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廃藩置県をわかりやすく簡単に解説!目的やメリットは何だったの?

明治時代に行われた大改革「廃藩置県(はいはんちけん)」とは、いったいどんな改革だったのか?わかりやすく解説いたします。

「廃藩置県とは、日本全国にあった藩《独立国》を廃止した大改革」のことです

目的は「お金(税金)」!

この改革に失敗してたら、下手をすれば日本全国で反乱が起こっていたのです!

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・「廃藩置県」とは、「藩」を廃止して、「府県」を設置した改革のこと

・「廃藩置県」の目的は、藩を廃止して全国を政府により直接支配し、税収と統治を安定させて、近代化の礎を築くこと

・薩摩藩・島津久光は先祖伝来の土地を失う「廃藩置県」に激怒したが、会津藩主「松平容保」の兄・尾張藩主「徳川慶勝」は、財政難という大問題を抱えていたため、積極的に廃藩置県を受け入れた


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目次

廃藩置県をわかりやすく解説

「廃藩置県」とは、1871年(明治4年)に行われた、江戸時代から明治初期まで存在していた「藩」という地域を廃止し「府県」を配置した行政改革のこと。

江戸時代まで、全国は「幕府の直轄領」である「天領」と、大名に支配されている「藩」とが存在していました。明治維新で幕府がなくなり、天領は「明治新政府」が支配する事となりましたが、「藩」はそのまま残っていたのです。

「地方分権」・・・・・・・・・近年の日本で必要性が叫ばれている改革「地方分権」ですが、江戸時代から明治初期まで、その地方分権が行き過ぎていた為、中央(明治政府)の権限が弱く、中央集権化が急務となっていたのです。

そのため、地方の権限を削減し、中央集権化を進める目的で、「藩」を廃止して「府県」を設置する「廃藩置県」が行われたのです。



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廃藩置県を行った目的やメリットは何なのか?

どうして明治新政府は「廃藩置県」を行わなくてはならなかったのか?

理由は2つあります。

「税収を確保するため」、そしてもう一つが「軍を創設するため」

富国強兵・・・・国を豊かにし、強力な軍を作ること・・・・。

明治初期の日本のような新興国にはこの「富国強兵」が不可欠です。

しかし当時の日本には、「藩」という存在が300近くも存在していました。

この頃の日本の総生産力は「3000万石」でしたが、明治新政府が税を徴収出来る地域はわずか「800万石」。

残りの2200万石は、「藩」によって支配されていたのです。

そのため、明治新政府の「税収」は脆弱で、富国強兵など不可能。

更に「軍」を動かす権利は、「各藩主」が握っていたため、「日本軍」という統一された軍団を形成することすら出来ませんでした。



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言ってみれば、日本国内に「藩」という名前の「独立国」が多数存在しているようなもの・・・。実際そうなのですが・・。

税収や軍隊を握っているのですから、「究極の地方分権」です。

そのため、この「独立国」を廃止して、日本を「明治新政府」のもとに統一する必要があったのです。

「廃藩置県」を、今の世界で例えてみると

国際連合が、ある日突然

「日本もアメリカも中国もロシアもEUも、全ての国を廃止して、税金徴収の権利や法律を一本化します」

と宣言するようなもの。

そんなもの、誰も従うわけがありません。

しかし、当時の日本ではそれが必要不可欠だったのです。

統一のために行われた改革が「廃藩置県」というわけです。

実際、この「廃藩置県」が行われた後、日本全国で税制改革「地租改正」が行われ、軍制改革「徴兵令」も行われました。

逆に言えば、廃藩置県を行ったからこそ、地租改正も徴兵令も実現できたのです。

廃藩置県のメリットは、地租改正で税収を確保し、徴兵令で軍団をつくりあげることでした。

とはいえ、廃藩置県を断行したら、日本国内で内乱が起こってしまう可能性が極めて高かったのです。

藩主や武士たちの「既得権益」を破壊しようというのですから、当然でしょう。

その反乱・危険分子の急先鋒が、薩摩藩の国父「島津久光」だったのです。



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「島津久光」が激怒し、「徳川慶勝」が怒らなかった理由

「廃藩置県」を行えば、国内で反乱が頻発する危険性が大きかったのです。

しかし、実際にはそれほど大きな混乱は起こりませんでした。

「借金問題」・・・・・当時、日本の各藩は「参勤交代」や「戊辰戦争」などで多大な借金を抱え、利息を払うことすら出来ない厳しい状況でした。

日本全国の藩が、借金に苦しめられ、藩の経営を投げ出す寸前の状況だったのです。

会津藩主「松平容保」の兄・尾張藩主「徳川慶勝」もまた、藩財政に苦しめられた人物でした。当然、日本が統一国家にならなければ、諸外国に植民地にされてしまうという危機感もあったのでしょうが、これ以上藩を経営出来ないという事情も大いにあったと考えられます。

そのため借金苦から解放される「廃藩置県」は、貧乏藩主にとって「渡りに船」だったわけです。

ほとんどの藩主が「財政難」と「統一国家の必要性」という事情により、「廃藩置県」を受け入れました。

しかし・・・中には「島津久光」のように、「廃藩置県」に断固反対した人もいました。

なぜ「島津久光」は、「廃藩置県」に反対したのか?

どうやら「久光」は、徳川幕府を崩壊させて、「島津幕府」を作ろうとしていたようなのです。そのため、薩摩藩の支配権を失う「廃藩置県」に断固として反対し続けました。

「廃藩置県」を断行した自らの元側近「大久保利通」を、久光は生涯許さなかったと言われています。

特に「薩摩藩」は、久光の父「島津斉興」の時代に、家老「調所広郷」の改革で、藩の財政が潤っていたため、藩を捨てる意味が乏しかったのでしょう。

廃藩置県が行われたその日、島津久光の自宅から、大量の打ち上げ花火が打ち上げられました。

久光なりの、廃藩置県への抗議だったと言われています。



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『廃藩置県』について、レビュー(評論)!

「廃藩置県」・・・・その断行には、相当な勇気が必要だったことでしょう。

現代日本ですら「既得権益」を破壊するのは、至難の業だというのに、当時「独立国」の支配権を委ねられていた「藩」を取り潰そうなど・・・日本全国47都道府県、全てで内乱が勃発する覚悟でやらなくてはならない大改革だったと思います。

「廃藩置県」の前段階の改革として「版籍奉還」が様子見のように行われたことも、そのリスクを物語っています。

この「廃藩置県」が行われる前夜、「木戸孝允」の自宅へ「木戸孝允」「山縣有朋」「井上馨」「西郷隆盛」「大久保利通」「西郷従道」「大山巌」の7人が集結し、廃藩置県の断行を誓いあったと言われています。

その会合で、西郷隆盛は

「反乱が起きたら、鎮圧は私が引き受けます」

と、反乱鎮圧の役目を受けたとのこと。反乱に備えて、薩長土の三藩から「御親兵・1万人」が集められました。

つまり、間違いなく反乱が起こると覚悟していたのでしょう。

しかし、廃藩置県が行われなかったら、日本は中央集権化が出来ず、迅速な改革も近代化も出来ず、「日清戦争」で敗北していたかもしれません。「日露戦争」なんて絶対出来ません。

「廃藩置県」は、近代化に向けて、絶対に避けて通ることが出来ない「命がけの改革」だったのでしょう。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・廃藩置県とは、「藩」を廃止して「府県」を配置する改革のこと

・「廃藩置県」をすることで、それまでの「地方分権」から「中央集権化」を成し遂げようとした

・各藩主は、財政難・近代化のため、案外あっさりと廃藩置県を受け入れた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (1件)

  • […] それまで日本を統治していた「江戸幕府」が西郷隆盛率いる新政府軍によって倒され、新しく「明治新政府」が誕生したことを「明治維新」と呼ぶのです。江戸時代までの日本は「封建社会」でした。版籍奉還、廃藩置県、学制改革、地租改正、徴兵令、太陽暦の採用、司法制度の整備、断髪令、徴兵令、四民平等、廃刀令…。これまでの武士による封建社会を根こそぎ変えるものでした。 […]

変わらなきゃ・・・。 – one-life へ返信する コメントをキャンセル

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