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北条義時の歴代妻4人を解説!義時は伊賀の方(のえ)に毒殺されていた?【鎌倉殿の13人】

皆さんは北条義時ほうじょうよしときを、ご存知でしょうか?この記事の内容を簡単にまとめますと以下のとおりです。

  1. 北条義時には、阿波局、姫の前、伊佐朝政の娘、伊賀の方という4人の妻がいた。
  2. 歴史家・坂井孝一氏は、阿波局と頼朝の妻・八重姫は同一人物という仮説を述べている。
  3. 4人目の妻・伊賀の方は、夫・義時を毒殺したという説が当時から噂されていた。

この記事では北条義時の歴代妻について、わかりやすく、カンタンに解説いたしました。

今は北条義時の妻について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、北条義時の妻に詳しくなれます。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

北条義時の歴代妻4人について解説

北条義時には、はっきりしているだけで4人の妻がいたとされています。

これらの妻を同時にもっていたわけではなく、離婚や死別したことにより、結果として4人の妻を持つこととなったようです。

以下くわしく解説していまいります。

【1番目の妻】阿波局あわのつぼね(八重姫と同一人物説あり)

北条義時の最初の妻。1183年、義時の長男で3代執権・北条泰時を産んでいます。

阿波局には謎が多く、義時の正室ではなく、側室だったようです。

彼女は鎌倉御所で働いていた女性だったらしく、くわしい出自は不明です。

その後、北条義時が姫の前を妻とする1192年までのあいだに、彼女は亡くなっていたものと考えられます。

2022年の大河ドラマ【鎌倉殿の13人】では、この阿波局を、源頼朝の最初の妻・八重姫と同一人物という設定で放送されていました。

歴史学者で【鎌倉殿の13人】の時代考証を担当した坂井孝一氏が、阿波局と八重姫を同一人物なのではないか、という仮説を提唱しているのです。

八重姫とは、豪族・伊東祐親いとうすけちかの娘で、源頼朝が最初に妻とした女性です。

《源頼朝》
「引用元ウィキペディアより」

頼朝が八重姫に千鶴丸を産ませたことを知り激怒した伊東祐親は、千鶴丸を河に沈めて殺害したといいます。

その後、頼朝は八重姫と引き離されたというのです。


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静岡県伊東市には、八重姫と源頼朝の子・千鶴丸せんつるまるの菩提寺である最誓寺さいせいじがあります。

この最誓寺には、八重姫が源頼朝と別れたあと、北条義時に嫁いだという伝承があります。

坂井孝一氏は、頼朝と別れた八重姫は鎌倉御所で働くようになったが、頼朝と八重姫の関係が続くことを恐れた北条政子が、弟の義時に嫁がせ、頼朝も信頼していた義時に八重姫を任せてホッとしただろうという仮説を唱えておられました。

その仮説が正しいならば、八重姫が阿波局と名乗ったことも、義時の妹が同じく阿波局と名乗ったことも説明できるというのです。(阿野全成の妻となった義時の妹も、阿波局と名乗っていた)

阿波局という名前は、北条家にとってとても大切な人の名前だったため、義時の妹がその名を継承したのだと・・。

さらに彼女と義時の間に生まれた北条泰時は、頼朝からとても大切にされ、歴史書・吾妻鏡で頼朝の正当な後継者は北条泰時とされているのは、泰時が頼朝の最初の妻が産んだ子供だから、という説明ができるのです。

とはいえこれは全て仮説。坂井孝一氏も、根拠に乏しいことを認めています。

歴史学者・渡邊大門氏は、この阿波局と八重姫の同一人物説に否定的です。

ちなみに八重姫には、頼朝と別れたあと河に身を投げて亡くなったとも、頼朝の計らいで有力御家人と再婚したという説もあります。


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【2番目の妻】姫の前ひめのまえ

北条義時の2番目の妻。義時の正室。比企能員ひきよしかずたち比企一族の女性。

源頼朝の乳母めのとだった比企尼ひきのあまの孫にあたる人物です。

2022年の大河ドラマ【鎌倉殿の13人】では、女優の堀田真由さんが【比奈ひな】という役名で演じておられました。

とても美しい女性だったらしく、義時に惚れ込まれ、何度も恋文を送られるも、義時の想いに応えることはなかったといいます。

それを見かねた源頼朝が、「絶対に離婚しません」という起請文を義時に書かせることで、二人を結びつけたのでした。

姫の前は、1193年に義時の次男・朝時ともときを、1198年に三男・重時しげときを産んでいます。

実は義時と姫の前の結婚は、北条家と比企家の戦争を未然に防ぐために、頼朝が考え出した策略だったともいわれています。


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頼朝には北条政子とのあいだに生まれた2人の男児がいました。

長男・源頼家と、次男・源実朝です

頼朝は、長男・頼家に比企家の女性を乳母として付けたため、頼家は比企の館で育てられました。(当時、高貴な子供は乳母の家で育てられるのが一般的だった)

次男・実朝の乳母には、北条政子の妹・阿波局が任命されたので、実朝は北条の館で育てられたのです。

乳母の家は、その子供の後ろ盾となるのが一般的だったので、頼家には比企家が後ろ盾となり、実朝には北条家が後ろ盾となったわけです。

ここに、頼家&比企家と、実朝&北条家という、権力をめぐる対立の構図が出来上がったのでした。

この比企家と北条家の争いを未然に防ぐために、頼朝は比企家出身の姫の前と、北条家出身の北条義時を結婚させ、両家の橋渡しをさせようと画策したのでした。

ところが、結果は頼朝の思惑通りにはいきませんでした。


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1199年、源頼朝が亡くなると、比企と北条の権力闘争は激化。

1203年、比企能員の変が起こり、比企能員が北条時政により暗殺されます。

さらには源頼家も暗殺され、源実朝が征夷大将軍となったため、北条家が権力を独占した形となったのです。

この【比企能員の変】をきっかけにして、姫の前は北条義時と離婚し、歌人として有名な京都の源具親みなもとのともちかと再婚し、子供を産んでいます。(この姫の前と源具親の子供は、異父兄・北条朝時の猶子となっている)

1207年に死去。源具親との再婚は、義時による姫の前への配慮だったと思われます。

余談ですが、姫の前の子供である北条朝時の家系の運命は、その後暗転することになります。


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姫の前は正室であったため、北条家の嫡流は、本来は3代執権の泰時ではなく、姫の前が産んだ朝時だったのです。

朝時の家系は「名越流なごえりゅう」と呼ばれ、義時と泰時の家系である「得宗家とくそうけ」にも劣らない実力を持っていました。

名越流は、朝時が御所につかえていた女官に手を出したことで父・義時に義絶(勘当かんどう)されたため、長男・泰時が父・義時のあとを継承。

その後、名越流は「得宗家」に対して反抗的な態度を取り続けたため、

  • 5代執権・北条時頼の時代の【宮騒動】
  • 8代執権・北条時宗の時代の【二月騒動】

という戦乱で続け様に討伐を受け弱体化したのでした。


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【3番目の妻】伊佐朝政いさともまさの娘

北条義時の側室にあたる人物です。

1200年、義時の四男・北条有時ほうじょうありときを産んでいます。

彼女の身分は、それほど高くなかったらしく、息子の有時は、4人目の妻・伊賀の方が産んだ異母弟・北条政村ほうじょうまさむららに比べても、下におかれたといいます。

有時はその後、評定衆に抜擢されたが病弱であったため、すぐに引退。

有時の家系はその後、伊具流いぐりゅうと呼ばれることになりますが、義時の他の子孫たちに比べても、それほど高い身分を与えられていません。


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【4番目の妻】伊賀の方いがのかた

北条義時の継室。

継室とは、つまり正室・姫の前のあとに正室となったのが、この伊賀の方だったということです。

父は、御家人の伊賀朝光いがともみつ。祖父は【十三人の合議制】の一人である二階堂行政。

北条義時とのあいだに

  • 1205年、北条政村ほうじょうまさむら
  • 1208年、北条実泰ほうじょうさねやす

を産んでいます。

他にも

  • 北条時尚ほうじょうときなお
  • 一条実雅いちじょうさねまさの妻(伊賀氏の変で離婚し唐橋通時からはしみちときと再婚)

など、複数の子供を産んでいます。

2022年の大河ドラマ【鎌倉殿の13人】では、「のえ」という役名で、女優・菊地凛子さんが演じておられます。

詳しくは後述いたしますが、この伊賀の方という女性が、かなりの悪妻であると噂されているのです。

 

実は北条義時には、この4名以外にも側室や愛妾がいたと考えられています。

なぜなら義時には、他にも子供がいたからです。

ですがそれら側室については、はっきりとした情報がありません。

ただ、鎌倉幕府のトップに就任する以前の小豪族だった義時に、側室を持つことは難しいはずなので、数多くの側室を持つようになったのは、鎌倉幕府執権にのぼりつめた当たりからだと考えられます。


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北条義時は妻に毒殺されていた?伊賀氏の変について解説

北条義時は、伊賀の方に毒殺されたという説があります。

実はこの疑惑、義時が亡くなった当時から噂されていたものなのです。

ここでは、北条義時毒殺説と、義時が亡くなった直後に起こった伊賀氏の変について解説いたします。

伊賀氏の変いがしのへんとは?

伊賀氏の変とは、1224年、北条義時の死の直後におこった事件です。

義時の妻・伊賀の方が、自分の子である北条政村を、次の執権に就任させようとした事件といわれています。

1224年、北条義時が急死。

すると、伊賀の方は、兄である伊賀光宗と結託して、自分が産んだ子である北条政村を次の執権に就任させようと企んだのです。

さらには、伊賀の方の娘婿である一条実雅を将軍に就任させて、権力を手に入れようとしたのでした。


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ところが、伊賀の方のこの企みは、北条義時の姉・北条政子によって阻止されてしまいます。

尼将軍と呼ばれ、絶大な権力を握っていた北条政子は、正式に北条義時の後継者を、義時の長男・泰時と決定したのです。

  • 伊賀の方
  • 伊賀光宗
  • 一条実雅

この3名は、全員流罪。

義時が亡くなった1月後の1224年8月に、伊賀の方は伊豆の北条へ流罪となっています。

その4ヶ月後の1224年12月、伊賀の方は伊豆で危篤となり、直後に亡くなったといわれています。

つまり伊賀氏の変とは、義時の妻・伊賀の方が、義時亡き後に権力を握ろうと企んで起こした騒動なのです。

ところが伊賀の方が、本当に謀反を企んだのかどうか、不明なのです。

北条泰時は、伊賀の方が謀反を起こそうとしたという噂を明確に否定しています。

泰時は、この陰謀に加わったとされている弟・北条政村を許しており、政村はその後7代執権に就任し、蒙古襲来に対処しています。

そのため、この伊賀氏の変は、伊賀の方が謀反を起こしたのではなく、義時が亡くなったことで自分の権力が低下してしまうことを恐れた北条政子が、台頭しはじめた有力者・伊賀氏を潰すため、適当な罪をでっち上げたものだともいわれています。


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北条義時の毒殺説

北条義時には、妻・伊賀の方に毒殺されたという噂が、当時からあったといいます。

なぜこんな噂がされたのかというと、義時が亡くなった3年後に、驚くべきことを口にした僧侶がいたからです。

北条義時は、1224年6月13日に病死しています。享年62歳。

歴史書【吾妻鏡あづまかがみ】には、脚気かっけと暑気あたりが死因であると記されています。

北条義時が亡くなってから3年が経過した1227年、一人の僧侶が、京都の六波羅で処刑されました。

尊長そんちょうという僧侶です。

武芸にも優れていた尊長は、1221年の承久の乱じょうきゅうのらんで、後鳥羽上皇の軍に味方し、北条義時の軍団を相手にして奮戦していました。

このとき北条義時の軍を苦しめた罪で、尊長は鎌倉幕府の軍に捕らえられ、処刑されそうになっていたのです。

歴史書【明月記】によれば、自害しようとしたものの失敗して捕らわれた尊長は、驚くべきことを叫びました。

「早く首を討つがいい。

さもなければ、伊賀の方が夫の北条義時を毒殺した毒で、早く私のことも殺すがいい」

と叫んだのでした。

これに驚いた周囲の武士は、尊長を問いつめたといいます。

「これから死ぬばかりだというのに、嘘など言うはずないだろう」

そう言う村長に対して、北条義時の孫・北条時氏は驚愕したといわれています。

この【北条義時毒殺説】は、今に至るまで真相がわかっていません。

歴史家のなかには、尊長の言葉には信憑性があり、義時は伊賀の方に毒殺されたという方もいます。

ただ、この尊長の発言を

「死ぬ間際に苦し紛れに口走ったデタラメだ」

という歴史家もいるため、真相はハッキリしていません。

脚気・暑気あたりによる病死だというのが、義時の死因としていまのところもっとも一般的なようです。

→→→→→北条義時の死因と最期について詳しくはコチラ

 


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三浦義村みうらよしむらの裏切り

三浦義村は、盟友だった北条義時が亡くなった直後に、伊賀の方の兄・伊賀光宗と密談し、伊賀の方の子・北条政村を執権に就任させようとしたと噂されていました。

実は、伊賀の方が執権に就任させようとした北条政村は、三浦義村の「村」の一字をもらって元服げんぷく(成人)していたのです。

つまり三浦義村は、北条政村の烏帽子親えぼしおや、これは義村が政村の後ろ盾だったということを意味しています。

そのため、義村は伊賀の方と結託して、期待されていた北条泰時ではなく、北条政村を執権として就任させ、自分はその後ろ盾となって権力を掌握しようとわけです。

三浦義村は、当時絶大な力を持っており、その力は北条一族に次ぐものがありました。

これに危機感を抱いた北条政子は、一人で三浦義村の邸宅に乗り込み、義時の後継者は泰時こそが正当であることを説明。義村に謀反など起こさないことを誓わせたといいます。

こうして伊賀氏の変は、伊賀の方や伊賀光宗の流罪のみで終息した・・・といわれています。

しかし、先ほども申しましたが、そもそもこの伊賀氏の変は、北条政子のでっちあげだともいわれています。

ですので、三浦義村が本当に北条を裏切るつもりだったのかどうか、微妙なところなのです。

和田合戦で、いとこで同族の和田義盛わだよしもりを裏切ってまで、北条義時に味方した三浦義村。

義村は和田義盛を裏切ったため「友をも喰らう犬」と蔑まれたといいます。

源実朝暗殺事件や、承久の乱でも、義村は徹底的に北条義時の味方をし続けました。

そんな義村が、義時亡き後の鎌倉幕府を裏切るなどあり得るのか、疑問が残ります。

ただ三浦義村は、実朝暗殺事件や承久の乱など、歴史的なターニングポイントで、いつも黒幕と言われ続けた策謀家であることは確かです。

三浦義村は、その15年後の1239年に亡くなります。

ちまたでは「後鳥羽上皇ごとばじょうこうの怨霊」に呪い殺されたと噂されたようです。


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伊賀の方の怨霊

北条政子の前に、伊賀の方の怨霊が現れたという逸話があります。

北条政子
「引用元ウィキペディアより」

無念のうちに亡くなったという伊賀の方。

歴史書【北条九代記】によれば、その伊賀の方の怨霊が、北条政子が住む御所に現れ、政子に仕えていた女性たちが、次々に亡くなったというのです。

どうやら伊賀の方の怨霊は、北条政子の前にも現れたようです。

ところが北条政子は、伊賀の方の怨霊について口を開かず、ただただ祈りを捧げ続けたといいます。

1225年、北条政子は前年に亡くなった弟・北条義時や伊賀の方のあとを追うようにして亡くなります。

政子が「伊賀の方の怨霊」によって呪い殺されたのかどうか、定かではありません。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 北条義時には、阿波局、姫の前、伊佐朝政の娘、伊賀の方という4人の妻がいた。
  2. 歴史家・坂井孝一氏は、阿波局と頼朝の妻・八重姫は同一人物という仮説を述べている。
  3. 4人目の妻・伊賀の方は、夫・義時を毒殺したという説が当時から噂されていた。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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