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【鑑真和上とは】来日理由と失明した理由・原因をわかりやすく解説!

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ブルートーンさんによる写真ACからの写真

「鑑真和上」がどういう功績を残した人なのか、説明できる人は意外に少ないのではないでしょうか?

私も大学に入学するまで、「昔の偉いお坊さん」ということしか知りませんでした。

「鑑真和上」は日本への渡航に5回失敗しても諦めず、ようやく来日を遂げて「仏教の戒律」を伝え、仏教の「律宗」という宗派の開祖となった人です。

この記事では「鑑真和上」がどんな人なのかをよく知らない方のために、わかりやすく解説していきます。

これを読んで「鑑真和上」についてスッキリと理解してくださいね。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 「鑑真和上」が日本を目指した理由は、税金逃れのための「私度僧(無免許の僧侶)」の増加を防ぐため、より上位の僧侶から「僧の身分・免許」をくだされる制度「受戒制度」を日本へ伝えようとしたこと。
  2. 「鑑真和上」が失明した理由は「白内障」。紫外線とストレスが原因で発症する「白内障」。一説によると、この白内障の「手術」に失敗したことで失明した
  3. 「鑑真」が残した功績は、日本へ「受戒制度」を伝えて「私度僧(無免許の僧侶)」の増加で混乱していた仏教界をおさめ、「律宗」の開祖となったこと。また「唐招提寺」を建立し、貧民救済や孤児を救うなどの活動も行っていた

「鑑真」はなぜ日本に来たのか?5回も来日に失敗していた

「鑑真和上」とは何者なのか?

「鑑真和上」は、日本の律宗の開祖となった人です。

日本から唐に渡った僧たちから、日本で戒律を伝えるように懇願された「鑑真和上」は、日本に渡ることを決意。

5回も渡航に失敗したのち、6度目に来日を果たしたお方です。

《鑑真和上》
「引用元ウィキペディアより」

688年】、鑑真和上は「唐」の揚州で誕生。

14歳で得度し、僧侶となりました。

20歳になった鑑真は、故郷の「揚州」から唐の都「長安」に出て、律宗と天台宗を学んでいます。

「律宗」というのは、仏教のお坊さんや尼さんが守るべき「戒律(かいりつ)」を研究する宗派です。



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鑑真和上は唐の首都だった大都市「長安」で学んだ後、故郷の揚州に戻り、「大明寺」で住職をしながら「戒」を授けていました。

鑑真に転機が訪れたのは、【742年】のことです。

日本から「唐」に渡っていた2人の僧侶「栄叡」と「普照」から、日本に渡ることを懇願されたのです。

当時の日本では、僧尼は「租庸調」という「税金」が免除されていました。そのため重い税負担を嫌った庶民が、税負担を逃れるために勝手に出家して「私度僧」となっていました。

この状況を何とかするためにも「伝戒師制度」を普及させようと考えた「聖武天皇」は、受戒できる僧を唐から招聘しようと考えていました。そのため「栄叡」と「普照」を唐へ派遣したのです。

「栄叡」と「普照」は、唐の高名な僧侶「道?(どうせん)」に日本への渡航を依頼します。それを承諾した「道?」は【736年】、ベトナム人やインド人の僧侶とともに、「鑑真」に先立って来日しています。

「栄叡」と「普照」は入唐してから10年後、「鑑真和上」に面会。来日を懇願しました。

来日の要請を受けた「鑑真和上」は弟子たちに「誰か日本に渡る気持ちのある者はいるか?」と問いかけました。

ところが、危険な渡航をしたいと名乗り出るものはいませんでした。そのため自らが渡航することを決意したのです。

しかしそれは大変な苦難の連続でした。



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5度にわたる渡航失敗の詳細

  1. 743年】、鑑真は日本に渡航しようとしましたが、渡航を嫌った弟子が役人に「日本の僧は海賊だ」と嘘の密告をしたことで失敗。
  2. 744年】にようやく日本へ出航した際には、激しい暴風雨でまたしても失敗。
  3. それでも鑑真は日本に渡ることを諦めず、再度出航しようとしましたが、「栄叡」が逮捕され、三度目の失敗。
  4. 捕らえられた「栄叡」が牢内で病死したように見せかけて脱走。出航しようとしましたが、弟子が役人に密告したため、出航を差し止められて失敗。
  5. 748年】、「栄叡」が「鑑真和上」を再び訪れ、5回目の渡航が決行されましたが、またしても嵐に阻まれます。暴風雨で一行は「海南島」へ漂流。1年間その海南島に留まり、現地に医薬知識を伝えたのち、揚州に戻ります。しかしその途上、「栄叡」が病死してしまったのです。
  6. 753年】、遣唐使の帰国とともに日本に渡ろうとしますが、また役人に阻まれそうになりました。しかし遣唐副使だった「大伴古麻呂」が、こっそり「鑑真和上」を日本に戻る遣唐使船に乗せ、日本に連れて帰ることに成功します。

こうして5回の渡航失敗を繰り返したのち6度目にして、「鑑真和上」はようやく、日本の土を踏んだのです。



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「鑑真」が失明した理由はなに?来日前に失明していた

鑑真和上が失明してしまった原因とは?

鑑真和上は5度日本に渡ろうとして失敗を続けました。その間に視力を失っていたのです。

鑑真和上が失明したのは、5回目の渡航に失敗したときです。海南島に漂流して1年過ごした後に、「揚州」へと戻る途上でのことでした。

「やっと来日を果たした時には盲目であった」

と『続日本紀』には記録されていますが、その視力を奪った原因は何だったのでしょうか。

鑑真和上の症状から多くの眼科医が指摘するには「白内障」だったのではないかと言われています。

人間が年をとれば誰でもかかる目の病気・・・それが「白内障」です。



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「白内障」は目の中にある透明な水晶体が、加齢や過度の紫外線を浴びたことなどで白く濁ってしまい、視力低下をもたらす病気です。

完全に白濁してしまうと、濃い霧の中にいるような視界になってしまい、目が見えなくなってしまいます。

「海南島」の暑い気候と強い紫外線。おそらくそれが加齢で元々軽い「白内障」を患っていた「鑑真和上」の病気を進行させたのでしょう。

愛弟子となっていた「栄叡」が病死したことも、鑑真にとっては強い精神的ストレスだったかもしれません。

「紫外線」と「ストレス」は、白内障を悪化させる要因なのです。

現代の医療では「白内障」は手術で治る病気になっており、手術時間も片目10分程度で済みます。

しかし今から「約1300年前」の世界では、そうもいかなかったでしょう。



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「白内障」の手術は、古代からありました。

79年】、イタリア「ベスビオ火山」の噴火で一夜にして火山灰に埋まった「ポンペイ遺跡」。そこから当時使われていた「白内障」の手術器具が発掘されているのです。

その頃の手術は、火にかざして熱した針のような器具を目に刺し、白濁した水晶体をつついて目の中に落とす・・・というものでした。

つまり、黒目から網膜までの間で、光の通り道を邪魔している白濁した水晶体を取り除き、視力を回復しようとするものだったのです。

水晶体を首尾よく落とせたとしても、抗生物質はありませんでした。そのため感染症を起こして失明してしまう人がとても多かった可能性が高いです。運よく視力を回復した人は少数だったのではないでしょうか。

「鑑真和上」はこの手術を受けたが失敗。そのため失明したのではないか・・・・と早稲田大学教授「安藤更生」氏は考えているようです。



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失明してまで来日してくれた理由

5度も渡航に失敗し、失明までしてもなお日本に来ることを諦めようとしなかった鑑真和上。なぜ諦めなかったのでしょうか?

理由は2つあると思います。

 

『1つ目の理由』は、遠く日本から海を越えて「戒律を授ける僧侶に来日してほしい」と強く願う「栄叡」と「普照」の熱意に動かされたのだと思います。

日本の都で、重税逃れを目的に勝手に出家した「私度僧」があふれている状況を聞いた鑑真和上。仏教者として正しい戒律を授ける僧侶を早急に日本に送らなくてはいけない。そのような使命感にかられたことでしょう。

弟子たちが日本へ行きたがらないので、「ならば自分が日本に赴き、何としても正しく戒律を授けなければ」と強く心に誓っていたのだと思います。



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『2つ目の理由』は「聖徳太子」です。

「天台智顗(てんだい ちぎ)」というお坊さんがいます。

天台宗の開祖です。

この「天台智顗」というお坊さんの師匠は「南嶽慧思(なんがく えし)」というお坊さんです。

「南嶽慧思」は、遷化(せんげ・偉い僧侶が死ぬこと)の後に7度生まれ変わり、その7度目の生まれ変わりは

「倭国の王の子として生まれ、仏法を興隆し、衆生を救う」

と言われていたのです。

鑑真和上の伝記『唐大和上東征伝』には、「鑑真和上」が「栄叡」と「普照」に来日をこわれた際に、この話をしている場面が記されています。

「聖徳太子」が生まれたのは【574年】。

「南嶽慧思」が亡くなったのは【577年】です。

聖徳太子が生まれた後に「南嶽慧思」が亡くなっています。

ですから、「南嶽慧思」の生まれ変わりが「聖徳太子」・・・ということはありえないですよね。

しかし「鑑真和上」の生きた時代、唐にこのような言い伝えがあったということと、遣唐使や日本から帰国した唐人によって、日本の仏教事情が伝わっていたということは言えると思います。

「南嶽慧思」が生まれ変わる予定だという日本。聖徳太子が仏教を広めた国「日本」へ自分も行きたい。仏法を広めたい。

鑑真和上はそう願い、苦難を乗り越えて日本に渡ったのではないか・・・と私は思います。



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鑑真が残した功績とは?そもそも何をした人なのか

「鑑真和上」は、「私度僧(脱税のために勝手に出家して僧侶を名乗る、いわゆる無免許のお坊さん)」であふれていた日本の仏教界に、「受戒制度(偉い僧侶が出家のための免許や資格を授ける制度)」を急速に広めて仏教界の混乱を収め、日本における「律宗」の開祖となったのです。

6度目にやっと来日を果たした「鑑真和上」は、「平城京」に入り「聖武上皇」「孝謙天皇」と面会。歓待を受けました。

その後「孝謙天皇」から「戒壇(戒律を授けるための場所)の設立」と「受戒」を一任され、東大寺に住み始め、日本の僧尼を取りまとめる「僧綱(そうごう)」という官僚となったのです。

755年】、東大寺大仏殿に「戒壇」をつくった鑑真和上は、「聖武上皇」を始めとする400名の僧尼に、「戒」を授けました。

さらに、九州「大宰府」や下野国(今の栃木県)にも「戒壇」を設け、平城京にまで上京しなくても戒を授けられるようにし、仏教の戒律制度は日本に広まっていきます。

このことは「私度僧」の増加による社会不安を減少させ、社会の安定に貢献しました。



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さらに医薬に関する知識の深かった「鑑真和上」は、海南島にいた時と同じように、日本にもその知識を伝えました。

759年】、「唐招提寺」を創建。鑑真和上は「淳仁天皇」から大和上に任じられました。

同時に僧綱の任から解放され、僧や尼たちに仏教の戒律を授けることに専念したのです。

また、貧しい人や孤児を救うために悲田院を設置。民衆の救済活動も行いました。

僧や尼に仏法を教えるだけでなく、民衆への慈善活動も行った「鑑真和上」は、【763年】に自らが創建した「唐招提寺」で、76歳で亡くなったのです。

《唐招提寺》
「引用元ウィキペディアより」

 

ちなみに「唐招提寺」の「金堂」その他が、国宝に指定されています。



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『鑑真』について「ひとこと」言いたい!

「鑑真和上」の遷化(せんげ)後、中国では「鑑真は日本で即身仏(そくしんぶつ)となった」という話が広まった・・・・という話を、大学在学中に、教授から教えられました。

この話の元となったのは、今も唐招提寺に伝わる国宝の「鑑真和上像」です。

《鑑真和上像》
「引用元ウィキペディアより」

彫刻にも造詣が深かった鑑真和上は、医薬と同様に彫刻の技法をも日本へもたらしました。

鑑真和上の遷化後、弟子の「忍基」は教わった技法で、写実的に師「鑑真」の彫像を作ったのです。

この日本最古の肖像彫刻があまりにも良く出来ていたため、誤って「即身仏」と伝えられたのですね。



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大学のゼミ旅行で「鑑真和上像」公開中に奈良「唐招提寺」に行ったことがありました。

その時、ちょうど関西テレビの夕方のニュース番組の取材クルーがやってきました。

許可を得ている彼らは、テレビ撮影用の強力な照明で(短時間ですが)、「鑑真和上像」を照らしたのです。

照明の中に浮かび上がった鑑真和上像はとても写実的で「身近にいそうなおじさん」に見えました。

即身仏となったと、間違って伝わるのもあり得ることだなあ・・・と納得したものです。

《鑑真和上》
「引用元ウィキペディアより」

(「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」とは、生きたまま悟りを開いて仏となること。即身成仏と良く似た言葉に「即身仏(そくしんぶつ)」というものがありますが、「即身成仏」と「即身仏」は全くの違うもの。ちなみに「即身仏」とは座禅を組んだまま、念仏を唱えたまま亡くなり、その身体が仏となること。)



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「鑑真和上」が日本を目指した理由は、より上位の僧侶から「僧の身分・免許」をくだされる制度「受戒制度」を日本へ伝えるためだった。
  2. 「鑑真和上」が失明した理由は「白内障」。一説によると、この白内障の「手術」に失敗したことが、失明の原因とされているらしい。
  3. 「鑑真」が残した功績は数多くある。日本へ「受戒制度」を伝え「私度僧(無免許の僧侶)」の増加により混乱していた仏教界をおさめた。そして「律宗」の開祖となった。そして「唐招提寺」を建立し、貧民救済や孤児を救うなどの活動も行っていた。


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この記事を短くまとめると、以下の通り

鑑真和上は、5回も渡航に失敗しながら、それでも諦めずに来日を果たしました。

過酷な旅と気候、それに愛弟子の死という不幸までが重なりました。5回目の渡航失敗から揚州に帰る途上、おそらくストレスが原因の「白内障」で失明しました。

「私度僧」があふれかえり、日本の仏教界が混乱する中、「戒律制度」を普及させた鑑真和上は、日本における「律宗」の開祖となりました。

日本に医薬・彫刻を伝え、「悲田院」を作り、貧しい人々の救済事業を行ったのです。

初めは「東大寺」に住み、のちに「唐招提寺」を創建。そこへ移り住み、76歳で遷化しました。

日本での活動期間は10年ほどでしたが、その功績は非常に大きく、現代にも伝わっています。

acworksさんによる写真ACからの写真

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。


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