島津斉彬公の名言と座右の銘を解説!西郷隆盛は斉彬の弟子だった?

幕末の名君「島津斉彬」

その名言、座右の銘とは、どんなものだったのか?

西郷隆盛は、島津斉彬の弟子だった?


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この記事を短く言うと

・島津斉彬の名言・・・・「人身の一致一和は、政治の要目なり」

・座右の銘・思邪無・・・・「邪念無く、飾るところ無し」ということ

・西郷隆盛は、島津斉彬の指導を受け、「思邪無」を守り通した


『島津斉彬・名言集』

1851年、父・島津斉興のあと、薩摩藩の第11代藩主となった島津斉彬は洋学に興味を持ち、幕府の要人からも一目を置かれる名君でした。

その斉彬の教え、考えは数多くの名言としてこの世に残っています。

・「人心の一致一和は、政治の要目なり」

・「民富めば国富むの言は、国主たる人の、一日も忘るべからざる格言なり」

・「人君たる人は、愛憎なきを要す」

・「およそ人は、一能一芸なきものなし、その長所を採択するは、人君の任なり」

・「既往の事を鑑みて、前途の事を計画せよ」

・「勇断なき人は、事を為すこと能わず」

・「国政の成就は、衣食に窮する人なきにあり」

・「十人が十人とも好む人材は非常事態には対応できないので登用しない」

などなどたくさんの名言があります。

ただひたすら薩摩藩を、そして日本を守るため、これら名言にあることを実践し、また多くの人に教えていきました。

『斉彬公・座右の銘「思邪無」の意味とは?』

「思邪無(おもいよこしまなし)」とよみ、 邪悪な念がなく、心情をありのまま表現し、飾るところがないという意味で、論語に見られる言葉です。

島津斉彬はこの座右の銘の通り、鎖国している幕府に対し、開国論を唱え、早くから西洋の技術を取り入れ薩摩藩の近代化を進めました。

また、有能な下級武士も積極的に登用しました。

西郷隆盛・大久保利通などがそうです。

そうして幕府にも影響力を持ち、養女の篤姫を13代将軍「徳川家定」に嫁がせるなどしました。

ただ一心に国を思う気持ちからだったのでしょう。


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西郷隆盛は島津斉彬の弟子?西郷は斉彬の名言を厳守した

「思邪無(おもいよこしまなし)」

西郷隆盛は、島津斉彬の御庭方役となり、名君・斉彬から直接指導を受けたと言われています。

清廉潔白な西郷隆盛は、斉彬の座右の銘「思邪無」を、生涯守り通したと言えるでしょう。

また、数多く残された島津斉彬の名言を傍で聞き、その言葉を体現しようとしていました。

斉彬の死後も討幕・明治新政府で斉彬の教えを守り、「思邪無」で大活躍。

最後は、新政府の悪政を正すため、西南戦争で亡くなりましたが、賊軍であったにも関わらず、明治天皇に愛され、1889年大日本帝国憲法発布に伴う大赦で許され、正三位を追贈され、わずか10数年で汚名返上しています。

こういったことも西郷の「思邪無」の姿勢を評価されてのことでしょう。

まとめ

本日の記事をまとめますと

・斉彬の名言集・・・「人心の一致一和は、政治の要目なり」など多数あり

・斉彬の座右の銘は「思邪無(おもいよこしまなし)」

・斉彬は西郷隆盛の師匠だった!西郷は「思邪無」を最後まで守り通した

以上となります。

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