聖武天皇とはどんな人?なにをした人なのか【功績】を簡単に解説

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「聖武天皇」がなにをした人なのか、説明できる人は案外と少ないのではないでしょうか?

私も大学で勉強するまでは、教科書で暗記した中に名前が出てきた人・・・というイメージしかありませんでした。

聖武天皇が何をした人か、簡単に言うと『東大寺の大仏を作った人』です。

この記事では、聖武天皇をあまり知らない方に向けて、「聖武天皇はなぜ、東大寺の大仏を作ったのか」について、わかりやすく解説してまいります。

これを読んで「そうだったのか!聖武天皇と東大寺の大仏!」と、スッキリと理解してくださいね。


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この記事を短く言うと

  1. 「聖武天皇」とは8世紀「奈良時代」に実在していた第45代天皇。「乙巳の変」で「蘇我入鹿」を倒した「中臣鎌足」の孫にあたる
  2. 聖武天皇の功績としては、主に3つある。
    1「全国に国分寺を建立した」
    2「墾田永年私財法を発布した」
    3「東大寺の大仏を造った」。
  3. 聖武天皇が「東大寺大仏」を造った目的は、当時頻発していた「火事」「地震」「飢饉」「疫病」「反乱」などを鎮めて、国を平和にするため。

聖武天皇とはどんな人?いつの時代の人なのか

「聖武天皇」は今から【1,300年】ほど前、奈良時代(710~794年)に生きた「第45代天皇」です。

《聖武天皇》
「引用元ウィキペディアより」

701年(大宝元年)】、聖武天皇は第42代「文武天皇」と藤原不比等の娘「宮子」との間に生まれました。(藤原不比等は、中臣鎌足の息子)


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聖武天皇は、24歳で即位して天皇となりますが、その治世は激動の時代でした。

飢饉・疫病の流行、藤原氏と反対勢力の権力争い、貴族の反乱などが次々と起きた時代だったのです。

理由ははっきりしていませんが、「聖武天皇」が何度も遷都(都を他の場所に移すこと)をくりかえしたのも、そうした辛い出来事から逃れたいという気持ちがあったからではないでしょうか。

7歳で父と死別。精神を病んだ母とは引き離され、藤原不比等の娘「安宿媛(後の光明皇后)」を妃に迎えて「基王」という男の子に恵まれましたが、1歳にもならないうちに亡くしてしまいました。

そんな「聖武天皇」は、やがて仏教に深く帰依していきます。

聖武天皇は、仏教によって国家の安寧をはかろうと考え、「国分寺」「国分尼寺」を創設。

さらに「東大寺」に大仏を建立。

自らも出家して「勝満」と名乗り、娘「孝謙天皇」に譲位した後、【756年(天平勝宝8年)】に56歳で崩御しました。


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聖武天皇とは何をした人?その功績を解説

「聖武天皇」は在位中、「3つの大きな功績」を残しました。

その功績とは、以下の3つです。

  1. 国分寺を建立
  2. 墾田永年私財法を発布
  3. 東大寺の大仏を作った

741年(天平13年)】に国家鎮護のため、「国分寺建立の詔」を出し、国ごとに「国分寺」「国分尼寺」を建立。

そこに僧尼を住まわせ、護国の経典を唱えさせました。

今でも、「国分寺」の名は東京に地名として残っていますね。

743年(天平15年)】には、農民が田を放棄して他国へ逃げ出すのを防ぐ目的で、開墾した土地の所有権を永久に認める法律「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」を発布しました。

墾田永年私財法は、国家にとって登録された田を増やし、土地の支配を強める効果がありました。

しかしその反面、有力な貴族や寺院などが農民を使って私有地を増やすことにもつながり、後の「荘園」を生む元となっていきます。(「荘園」とは公的な支配を受けない「権力者の私有地」のこと。のちに豊臣秀吉の「太閤検地」で完全に消滅する)

同年】、遷都先の「紫香楽宮」で、国分寺建立に続く国家鎮護を目的とし、「大仏造立の詔」を出します。

紫香楽宮で大仏の造立が始められましたが、再び遷都が決まり、その事業は遷都先の「平城京」で継続されます。

そして、おなじみの奈良「東大寺の大仏」がつくられました。


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東大寺の大仏をつくった理由とは何?理由は『災害続き』だったから

古代、天変地異は「天皇の行いが悪いから起こる」と考えられておりました。

聖武天皇はその考えに基づき、

  • 大火事や地震などの災害
  • 飢饉
  • 藤原不比等の息子4名が同時に亡くなった疫病の流行
  • 「長屋王の変」や「藤原広嗣の乱」

など、度重なる不運な事象が起こるのは「自分の行いが悪いせいだ」と考えました。

それらの災から国民と国家を守るため、聖武天皇は救いを求めて奈良の大仏を作ったのです。

《東大寺大仏殿》
「引用元ウィキペディアより」

都が「紫香楽宮」から「平城京」へ戻された際、【728年(神亀5年)】に1歳未満で亡くなった聖武天皇と光明皇后の子「基王」の菩提を弔うため、【733年(天平5年)】に若草山に作られた金鐘寺(現在の東大寺三月堂)が総国分寺に選ばれ、「大仏建立の地」と定められました。

聖武天皇の時代、僧侶は税が免除されていたので、出家するには国家の許可が必要でした。ところが税の徴収を免れるため勝手に出家した「私度僧(しどそう)」が多くおり、国家の弾圧にも関わらず、民衆の人気を集めていました。

聖武天皇はその私度僧の中で最も人気の高かった僧「行基(ぎょうき)」を東大寺に大僧正として迎え入れ、大仏の造立にあたらせることで、「大仏造立」に対する民衆の支持を得たのです。

難工事の末、東大寺の大仏は完成。【752年(天平勝宝4年)】、盛大な開眼法要会が行われました。

しかし「聖武天皇」の願いとは裏腹に、諸国に「国分寺・国分尼寺」を建立し、「東大寺の大仏造立」という度重なる建築・土木工事は、国家予算を枯渇させただけでなく、労役に駆り立てられた民衆の負担を増し、彼らをますます疲弊させてしまいました。

756年(天平勝宝8年)5月】の「聖武天皇」崩御からわずか2か月後、聖武天皇の重臣だった「橘諸兄」の子「橘奈良麻呂」が反乱を起こしました。「東大寺の建立」「大仏の造立」などで人民をますます疲弊させた政府を無道と叫んでの反乱でした。

この「橘奈良麻呂の乱」は、聖武天皇の政策による国民の疲弊が表面化した、象徴的な出来事と言ってよいでしょう。


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『聖武天皇』について「ひとこと」言いたい!

「聖武天皇」はその治世の間、次から次へと災難続きでした。しかも家族との縁も薄く、孤独を感じることの多い人生を歩んだ人だったのではないか・・・・と私は思います。

その孤独は、仏教に救いを求め、深く帰依し、その篤い信仰心が「東大寺の大仏造立」という形で結実。後世まで残ったわけですがその反面、「大仏の造立」は税の徴収や労役の提供で苦しむ民衆に、さらに大きな負担を与え、疲弊させる結果となりました。それが理由で崩御直後に反乱さえ起きてしまったほどです。

聖武天皇が望んだ「国家と国民の安寧」は、在位中も崩御後も、残念ながら得られなかったと・・・・私は思います。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「聖武天皇」とは8世紀「奈良時代」の天皇。天変地異に悩まされ、仏教で国を平和にしようとした。
  2. 聖武天皇の功績は、主に3つある。
    1「全国に国分寺を建立したこと」
    2「墾田永年私財法を発布したこと」
    3「東大寺の大仏を造ったこと」
  3. 「東大寺大仏」を造った目的は、当時頻発していた「火事」「地震」「飢饉」「疫病」「反乱」などの「天変地異」「混乱」を大仏の力で鎮め、平和を実現するためだった。

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この記事を短くまとめると、以下の通り

「聖武天皇」は奈良時代に生きた天皇で、在位中、天変地異や反乱に見舞われ、仏教に救いを求めて「東大寺の大仏」を作りました。

しかしその事業は当時の民衆をかえって疲弊させ、反乱勃発の原因ともなってしまいました。

聖武天皇の作った東大寺の大仏は【1998年12月】に世界遺産に選ばれ、今日、私たちが気軽に訪れることのできる「奈良で人気の観光スポット」となっています。

 

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

平城京を作った人はだれ?遷都した時の天皇と理由がおもしろい」の記事はコチラ
「平安京は現在どこにあるの?跡地の場所を地図に当てはめて徹底調査」の記事はコチラ

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