山本五十六の死因と最後の様子とは?飛行機を撃墜されて座ったまま戦死

山本五十六の「死因」や「最後の様子」について、誰かに尋ねられても、ハッキリと答えられる方は、少ないかもしれません

 

実は筆者自身も、「山本五十六」については知っていたものの、自分の手で調査してみるまで、「山本五十六の死因・最後」については答えられませんでした

 

この記事では「山本五十六」の「死因」「最後の様子」について、ひと目で分かるようにまとめました

 

「山本五十六」の「最後」について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです

 

これを読んで、山本についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,山本五十六の『死因』は?

戦闘機の機銃を受けて、乗っていた飛行機が撃墜。

敵機の銃撃で負傷し、亡くなった。

 

2,山本五十六の『没年月日』は?

1943年4月18日

享年59歳

 

3,山本五十六の『最後の様子』は?

前線視察へ向かう途中で、敵の戦闘機からの襲撃を受け、撃墜され亡くなった。

 

4,山本五十六の『名言』は?

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、

ほめてやらねば、人は動かず。

話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」

 


山本五十六の『死因』は何?

「山本五十六」の死因は、「戦闘機の機銃弾が『こめかみ(又は「まなじり」)』から下顎を貫通したため」

《山本五十六》
「引用元ウィキペディアより」

山本の遺体の発見状況は、公式発表によると

「提督は、機上で敵の銃弾を受け、軍刀を手に、泰然(たいぜん)として戦死しておられた」


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軍医の遺体検死記録では

「死因は機銃弾がこめかみ(または、まなじり)から下顎を貫通したため」

という結論が出され、ほぼ「即死」と推察される。

 

しかし「山本五十六」が搭乗していた「一式陸上攻撃機」を銃撃したアメリカ軍「P-38戦闘機」の機銃は、

  • 「12.7mm」が4門
  • 「20mm」が1門

であり、検死記録の事実通りであれば、ご遺体の損傷は、もっと大きく、身体の一部が無くなっているはずである。

《P-38戦闘機》
「引用元ウィキペディアより」

こういった疑問点から山本の頭部を打ち抜いていたのは、「拳銃の弾丸」など「小口径の銃弾」であった可能性が否定できず

  • 「山本自決説」
  • 「第三者による射殺説」

が論じられることがある。

 

山本の遺体を最初に発見した「浜砂盈栄(はますな みつよし)」少尉の証言によれば

「山本長官の遺体は、座席とともに放り出されていた。

そして軍医長が地をはって、山本長官に近寄ろうとして絶命したあとが残っていた」

また、他の遺体が焦(こ)げて蛆(うじ)虫による損傷が激しいにもかかわらず、この2名だけは蛆(うじ)も少なく、比較的綺麗な形だった

 

つまり、これが本当だとするならば、「不時着からしばらくは、両名が生存していた」ということになる。

 

戦後に日本人として墜落現場を初めて訪れた「阿川弘之」は、著書『山本五十六』の中で、長官機が撃墜された後も、「山本五十六」長官の遺体には蛆がなく、綺麗だったことなどから

「しばらく存命していたか、同乗していた軍医長が、何がしかの処置をしたのではないか」

と述べている。


地上から収容にあたった「蜷川親博」軍医の検死調書には、遺体に銃創は無かった、との記述がある。

 

山本の墜落現場に向かった各部隊の長、「浜砂盈栄(はますな みつよし)」少尉・「中村」見習士官・「吉田」少尉も同様に、山本の顔面には弾丸による傷痕はなかったと証言。

 

ところが、前述の4士官のあとに山本の遺体を正式に死体検分した「田淵」海軍軍医少佐は、顔面に銃弾による傷跡があったと証言。

 

「蜷川」軍医中尉の弟「蜷川親正」博士は、山本の遺体には顔面貫通機銃創、および背部盲貫機銃創はなく、座席に座って救助を待っていたが、全身打撲か内臓破裂により【19日早朝】に死亡した、という見解を示している。

 

「蜷川」によれば、検案記録等にある顔面貫通機銃創、および背部盲貫機銃創は、機上戦死や即死を演出するために、死後の損傷が加えられたとのこと。

 

以上のことから、真相はいまだに謎のままだが、墜落した直後に、何者かが「山本五十六」長官を、小口径の拳銃・ピストルで死に至らしめた・・・という可能性も否定できずにいる。


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山本五十六の『没年月日』と『最後の様子』

「没年月日」と「享年」

1943年4月18日

 

享年59歳

「最後の様子」

山本五十六は、前線航空基地の将兵の労をねぎらうため、「バラレ島基地」におもむく予定を立てた。

 

この「前線視察計画」は、関係方面に連絡された。

 

「小沢治三郎」は、山本五十六の護衛戦闘機が少ないことを危惧したが、手違いにより「護衛機を増やすこと」はされなかった。

 

アメリカ海軍情報局は、【1943年4月17日】に戦艦「武蔵」から発信された暗号電文を解読。「山本五十六」による前線視察の情報を知った。

 

「ニミッツ」司令官は、山本五十六を暗殺する計画について、実行すべきかどうかを迷っていた。

 

山本暗殺のあとで、「山本五十六」よりももっと優秀な司令官が出てくることを心配したからである。

《チェスター・ニミッツ》
「引用元ウィキペディアより」

しかし情報参謀「エドウィン・レイトン」から

「山本五十六は、日本で最も優秀な司令官である。

山本より優れた司令官が登場する恐れはない」

という答えがあった。

 

それだけではなく、「山本」が戦死すれば、日本軍の士気は大きく低下する、ということを理由に「山本暗殺」を決断した。

 

4月18日午前6時】、「山本五十六」は、ラバウル基地を発進。

 

「零式艦上戦闘機」6機に護衛され、ブイン基地への移動中に、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊の「P-38ライトニング」16機による襲撃をうけて撃墜され、戦死。

 

この事件はのちに「海軍甲事件」とよばれることとなる。


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山本五十六の『名言』

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、

ほめてやらねば、人は動かず。

話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

 

苦しいこともあるだろう。

言いたいこともあるだろう。

不満なこともあるだろう。

腹の立つこともあるだろう。

泣きたいこともあるだろう。

これらをジッとこらえてゆくのが【男の修行】である。

 

是非やれといわれれば、はじめの半年や一年は、ずいぶん暴れてごらんにいれます。

しかし二年、三年となっては、全く確信は持てません。

「(日独伊)三国同盟」ができたのはしかたないが、かくなった上は、日米戦争の回避に極力ご努力を願いたいと思います。

これは、「近衛文麿」首相から「日米戦争」の見通しについて質問されたときの「山本五十六」の返答です。

《近衛文麿》
「引用元ウィキペディアより」

しかし実際には、日本軍は「真珠湾攻撃」から、わずか6ヶ月後の「ミッドウェー海戦」で大敗し、一気に戦局は悪化。

 

山本の当時の部下であった「井上成美(いのうえ しげよし)」は、

「山本さんは、ハッキリと『(アメリカには)勝てない』と言うべきだった」

(半年や1年は暴れてみせる、などと言うべきではなかった)

と証言しています。

《井上成美(いのうえ しげよし)》
「引用元ウィキペディアより」

 

実年者は、「今どきの若い者」などということを絶対に言うな。

なぜなら、われわれ実年者が若かった時に、同じことを言われたはずだ。

  • 『今どきの若者は全くしょうがない』
  • 『年長者に対して礼儀を知らぬ』
  • 『道で会っても挨拶もしない』
  • 『いったい日本はどうなるのだ』

などと言われたものだ。

その若者が、こうして歳を取ったまでだ。

だから『実年者は若者が何をしたか』などと言うな。

『何ができるか』と、その可能性を発見してやってくれ。


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陸軍との争いを避けたいから(ドイツ・イタリアとの)同盟をむすんだというが、内乱では国は滅びない。

(対外)戦争では、国が滅びる。

内乱を避けるために、(対外)戦争に賭けるとは、主客転倒もはなはだしい。

余談ですが、「満州事変」を起こした天才参謀「石原莞爾(いしわら かんじ)」は、対米開戦について

「油がないから戦争だなんて、そんな馬鹿なことがあるか!」

と激怒していました。

《石原莞爾》
「引用元ウィキペディアより」

 

博打をしないような男は、ろくなものじゃない。

 

人は神ではない。

誤りをするというところに、人間味がある。


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ああ われ何の面目ありて見(まみ)えむ大君に

将又(はたまた)逝きし戦友の父兄に告げむ言葉なし

いざまてしばし若人ら

死出の名残の一戦を

華々しくも戦ひて やがてあと追ふ われなるぞ

 

「中才」は肩書によって現はれ

「大才」は肩書を邪魔にし

「小才」は肩書を汚す。

 

我々が百年兵を養(やしな)うは、国家の平和を守るためである。(戦争するためではない)


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

1,山本五十六の『死因』は?

戦闘機の機銃を受けて、乗っていた飛行機が撃墜。

敵機の銃撃で負傷し、亡くなった。

 

2,山本五十六の『没年月日』は?

1943年4月18日

享年59歳

 

3,山本五十六の『最後の様子』は?

前線視察へ向かう途中で、敵の戦闘機からの襲撃を受け、撃墜され亡くなった。

 

4,山本五十六の『名言』は?

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、

ほめてやらねば、人は動かず。

話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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