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御廟野古墳:wikipediaよりShigeru-a24による撮影
【645年】の「乙巳の変」で、「蘇我入鹿」を暗殺した「中大兄皇子(天智天皇)」と「中臣鎌足」は、どのようにして出会い、どんな関係だったのでしょう?
実は私も大学で歴史を勉強するまでは、2人の関係を詳しく知りませんでした。
2人は飛鳥寺で行われた蹴鞠の会で出会い、終生、深い信頼関係にあったのです。
この記事では「中大兄皇子」と「中臣鎌足」にあまり詳しくない人のために解説していきます。
これを読んで「そうだったのか!【乙巳の変】の立役者「中大兄皇子」と「中臣鎌足」!」と、疑問をスッキリと解消してくださいね。
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この記事を短く言うと
- 中大兄皇子と中臣鎌足は、「飛鳥寺」で行われていた「蹴鞠の会」で知り合った。二人とも「随」に負けない倭国をつくるという志をもっており、蘇我氏を憎んでいた
- 乙巳の変で「蘇我入鹿」を暗殺した「中大兄皇子」は、自らが天皇となるのではなく、「軽皇子(孝謙天皇)」を即位させて政治の実権をにぎり、「中臣鎌足」とともに政治改革を断行した
- 天智天皇(中大兄皇子)は、【672年1月】に病死。中臣鎌足は【669年11月14日】に落馬による怪我が原因で亡くなった。
「中大兄皇子」と「中臣鎌足」の関係!2人は「蘇我氏」を憎んでいた
「中大兄皇子」と「中臣鎌足」の出会い
「中大兄皇子」と「中臣鎌足」は、飛鳥寺でおこなわれた「蹴鞠の会」で出会い、意気投合したと言われています。

《天智天皇(中大兄皇子)》
「引用元ウィキペディアより」
2人は互いに「蘇我本家」に対し、強い恨みを抱いていたと私は思っています。
「蘇我馬子」と「物部守屋」の戦の際に、「中臣勝海」が舎人の「迹見赤檮」に殺されました。
「中臣勝海」は現在、「物部守屋」と共に四天王寺の守屋祠にまつられています。
「中臣勝海」と「中臣鎌足」は、苗字が同じではあるものの、直接の血縁関係はありません。
中臣勝海が亡くなった中臣一族の再興を図るために、常陸国(茨城県)から大和国(奈良県)に移住してきた人物・・・・その人物の子孫が「中臣鎌足」だと言われています。
直接の血縁関係はなくても、鎌足は一族の長である「中臣勝海」を殺された恨みを、蘇我本家に対して強く抱いていたことでしょう。
遣隋使として「小野妹子」と共に「隋」へ渡った「南渕請安(みなみぶちのしょうあん)」。その「南渕請安」の私塾で学んだ「中臣鎌足」は、隋に対抗しできる国をつくらなくてはいけないと、強く思っていました。
ちなみに「南渕請安の私塾」には、「乙巳の変」で暗殺された「蘇我入鹿」も学んでいました。おそらく「鎌足」と「入鹿」は、「南渕請安」を通して知り合いだったでしょう。
「蘇我本家を倒し、政権中枢に深く食い込み、大国『隋』に対抗し得る国家を形成する」
この野心に燃えた鎌足は、自分と共に戦ってくれる「皇族の男子」を探し始めます。
最初、鎌足は「中大兄皇子」の叔父である「軽皇子(のちの孝徳天皇)」に近づきました。しかし「この人では役不足だ」と判断し、別の皇子を探し始めます。
そんな中、鎌足は蘇我氏の氏寺である「飛鳥寺」で行われた蹴鞠の会で、「中大兄皇子(のちの天智天皇)」と運命的な出会いを果たしたのです。
鞠を蹴った「中大兄皇子」の沓が脱げて飛んだのを、「中臣鎌足」が拾って差し出し、2人は出会います。
「中大兄皇子」が蘇我氏を憎む理由
中大兄皇子の元々の名前は「葛城皇子」といい、『626年』に「舒明天皇」と「皇極天皇」の間に生まれました。
「皇極天皇」の母親「吉備姫王」の祖母は、「蘇我稲目」の娘「堅塩媛」です。
つまり「蘇我稲目」の孫の孫である「皇極天皇」・・・その「皇極天皇」の息子である「中大兄皇子」も蘇我氏の血を引いているということです。その血脈は現在の皇室にも受け継がれています。
しかし中大兄皇子は、蘇我氏をよく思っていなかったのです。
蘇我入鹿の父「蘇我蝦夷」は、蘇我氏の血を濃く受け継いだ「山背大兄王」ではなく、「中大兄皇子」の父である「田村皇子(舒明天皇)」を天皇として即位させています。そのおかげで「中大兄皇子」にも皇位継承のチャンスが生まれたはず。にもかかわらず「中大兄皇子」は蘇我氏を憎んでいました。
誰が書いた何という本だったのか忘れてしまったのですが、「蘇我入鹿」は「中大兄皇子」の母「皇極天皇」と男女の仲だったと主張している本がありました。
天皇である母親が、臣下の男性と「男女の仲」になっているなど、中大兄皇子にとってみると、とんでもないことだったはず。蘇我入鹿と蘇我本家を嫌悪する理由としては十分でしょう。
蘇我本家を嫌悪していたのは、「大兄(次の天皇の有力候補)」となった後に「葛城大兄皇子」と名乗らず、「中大兄皇子」と名乗ったことに現れていると私は思っています。
「葛城」は、古代天皇家の直轄地だったのですが、蘇我氏の本居(うぶすな)だったところでもあったので、推古天皇の御代に、蘇我馬子が割譲を要求した地でもありました。
中大兄皇子は、蘇我氏由来の名前「葛城」を名乗るのも嫌、と思っていたのかもしれません。
他に皇位継承権のある年長の皇子がいたため、年長者ではないことを意味する「中」と名乗ったと言われていますが、中臣鎌足の「中」の字を取って「中大兄皇子」と名乗ったのだ、と私は思っています。
飛鳥寺の蹴鞠の会で、運命的な出会いを果たした中大兄皇子と中臣鎌足。2人は互いに蘇我本家に恨みを抱き、大国「隋」に対抗し得る強力な国家を形成する、という理想で一致。意気投合しました。
互いの理想とする国家を実現するために、最大の邪魔者である「蘇我本家」は絶対に排除しなければなりません。
蘇我本家にバレないように注意しながら、用意周到に計画を立てた2人は、【645年7月10日】、飛鳥板蓋宮で「乙巳の変」を起こし、「蘇我本家」を滅亡に追い込みました。
「蘇我入鹿」暗殺後、中大兄皇子と中臣鎌足はどうなった?
「中大兄皇子」のその後!「軽皇子」が即位して「孝徳天皇」に
蘇我入鹿を「乙巳の変」で討ち果たした「中大兄皇子」と「中臣鎌足」は、【大化の改新】という政治改革を推し進めます。
皇極天皇は「乙巳の変」の翌々日、退位して中大兄皇子に譲位しようとしました。しかし中大兄皇子はこれを辞退。「軽皇子」に即位するように進言しました。
ところが「軽皇子」もこれを辞退。今度は「古人大兄皇子」に即位するよう勧めましたが、「古人大兄皇子」はこの申し出を断り、出家して吉野に隠棲してしまいます。
「古人大兄皇子」としては、天皇に即位するより、「中大兄皇子」と距離を置きたかったのかもしれません。
【645年9月】、謀反を企んでいると密告された「古人大兄皇子」は、「中大兄皇子」に攻め滅ぼされてしまいました。
その後「軽皇子」は即位して「孝徳天皇」となり、「葛城皇子」を皇太子にすえます。
皇太子に任命されて以来「葛城皇子」は有名な名前である「中大兄皇子」と名乗ることになります。
「孝徳天皇」の御代、日本で初めて「年号」を定め、都を「難波」に移します。
有力な豪族を左大臣と右大臣に任命し、さらに「中臣鎌足」を内臣に登用しました。
「僧旻」と「高向玄理」を国博士に迎え、中臣鎌足とともに、政策を立案させたのです。
【646年】に「改新の詔」を出し、以下の政策を推し進めました。
- 土地と人民は国家のもの(公地公民制)とし、豪族には食封を支給する
- 地方行政区を改め、中央集権国家の樹立を目指す
- 戸籍と計帳を作り、班田収授法を行う
- 新しい統一的な税制を行う
もちろん、これらの政策は一気に実現できたわけではありません。
中大兄皇子と中臣鎌足は互いの理想とする「中央集権国家の樹立」を目指す政策を次々と行いました。
しかし「孝徳天皇」が蘇我氏系の豪族を重用しはじめます。そのため蘇我氏に恨みを抱いていた「中大兄皇子」や「中臣鎌足」は、孝徳天皇とうまくいかなくなっていってしまったのです。
【653年】孝徳天皇は中大兄皇子から、都を「難波」から「飛鳥」へと戻すよう言われましたが、拒絶。
すると中大兄皇子は、退位していた皇極天皇と孝徳天皇の皇后「間人皇女」と自らの弟「海人皇子」を連れ、勝手に「飛鳥」へと帰ってしまったのです。
群臣たちも中大兄皇子に付き従い移住。孝徳天皇は難波宮に置き去りにされてしまいました。
置き去りにされて気落ちした孝徳天皇は、【654年11月】に崩御。
中大兄皇子はなぜか「孝徳天皇」が亡くなったあとも即位せず、【655年2月】に「皇極天皇」が重祚(再度即位することを重祚と言います)し、「斉明天皇」となりました。
【658年】、中大兄皇子は、「孝徳天皇」の崩御のあと、政争に巻き込まれないように病を装っていた「孝徳天皇」の息子「有馬皇子」を謀反の疑いありとして処刑。
【660年】、「百済」が「唐と新羅」によって滅亡。
中大兄皇子は、百済復興を目指す百済の王族に依頼され、「百済を復興させるための戦い」を起こします。
しかし百済復興の戦いの最中、【661年】に「斉明天皇」が滞在先の筑紫(現在の福岡県)で崩御。
この時も「中大兄皇子」は即位せず皇太子のままでした。中大兄皇子は百済復興のため戦いましたが【663年】、朝鮮半島でおこなわれた「白村江の戦い」で唐と新羅の連合軍と激突し、敗退。
「白村江の戦い」の敗退後、「唐と新羅」に攻め込まれることを恐れた「中大兄皇子」は、海岸線に「水城」を築き、「防人」を配置して防衛させます。
遣唐使を再開して「唐」との関係修復を図りながら、【667年4月】に近江大津宮に遷都した中大兄皇子は、【668年2月】にようやく即位。
中大兄皇子は「乙巳の変」から23年後、ようやく「天皇(天智天皇)」となったのです。
「中臣鎌足」のその後!「乙巳の変」の24年後に死去
【668年】、天智天皇の命令で「中臣鎌足」が近江令を制定。
天智天皇は【668年4月】に弟「大海人皇子」を皇太弟に指名して、事実上の後継者としました。ところがこのあと、「弟を次の天皇にしよう」という気持ちは変わり始めます。
【669年11月13日】、中臣鎌足を内大臣に任命し「藤原」姓を与えました。ところがその翌日、鎌足は亡くなってしまうのです。
弟「大海人皇子」を天皇にするはずが、我が子「大友皇子」に皇位を譲りたくなった「天智天皇」は、【671年1月】に息子「大友皇子」を太政大臣に任命。
【671年10月】、病気になった「天智天皇」は、後を託そうと弟「大海人皇子」を病床に呼びました。これは天智天皇の罠でした。
このとき「天智天皇」は、弟「大海人皇子(のちの天武天皇)」に対して、「天皇の位を譲る」と言われました。もしも大海人皇子が「位」を受けると言ったならば、大海人皇子は天智天皇に殺害されていたはずです。なんといっても「天智天皇」は、息子「大友皇子」を次の天皇にしたいと望んでいたのですから。
これは弟「大海人皇子」に、「天皇の位につきたいという野心があるか否か」を試すための罠だったのでしょう。
これに対して、「蘇我安麻呂」から警告を受けた「大海人皇子」は、兄である天智天皇からの「皇位を譲る」という申し出を辞退。出家して吉野(奈良県)に隠棲します。
【672年1月】、天智天皇は近江大津宮で崩御。
近年、孝徳天皇(軽皇子)こそが「乙巳の変」の首謀者だ・・・という学説が出ています。
しかしクーデターを計画した張本人である「孝徳天皇」が、甥である「中大兄皇子」に難波宮に置き去りにされ、失意のうちに亡くなったりするでしょうか。
もし孝徳天皇がクーデターの首謀者だったのなら、自分の身や息子の身を脅かしかねない「中大兄皇子」を政治の中心に置いたりせず、先手を打って謀反の疑いありとして排除すればよいのではないか、と私は思います。
おそらく孝徳天皇は、中大兄皇子と中臣鎌足にとって、傀儡(操り人形)として都合の良い存在だったのでしょう。
中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足の最期とは?
「天智天皇」の最期
『日本書紀』によると、天智天皇の最期は以下の通りです。
天智天皇は【671年10月】に病気になり、懸命に治療が続けられますが快方せず、重態に陥ります。
後を託そうと、天智天皇は病床に「大海人皇子」を呼びます。ところが息子である「大友皇子」に皇位を譲りたかった天智天皇は、この時の返答次第で、弟「大海人皇子」の命を奪うつもりでいたようです。
この企みを知っていた「蘇我安麻呂」から危険を知らされていた「大海人皇子」は、天智天皇の申し出を断り、出家して吉野に隠棲。
大友皇子を皇太子とした天智天皇は、【672年1月】に近江大津宮で崩御。享年49歳。
病気で亡くなったはずの天智天皇。ところが平安時代に編纂された私撰歴史書の『扶桑略記』には、天智天皇の崩御について、【摩訶不思議な話】が書かれています。
それによると、天智天皇は近江から馬に乗って山科(京都)に遠乗りに出かけたました。
ところがいつまでたっても近江へ帰ってこなかったので、探しに行ったものの見つからなかった・・・。
しかし天智天皇がはいていた沓(くつ)だけが落ちていたので、そこに陵(おはか)を作った・・・というのです。
『扶桑略記』のこの記述が正しいと主張し『天智天皇は弟の天武天皇(大海人皇子)に暗殺されたのだ』、という説をとなえる学者もいます。しかし真相は不明です。
もし「天智天皇」が弟「天武天皇(大海人皇子)」に暗殺されたならば・・・・・天智天皇の弟「大海人皇子」と天智の息子「大友皇子」が争った「壬申の乱」は、父を「大海人皇子」に殺害された「大友皇子」による仇討ちの戦いだったかもしれませんね。
天智天皇の墓所は、京都市山科区の山科陵(御廟野古墳)に比定されています。
「中臣鎌足」の最期
一方、「中臣鎌足」の最期は以下の通りです。
【669年10月】、山科へと狩りに出かけた鎌足は、落馬して重傷を負いました。
【同年11月8日】、寝たきりになった鎌足を、天智天皇が見舞います。
天智天皇の見舞いに対し
「生きては軍国に務無し」
(生きていても、私はろくな務めを果たせませんでした)
と鎌足は返答しました。
おそらく鎌足は、先年の「白村江の戦い」での大敗を悔いて、このような言葉を口にしたのでしょう。
白村江の大敗は、天智天皇と中臣鎌足にとって、軍事上・外交上の大失態であり、汚点でした。
戦後、「唐と新羅」から攻め込まれることを恐れ、「水城」と呼ばれる砦を築き、「防人」という防衛のための軍を配置し、海岸線防衛を開始。そのことで庶民と豪族に負担を強いていたはずです。
表には出さなくても、皇族の中にも「天智天皇」へ反感を覚えていた人たちは大勢いたでしょう。
天智天皇に対するそうした非難・批判の雰囲気を、鎌足は病床にあってもひしひしと感じていたはずです。
そうした天智天皇への反感を、鎌足は少しでも和らげようとしたのでしょうか。こんなことを言い残しています。
「自分の葬儀は簡素なものにしてください」
身体が自由に動けば、何か策も取れたでしょう。しかしそれもままならず、鎌足は自分の身体が衰弱していく一方で、歯がゆい思いをしていたに違いありません。
「天智天皇」が20歳になる前に出会いそれ以来、共に政治に携わっていた鎌足にとって、窮地に陥りつつある「天智天皇」の窮地をどうにもしてやれないのは、身を引き裂かれるほど辛かったはずです。
【669年11月13日】、天智天皇の使者として弟「大海人皇子(天武天皇)」が鎌足を見舞い、鎌足は、藤原姓と大織冠が授けられ、内大臣に任じられました。
翌日【同年11月14日】、中臣鎌足は亡くなります。享年56歳。
【1934年】、大阪府高槻市の阿武山で、京都大学地震研究所が拡張工事中に偶然、とある古墳を掘り当てました。
京都大学地震研によって発掘調査が進められた古墳の中からは、夾紵棺に収められ、ガラス玉を銀線でまとめて作った玉枕に頭を乗せた、60歳前後の男性のミイラが発掘されました。
ミイラの顔面には、金色の糸が纏わりついていたのです。
貴人の墓として大阪朝日新聞が報じたことで、見物者が大勢押しかける騒ぎが起きたました。
この古墳は、阿武山古墳と名付けられましたが、突如、埋め戻されました。
古代の皇族の墓ではないかと考えられたためです。
下手をすると「不敬罪」にあたるとして、内務省が埋めもどしを命じたのです。
しかし京都大学の地震研は、密かに何枚も写真を撮り、被葬者の頭蓋骨をX線撮影。髪の毛を切り取り、保管していました。
【1982年】、京都大学の地震研で【1934年】当時の阿武山古墳発掘の資料が発見され、再調査されました。
その結果、被葬者の毛髪からヒ素が検出されたこと。そして背骨と肋骨を骨折しているが、その骨折に仮骨化(折れた骨がくっつき始めること)していることから、受傷後しばらく生きていたことが判明しました。
おそらく、その怪我が元で寝たきりの状態となった被葬者は、負傷箇所に感染症を起こして亡くなった・・・・と考えられています。
鎌足は落馬事故で大怪我をした後、56歳で亡くなっています。阿武山古墳の被葬者の受傷状況と推定年齢とが、一致していますよね。
「金の糸」は「冠の刺繍」に用いられたものと考えられます。鎌足が天智天皇から賜った「大織冠」ではないか・・・・と考えれば、阿武山古墳の被葬者は「中臣鎌足」だと考えるのが妥当ではないでしょうか。
『中大兄皇子(天智天皇)』について「ひとこと」言いたい!
【645年】に「乙巳の変」を起こし、歴史の表舞台に躍り出た「中大兄皇子」。
中大兄皇子は天皇位に即位する機会が何度もありました。にもかかわらず、なかなか即位しませんでした。
「大化の改新」を主導し、『日本書紀』に様々な功績が記載されている「中大兄皇子」が、「天智天皇」として天皇位にあったのは、668年から672年の間。わずか4年程度のことだったのです。
「大化の改新」直後はまだ20歳前後ですから、若輩者として即位を辞退することも理解できます。しかし孝徳天皇が崩御した時には「28歳」くらいになっているので、即位しても問題ない年齢なのではないでしょうか。
なぜ「中大兄皇子」は、即位しなかったのでしょうか?
その理由はもしかすると、「中大兄皇子」その妹「間人皇女」の関係にあったかもしれません。
中大兄皇子の母「斉明天皇(皇極天皇が再び天皇となった際の名前)」が重祚したのは不可解ですよね。
目の前で信頼していた「蘇我入鹿」を殺された皇極天皇が、「中大兄皇子」の即位を嫌ったのでしょうか。
中大兄皇子は蘇我入鹿以外にも「古人大兄皇子」「有馬皇子」と、邪魔者を次々と排除し続けています。
斉明天皇はそんな中大兄皇子について「我が子ながら恐ろしい」と思っていたのかもしれません。
さらに不可解なのは、「孝徳天皇」を難波宮に置き去りにした時のことです。孝徳天皇の皇后である「間人皇女」も、夫「孝徳天皇」を難波宮に置き去りにして飛鳥へ戻っているのです。
「間人皇女」は、「舒明天皇」と「皇極天皇」の娘。つまり「中大兄皇子」にとっては同父母の妹にあたります。
間人皇女は、夫「孝徳天皇」より兄「中大兄皇子」を選んだ・・・・ということになりますよね。
このことから兄「中大兄皇子」と妹「間人皇女」が、男女の仲だったのではないか・・・・と考える学者もいます。
古代天皇家では、「兄弟姉妹」であっても、母親が違えば結婚できました。
しかし『古事記』にある「衣通姫伝承」によると、「允恭天皇」の皇女は、実の兄「軽太子」と男女の仲になってしまい、軽太子は允恭天皇の崩御後に群臣の反発によって即位できず、伊予(愛媛県)に流された・・・とあります。
つまり、「同母の兄弟姉妹の結婚」は許されないことだったのです。
もし実の妹と男女の仲になっていたのだとしたら、母の「皇極天皇」だけでなく、群臣たちも中大兄皇子に対して強い反感を抱いていたことでしょう。
その状態では、いくら功臣「中臣鎌足」が「中大兄皇子」を即位させてやりたくても、群臣の反発が大きいはず。
そんな状態では、反対派の群臣が他の皇子を立てて反乱を起こし、国が乱れることにもなりかねません。
母「斉明天皇」が崩御してからも、「中大兄皇子」がなかなか即位しなかったのは、「間人皇女」が原因だったのかもしれませんね。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 中大兄皇子と中臣鎌足は「飛鳥寺」の「蹴鞠の会」で出会い、ともに大国「随」にも負けない国造りを夢見ていた。ともに蘇我氏を恨んでいた。
- 蘇我入鹿を暗殺したあと、中大兄皇子と中臣鎌足は、「大化の改新」と呼ばれる政治改革を断行。日本の中央集権化を推し進めた
- 天智天皇は【672年1月】に崩御。中臣鎌足は【669年11月】に亡くなった。
この記事を短くまとめると、以下の通り
「中大兄皇子(のちの天智天皇)」と「中臣鎌足」は、飛鳥寺でおこなわれた蹴鞠の会で出会い、意気投合しました。
2人とも蘇我本家に恨みを抱くとともに、大国「隋」と対等に渡り合えるような強力な国家つくりあげることを夢見ていました。「日本を中央集権国家にする」という理想に燃えていたのです。
念密に計画を練った2人は、【645年】に「乙巳の変」を起こします。これにより「蘇我入鹿」とその父「蘇我蝦夷」を殺害。蘇我本家を倒した中大兄皇子と中臣鎌足は、日本で初めて「元号」を制定し「大化」とします。
中央集権国家を樹立するために、「大化の改新」と呼ばれる政治改革で、様々な政策を打ち出しました。
しかし中大兄皇子は、自分にとって政敵となりうる他の皇子たちを、謀反の罪で次々と粛清。その他の皇族や豪族から、恐れられるようになっていきます。
【660年】、「唐と新羅」に滅ぼされた「百済」を救済するために、日本は派兵。「白村江の戦い」で「唐と新羅」を相手に激突しましたが、大敗。
中大兄皇子の母「斉明天皇」は、戦の最中に崩御します。ところがその時も、「中大兄皇子」は即位しませんでした。
【668年】にようやく即位した中大兄皇子(天智天皇)は、その翌年の【669年】に腹心「中臣鎌足」を亡くします。
天智天皇自身も、4年後の【672年】に崩御。
在位期間は、わずか4年ほどでした。

阿武山古墳:wikipediaより Bittercupによる撮影
以上となります。
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