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天智天皇と天武天皇はどういう関係?天武は『壬申の乱』で天智の子を殺害

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天武天皇が兵に桃を配った桃配山:松波庄九郎さんによる写真ACからの写真

「天智天皇」と「天武天皇」。

『日本書紀』によると2人は兄弟ですが、仲は良かったのでしょうか。

私は子供の頃、天智天皇と天武天皇の2人は「仲の良い兄弟」だと思っていました。

しかし天武天皇は「壬申の乱」で、兄「天智天皇」の子「大友皇子」と戦い、追い詰めて自害させています。

この記事では「天智天皇と天武天皇の複雑な関係」について、あまり詳しくない方に向けてわかりやすく解説します。

これを読んで『複雑怪奇な天智天皇と天武天皇の兄弟関係』について、疑問をスッキリと解消してくださいね。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 「天智天皇」と「天武天皇」は、同父母の兄弟。兄「天智天皇」は弟「天武天皇」に娘を嫁がせている。2人は決して仲の良い兄弟ではなかった。
  2. 「天武天皇(大海人皇子)」は、兄「天智天皇」から次の天皇に指名されていた。しかし「天智天皇」はその約束を破り息子「大友皇子」を次の天皇に指名。その後「壬申の乱」で「大海人皇子」は「大友皇子」を倒し「天武天皇」として即位した
  3. 2人の功績。兄「天智天皇」には「乙巳の変」で蘇我入鹿を討ち、「大化の改新」で中央集権化をすすめた功績がある。
    弟「天武天皇」には、「飛鳥浄御原令」を制定、「日本書紀」「古事記」の編纂をおこなったなどの功績がある。

天智天皇と天武天皇の関係は?2人は兄弟だった

『日本書紀』によれば、「天智天皇」と「天武天皇」は、同じ父母から生まれた兄弟です。

「天智天皇」が兄で、「天武天皇」が弟だと言われていますが、記録されている2人の享年から生まれた年を逆算すると、「天武天皇」が年上になってしまうという、ややこしい兄弟なのです。

兄・天智天皇の幼名は『葛城皇子』。

弟・天武天皇の幼名は『大海人皇子』。

二人とも、父親の「舒明天皇」と、母親の「皇極天皇(斉明天皇)」の間から生まれました。

兄・天智天皇のほうは、「葛城皇子」という名前よりも「中大兄皇子」という名前の方が馴染みのある名前ですよね。



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「大兄」・・・・つまり皇位継承順位1位の皇子(皇太子)となった時に、「天智天皇」は「葛城大兄皇子」とは名乗らず、「中大兄皇子」と名乗るようになりました。

他に皇位継承権のある有力な皇子がいたから、その人と区別する意味で「中大兄」と名乗ったのではないか、と言われています。

しかし「乙巳の変(蘇我入鹿・暗殺事件)」以前から、「中臣鎌足」が物心両面から後援していたこと、天智天皇が蘇我氏を毛嫌いしていたことを考えると、中臣の「中」の字を使って「中大兄」と名乗るようにしたのではないか、とも考えられます。

兄である「中大兄皇子」は、誕生したときから『日本書紀』に登場するのに対し、弟の「大海人皇子」が登場するのは、【653年】の難波宮から飛鳥に戻る兄「中大兄皇子」に同行した時からです。

さらに中大兄皇子は弟「大海人皇子」に対して、自分の娘「大田皇女」「?野讃良皇女」「新田部皇女」「大江皇女」を嫁がせています。

このうち「?野讃良皇女」は、天武天皇の死後「持統天皇」として即位しました。

つまり「天武天皇」と「持統天皇」は、夫婦であり、叔父と姪の関係でもあるのです。



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兄が弟に4人も娘を嫁がせるなんて、不思議な出来事ですよね。

「天智天皇」と「天武天皇」は、「兄と弟」の関係ですが、「兄が弟にたいして、自分の娘を4人も嫁がせた」・・・・つまり、ややこしい兄弟関係なのです。

しかも天智天皇は、天皇の位を弟「大海人皇子(天武天皇)」に譲ると初めは言っていたにも関わらず、我が子可愛さでそれを覆したのです。

「皇位をゆずる」

と、天智天皇は死の間際に弟「大海人皇子(天武天皇)」に伝えますが、その返答次第では大海人皇子を殺そうとしていた・・・・。そううかがえる記述も『日本書紀』にはあります。

天智天皇と天武天皇は、決して仲の良い兄弟ではなかったのです。



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天武天皇は「壬申の乱」で、兄「天智天皇」の子「大友皇子」を殺害

「壬申の乱」の火種!それは「天智天皇」が息子を天皇にしようとしたこと

大海人皇子(天武天皇)は「壬申の乱」で、兄「天智天皇」の子「大友皇子(弘文天皇)」を自害に追い込みました。

その直後に「天武天皇」として即位したのです。

兄「天智天皇」は【668年4月】に大海人皇子を「皇太弟」としました。皇太弟とするということは、つまり「弟・大海人皇子を次の天皇にする」という意味です。

ところがある日、天智天皇の気が変わります。

天智天皇と采女「伊賀采女宅子娘」との間に生まれた息子「大友皇子」が優秀だったため、天智天皇の「後継者を誰にするか」という気持ちは、徐々に変わり始めたのです。

「優秀な我が子『大友皇子』を、天皇にしてやりたい」

と・・・・。



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671年1月】天智天皇は息子「大友皇子」を太政大臣に任命。

当時、天皇になるためには父親の血統だけではなく、「母親の血統」も重要でした。

母親が朝廷の豪族出身ではなく「伊賀出身の采女」である「大友皇子」は、皇族や豪族から見ると、天皇にふさわしい出自の人間とは見なされなかったはずです。

しかし、そんなことを指摘できる人間は誰一人いませんでした。

  • 「乙巳の変」で母「皇極天皇」の眼の前で「蘇我入鹿」を殺害
  • 難波宮に叔父である「孝徳天皇」を置き去りにして死へ追いやった
  • 従兄弟である「有馬皇子」を謀反の疑いありとして処刑

そんな暴君「天智天皇」に対して「あなたの子『大友皇子』は天皇にふさわしくありません」などと意見できる人間が、いるはずがありません。

下手に意見を述べようものなら、命の危険さえあるのです。だれもが黙って耐えていたのでしょう。

唯一そんなことが言えたであろう「中臣鎌足」も【669年】に亡くなっていました。



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「天智天皇」の死と、「大海人皇子」の挙兵!

さて・・・・「大友皇子」を太政大臣にした【671年】、天智天皇は病に倒れました。

天智天皇は弟「大海人皇子」を病床に呼び、後の事を託そうとしました。

しかし弟「大海人皇子」はこの申し出を断り、出家して隠棲すると告げ、吉野に旅立ちます。

病床に呼び出す使者を務めた「蘇我安万侶(蘇我氏傍流出身)」が、天智天皇の企みを見抜き、大海人皇子に言葉に気をつけるように、と危険を知らせたのです。この「蘇我安万侶」という人は、「大海人皇子」と親しい仲でした。

そのため大海人皇子は「後を頼む」という天智天皇の申し出をあっさり断って、都から離れたのです。

もしこの時「後はお任せください」などと返答していたら、「大海人皇子」の命はなかったかもしれません。



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それから程なくして【672年1月】天智天皇は崩御。天皇に即位したかどうかは意見が分かれていますが、大友皇子(弘文天皇)が「近江朝廷」を率い始めました。

その後、隠棲していた吉野で家臣から「近江朝廷が兵を集め始めた」と報告を受けた「大海人皇子」は、身の危険を感じ、挙兵を決意。

672年6月22日】、わずかな供を連れ吉野を出発した大海人皇子は、美濃に入り、美濃と尾張の豪族を味方につけます。そして近江朝廷(大友皇子の軍)が東国に応援を頼めないように「不破道」を閉鎖。

美濃(現在の関ヶ原)に本陣を置いた「大海人皇子」は、村人たちから献上を受けた「桃」が美味しかったのでこれを買い上げ、戦勝を祈願して兵士たちに配りました。

それ以来、大海人皇子が本陣を置いたところは『桃配山』と呼ばれるようになります。



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「桃配山」は【1600年】天下分け目の「関ヶ原の戦い」の時、あの「徳川家康」がその故事にあやかって本陣を置いたところでもあります。

大海人皇子の動きに呼応して、「大伴吹負」が大友皇子の本拠地である飛鳥の都を急襲。占領に成功しました。

東国を味方につけ、大和盆地を押さえた「大海人皇子」は戦況を有利に進めます。

近江朝廷側(大友皇子の軍)の敗色が濃厚となる中、もはやこれまでと覚悟を決めた大友皇子は、【672年7月23日】に首を吊って自害。

こうして約1ヶ月で「壬申の乱」は終結。

大海人皇子は、天武天皇として即位したのです。



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天智天皇と天武天皇!2人の功績を、それぞれ簡単に解説

「天智天皇」と「天武天皇」・・・・・2人は天皇としてどのような政治を行ったのでしょうか。そしてどのような功績を挙げたのか見てみましょう。

天智天皇の功績

「天智天皇」の功績は、大まかにまとめると以下のようになります。

中央集権国家を作るため、【645年】に「乙巳の変」で「蘇我本家」を打倒。

その後「中臣鎌足」と「大化の改新」を進め、古代の東アジアにおける日本の近代化政策を実行。

660年】に「唐」と「新羅」に滅ぼされた「百済」を救済するために、【663年】に「白村江の戦い」で唐と新羅の連合軍と戦いますが、敗戦。日本の海岸線防衛のため「水城」を築き、「防人」を配置しました。

長く皇太子の地位にありましたが、【668年】にようやく即位して弟「大海人皇子(のちの天武天皇)」を皇太弟にし、「近江令」を発令。

ところが我が子可愛さのあまり、母親の身分が低い「大友皇子」を太政大臣に任命。身の危険を感じた「大海人皇子」は吉野(奈良県吉野町)へ隠棲しました。

大友皇子を天皇にしようとした「天智天皇」の行動は、その崩御の後に「壬申の乱」を引き起こす原因となります。



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天武天皇の功績

「天武天皇」の功績は、大まかに紹介すると以下のようになります。

「壬申の乱」で兄「天智天皇」の息子「大友皇子」に勝利。その直後に即位したのち、大臣を置かずに親政を行い、皇族を要職に就けて政治を司りました。

この政治形態を「皇親政治」といいます。

天皇中心の政治体制をしいた天武天皇は、中央集権国家の形成を強力に推進。

「八色の姓」を定め、豪族たちの身分秩序を天皇中心に作り変えました。

また「天皇」「日本」という名称を初めて使い始めたのは「天武天皇」であると言われています。

「飛鳥浄御原律令」を制定しするよう詔を出したのも「天武天皇」です。その施行は天武天皇の崩御の後になりましたが・・・。

また「天武天皇」は、国史編纂事業を進め、その成果はのちに『古事記』、『日本書紀』として結実します。

妃や夫人を何人も娶り、多くの子供に恵まれた天武天皇は、皇位継承権を持つ皇子たちが位をめぐって争うことのないように誓約させています。

しかしその願いも虚しく、【686年】に「天武天皇」が崩御したのち、「大津皇子」が謀反の疑いで処刑されています。

「天武天皇」は「皇親政治」を敷き、「天皇親政」で自ら政治を行ったカリスマ性の高い政治家でした。

そんな人であっても、後継者選びは大変難しかったのでしょう。



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「天智天皇」と「天武天皇」について「ひとこと」いいたい

「万葉集」で有名な歌人に、「額田王」という女性がいます。

名前に「王」という字が使われていることから、天皇の4代目か5代目の子孫だと考えられていますが、どの天皇の係累なのかはっきりしていません。

額田王は「天武天皇」に嫁ぎ、「十市皇女」を産みました。「十市皇女」とは、「壬申の乱」で天武天皇に殺害された甥「大友皇子」の正妃となった人物です。

その後「額田王」は、夫の兄「天智天皇」から想いを寄せられるようになり、天武天皇と別れて天智天皇の寵愛を受けるようになったと言われています。

しかし『日本書紀』にはこの話は出てきません。『万葉集』に収録されている「天武天皇」と「額田王」の和歌から、三角関係が囁かれ続けてきたのです。



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「茜指す 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」(万葉集-巻1-20、額田王)

「紫の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも」(万葉集-巻1-21、大海人皇子)

この2首の和歌にある「野守」が天智天皇、「君」が天武天皇、「妹」と「人妻」が額田王と解釈され、三角関係が囁かれ続けてきたのです。

近年では、「宴会の余興で詠まれた歌」だったのだろうと考えられています。

『万葉集』に収録されている和歌から、女性の奪い合いをしていたと考えられるほど「天智天皇と天武天皇は仲が悪い兄弟であった」・・・。そんなイメージを強く抱かれていたのでしょうね。



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大友皇子の死後、父である天武天皇の元に戻った「十市皇女」は、【678年4月】まだ30歳にもならない若さで、突然亡くなりました。

娘の急死を知った「天武天皇」は激しく泣いた、と記録されています。

父「天武天皇」と夫「大友皇子」が天皇の位をめぐって争い、父によって夫を自害に追い込まれた・・・。その後、父「天武天皇」の元に帰らなければならなかった娘は、父に対してどんな心情を抱いていたのでしょう。

自分によって人生を振り回され、不幸にも早世した娘を思って、天武天皇は号泣したのかもしれませんね。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「天智天皇」と「天武天皇」は、父母を同じくする兄弟。兄「天智天皇」は弟「天武天皇」に娘を嫁がせているなど、一般的な兄弟とは異なる関係だった。
  2. 「天武天皇(大海人皇子)」は、兄「天智天皇(中大兄皇子)」から次の天皇(皇太弟)に指名されていた。しかし「天智天皇」はその約束を破り息子「大友皇子」を次の天皇に指名。これに不満を持った豪族たちは「大海人皇子」を担いで「大友皇子」を打倒。大海人皇子は「天武天皇」として即位
  3. 兄「天智天皇」の功績としては「乙巳の変」で蘇我入鹿を討ち、「大化の改新」で中央集権化をすすめた、などがある。
    弟「天武天皇」には、「飛鳥浄御原令」を制定、「日本書紀」「古事記」の編纂をおこなったなどの功績がある。

この記事を短くまとめると以下の通り

「天智天皇(中大兄皇子)」と「天武天皇(大海人皇子)」は、同じ両親から生まれた兄弟です。

しかし決して仲の良い兄弟ではなく、兄「天智天皇」は死の床にあっても、返答次第では弟「大海人皇子(のちの天武天皇)」を殺そうと考えていたような記録も残っています。

天智天皇の崩御後、息子「大友皇子」が近江宮で政治を司り始めましたが、天皇の位に即位したかどうかははっきりしません。(ただ、大友皇子は「弘文天皇」とも呼ばれています)

吉野に隠棲していた「大海人皇子(天武天皇)」は、大友皇子がひきいる「近江朝廷」が「兵を集め始めた」という情報を得て、挙兵。「壬申の乱」が勃発。

美濃に本陣を置いた「大海人皇子(天武天皇)」は、近江朝廷(大友皇子の軍)が東国に援軍を求められないように、「不破道」を封鎖。

近江朝廷は天武天皇に追い詰められ、大友皇子は自害に追い込まれます。



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大友皇子が亡くなった後、天武天皇は即位。天皇親政によって政治を行い、中央集権国家化を推進。

決して兄弟仲の良い2人ではありませんが、「天智天皇」と「天武天皇」は、古代東アジアにおいて、日本の近代化を推し進め、それぞれに成果を上げた天皇だったのです。

「天智天皇」のお墓は京都の「山科陵」。

「天武天皇」は妻「持統天皇」と共に、奈良県明日香村の「檜隈大内陵」で、永遠の眠りについています。

 

天武・持統天皇合葬陵:Wikipediaより、Saigen Jiro氏による撮影

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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