。

この記事では、歴史書の記述と最新の医学的見解に基づき、北条政子の死因の真相と、彼女が何をした人なのか、どんな人だったのか、家系図や年表を交えながら、面白いエピソードや名言とともに詳しく解説していきます。

この記事を読むとわかること
  • 北条政子の具体的な死因と最期の様子が医学的見地からわかる
  • 承久の乱での演説の真実と御家人を動かした本当の理由が理解できる
  • 4人の子供全員を失った母としての苦悩と政治家としての決断がわかる
  • 頼朝との恋愛から尼将軍に至るまでの波乱の生涯が年表とともに把握できる
目次

北条政子の死因は何の病気だったのか?

項目内容
死亡年月日嘉禄元年(1225年)7月11日
享年69歳(数え年)
有力な死因脚気と霍乱(熱中症・急性胃腸炎)の合併症による多臓器不全
闘病期間約1ヶ月以上
暗殺説ほぼ存在しない(自然死が通説)

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歴史書『吾妻鏡』が記す最期の様子

鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、北条政子が亡くなるまでの約1ヶ月間にわたる病状の推移が克明に記録されています。これらの記述を丁寧に追っていくことで、政子の最期がどのようなものであったかが浮かび上がってきます。

発病から死去までの経過

政子が体調を崩し始めたのは、嘉禄元年(1225年)6月3日のことでした。『吾妻鏡』には「二品(にほん、政子の呼称)、御不例(ごふれい)」と記されており、この時点で何らかの体調不良が始まっていたことがわかります。

日付(旧暦)吾妻鏡の記述内容医学的解釈
6月3日御不例(体調不良)。祈祷により一時小康状態に慢性疾患の初期症状または感染症の兆候
6月5日泰時が油断せず祈祷を継続予断を許さない状況であることを認識
6月7日病状が再び悪化する免疫力低下による再悪化の可能性
6月8日危急状態。生前に冥福を祈る逆修を行う本人が死を覚悟。意識は清明
6月10日大江広元(政子の盟友)が死去精神的打撃の可能性
6月下旬東の御所への転居計画が容体悪化で延期動かせないほどの衰弱状態
7月11日午後、死去。多くの御家人が嘆き悲しむ臨終

この経過から読み取れるのは、約1ヶ月以上にわたる緩やかな衰弱と、小康状態と悪化を繰り返しながら徐々に体力を失っていったという様子です。突然倒れて急死したわけではなく、自身の死期を悟って逆修(生前に自分の死後の冥福を祈る仏事)を行う余裕もありました。

死の直前まで政治的判断を下していた政子

注目すべきは、政子が危篤状態に陥ってもなお、意識は清明であり、死後の幕府体制について指示を出していたという点です。これは、弟の北条義時が急死したケースとは大きく異なります。政子の場合、死に至るまでの過程は比較的穏やかであり、暗殺や毒殺を示唆するような激痛や異変の記述は一切見られません。


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有力な死因説は「脚気」と「赤痢」の合併症

では、北条政子の具体的な病名は何だったのでしょうか。現代の医学的見解と当時の環境を総合的に分析すると、最も有力視されているのが「脚気(かっけ)」と消化器系感染症(赤痢など)の合併症による多臓器不全です。

① ビタミンB1欠乏による脚気

脚気は江戸時代に「江戸患い」として有名になりましたが、実は平安時代から鎌倉時代にかけての貴族や上級武士の間でも流行していた、いわば「贅沢病」でした。玄米や雑穀ではなく精白された白米を食べる習慣が上層階級に広まり、その結果ビタミンB1が不足してしまうのです。

脚気の主な症状には以下のようなものがあります。

  • 手足の痺れや感覚障害
  • むくみ(浮腫)
  • 心不全(脚気衝心)
  • 全身の倦怠感と食欲不振

弟の北条義時も脚気に苦しんでいたとする史料があり、北条家の食生活や遺伝的体質として、脚気になりやすい傾向があった可能性が指摘されています。政子自身も晩年、最高権力者として貴族的な食生活を送っていたと考えられ、白米中心の食事がビタミンB1欠乏を招いた可能性は十分にあります。


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② 夏の猛暑と「霍乱(かくらん)」

もう一つの重要な要因が、死亡時期が旧暦7月(現在の8月中旬〜9月上旬)という真夏の暑い時期だったという点です。当時の病名で「霍乱(かくらん)」と呼ばれるものがあり、これは現代医学でいう「重度の熱中症」あるいは「急性胃腸炎(食あたり・赤痢)」を指していました。

当時の鎌倉は、幕府の所在地として急速に人口が増加しており、都市衛生が著しく悪化していました。夏場には赤痢などの感染症が頻繁に発生し、特に高齢者や体力の弱った人々が命を落とすことが多かったのです。

③ 複合的な要因による衰弱死

医学的に見ると、政子の死因は単一の病気ではなく、以下のような複合的な要因が重なった結果だと考えられています。

  1. 基礎疾患:脚気や慢性的な消化器疾患(胃腸の弱り)
  2. 急性増悪因子:夏の猛暑による脱水症状、食中毒または感染性胃腸炎(赤痢)
  3. 年齢要因:69歳という高齢による免疫力の低下
  4. 精神的ストレス:4人の子供全員を失った深い喪失感と、幕府運営の重圧

これらが相まって、政子の体は徐々に衰弱していき、最終的には多臓器不全に至ったと推測されます。


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暗殺説は存在するのか?

鎌倉時代といえば、源頼朝の不審な落馬死や源実朝の暗殺、北条義時の毒殺疑惑など、政治的な暗殺や陰謀が渦巻いていた時代です。では、北条政子に関しても暗殺説は存在するのでしょうか。

暗殺説がほぼ存在しない理由

結論から言えば、北条政子の死に関する暗殺説はほとんど存在しません。その理由は以下の通りです。

  1. 高齢での自然な死
    69歳という年齢は当時としてはかなりの長寿であり、老衰に近い形での死は十分に自然です。
  2. 1ヶ月以上の闘病期間
    毒殺や暗殺であれば、もっと急激な症状が現れるはずです。政子の場合は緩やかな衰弱という経過を辿っています。
  3. 殺害して得をする人物がいない
    政子は既に伊賀氏の変(後継者争い)を収束させ、北条泰時を執権として体制を盤石にした後でした。この時点で政子を殺害しても、誰も得をしないのです。
  4. 異変を示す記述がない
    『吾妻鏡』には、義時の死の際に見られたような「毒殺を疑わせる記述」が一切ありません。

ちなみに、弟の北条義時の死に関しては、後妻である伊賀の方による毒殺説が当時から囁かれていました。義時は62歳で突然亡くなったため、不審な点が多かったのです。しかし政子の場合は、年齢も高く、死に至る過程も自然であったため、暗殺を疑う要素がほとんどないのです。


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北条政子の波乱万丈な生涯と「尼将軍」としての功績

年代出来事政子の年齢
1157年北条時政の長女として誕生0歳
1177年頃源頼朝と結婚(駆け落ち婚)20歳頃
1182年亀の前事件(後妻打ち)25歳
1199年頼朝死去。出家して尼将軍となる42歳
1204年長男・頼家が修善寺で暗殺される47歳
1219年次男・実朝が暗殺され源氏正統断絶62歳
1221年承久の乱。名演説で御家人を鼓舞64歳
1225年死去69歳

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源頼朝との情熱的な恋愛と結婚

北条政子の人生を語る上で欠かせないのが、源頼朝との出会いと結婚です。この二人の関係は、単なる政略結婚ではなく、情熱的な恋愛から始まった物語でした。

伊豆の流人だった頼朝との駆け落ち

保元元年(1157年)、政子は北条時政の長女として伊豆国(現在の静岡県)に生まれました。父の時政は、平家方の地方豪族として一定の勢力を持っていましたが、決して中央の大貴族というわけではありません。

源頼朝
引用元「Wikipediaコモンズ」より

一方、源頼朝は平治の乱で敗れた源氏の御曹司として、伊豆に流されていた「罪人」でした。身分的には没落貴族であり、将来の見通しも不透明な存在だったのです。

父・時政は当然のことながら、娘と罪人である頼朝との結婚に猛反対しました。しかし政子は、ある雨の夜、屋敷を抜け出して山を越え、頼朝のもとへ走ったという伝説が残っています。これが有名な「駆け落ち婚」のエピソードです。

このエピソードは後世の創作という説もありますが、政子が父の意向に逆らってでも頼朝と結ばれたことは事実です。当時の女性としては極めて自我が強く、自分の意志を貫く性格だったことがうかがえます。

嫉妬の炎!亀の前事件(後妻打ち)

政子の性格を象徴する面白いエピソードとして有名なのが、寿永元年(1182年)に起きた「亀の前事件」です。

政子が第二子(頼家)を妊娠中、頼朝は京から下ってきた美女「亀の前」を愛妾として寵愛していました。これを継母の牧の方から聞かされた政子は激怒し、部下の牧宗親に命じて亀の前が匿われていた伏見広綱の屋敷を打ち壊させたのです。

現代の感覚では常軌を逸した破壊行為に見えますが、これは当時「後妻打ち(うわなりうち)」と呼ばれた、一定の社会的ルールに基づく慣習の延長線上にあるものでした。正妻が夫の愛人に対して制裁を加えることは、正妻としての地位と権威を主張する正当な行為と見なされていたのです。

ただし、政子の行動が特異だったのは、頼朝がこの事件の実行犯である牧宗親の髻(もとどり、髪を結った部分)を切るという、武士の面目を潰す制裁に出たことで、一族の亀裂にまで発展してしまった点です。これは単なる嫉妬ではなく、御台所(みだいどころ、将軍の正室)としての権威を侵す者に対する政治的排除の側面も強かったのです。

北条政子と源頼朝の関係や、鎌倉幕府の成り立ちについて、詳しくは以下の記事で解説しています。

鎌倉幕府を開いた人は誰?幕府成立の年となぜ鎌倉が選ばれたかを解説


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4人の子供全員に先立たれた悲劇の母

尼将軍として恐れられ、日本三大悪女の一人とも称される北条政子ですが、その内面は深い悲しみと孤独に満ちていました。彼女は生涯で4人の子供を産みましたが、その全員に先立たれるという、母親として耐え難い悲劇を経験しているのです。

北条政子は何人子供を産んだのか

政子と頼朝の間には、4人の子供がいました。

子供生年没年(享年)死因・経緯
長女・大姫1178年1197年(20歳)許嫁の義高が殺されたショックで心を病み、病死
長男・源頼家1182年1204年(23歳)2代将軍。将軍職を追われ修善寺に幽閉後、暗殺
次女・三幡1186年1199年(14歳)病死
次男・源実朝1192年1219年(28歳)3代将軍。甥の公暁に鶴岡八幡宮で暗殺される

長女・大姫の悲恋と死

大姫は、木曽義仲の嫡男である源義高と政略的に婚約させられましたが、二人は genuinely愛し合うようになりました。しかし義仲が頼朝に討たれると、頼朝は義高をも殺害してしまいます。

最愛の人を父に殺された大姫は深い心の傷を負い、その後心を病んでしまいました。政子は必死に娘を慰め、名医を探し、寺社に祈願を重ねましたが、大姫は20歳の若さで亡くなってしまいました。


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源頼家はなぜ殺されたのか

長男の頼家は、父・頼朝の死後、18歳の若さで2代将軍となりました。しかし頼家は、御家人たちを軽視する独裁的な政治姿勢を取ったため、北条氏を中心とする御家人たちと激しく対立しました。

最終的に頼家は将軍職を追われ、修善寺に幽閉された後、建仁4年(1204年)7月18日、入浴中に暗殺されました。享年23歳。暗殺の首謀者については諸説ありますが、北条氏の関与が強く疑われています。

政子は我が子である頼家よりも、幕府の安定を優先したとされ、これが後世「悪女」と呼ばれる一因となりました。しかし近年の研究では、政子は頼家を救いたかったものの、御家人たちの強硬な姿勢に押し切られた可能性も指摘されています。母として引き裂かれる思いだったことは想像に難くありません。

源実朝の暗殺と源氏正統の断絶

次男の実朝は、兄・頼家が失脚した後、12歳で3代将軍となりました。実朝は政治には消極的で、和歌の創作に情熱を注ぐ文化人でした。しかし承久元年(1219年)1月27日、鶴岡八幡宮での参拝の帰りに、甥である公暁(頼家の息子)に襲撃され、暗殺されてしまいます。享年28歳。

実朝には子供がおらず、これにより源頼朝の血を引く源氏の正統は完全に途絶えました。政子にとって、これは想像を絶する悲しみでした。『承久記』には、実朝の死後、政子が語ったとされる痛切な言葉が残されています。

子供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失い、これでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました

この記述は、政子が単なる悲嘆を超え、重度の抑うつ状態あるいは希死念慮(死にたいという気持ち)を抱いていたことを強く示唆しています。しかし彼女は自害を選びませんでした。その理由は、子供たちが残した鎌倉幕府を守るという政治的使命感にあったのです。

源実朝の暗殺事件の詳細や、その背景にある陰謀については、以下の記事で詳しく解説しています。

源実朝の死因と暗殺場所を徹底解説!公暁による事件の真相


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【名言】承久の乱での演説が幕府を救った

北条政子の生涯で最も有名な出来事が、承久3年(1221年)に起きた承久の乱における演説です。この演説は日本史上最も劇的なスピーチの一つとして語り継がれています。

承久の乱とは何だったのか

承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の実力者である北条義時の追討を命じ、朝廷と幕府が武力衝突した事件です。天皇・上皇という絶対的権威を持つ朝廷が敵に回ったことで、鎌倉の御家人たちは大きく動揺しました。

「朝廷に弓を引くことは、朝敵(天皇の敵)となることだ」
「もし負ければ、所領も地位も全て失ってしまう」

こうした恐怖と迷いが御家人たちの間に広がり、中には京都側につこうとする者も出始めました。幕府存亡の危機に直面したのです。

政子の名言「頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深い」

この危機的状況の中、尼将軍・北条政子は御家人たちを集め、演説を行いました。『吾妻鏡』によれば、政子は安達景盛に言葉を代読させる形式をとったとされていますが、その内容は御家人たちの心を揺さぶるものでした。

皆、心を一つにして聞きなさい。これが私の最後の言葉です。故右大将軍(頼朝)が朝敵を討ち、関東を創業してから、官位といい、俸禄といい、その恩は山よりも高く、海よりも深い。報恩の志が浅からず、名を惜しむ者は、早く藤原秀康・三浦胤義(上皇側の主力)を討ち取れ。ただし、院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし(上皇側に行きたい者は今すぐ出ていけ)

この演説を聞いた御家人たちは涙を流し、「命を懸けて恩に報いる」と誓ったと伝えられています。

演説の真実:感動だけでなく利益誘導があった

しかし近年の歴史研究では、御家人たちが政子の演説に奮い立った理由は、感動だけではなかったことが明らかになっています。政子は演説の中で、極めて現実的な利益(恩賞)の約束も行っていたのです。

  1. 既得権益の防衛
    頼朝が確立した御恩と奉公のシステムにより、御家人たちの所領は安堵され、生活が向上したことを想起させました。もし京方(上皇側)につけば、かつてのように公家に従属し、重税を課される惨めな地位に戻ることを暗に示唆したのです。
  2. 新しい土地(新補地頭)の約束
    乱後、幕府が勝利すれば、上皇側についた貴族や西国武士の所領約3000カ所が没収され、幕府方の御家人に分配されることが約束されました。これが新補地頭です。

つまり、政子の演説は情緒的な訴えであると同時に、御家人の生活と所領を守るための契約更新の宣言だったのです。この現実的な利益誘導こそが、御家人たちを動かした最大の要因だったと考えられています。

結果として幕府軍は圧勝し、後鳥羽上皇は隠岐島に流されました。この勝利により、鎌倉幕府の権威は朝廷をも上回るものとなり、武家政権の基盤が確立されたのです。

北条政子の演説の全文と、その歴史的意義については、以下の記事で詳しく解説しています。

北条政子の演説の全文を現代語で簡単にわかりやすく解説!


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政子の死後と現在のお墓

北条政子の墓は現在、鎌倉市内の2つの場所に存在します。どちらも政子ゆかりの寺院であり、彼女の信仰と母性を物語る重要な史跡となっています。

① 寿福寺の五輪塔(実朝の墓と隣接)

北条政子の墓
引用元「Wikipediaコモンズ」より

鎌倉・扇ヶ谷にある寿福寺(じゅふくじ)は、政子が夫・頼朝の菩提を弔うために正治2年(1200年)に開基した鎌倉五山第三位の禅寺です。

寿福寺の裏山にある墓地には、岩をくり抜いた「やぐら」と呼ばれる鎌倉特有の横穴式墳墓があり、そこに政子の五輪塔が安置されています。注目すべきは、政子の墓のすぐ隣に、愛息・源実朝の墓(五輪塔)が並んで建っているという点です。

実朝は暗殺された際、首を持ち去られてしまい遺体が見つからなかったため、寿福寺には供養塔が建てられました。政子は遺言で、この実朝のそばに眠ることを望んだとされています。全ての子供を失った母として、最期は非業の死を遂げた末息子の側に寄り添いたいという強烈な母性の表れです。

② 安養院の宝篋印塔

鎌倉・大町にある安養院(あんよういん)も、政子ゆかりの重要な寺院です。安養院の前身は、政子が頼朝の菩提を弔うために建立した長楽寺です。長楽寺は後に、政子の法名である「安養院」にちなんで安養院と改称(または統合)されました。

ここには政子を供養する大きな宝篋印塔(ほうきょういんとう)があり、現在も政子の木像が安置されています。安養院はツツジの名所としても知られ、毎年5月には政子を偲ぶ法要が行われています。

なぜ頼朝と離れた場所に眠っているのか

夫である源頼朝の墓は、鎌倉・西御門の法華堂跡(現在の大倉山付近)にあります。政子の墓が頼朝と離れた場所にあることについて、「死してなお頼朝の浮気を許さなかったから」といった俗説もありますが、歴史的・宗教的には以下の理由が考えられます。

  1. 公と私の分離
    頼朝の眠る法華堂は、幕府の始祖を祀る公的な祭祀空間でした。対して寿福寺は、政子が個人的に開基し、実朝と共に眠る私的・宗教的な安息の場でした。政子は、死後は鎌倉殿の妻という公的立場よりも、実朝の母あるいは一人の仏弟子として眠ることを選んだのではないかと考えられます。
  2. 当時の埋葬習慣
    当時、夫婦が必ずしも同じ墓に入るわけではなく、それぞれの開基した寺院やゆかりの地に埋葬されることは一般的でした。

北条政子の墓への行き方や、現地で見るべきポイントについては、以下の記事で詳しく紹介しています。

北条政子の墓への行き方や見どころを解説!場所はどこなの?


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よくある質問

北条政子はなぜ「尼将軍」と呼ばれたのですか?

源頼朝の死後、政子は出家して尼(仏門に入った女性)となりました。しかし実質的には幕府の最高権力者として政治の実権を握り続けたため、尼でありながら将軍のような権力を持つという意味で「尼将軍」と呼ばれるようになりました。特に承久の乱では、御家人たちを統率して朝廷軍を破るなど、その政治力は将軍に匹敵するものでした。

北条政子の血筋は現在まで続いているのですか?

北条政子と源頼朝の直系子孫は、4人の子供全員が若くして亡くなり、孫の代でも途絶えてしまったため、現在まで続いていません。ただし、政子の弟である北条義時の子孫は、執権北条氏として続き、その後も様々な家系に分かれて現代まで続いている可能性があります。有名な戦国大名・北条早雲の後北条氏は、鎌倉北条氏の子孫を自称していましたが、血縁関係については議論があります。

源頼朝の死因は何だったのですか?

源頼朝は建久10年(1199年)1月13日、53歳で亡くなりました。死因については諸説ありますが、相模川で行われた橋の供養の帰りに落馬し、その後体調を崩して死去したとされています。ただし、落馬が直接の死因だったのか、それとも脳卒中などの病気で倒れた結果落馬したのかは明確ではありません。また、暗殺説や病死説など、様々な説が存在します。

北条政子は本当に悪女だったのですか?

北条政子が「日本三大悪女」の一人とされるのは、主に江戸時代以降の儒教的史観によるものです。夫を尻に敷き、実家の北条氏に権力を誘導し、結果として源氏を滅ぼしたという見方から、婦道に背く存在として批判されました。しかし近年の歴史研究では、政子は家を守り、武家政権という新しいシステムを定着させるために機能した極めて有能な政治家として再評価されています。彼女の行動原理は私利私欲ではなく、頼朝が築いた幕府の安泰に一貫していたと考えられています。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」での政子の最期はどう描かれましたか?

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、小池栄子さんが北条政子を演じました。ドラマの最終回では、政子の最期は直接的には描かれず、実朝の墓前で静かに手を合わせる姿で物語が締めくくられました。これは、政子のその後の人生(承久の乱から晩年まで)を視聴者の想像に委ねる演出でした。ドラマでは、政子が当初は純朴で家族思いの女性として描かれ、過酷な運命の中で悪女にならざるを得なかった、あるいは悪女という役割を引き受けることで幕府を守ろうとした悲劇的かつ強靭な人物として表現されました。


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北条政子が遺したもの:母としての愛と政治家としての覚悟

  • 北条政子の死因は脚気と霍乱(熱中症・急性胃腸炎)の合併症による多臓器不全が最も有力
  • 嘉禄元年(1225年)7月11日、69歳で死去し約1ヶ月の闘病期間があった
  • 暗殺説はほとんど存在せず自然死が通説となっている
  • 源頼朝との結婚は父の反対を押し切った駆け落ち婚だった
  • 亀の前事件では浮気相手の家を破壊する後妻打ちを実行した
  • 政子は4人の子供(大姫・頼家・三幡・実朝)全員に先立たれた
  • 実朝の死後は淵瀬に身を投げようとさえ思うほどの絶望を経験した
  • 承久の乱での演説「頼朝公の恩は山よりも高く海よりも深い」で御家人を鼓舞した
  • 演説は感動だけでなく新補地頭という具体的な土地権益を約束する契約でもあった
  • 墓は寿福寺にあり愛息・実朝の墓と隣接している
  • 安養院にも政子の供養塔があり法名にちなんで名付けられた
  • 頼朝の墓とは離れているが夫婦不仲ではなく公と私の分離による
  • 日本三大悪女の評価は江戸時代の儒教的史観によるもの
  • 近年は幕府という家を守り抜いた有能な政治家として再評価されている
  • 伊賀氏の変では夜間に三浦義村の館を訪れ命がけで説得した
  • 子供たちの死を無駄にしないため幕府存続という使命に生涯を捧げた
  • 尼将軍として実質的な最高権力者となり武家政権の基盤を確立した
  • 政子の生き様は喪失感と闘いながら使命を全うした孤独で強靭な政治家の姿を示している

北条政子の死因を調べていくと、単なる病死という事実を超えて、4人の子供全員を失った母としての深い悲しみと、それでも鎌倉幕府を守り抜こうとした政治家としての強い意志が見えてきます。夏の暑さと病気によって69年の生涯を閉じた政子ですが、その最期は決して孤独なものではありませんでした。多くの御家人が彼女の死を嘆き悲しみ、そして彼女が守り抜いた鎌倉幕府は、その後100年以上にわたって続いていくことになるのです。

鎌倉を訪れた際には、ぜひ寿福寺や安養院に足を運び、実朝の隣で静かに眠る政子に思いを馳せてみてください。悪女とも英雄とも評される彼女の本当の姿は、激動の時代を生き抜いた一人の女性の、愛と覚悟の物語なのです。

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