【白村江の戦い】壬申の乱との関係と真実!なぜ戦いが起きたのか?

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「白村江の戦い」と「壬申の乱」の関係を解説できる人は、意外に少ないのではないでしょうか?

実は私も大学で日本史を学ぶまで、「白村江の戦い」と「壬申の乱」の関係について、よくわかっていませんでした。

「白村江の戦い」は、「壬申の乱」勃発の原因となった戦いなのです!

この記事では「白村江の戦いと壬申の乱の関係」について、あまり詳しくない方のために説明していきます。

これを呼んで「白村江の戦いと壬申の乱・・・2つの大きな戦いの因果関係」について、ぜひスッキリと理解してくださいね。


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この記事を短く言うと

  1. 「白村江の戦い」が起こった原因は、「新羅」と「唐」によって滅亡した「百済」が、復興のために日本へ助けを求めてきたこと。百済復興のために朝鮮半島へ派兵した日本軍は「新羅と唐」の連合軍に大敗した
  2. 「白村江の戦い」が終わったあと、朝鮮半島は「新羅」が統一。天智天皇は「唐」による日本侵略を恐れ、「水城」「防人」などを配置。これが諸豪族の不満を買ったうえに、天智天皇は後継者「大海人皇子」を強引にしりぞけ「大友皇子」を後継者とした
  3. 「壬申の乱」勃発の原因は、「白村江の戦い」で起こった負担増と、天智天皇による強引な政治・後継者指名に不満をいだいた豪族が「大海人皇子」の天皇即位を願ったことにある

白村江の戦いは、なぜ起きたのか?原因は「百済」だった

まず「白村江の戦い」が起きた原因は、朝鮮半島に存在していた国家「百済」の滅亡です。

「白村江の戦い」は、現在の韓国・錦江付近で行われた戦いです。

「日本と百済人」の連合軍と、「唐と新羅」の連合軍が激突・・・・「唐と新羅」の連合軍が勝利した戦いです。

6世紀から7世紀の朝鮮半島では「百済・高句麗・新羅」の3国が存在していました。

《6世紀朝鮮半島》
『引用元ウィキペディアより』

「新羅」は当初、「百済」と「高句麗」の軍に押されていました。

百済は何度も、新羅に攻め入っていたのです。

ところが、ある時から「新羅」は形勢を逆転します。


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中国大陸に強大な国家「唐」が成立したのち、「新羅」はその「唐」の冊封体制(隷属・従属)を受け入れたため、唐は新羅を支援するようになったのです。

この頃から、大国「唐」は秘かに「百済」を討伐する準備を進め始めました。

654年】、朝鮮半島を大飢饉が襲いました。ところが「百済」の王は、民衆を救う政策より、王族の宮殿修理などに国費を使用。百済の国内は疲弊。百済国は一気に乱れました。

「唐」は「百済」が弱体化したこの機会を逃さず、【659年4月】、百済への出兵準備を終えます。その準備はとても周到であり、かつ用心深いものでした。当時、日本から送られてきた使節団「遣唐使」を唐の首都「洛陽」に留め、日本に「百済派兵計画」がもれないようにしたのです。

660年】、百済は「唐と新羅の連合軍」により、滅亡。

その後、逃亡した「百済の王族」によって「百済」を復興する運動が発生。日本に滞在していた「百済の王子」を旗印にして、百済を復興しようとします。


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百済人たちから応援を要請された日本は、朝鮮半島に派兵。

661年】、斉明天皇は九州へ出兵。自らも進軍しましたが、「那の津」というところで急死してしまいます。

「中大兄皇子(天智天皇)」は、母「斉明天皇」の死後になぜか天皇の位に即位しませんでした。「皇太子」として国を率いた「中大兄皇子」は、軍を3つに分けて朝鮮半島に進軍したのです。

《天智天皇(中大兄皇子)》
「引用元ウィキペディアより」

663年】、「日本と百済」の連合軍は、「唐と新羅」の連合軍と激突。「白村江の戦い」です。この戦いで日本は大敗します。

その敗北は壮絶なもので、日本に亡命を希望する「百済人」を船に乗せ、何とか逃げ帰ってくる有様だったのです。


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戦後は何が起こった?唐の侵略に備えての「遷都」や「水城」建設

「白村江の戦い」終了後、朝鮮半島では「唐」によって「高句麗」が滅ぼされていました。そして「唐」を後ろ盾にしていた「新羅」が朝鮮半島を統一したのです。

朝鮮半島内に所有していた領土を失った日本は、これまでの「外交・国防対策・政治体制」を早急に見直し、大国「唐」に対抗する必要性が生じました。

「白村江の戦い」で負けた「天智天皇」は、「唐と新羅」を恐れ、防衛対策に着手します。

対馬と大宰府に「水城」という防衛施設を築き、瀬戸内海沿いの要所に「砦」を建設。さらに「防人」を配置しただけでなく、難波宮から近江へと首都を移しました。

665年】、「白村江の戦い」の戦後処理のため、「唐」からの使節が来日。

667年】、「唐」が日本人捕虜を返還。

その後「天智天皇」は、「唐」との国交正常化を図り、途絶えていた「遣唐使」を正式に復活。


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「唐」と和睦したとはいえ、戦争による国の疲弊は大変なものでした。

さらに戦後の防衛対策として「水城と砦の建設」「遷都」と、国費がかさむことが度重なったため、民衆だけでなく豪族たちも、「天智天皇」へ不満を抱くようになったのです。

こうして「民衆・豪族」から大いなる不満を抱かれ始めた「天智天皇政権」に、争いの火種が生じていくことになります。

その中で「天智天皇」は、身分の低い女性との間に生まれた第1皇子「大友皇子」に天皇位を譲りたいと考え始めます。

《大友皇子(弘文天皇)》
「引用元ウィキペディアより」

天智天皇は自分の後継者として指名していた皇太弟「大海人皇子(天武天皇)」ではなく、息子「大友皇子」に天皇の位を世襲させようと、強引な行動を起こします。

この後継者の強引な変更は、さらなる豪族たちの反感を招く結果となります。

671年】、「天智天皇」が崩御。朝廷の緊張はますます高まっていきました。


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白村江の戦いと「壬申の乱」の関係!なぜ「壬申の乱」は起こった?

壬申の乱勃発には大きく「2つの理由」があります

理由①「天智天皇の後継者問題」

「壬申の乱」が起きた理由の1つは、「天智天皇」が後継者を弟「大海人皇子(天武天皇)」とする約束を破ったことです。

我が子可愛さのあまり、息子「大友皇子」を後継者にしようとしたため、皇族と豪族の不満が高まったのでした。

政治経験が豊富な「大海人皇子(天武天皇)」が天皇となることで、世の中が変わると期待していた皇族・豪族は、私利私欲から「大友皇子」を後継者にしようとする「天智天皇」に、改めて失望したことでしょう。

《大海人皇子(天武天皇)》
「引用元ウィキペディアより」

当時の皇位継承では、母親の身分と血筋も重要視されたのです。すなわち、身分の低い女官を母として生まれた「大友皇子」は、皇位継承者として相応しくない・・・・と皇族や豪族たちがみなしたのです。

即位していたとしても、「大友皇子」が天皇ということに納得していない皇族や豪族が多数いたことでしょう。


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理由②「唐・新羅の侵攻に備えた国費の浪費」

「壬申の乱」勃発の理由として、もう一つ大きな理由があります。

それは「白村江の戦いで国費を浪費していたのに、唐と新羅の侵攻を恐れ、対馬や大宰府に水城を築き、さらには難波から近江に都を移し、国費を浪費したこと」です。

戦争自体も、戦後の防衛対策も、どちらも民衆・豪族に多大な負担を強いる巨大な公共事業です。

「天智天皇」と朝廷に対して、相当な不満が高まっていたことでしょう。

実際首都の近江宮では、たびたび火災が発生したという記録があります。

恐らく遷都に強い不満を抱いた民衆が、抗議の意味を込めて放火していたのではないか・・・と思います。

こうして「天智天皇」に不満を抱く皇族・豪族が多くなっていく情勢を見て「大海人皇子(天武天皇)」は、「白村江の戦い」で疲弊した国を立て直すことを決意。

そのためには自らが天皇・為政者とならねばなりません。

「大友皇子」の即位に反対する皇族・豪族たちは、「大海人皇子(天武天皇)」の即位を望んでいました。そのことも後押しし、天皇位を「大友皇子」から取り戻すために、「大海人皇子(天武天皇)」は挙兵し、「壬申の乱」を起こしたのです。


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『白村江の戦い』について「ひとこと」言いたい!

「白村江の戦い」の後、「天智天皇」は律令制をさらに強固なものにしようと、強引な政治改革を推し進めました。

「天智天皇」に対する不満は、崩御後に「壬申の乱」を勃発させます。

その後に即位した「天武天皇(大海人皇子)」によって、さらに進化した中央集権国家が成立します。

その後「大宝律令」制定の時に、国号をそれまでの「倭国」から「日本」へと改めました。

「白村江の戦い」で失ったものは多かったはずですが、この負け戦を経験したことで、朝廷内部の危機感が高まり、「日本」という国の誕生がうながされたとも言えると思います。

日本の歴史は、日本国内のことだけを見て考えてはならず、常に東アジア・世界の中での日本・・・という視点を絶えず持って見ないといけないと思います。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「白村江の戦い」の原因は、「新羅」と「唐」によって滅亡した「百済」復興のため、日本は朝鮮半島へ出兵。しかしその軍は「新羅と唐」の連合軍に大敗した
  2. 「白村江の戦い」が終結したのち、、朝鮮半島は「新羅」が統一。天智天皇は「唐」による日本侵略を恐れ、「水城」「防人」などを配置。これらの負担によって諸豪族は不満を高まらせた。さらに天智天皇の誤飲な後継者指名も、豪族たちには不満だった
  3. 「壬申の乱」勃発の原因は、「白村江の戦い」による負担増と、天智天皇の強引な政治に嫌気した豪族たちが、弟「大海人皇子」を天皇にしようとしたこと。

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この記事を短くまとめると、以下の通り

「白村江の戦い」は、朝鮮半島の国家「百済」の滅亡をきっかけにして起こりました。

日本に滞在していた「百済の王子」を旗印にたてて百済復興運動を起こした百済の王族が、日本に応援を要請したため、日本は朝鮮半島に攻め込みます。

「唐と新羅」の連合軍と、「日本と百済人」の連合軍は、「白村江」で激突。日本と百済人は、唐と新羅に負けたのです。

敗戦後、唐と新羅が攻め入ってくることを恐れた「天智天皇(中大兄皇子)」は、対馬と大宰府に水城を築き、都を難波から近江に移します。

しかし戦争と戦後処理は、民衆・豪族に多大な負担を与え、「天智天皇」に対する不満が高まっていきます。

さらに、天智天皇と身分の低い女性との間に生まれた「大友皇子」を、天智天皇が後継者にしようとしたことで、弟「大海人皇子(天武天皇)」・豪族・民衆の不満が爆発しました。

こうして「白村江の戦い」は、「天智天皇」の崩御後に、「壬申の乱」という新たな戦争を生み出したのです。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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「聖徳太子の別名全部紹介!2017最新教科書での名前といなかった説」の記事はコチラ

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