【天武天皇の謎】天智天皇との関係と『壬申の乱』を起こした理由

『m』

《不破の関》
「引用元ウィキペディアより」

「天武天皇」はなぜ「壬申の乱」を起こしたのか、解説できる人は意外に少ないのではないでしょうか?

実は私も大学で日本史を勉強するまで、よく知りませんでした。

「天武天皇」は「白村江の戦い」で疲弊した倭国を立てなおすため、兄の子である「大友皇子」から天皇位を奪い返すために挙兵したのです!

この記事では「天武天皇が、なぜ壬申の乱を起こしたのか」を、あまり詳しくない方のために解説していきます。

これを読んで「壬申の乱」について理解し、疑問をスッキリと解消してくださいね。


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この記事を短く言うと

  1. 「天智天皇(中大兄皇子)」と「天武天皇(大海人皇子)」は、同じ父と母から生まれた兄弟。父は「舒明天皇」。母は「皇極天皇(斉明天皇)」
  2. 「天武天皇(大海人皇子)」は、兄「天智天皇」の強引な政治と、豪族たちの不満を受けて、政治を正すために「壬申の乱」を起こし、甥「大友皇子」を倒して天皇に即位した
  3. 「大友皇子」とは、天智天皇の息子であり、しかも優秀でありながら、母の身分が低かったために「天皇」にふさわしくないと言われていた人物。「大海人皇子」に攻められ、最期は自害した

天武天皇と天智天皇(中大兄皇子)の関係は?二人は兄弟だった

天智と天武は、同父母の兄弟

「天武天皇(大海人皇子)」は「天智天皇(中大兄皇子)」と同父母兄弟です。「天智天皇」が兄。「天武天皇」が弟・・・と『日本書紀』には書かれています。

しかし後世に書かれた資料から、2人の没年齢から生年を計算してみると、「天武天皇」が「天智天皇」より先に生まれた・・・というおかしなことになってしまうのです。

このことは日本史学者の間でも長年論争されてきましたが、確たる学説はまだ出ていません。

「天武天皇」と「天智天皇」の父は「舒明天皇」。母は「皇極天皇(後に重祚(ちょうそ))」です。重祚(ちょうそ)とは、つまり天皇の位に再び即位することです。皇極天皇は天皇の位を一度おりたものの、再び即位して「斉明天皇」となったのです。


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「天智・天武」の父「舒明天皇」について

「天智・天武」の父「舒明天皇」は、「押坂彦人大兄皇子」の子です。「敏達天皇」の孫にあたります。

聖徳太子の叔母にあたる「推古天皇」が崩御した時、「聖徳太子」の子「山背大兄皇子」と「舒明天皇」が天皇の位を争っています。「舒明天皇」はその時、最大権力者である「蘇我蝦夷」によって天皇に推薦され、即位しました。

政治の実権は「蘇我蝦夷」に握られていましたが、舒明天皇の在位中に最初の「遣唐使」を派遣しています。

641年】、一説によれば「舒明天皇」は「49歳」で崩御したと言われています。


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「天智・天武」の母「皇極天皇」について

母「皇極天皇」は、「押坂彦人大兄皇子」の子である「茅渟王」の娘です。

「皇極天皇」の父親は、朝廷内で重要な立場にはありませんでした。聖徳太子の血を引きながらも滅亡した名門一族「上宮王家」。その「上宮王家」の滅亡がなければ、「皇極天皇」が天皇位に即位するようなことはなかったでしょう。

夫「舒明天皇」の死後に即位した「皇極天皇」は、【645年】に「乙巳の変」をむかえます。(「乙巳の変」とは、皇極天皇の息子「中大兄皇子」が、大豪族「蘇我入鹿」を暗殺した事件のこと)


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母「皇極天皇」・・乙巳の変のあと、息子に譲位せずふたたび即位

「乙巳の変」のあと、皇極天皇の息子「中大兄皇子(天智天皇)」が、「中臣鎌足」と「大化の改新」と呼ばれる政治改革を行います。

次々と政治改革がおこなわれる中、「皇極天皇」は弟の「孝徳天皇」に天皇の位を譲ります。しかし皇極天皇は、のちに再び天皇に即位(再度天皇位に即位することを重祚と言います)。「斉明天皇」となりました。

皇極天皇(斉明天皇)は、弟「孝徳天皇」が病気で寂しく難波宮で崩御した後、息子「中大兄皇子」を天皇に即位させることもなく、自らが重祚したのです。

その理由は今も謎に包まれており、歴史学者の間で議論の的になっています。


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天武天皇は、なぜ「壬申の乱」を起こしたの?

「壬申の乱」について簡単に説明します。

「壬申の乱」とは「天智天皇(中大兄皇子)」が亡くなった後、天智天皇の弟「大海人皇子(天武天皇)」と、天智の息子「大友皇子」が戦った事件です。

天武天皇が「壬申の乱」を起こした理由は、2つあります。


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理由①・・・兄「天智天皇」が息子の「大友皇子」を後継者にしようとした

1つは「天智天皇」が、いったんは皇太弟である「大海人皇子(のちの天武天皇)」を次期天皇として扱っていたにもかかわらず、我が子可愛さから息子「大友皇子」を後継者としてあつかい始めたからです。

「大友皇子」は「天智天皇」の第1皇子であるとはいえ、母親の身分が低いこともあり、天皇位に即位するには身分不相応と考えられる立場の人でした。

古代天皇家にとって「母親の血筋・身分」は、皇位につくために重要な事柄だったのです。(天智と天武の場合は、両親がともに天皇なので身分に問題はなかった)

どんなに優秀で聡明であっても、皇位継承の資格がないと見はなされていたのが「大友皇子」なのです。そんな「大友皇子」を即位させることがあれば、皇族だけではなく、朝廷の群臣たちも天皇に反感を持ちますよね。


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理由②・・・「白村江の戦い」で敗北したこと

「壬申の乱」が起こったもう1つの理由は、「唐と新羅」を相手に戦った「白村江の戦い」に敗戦し、「百済」復興が大失敗に終わったことです。

「白村江の戦い」で大敗した天智天皇は、国を守るため、玄界灘や瀬戸内海の沿岸に「水城(みずき)」とよばれる国防施設を次々と建設。それだけではなく、飛鳥から近江へと首都を代えたため、豪族や民衆に多大な負担を与えてしまいました。

このことは、天智天皇に対する不満をさらに高めてしまいました。

ただし、それを態度に表す者はいなかったでしょう。なぜなら「天智天皇」が暴君だったためです。

天智天皇は、叔父「孝徳天皇」の時代に、遷都に反対した「孝徳天皇」を難波宮に置き去りにして死ぬまで追いつめています。

さらには、将来自分自身の皇位継承にとって邪魔になる「有馬皇子」を誅殺。

天智天皇への反感を下手に態度に出せば、自分だけでなく、一族郎党も処刑されかねません。

天智天皇の強引で冷酷非情なやり方を熟知していた弟「大海人皇子(天武天皇)」は、甥にあたる「大友皇子」を次の天皇とすることを認めます。

いったんは天智天皇の意向を受け入れたように見せかけて、天智天皇の狂気から身を守ったのです。


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「大海人皇子(天武天皇)」の出家

「大海人皇子(天武天皇)」はその後、出家して吉野(奈良県吉野町)に隠棲します。

しかし大海人皇子は天皇となることを諦めていませんでした。兄「天智天皇」に反感を持つ豪族たちの支援を受けながら、虎視眈々と挙兵の機会をうかがい続けます。

「大海人皇子(天武天皇)」は、皇太弟である自分をないがしろにした兄「天智天皇」に対する復讐、そして「白村江の戦い」によって疲弊した倭国を天皇となって立て直すために、「壬申の乱」を起こしたのです。


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天武天皇に倒された「大友皇子」とは、どんな人なのか?

大友皇子は、天皇になれない運命の人だった!

「壬申の乱」で大海人皇子(天武天皇)に倒された「大友皇子」は、「天智天皇」の第1皇子。「大海人皇子(天武天皇)」の甥にあたる人物です。

「大友皇子」は【648年】に「天智天皇」と女官である「伊賀采女宅子娘」との間に生まれた皇子です。異母妹には「持統天皇」と「元明天皇」がいます。

「大友皇子」はとても優秀で、父「天智天皇」から深く愛された皇子でした。しかし母親が皇族出身ではなく、身分が低い采女でした。そのため、天皇に即位するには身分不相応だととらえられる立場の人でもありました。

「大海人皇子(天武天皇)」にも「高市皇子」という皇子がいます。しかしこの人も母親の身分が低かったため、第1皇子でありながら、天皇位には即位できなかったのです。

この「高市皇子」は、「大海人皇子(天武天皇)」の後継者と目された「草壁皇子」が亡くなったあとも天皇位にはつけませんでした。高市皇子は「持統天皇」即位後も、太政大臣として朝廷を支え続けました。

古代の天皇家にとっては、「母親の血統・身分」はそれほど重要なことだったのです。

ところが、息子「大友皇子」が可愛くて仕方がない天智天皇は、後継者「大海人皇子(天武天皇)」がいたにも関わらず、「大友皇子」を最高位の「太政大臣」とし、後継者としてあつかい始めます。

兄「天智天皇」の意向を受け入れたかに見せかけた大海人皇子(天武天皇)は、出家して吉野に隠棲。

しかし「天智天皇」の死後、大海人皇子は【672年】に挙兵。

天智天皇の後継者となっていた甥「大友皇子」に対して戦いを挑んだのです。


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「大友皇子」の最期

東国を「大海人皇子(天武天皇)」におさえされて、「大友皇子」は苦戦。

大友皇子が率いる「近江朝廷軍」は後手に回り、徐々に追いつめられていきます。

瀬田橋で「近江朝廷軍」は敗退。落ち延びる途中で、もはやこれまで・・・と思い定めた「大友皇子」は、自ら首を吊って果てました。

『日本書紀』には【大友皇子が天皇位に即位した】という記述はありません。しかし大友皇子が「天皇の詔」を守ることを誓った、という記述があります。

この「天皇の詔」が、父「天智天皇」が息子の「大友皇子」に対して残した【即位せよ】という遺言だったとしたら、即位の儀式などはなくとも、天皇位に即位していたのかもしれません。(「大友皇子」は「弘文天皇」とも呼ばれています。)

後世の文献資料には、【672年】の「天智天皇」の崩御後に、天皇位に即位したと書かれています。

若くして亡くなった悲劇の皇子「大友皇子」は、天皇として即位していた・・・と後世の人達が解釈していたのかもしれませんね。


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『天武天皇』について「ひとこと」言いたい!

「天武天皇」は「天智天皇」の弟・・・・だと『日本書紀』に書かれています。

しかし鎌倉時代に記された文献に残る「2人の亡くなった年齢」をそのまま信用すると、どう計算しても「天武天皇が年上」になってしまいます。

その鎌倉時代の文献は、天武天皇の亡くなった年齢を「65歳」と書いてあるのです。しかし天武天皇が亡くなった【686年】から引き算して考えると、生年が【622年】か【623年】になってしまいます。これだと【626年】に生まれた兄「天智天皇」よりも、弟「天武天皇」が4歳くらい年上ということになるのです。

このことは長年、日本史を研究する学者や学生を悩ませてきました。

鎌倉時代の文献が、天武天皇が亡くなった年齢について「56歳」と書くべきところを、間違って「65歳」としてしまったのではないか・・・・・と考える学者も大勢います。


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しかし筆者は、個人的にですが全く別の考えを持っています。

「天武天皇(大海人皇子)」が亡くなった年齢は【65歳】・・・生まれたのは【622年】。本当は天智天皇(中大兄皇子)の弟ではなかったのではないでしょうか。

というのは・・・『日本書紀』の「斉明天皇」の記録に、不思議な記述があるからです。

口語に訳して紹介すると、以下の通りです。

「斉明天皇は、初めは用明天皇の孫『高向王』と結婚して、『漢皇子』を産んだ」

この「高向王」も「漢皇子」も、『日本書紀』にはこれ以外に一切登場しません。

「用明天皇」の子どもたちの中で、男子は6人います。

「多目皇子」「厩戸皇子(聖徳太子)」「久米皇子」「当麻皇子」「殖栗皇子」「茨田皇子」

この中の誰かの子が、「高向王」という名前で記された可能性があります。


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だとすると「高向王」の子「漢皇子」は、「聖徳太子」その他5人の皇子と「斉明天皇(皇極天皇)」の間に生まれた子供・・・・という可能性が出てきますよね。

つまり「漢皇子」は、聖徳太子の子・・・・または甥にあたる人だった・・・ということになるのです。

私はこの「漢皇子」が、後の「天武天皇(大海人皇子)」だったのではないか・・・と考えています。

天武天皇が、蘇我入鹿に滅ぼされた「上宮王家(聖徳太子の血を引く一族)」の生き残りだったのだとすれば、天智天皇の時代末期に全焼してしまった「法隆寺」を、国費を使って再建した理由も理解できます。

父、もしくは父の兄弟が建てたお寺を再建するのは、理にかなったことのように思えるのです。

とはいえ、文献資料にそんなことは書かれていないので、あくまでも個人的な見解です。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「天智天皇」と「天武天皇」は、同父母の兄弟。父は「舒明天皇」。母は「皇極天皇(斉明天皇)」。しかし、仲の良い兄弟というわけではなかった
  2. 「天武天皇」は、兄「天智天皇」へ豪族たちが抱く不満を受け、「白村江の戦い」で窮地におちいったこの国を建て直すため「壬申の乱」を起こした。結果、自分の甥「大友皇子」を倒して天皇に即位した
  3. 「大友皇子」とは、天智天皇の息子。とても優秀でありながら、母の身分が低かったために「天皇」にふさわしくないとされた人物。「壬申の乱」で「大海人皇子」に攻められ、自害

この記事を短くまとめると、以下の通り

「天武天皇(大海人皇子)」は、『日本書紀』によれば「天智天皇(中大兄皇子)」と同父母兄弟です。

皇太弟としての自分をないがしろにした兄「天智天皇」への不満と、「白村江の戦い」で疲弊した倭国を立て直すために、天皇位に就く必要にせまられて「壬申の乱」を起こしました。

「壬申の乱」で天武天皇に追い詰められて自害した「大友皇子」は、「天智天皇」の第1皇子。天武天皇の甥にあたる人物です。

後世に書かれた資料による「天智・天武」の没年齢から、2人が生まれた年を計算すると、弟であるはずの「天武天皇」は、兄「天智天皇」より年上ということになってしまいます。

即位後、天皇自らが政治を行う「親政」をやった「天武天皇」は、とても謎の多い天皇なのです。

《大海人皇子(天武天皇)》
「引用元ウィキペディアより」

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「聖徳太子の別名全部紹介!2017最新教科書での名前といなかった説」の記事はコチラ

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