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桃配山:Muramasaによる写真、Wikipediaより
「【672年】壬申の乱」と「【1600年】関ケ原の戦い」に、意外な関係があるということをご存知ですか?
私も大学で日本史を詳しく勉強するまで、2つの戦いの共通点を知りませんでした。
「壬申の乱」で主戦場となった場所と、「関ケ原の戦い」の場所は、実は両方とも現在の「岐阜県・関市」だったのです!
「徳川家康」は天下分け目の戦いに臨むにあたり、「壬申の乱」で勝利を収めた「天武天皇」の故事にならい、勝利を祈願したのです。
この記事では「壬申の乱」について、あまり詳しくない人のために、詳しくわかりやすく解説していきます。
これを読んで「そうだったのか!壬申の乱!」と、疑問をスッキリと解消してくださいね。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
- 「【672年】・壬申の乱」と、「【1600年】・関ヶ原の戦い」は、両方とも現在の「岐阜県・関市」で行われ、桃配山に陣をしいた「大海人皇子(天武天皇)」と「徳川家康」がそれぞれ勝利した。
- 「壬申の乱」が勃発した原因は、「天智天皇」の政治・外交の失敗・さらには後継者選びの失敗。人心を失った「天智天皇」とその子「大友皇子」は、「大海人皇子(天武天皇)」に敗北した
- 「壬申の乱」は「大海人皇子(天武天皇)」が勝利し、「大友皇子」は自害した。その後「天武天皇」は、カリスマ的な能力を発揮して、律令をさだめ、歴史編纂をおこない、貨幣鋳造も行った。
「壬申の乱」と「関ヶ原の戦い」!2つの歴史的大戦の関係とは?
「壬申の乱」と「関ケ原の戦い」の意外な共通点は、戦いに勝利を収めた側・・・つまり「天武天皇」の軍と「徳川家康」の軍が、ともに「岐阜県・関市」の「桃配山」に本陣を置いたということです。
【672年7月】・・・「壬申の乱」が起きました。
「天智天皇(中大兄皇子)」の弟「大海人皇子(後の天武天皇)」と、天智天皇の息子「大友皇子(追贈されて弘文天皇)」の間で、大王(古代天皇の尊称)の位を巡って起きた、古代日本における天下分け目の戦いです。
一方「関ケ原の戦い」は、それから約900年後「徳川家康」が率いる「東軍」と、「石田三成」が率いる「西軍」が激突し、たった6時間で決着が着いた天下分け目の戦いです。(ちなみになぜ東軍・西軍というのかというと、家康も三成もともに「豊臣軍」を名乗っていたため、区別がつかなくなるため、東の「江戸」に本拠地をおいていた家康軍を「東軍」、西の「佐和山」に本拠地をおいた石田三成軍を「西軍」と呼んだ)
この2つの天下分け目の戦いで、主戦場となったのは、現在の「岐阜県・関市」の「関ケ原」と呼ばれる地域でした。
「壬申の乱」で「大海人皇子(後の天武天皇)」は、「関ケ原」に本陣を布陣。
本陣にいた「大海人皇子(後の天武天皇)」に、地元の住民が山桃を献上しました。
その『桃』が非常に美味しかったので、地元の住民にお金を支払い、桃を大量に購入。
さらに兵士の士気高揚のため、その桃を配ったので、この山は後に桃配山と呼ばれるようになったのです。
「関ケ原の戦い」で東軍を率いた徳川家康は、その故事にならい、縁起をかついで「桃配山」に本陣を置いたのです。
「天武天皇」が天下を取った地を本陣に選び、「石田三成」率いる西軍に勝利できるように、自分が天下を取ることができるようにと祈念してのことでした。
「壬申の乱」と「関ケ原の戦い」で本陣が置かれた「桃配山」は、現在「徳川家康」が本陣を置いた場所として、国の史跡に指定されています。
「壬申の乱」が起こった原因は、なに?
「壬申の乱」が起こったのは、「大海人皇子」と「大友皇子」の間で起きた、【天皇位の奪い合い】が主な原因です。
しかし跡目争いの原因を作ったのは先帝である「天智天皇」です。「壬申の乱」勃発の要因は様々なものが絡み合っています。
元々「天智天皇」は、自分の後の天皇を、弟「大海人皇子」にするつもりでした。
しかし長男の「大友皇子」が優秀だったので、やがて心変わりを起こし始めたのです。
我が子「大友皇子」を、天皇位につけてやりたい・・・・そう考え始めた天智天皇は、遂に息子「大友皇子」を太政大臣にします。まだ24歳だった「大友皇子」に、政治家としての実績を積ませるためだったのでしょう。
ただし大友皇子を天皇にするためには、問題がいくつかありました。
まず、大友皇子は母親の身分が低く、天皇には相応しくない・・・・と皇族や朝廷の豪族たちからみなされていました。
そして「皇太弟」として扱い続けた弟「大海人皇子」の存在です。
そのため天智天皇は、自分の命がもう長くないと悟った病床に、謀殺するために弟「大海人皇子」を招きました。
しかしその企みは失敗に終わります。
なぜなら「天智天皇」は、他の皇族や朝廷の豪族からの人望を失っていたからです。
また、ともに「乙巳の変」「大化の改新」を行った腹心の「中臣鎌足」も既に亡くなっており、天智天皇は孤立無援の状態でした。
天智天皇は、朝鮮半島で【660年】に滅亡した「百済」を復興するためと称して、【663年10月】に百済の残党と協力し、「唐と新羅」の連合軍と朝鮮半島の「白村江」で激突。無残に敗戦してしまったのです。(白村江の戦い)
その後『唐が攻めてくる』という脅威に取りつかれた天智天皇は、水城を築き、防人を配置。豪族たちだけでなく、民衆にも大きな人的・経済的な負担を与えてしまいました。
さらに、身分の低い女性との間に生まれた息子「大友皇子」に天皇位を継がせようとしていることに、反感を抱いていた皇族や豪族は多かったことでしょう。
こうして人望を失っていた天智天皇より、弟の「大海人皇子」に期待する人々はとても多かったのです。
そのような状況であるにもかかわらず、自分の臨終の床に「大海人皇子」を呼び出して謀殺しようとしても、成功するはずがありません。
案の定、大海人皇子を暗殺しようとする計画が、「蘇我安麻呂」から大海人皇子へと漏れます。
病床に行く前「言葉に気を付けるように」と、「蘇我安麻呂」から伝えられた「大海人皇子」は、天智天皇の「後を頼む」という言葉を断り、出家して吉野(現在の奈良県吉野町)に隠棲します。(つまり大海人皇子は天智天皇から「私の後継者となれ」という後継指名をされたわけです。もし大海人皇子がこれを受けていたら、天智天皇は「大海人皇子」を危険視して暗殺していたでしょう。大海人皇子は兄の罠を見抜いたのです。)
それから半年ほどたったころ『大友皇子が隠棲した大海人皇子を討つつもりで兵を集めている』という情報が、大海人皇子の元にもたらされました。
大海人皇子はひっそりと吉野を抜け出し、美濃・伊勢・伊賀などの豪族の協力を得て、挙兵。
「壬申の乱」の始まりです。
「壬申の乱」が勃発した要因は、天智天皇が作ったと言ってよいでしょう。
- 滅亡した「百済」復興のためとして、無謀にも世界帝国「唐」と戦争。対「朝鮮半島・唐」の外交政策に失敗。
- 「白村江の戦い」の敗戦の結果、「唐」を恐れるようになり、「水城」を築き、「防人」を徴兵したことで、戦争以後も豪族や民衆を経済的に疲弊させ続け、朝廷に対する不満をあおってしまったこと。
- 我が子可愛さのあまり、まだ24歳で、生母の身分も低かった「大友皇子」に天皇位を継がせようと考えてしまったこと。
天智天皇は、中臣鎌足がいたからこそ、政治の実権を握り続けることができた、ということです。もし「中臣鎌足」が天智天皇より長生きしていれば、こんなことにはならなかったはずです。天皇位をいったん「大海人皇子」に譲らせ、朝廷に対する不満のはけ口を「大海人皇子」に向けさせ落ち着かせてから、大友皇子を即位させたでしょう。
「大海人皇子」VS「大友皇子」!戦いの結果と、その後に起こったことを解説

《大海人皇子(天武天皇)》
「引用元ウィキペディアより」
吉野を脱出した「大海人皇子」は、まず名張(現在の三重県名張市)に入り、そこの豪族に挙兵を依頼しましたが、断られました。
しかし、美濃・伊勢・伊賀・熊野など、各地の豪族の協力を得ることに成功。
さらに近江を抜け出した長男「高市皇子」と鈴鹿関で合流。美濃に本陣を置き「不破関」を封鎖して、東国から近江へと「大友皇子」軍の援軍が行けないようにしました。
「不破関の封鎖」によって、東国の兵も次々と「大海人皇子」に従います。
大海人皇子は兵を二手に分け、「大和」と「近江」へ向かわせました。
近江では、「大友皇子」に従っていたものからも離反するものが現れ始めたのです。
大和では、「大伴吹負」が挙兵。近江朝廷軍(大友皇子軍)から大和の国を奪いました。
近江朝廷は、吉備や九州に挙兵を命じましたが、断られ、動員に失敗。
なんとか近隣諸国で兵の動員に成功した近江朝廷は、美濃に向かって進軍しますが、足並みが揃わず、なかなか先に進めません。
そうこうするうちに、大海人皇子の率いる軍は、「箸墓での戦い」で勝利。さらに畿内を進軍します。
大海人皇子が吉野を脱出してからわずか1か月後、8月20日に近江朝廷軍は「瀬田橋(滋賀県大津市)」で大敗します。
もはやこれまでと悟った「大友皇子」は、翌8月21日、山の中で自害しました。

《大友皇子(弘文天皇)》
「引用元ウィキペディアより」
大友皇子は父「天智天皇」から将来を期待された秀才であったにもかかわらず、無残にも自ら首をくくって亡くなったのでした。
こうして「壬申の乱」に勝利した大海人皇子は、しばらく美濃(岐阜県南部)に留まり、戦後処理を終えたのち、「飛鳥岡本宮」に入り、天皇に即位します。
天智天皇の娘「?野讃良皇女」を皇后とし、大臣を置かず、天皇中心の政治を行いました。
さらに、中央集権国家を作るための事業を強力に押し進めます。
「八色の姓」を制定し、豪族を天皇中心の身分制度に再編成しました。
在位中に「律令(法律)」を定めるよう命じ、それだけではなく「歴史書を編纂するように」と命じたのです。
それらは、命令した天武天皇本人の死後「飛鳥浄御原令」「日本書紀」として結実しました。
それだけではなく、天武天皇は日本で初と言われている「貨幣(富本銭)」の鋳造を行います。
他にも数々の改革を行い、国風文化を奨励したのです。
『万葉集』に「大君は神にしませば」と謳われるほどカリスマ性あふれる天皇となった天武天皇は、686年9月11日、その生涯を閉じました。
『壬申の乱』について「ひとこと」言いたい!
「天武天皇」の治世で外交政策も変更され、「唐」と距離を置くようになり、「遣唐使」も孫の「文武天皇」の治世まで行われなくなりました。
また「壬申の乱」に勝利した天武天皇が即位したのち、古代日本では大きな内乱が起きていません。
身内同士の血で血を洗う抗争で、豪族も民衆も疲弊させてしまったという反省があり、国の内外を問わず、戦争を起こさないように政治を行っていたと考えられます。
天武天皇は強力なカリスマ性を発揮し、日本を「唐」と渡り合える国に変えようと様々な政策を打ち出しました。
それだけではなく、日本古来の文化を掘り起こし、それらを後世に伝える功績も残しています。
もしも「壬申の乱」で「天武天皇」が勝利していなかったら、『古事記』や『万葉集』は現代に伝わっていなかったのではないか、とさえ言われています。
「天武天皇」が即位していなかったら、今の日本の姿は全く異なったものになっていたかもしれませんね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 「壬申の乱」と「関ヶ原の戦い」は、ともに「岐阜県・関市」で勃発し、「桃配山」に布陣した「大海人皇子(天武天皇)」と「徳川家康」が勝利した
- 「壬申の乱」の原因は、「天智天皇」の政治・外交・後継者指名など、数々の失敗。
- 「壬申の乱」は各地の豪族を味方につけた「大海人皇子(天武天皇)」が勝利。その後「天武天皇」は革新的な政治・外交を行い、その後の日本の基礎をつくり上げた
この記事を短くまとめると、以下のとおり
『壬申の乱』と『関ケ原の戦い』の間には、約900年という時の隔たりがあります。
しかし「関ケ原の戦い」で東軍を率いた「徳川家康」は、天下分け目の戦いに勝利することを願い、「壬申の乱」で勝利した「天武天皇」が本陣を敷いた、桃配山に本陣を置きました。
2つの戦いは、勝利した側の本陣が、「関ケ原の桃配山だった」という共通点があるのです。
「壬申の乱」の原因は、叔父(天武天皇)と甥(大友皇子)との跡目争いですが、その要因を作ったのは「天智天皇」です。
「白村江の戦い」敗戦したことで「唐」の脅威を恐れ、水城を築き、防人を徴兵し、豪族や民衆を疲弊させた天智天皇に対する怨嗟の声は広まっていました。
さらに我が子可愛さのあまり、本来母の身分が低いため、天皇位に相応しくないと見做された「大友皇子」を後継者にしようとしたことで、天智天皇は人望を失ったのです。
天智天皇に対する怒りの矛先は、崩御後、子である大友皇子に向かっていきました。
吉野に隠棲した「天武天皇(大海人皇子)」は、大友皇子が自分を討つために挙兵しようとしているという情報を得て挙兵。「壬申の乱」が勃発します。
天武天皇の挙兵からわずか1か月で「近江朝廷(大友皇子の軍)」は敗北。大友皇子は自害。敗戦処理後、天武天皇は即位しました。
天武天皇は中央集権国家を作るための政策を数々打ち出し、「神にしませば」と謳われるほどのカリスマ性を発揮。強力に国を率いたのち、在位15年目で崩御したのです。

大海人皇子と大友皇子の最終決戦地の近江瀬田橋 歌川広重(パブリックドメイン)
以上となります。
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