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【キングダム】王翦の「鄴攻め・あつよ攻略」と「項燕との戦い」史実での結末は?

秦の始皇帝を支えた名将「王翦」。

史実における「趙国『鄴』攻略戦」「名将・項燕大将軍との戦い」について、結末をわかりやすく解説いたします。

「曹操も愛した都市『鄴』を陥落させ、覇王の祖父『項燕』を撃破」

始皇帝の天下統一は『王翦』のおかげだった

「王翦」のオリジナルストーリーもご用意いたしましたので、よろしければお楽しみくださいませ。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・名将「王翦」・・・秦国最大のライバル「楚国」を滅ぼした

 

・史実では、王翦は「鄴」と、秦国と趙国の因縁の地「閼与(あつよ)」も攻め落としている

 

・王翦は、秦国最期の宿敵「項燕」を打ち破って、秦国の天下統一を決定づけた

 

・王翦の孫、つまり王賁の息子「王離(おうり)」と、項燕の孫「項羽」が、後に死闘を演じている


最強武将「王翦」とは?どんな功績を残したのか?

秦の始皇帝による全国統一。

それにもっとも貢献したのが、名将「王翦(おうせん)」です。

≪王翦≫
『引用元ウィキペディアより』

歴史書「史記」を記した大歴史家「司馬遷(しばせん)」は、始皇帝の曽祖父「昭襄王」につかえて生涯に100万の敵兵を倒した名将「白起」と並んで、王翦について「白起王翦伝」という一巻を残しています。

司馬遷は名将「王翦」を、「白起」と並ぶ名将として評価していたということです。

王翦の功績とは

王翦の功績を短く解説いたします。

・趙国を滅ぼす

・燕・代連合軍を撃破し、燕国の首都「薊」を陥落させる

・楚の大将軍「項燕」を倒し、楚国を滅亡させる

・越国を滅ぼしている

秦の始皇帝には、強敵が3名いました。

  1. 趙国の名将「李牧
  2. 燕国の暗殺者「荊軻」
  3. 楚国の名将「項燕」

この内「李牧」と「項燕」は、王翦将軍によって滅ぼされているのです。



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史実における「鄴攻め」の結末

漫画「キングダム」で、将軍「王翦」は主人公「」や「桓騎」「楊端和」たちを率いて、趙国の首都「邯鄲」の南、重要拠点「鄴」を攻めます。

「キングダム」で、王翦は李牧が仕掛けた「兵糧攻め」に苦戦。

しかし史実ではこの時、王翦は一人で別部隊を率い、趙国の重要拠点「閼与(あつよ)」を陥落させています。

閼与」は、「キングダム」で言うところの「秦国六大将軍」の一人「胡昜(こしょう)」が、「趙国・三大天」の一人「趙奢」に敗北した因縁の土地。

日本の名将「武田信玄」は、初陣の「海ノ口城攻め」で大敗北。

武田軍が撤退している最中、信玄は「少数の精鋭」のみを率いてUターン。

勝利に酔って油断した海ノ口城「平賀源心」を討ち取っています。

王翦も武田信玄と同じく、「閼与」を攻略した後、兵力を5分の1に縮小し、食料の消費を最小限に抑えます。

精鋭のみを残して「鄴」攻略を開始。

これにより「鄴」は陥落。

王翦は、どのようにして閼与を攻め落としたのか?

王翦は「鄴」を攻略するにあたり、趙国の山岳地帯「太行山脈」にある重要拠点「閼与」という城を、1人で別働隊を率いて急襲し、見事に攻め落としています。

王翦はどのようにして「閼与(あつよ)」を攻め落としたのか?

当時の資料「史記~白起王翦伝~」を基にして、推理してみたいと思います。

資料にはこう記されています。

紀元前236年、王翦は桓騎・楊端和とともに趙の都市「鄴」を攻撃。

まず鄴の周辺にあった9つの城を攻め落とした。

王翦は1人で別働隊を率い、「閼与(あつよ)」を攻略。

その後は、手柄のない兵を帰国させ、軍の規模を5分の1に縮小。

精鋭軍団を組織しなおし、それまで陥落させることができなかった堅城「鄴」を攻め落とすことに成功した」



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つまりは、こういうことでしょう。

王翦ひきいる秦軍は、「鄴」の城を包囲しており、趙軍は「鄴」を救おうとして「閼与」をはじめその他の城から援軍を送り、包囲していた秦軍と激突。

しかし、王翦はその戦いの真っ最中に、敵の目を盗み1人で別働隊を率い、敵の背後に位置する重要拠点「閼与」を攻略。

趙国にとっては、まさか閼与を攻撃されるなんて、想像もしていなかったことでしょう。

本拠地のひとつである「閼与」を失ったことに驚愕し、絶望したはずです。

王翦はみごとに趙軍の裏をかいたのです。

趙軍は、「閼与」の軍団を率いて「王翦」の軍団と戦っているわけですから、「趙軍」の本拠地の一つ「閼与」と攻め落とすということは

  • 「閼与軍の家族を人質にとった」
  • 「閼与軍の食料補給線を遮断した」

という意味を持ちます。

更には「閼与」に保管されていた「食料や武器などの物資」が、秦軍に奪われたということです。

「孫子の兵法」には

「智将はつとめて敵に喰(は)む」

と記されています。

「賢い将は敵から食料や物資を奪い取って、自軍に利用する」

という意味ですが、王翦はこれを忠実に実行したのです。

「閼与」という地は、趙国の首都「邯鄲」の北西に位置しており、邯鄲の北西を守るための重要な「軍事拠点」。

ここを取られては、首都「邯鄲」はもちろん「鄴」にたいしても、喉元に刃を突きつけるようなものなのです。

さらに「閼与」が取られたということは、「閼与」の西にある秦国との国境に布陣している「趙の防衛ライン」の背後に秦軍の拠点ができたことになり、防衛ラインは壊滅します。

紀元前269年、王翦が「鄴」を攻める33年前、趙の名将「趙奢」は、この「閼与」に布陣した秦将「胡昜」ひきいる秦軍を撃破しているのです。

その「閼与」を趙から奪い取ったことは、趙国に衝撃を与え、「鄴」攻略戦を決定的なものとした、ということです。

王翦は、この「鄴・閼与」の攻略戦から7年後、李牧を倒し、趙国を滅亡に追い込むこととなるのです。

マンガ「キングダム」で、王翦は同盟国である「斉国」から、水路を利用して食料を「鄴」へと運び込んでいました。

これにより「李牧」の「兵糧攻めによる『鄴』奪還作戦」は失敗に終わることとなります。

 

余談ですが、李牧が行った「鄴・逆包囲」、つまり

「敵をわざと『ふところ』へと誘い込み、包囲・兵糧攻めにより殲滅する」

という戦術を、実行しようとした名将が、かつて日本にもいました。

「楠木正成」です。

「湊川の戦い」で戦死する直前、楠木正成は「湊川で足利尊氏を迎撃しては勝ち目などない」と、主君の「後醍醐天皇」に進言。

それよりも「足利尊氏に、我々の本拠地である京都をあえて占領させ、包囲・兵糧攻めにすれば、勝てる」、と作戦立案。

しかし、この作戦は「後醍醐天皇」により却下され、楠木正成は「湊川の戦い」で敗死したのでした。



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覇王の祖父「項燕大将軍」との戦い

紀元前224年、秦国はライバルである六国のうち「韓」「趙」「魏」「燕」を滅亡させ、最大のライバル「楚」へ侵攻。

総大将は「キングダム」の主人公「李信」。

副将は「蒙恬」。

王翦は「楚国を滅ぼすには秦国全軍60万が必要」と主張し、李信は「20万で十分」と主張。

始皇帝は李信を差し向けますが、楚国の名将「項燕」に大敗北します。

「たとえ三戸となっても、秦を滅ぼすは楚国なり(たとえ人数が少なくなっても、楚国は必ず秦国を滅ぼす)」

これは「項燕」が死に際して口にした言葉です。(仙人または道士の予言・・という説もあり)

項燕は、李信と蒙恬は撃破したものの、その後に出陣した「王翦」率いる60万の秦軍に敗北。

キングダムで「秦国最高司令官」を務めている「昌平君」を楚王に迎えて抵抗を続けるも、「王翦」「蒙武」の猛攻により、楚国は滅亡。

楚国が滅亡した2年後、紀元前221年、六国最期の「斉」が滅亡し、秦国による天下統一が完成。

しかし、そのわずか15年後、秦国は「項燕」が残した予言の通り、項燕の孫・覇王「項羽」によって滅ぼされるのでした。

(項羽の父親が誰かは不明。

ただ、おそらく「キングダム」では「項翼」の息子という設定だろう)

 

「昌平君の生い立ち・一生と、最期」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

 

「王翦の孫」と、「項燕の孫」の死闘

項燕の孫「項羽」は、後に「秦国」を滅亡に追いやることとなりますが、王翦にも孫がいました。

孫の名は「王離」。

キングダムにも登場する王翦の息子「王賁」の子です。

「これほどの人数を死に追いやっておきながら、子孫が天罰を受けないはずがない。」

ある人物が、王翦を指して、こう言ったそうです。

その予言は的中してしまいます。

秦国の将軍であった「王離」は、秦国から独立を宣言した「趙国」討伐に向かいます。

その趙国の救援に来たのが楚国の将軍「項羽」。

「王離」は項羽に大敗し、捕虜となってしまいます。

その後「王離」がどうなったか記録にはありません。

しかし、王離の祖父「王翦」は、項羽の祖父「項燕」を死に追いやっているのです。

苛烈な項羽が「王離」を許したとは思えません。

王翦の仮面と素顔

漫画「キングダム」では「王翦」の素顔が仮面で隠されています。

その素顔の下が、明らかになる日は来るのでしょうか?

古代「双子」は「畜生腹」と呼ばれ、忌み嫌われていました。

おそらく双子では「家督争い」が発生しやすかったため、嫌われたのでしょう。

漫画「キングダム」では「王翦」の分家に「王騎」という名前の名将が登場します。

もしも王翦の素顔が「王騎」と瓜二つだったら・・・。

あくまでも仮説でしかありませんので、あえて深くは語りません・・・・。

王翦にとって「李牧」は、王騎を討った仇・・・・。

王翦・・・その仮面の下には「李牧」への憎悪が隠されている・・・なんてストーリーも、面白いかもしれません。

 

もう一つ・・・仮説を立てるとしたら「王翦」が「王」に成りたがる理由・・・が気になります・・・。

漫画「キングダム」で、「王翦」には「王になりたがっている」ことがほのめかされています。

なぜ王翦は「王」になりたいのか・・。

もしも「王翦」が、「秦国」の王族出身者であったなら・・・何かしらの理由により、「王位継承権」を剥奪されていたとしたら・・・。

政の弟「成蟜(せいきょう)」が、政に王位を奪われて恨みを抱く・・・というストーリーがありました。

王翦も同じような恨みを抱いていたとしたらどうでしょうか・・・。

例えば、王翦が「政」の父「荘襄王」の兄弟だったりしたら?

王翦の顔が、政の父「荘襄王」と瓜二つなんてこともあり得るかもしれません。

王翦の仮面が外されるときは来るのでしょうか?気になるところです。



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「王翦」オリジナルストーリー

「王翦」を主人公とした、運営者によるオリジナルストーリーです。

この作品は、史実を基にしたフィクションです。

史実とはかなり異なるところもありますが、どうかご理解くださいませ。

拙い文章ではございますが、よろしければお楽しみくださいませ。

春秋戦国時代末期の中国大陸。

《戦国七雄》
「引用元ウィキペディアより」

「戦国七雄」と呼ばれた七カ国「秦・韓・趙・魏・楚・燕・斉」が天下を争っていた時代、西の強国「秦」に、1人の武将がいました。

彼の名は「王翦(おうせん)」。

のちに天下統一を成しとげ、「始皇帝」と名乗ることとなる「秦」の王「嬴政(えいせい)」。

始皇帝の偉業にこれ以上ないほど大きく貢献した名将、それが「王翦」です。

この『王翦』という将には、一つの特徴がありました。

「静かなる将」・・・・手柄をたてて出世したいと思っているわけでもなく、英雄になりたいと思っているわけでもない・・・。

彼は、ただただ「静かに、平穏に暮らしたい」、「家族にも平和に暮らしてほしい」、そう願うだけの穏やかな武将だったのです。

しかし、激動の時代は『王翦』に平穏なる「安らぎ」を許しません。

王翦は、人並みはずれたその知略をもって、「世の人々に『平和』という安らぎ」を与える宿命を背負った将軍だったのです。

「王頤(おうい)」の息子「王翦」。

その先祖は「文王・武王」が建てた国「周」の「霊王」であるといわれています。

霊王の孫である「宗敬(そうけい)」という人物が、王翦の先祖。

諡である「霊」の文字は、暗君に対してつけられる文字なので、周の「霊王」が、それほど聡明ではないことがわかります。

周王家の血を引く「王翦」は霊王には似ず、とてつもない武略を秘めた名将だったのです。



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  • 名君「秦の孝公」
  • 「孝公」につかえた名宰相「商鞅(しょうおう)」
  • 「孝公」の孫で、名君の誉れ高き「昭襄王」
  • 「昭襄王」につかえた名将「白起」

この4名の活躍により、「戦国七雄」と呼ばれた列強諸国のなかでも「秦」は最強の国となっていました。

若き王「嬴政(えいせい)」は、「秦」の強大な軍団をひきいて、曽祖父「昭襄王」や父「荘襄王」が夢見た「天下統一」を成し遂げる野望に燃えていたのです。

しかし「嬴政」の野望は二人の名将により妨げられます。

  • 1人は、傾きつつある北の国「趙」の名将「李牧」。
  • 1人は、秦にとって最大のライバルである大国「楚」の大将軍「項燕」。

秦国はまず、「戦国七雄」のなかでも最弱の国「韓」を滅ぼします。

その次に、北の宿敵「趙」と交戦。

趙国は、秦王「嬴政」の生まれ故郷。

そして嬴政を人質としてあずかりながらも「死と隣り合わせの日々」を過ごさせた、秦王・嬴政にとって恨みの残る宿敵でもありました。

秦軍は、趙国の名将「李牧」に苦戦しながらも、着実にその領土を侵略。

「王翦」も秦軍をひきいて趙国を攻撃。

後世の名将「曹操」や「袁紹」も拠点とした重要都市「鄴」の攻略に成功。

趙国の首都「邯鄲」の目の前に、大軍団を駐屯させることができるようになりました。

ところが、副将「司馬尚」とともに必死の抵抗を見せる趙の大将軍「李牧」に、秦国軍は苦戦。

秦の名将「桓騎」が「李牧」に大敗北してしまう有様でした。

さすがの「王翦」も、「李牧」と正面から戦うことを恐れたのか、作戦を変更します。

「李牧が趙国を裏切ろうとしている」というニセ情報を流す、いわゆる「離間(りかん)の計」を発動したのです。

王翦と、秦の大臣「李斯」が仕掛けた「罠」に引っかかった趙王「幽穆王」は、李牧を処刑。

趙国最期の希望をみずから葬ってしまうのです。

その知らせを聞いた「王翦」は、宿敵の死をしって祝杯をあげ、その後わずか3ヶ月で趙国を滅亡に追いやったのでした。

北の強敵「趙」をうちやぶった「王翦」。

次に東の小国「燕」を撃破。

その時、もはや年老いた自分の出る幕はないと判断し、秦王「嬴政」に引退を願い出て、静かな余生をおくることを決意します。

王翦の息子「王賁」も父に似た名将で、趙国を滅ぼした直後「燕」と「魏」という二カ国の攻略に功績を残していたため、王翦には何一つとして心配はありませんでした。

しかし、運命は王翦に静かな生活を許してはくれなかったのです。

「李牧」と並ぶ、もうひとりの宿敵「項燕」・・・。

楚国の軍をひきいるこの猛将の恐ろしさを、王翦は知っていたのです。

秦王「嬴政」は、最大のライバル「楚」を攻撃することを決意。

その噂は、静かに余生をおくっていた王翦のもとにも届きます。

噂を聞くと、秦王は「楚」と「項燕」の恐ろしさが、まるでわかっていない。

危機感をつのらせた王翦は、引退した身であるにもかかわらず、秦王の作戦会議に無理やり出席したのでした。



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「楚を攻撃する。

どれほどの兵が必要であるか?」

嬴政の質問に、真っ先に進み出て応えたのは老将「王翦」。

「陛下。

楚を滅ぼすには、秦の全軍60万が必要です。

決して侮ってはいけません。」

これには会議に出席していた諸将から、失笑が聞こえてきます・・・。

「王翦よ。

そなたも老いたものよ。

心配するな。

楚の名宰相『春申君』はすでに亡く、我が秦は韓・趙・魏の三カ国を併合し、かつてないほど強大となった。

楚などおそるるに足らず」

嬴政は、もっとも信頼していた若き武将「李信」に尋ねます。

「李信。

そなたなら、どれほどの兵で楚を滅ぼせる?」

王翦の弱気な言葉に、秦王が失望していることを感じ取った李信は、王への忠誠心を示すため、蛮勇ともいえる大口を叩きます。

「20万あれば十分でございます」

諸将からは歓声が上がる。

李信・・・・・暗殺者「荊軻」をさしむけた嬴政の親友・燕国の太子「丹」を討ち果たし、嬴政から絶大な信頼を勝ち取った若武者。

この言葉を耳にした王翦は、愕然とします。

「20万だと?

あの若造は、そのような寝言を正気で言っているのか?

そんな寡兵で、名君「荘王」以来の広大な領土をもつ大国「楚」が滅ぼせるものか!

楚は名将「呉起」が宰相となって改革につとめたものの、その改革が不徹底に終わり、確かに「荘王」の時代の最盛期に比べれば弱体化している。

それでも、かの国の底力は決して侮れない。

名君だった呉国の王「闔閭(こうりょ)」や、「孫子の兵法」を記した名将「孫武」と「伍子胥(ごししょ)」ですらも、楚を追いつめはしたものの、結局は滅ぼせなかったのだぞ!

そのことを秦王も李信も知らないのか。

20万だと!!

絶対に不可能だ!

圧倒的な機動力を限界まで活かした戦い方をする「項燕」が相手では、経験不足な李信では大敗するに決まっている。」

とはいえ、李信の勇猛な言葉に諸将も秦王も感心しきっているこの場で、それを言っても誰も聞きはしないだろう。

老人の世迷い言とされるのがオチでした。

この時、王翦の脳裏には、1人の「悲劇の将」の顔が浮かんでいました。

白起

嬴政の曽祖父「昭襄王」が絶大な信頼をおき、大陸全土を震えあがらせた空前絶後の名将。

圧倒的な強さを誇っていたものの、政治力の無さゆえか、勝ち目のない戦いへの出撃を「昭襄王」から命じられ、それを断り続けたあげく、忠誠心を疑われて自害を命じられて亡くなった悲運の名将・・・。

「李信の敗北」「白起の自害」

この2つに想いを巡らせた王翦は、悟ったのです。

「私も白起将軍のように、秦王に殺される運命にあるのか・・。」

李信が敗北すれば、聡明な秦王は、必ず「王翦」を将軍に任命して楚を滅ぼせと命じる。

それを断れば、「王翦」は「白起」将軍のように自害を命じられる・・・。

かといって、受けるからには勝利しなくてはならない。

敗北すれば「李牧」に敗れた「桓騎」のように庶民に落とされ、王翦の一族は路頭に迷うこととなる。

息子の「王賁」も、孫の「王離」も、秦国で栄達するという望みを絶たれるだろう。

庶民に落とされるだけならまだ良い。

もしかしたら一族全員が処刑されるかもしれない。

であれば、残された道は「勝利」しかないのです・・。

しかしそのためには、どうしても乗り越えなくてはならない難問がありました。

それは、楚を滅ぼすために絶対に必要だった「秦全軍60万」の件です。

秦の全軍60万を王翦がひきいれば、嬴政はかならず王翦に「謀反」の疑惑を向けて来る。

下手をすれば、「項燕」を倒し、楚を滅ぼすという大手柄をあげても、「謀反をたくらんだ」として処刑されるかもしれない。

『猜疑心の強い「嬴政」に疑いをいだかせず、さらに名将「項燕」を討ち果たす』

「李信が敗北する」ことを確信していた王翦は、この難問に挑まなくてはならないことをも悟ったのでした。



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その時、王翦は白起と並ぶ「もうひとりの名将」に想いをめぐらせます。

楽毅(がっき)

その忠誠心にあふれた名将ぶりから「義侠の名将」と呼ばれ、後世の皇帝「劉邦」や天才宰相「諸葛亮孔明」も憧れた傑物。

名君「燕国の昭王」の命により、「燕・趙・韓・魏・秦」の5カ国連合軍を率いて、当時「秦」と並ぶ最強国だった「斉」の70余りの城をことごとく陥落させ、「斉」を滅亡寸前まで追いやった名将の中の名将。

「楽毅」もまた、「白起」と同じように主君に疑われたものの、王から「自殺せよ」という命令を出される前に、他国へ亡命。

そこで自分を死に追いやろうとした主君に対して、一通の手紙を送ったのでした

「私が亡命したのは、王から処刑されれば、王の名をおとしめることとなるからです。

王から受けたご恩に報いるためにも、私は処刑されるわけには参りません。」

「これを読んで泣かぬものは忠臣にあらず」とまで言われた名文を書きあげ、誰もが憧れた名将「楽毅」に、王翦もまた、密かに憧れを抱いていたのです。

「趙の名将『李牧』を討ち果たした功労者である私が秦王に処刑されれば、秦王の名は地に落ちるだろう。

『項燕』を討ち果たした後なら、なおさらだ。

諸将の心も秦王から離れ、せっかく天下統一を成し遂げても、謀反が頻発し、平和など夢のまた夢となる。

私がお仕えした歴代の秦王の恩に報いるためにも、私は秦王に処刑されるわけにはいかない。

かといって、60万全軍をひきいて、秦王に謀反を起こしたとしたらどうなるだろう。

万が一、秦王を殺害することに成功したとしても、民衆や豪族・列強諸国は私を裏切り者とみて、決して新しい秦国の王としては受け入れないだろう。

そうなったら、苦労して滅ぼした韓・趙・魏の国々が息を吹き返し、せっかく天下統一と平和への道筋ができたにもかかわらず、大陸全土がまた戦乱の地獄へ逆戻りだ。

ここはなんとしてでも、項燕を討ち、秦王にも疑われない策を考えるしかない」

王翦はその日、秦王『嬴政』に引退を申し出、許可されます。

嬴政から「もうお前は用済みだ」と言われたようなものでした。

しかし「王翦」は、李信が敗北すれば、嬴政がみずから王翦の自宅へ迎えに来ることまでわかっていました。

その時まで、残された時間は絶望的なほど少ない。

せめて李信と、その副将「蒙恬」が、猛将「項燕」を相手に時間を稼いでくれることを願うばかり。

残されたわずかな時間で、王翦は「嬴政」と「項燕」という、二人の難敵と立ち向かう「必勝の策」を考えなくてはならないのです。

老将「王翦」・・・宿命の戦いまで、あと「1年」。

それ以来、王翦は自宅に引きこもり、一歩も外に出てきませんでした。



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自室にこもって兵書を読み漁り、策略を巡らす日々を送っていたある日、王翦は、ふと風のうわさを耳にしたのでした・・・・。

宰相「昌平君」が

「李信の猪突猛進は危険であり経験豊富な王翦をもちいるように」

と秦王を注意したため、その怒りをかってしまい、宰相の地位を取り上げられたのだとか・・。

昌平君・・・・楚の先王「考烈王」の息子で、現在の楚王「負芻(ふすう)」の弟。

秦の人質となっていた太子だった「考烈王」は、戦国四君の1人「春申君」の協力で楚国へ逃亡し、王位についています。

その時「昌平君」は、父「考烈王」に捨て置かれ、秦に置き去りとされていたのでした。

昌平君は秦の「昭襄王」の娘を母にもつ秦の王族でもあったため、粗末には扱われることはなく、その優れた才能をもって宰相「呂不韋」の後任に任命。

ちなみに、昌平君の叔父であり「考烈王」の弟にもあたる「昌文君」も秦国に人質として残り、左丞相に任命されていました。

一度も行ったことがないとはいえ、楚は昌平君にとっては祖国のようなもの。

李信の軽率さを見抜いていたのなら、王翦が楚攻略の司令官をつとめれば楚が危ういことも、昌平君にはわかっているはず。

まるで「楚」の滅亡を願っているかのような「昌平君」にたいして、王翦は不思議な違和感を覚えました。

「私をかばうとは・・・祖国である楚の滅亡を願っているのか?

それとも秦こそが、自分の祖国であると本気で考えているのか?」

敵国「楚」の王子である昌平君が、楚にとって致命的な「王翦を推薦する」という行動に出たことに、王翦は少しだけ不気味なものを感じていました。

言葉にできない違和感を、王翦は拭いきれずにいたのです。

 

ここで王翦は、「秦王・嬴政」と「楚の王子・昌平君」の不思議な共通点に気が付きます。

「そういえば、秦王も人質として、敵国である趙国で生まれていたな・・。

そのどん底の状態から秦王として頭角を表し、天下統一へ向けて行動を開始したのだった。

昌平君もまた、人質として敵国の秦国で誕生し、秦で宰相にまで出世した・・・。

秦王は父『荘襄王』によって、趙国へ置き去りにされたが、昌平君もまた父『考烈王』によって、秦へ置き去りにされている・・・。」

不思議な縁を感じたその時、王翦は背中に悪寒を感じたのでした・・・。

嫌な予感がする・・・。

何気なく昌平君のゆくえを探らせたところ、昌平君はかつて「楚」の領土だった「郢陳」へおくられ、民の鎮撫を命じられていたのでした。



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紀元前225年、李信と蒙恬のひきいる20万の秦軍が、楚将「項燕」に大敗したという報告が、王翦にもたらされました。

「やはり・・・」

詳しく戦況を調べてみると、李信と蒙恬は、20万の軍を二手にわけて楚へ秦軍。

初戦に大勝した李信は、楚を侮っておごりたかぶり、油断。

そこへ、密かに三日三晩ものあいだ李信を追跡していた項燕軍の奇襲を受け、7人もの将を失うほど大敗したのだとか。

李信は処刑されるか・・・と思いきや、秦王・嬴政は李信の処罰を保留。

まだ若い李信には、使いみちがあると考えたのか・・・または燕国の太子「丹」を討ち取った功績を、秦王は高く評価していたのか・・。

とにかく李信は生き延びたのでした。

「私が項燕に負けたら、李信のように命を助けられることはないだろうな」

静かにつぶやく王翦のもとに、1人の使者がたずねてきました。

秦王が、王翦将軍のもとをおとずれる・・・。

この使者からの知らせに、普通ならば驚くところですが、王翦にはこうなることが1年も前からわかっていました。

「王翦将軍。

余は間違っていた。

李信が楚の大将軍である項燕に大敗したことは知っていよう。

どうか、余を許してほしい。

将軍の言う通り、全軍60万を与えよう。

天下統一を果たすために、項燕を討ち倒し、楚を滅ぼしてほしい」

王という最高の身分にありながら、将軍に過ぎない王翦にひざまずく秦王「嬴政」。

王翦はそこに、天下統一への並々ならぬ執念を感じ、言いしれぬ恐怖を感じたのでした。

「陛下。

そのご命令、謹んでお受けいたします。

ただ一つだけ、陛下にお願いがあるのです。

どうか、老いぼれのわがままをお聞き届けいただけませんでしょうか」

顔をあげた秦王は、笑顔で応えます。

「何なりと言うが良い。

どのような願いでも、かなえてみせようではないか。」

頭を地につけた王翦は、静かに語ります。

「陛下。

我々のような一軍の将は、王族の方々とは異なり、土地や財産をほとんど保有しておらず、子や孫に資産を残してやることが出来ません。

私には息子の王賁がおり、孫の王離がおります。

これら子や孫に残してやれるよう、美しい庭園を賜りたいのです。

陛下、どうか私に豊かな土地をお与えください。

余生をおくり、子孫に残してやれる庭園をお恵みください。」

なんだそんなことか・・・。

秦王「嬴政」は拍子抜けしました。

大臣の最高位「相国」の位がほしいとか、王族と婚姻関係を結びたいとか、秦王はそういった願いを言われると考えていたのです。

「そんなことか。

王翦将軍。

心配するなかれ。

土地であれば美しい場所を厳選して、城ごと授けよう。

どうしてわずかな土地を惜しむことがあるだろうか。

楚に勝利したあかつきには、そなたを城主としよう」

再びひざまずく王翦

「陛下。

それほど大きな領地を頂いては、私も息子も、周囲の妬みを買います。

小さな庭園のほうが良いのです。

お願いいたします。

美しく小さな庭園を賜りたいのです。

お願いいたします」

 

「良いだろう。

王翦将軍。

項燕と楚のこと、頼んだぞ」

楚討伐を命じられた王翦。

ふと「昌平君」のことが気になったが、今は「項燕」に集中しようと、雑念を取り払うのでした・・・。

60万の大軍団を率い、出撃する王翦。

秦王みずから見送りに来るほどの高待遇でした。

「王翦将軍。

吉報を待っておるぞ。

無事に帰還してくれることを祈っている」

笑顔で見送る秦王。

それに対して再三にわたって領地をねだる王翦。

「陛下。

項燕を倒すことは、それほど難しくはありません。

ただ、お約束いただきました庭園の件。

どうかお忘れなきようお願いいたします。

くれぐれも、くれぐれもお願いいたします。」

周囲の文官たちは失笑を隠しません。

これほど薄汚く領地をねだるとは、趙を滅ぼした名将「王翦」もここまで堕ちたか。

「騏驎(きりん)も老いては駑馬(どば)に劣る」

とは、よく言ったものだ・・・と。

王翦は、あざけるように笑う1人の宦官(かんがん・秦王の側近)に目を向けます。

趙高(ちょうこう)・・・・秦王のお気に入りの側近。

たしか以前、「蒙恬」の弟「蒙毅」が、ある罪を理由に趙高へ死刑判決をくだしたところ、秦王の命で助けられたのだとか。

「薄汚い宦官め・・」

王にへつらう宦官への嫌悪感を必死で隠した王翦は、全軍をひきいて出撃。

項燕・・・そして秦王との密かな戦いは、すでに始まっていたのでした。



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首都「咸陽」を出撃したあとも、王翦は何度も何度も秦王に「庭園」をねだり続けます。

長く王翦とともに各地の戦場を駆け巡った部下たちは、そんな王翦の様子を心配そうにながめていました。

「将軍。

それほどまでに領地をねだっては、秦王のご機嫌を損ねましょう。

どうかご自重くださいませ。」

部下たちは、再三にわたって王翦をいさめます。

長く一緒に戦ってくれた仲間たちを心配させるに忍びず、ある日王翦は密かに部下たちへ語ります。

「決して庭園が欲しくてねだっているのではない。

60万もの大軍団を率いていては、秦王の側近たちは、私に謀反の疑いがあることを噂しているに決まっている。

名将「楽毅」が連合軍をひきいて斉国を攻めていたときも、本国の「燕」では、斉の名将「田単」の工作により『楽毅が裏切る』という噂がたったそうだが、名君であった『燕の昭王』は、そんな噂を一蹴したらしい。

おそらく、私が楚へ進軍すると、楚の工作員が『王翦が裏切ろうとしている』という噂を広めるだろう。

はたして秦王は、『燕の昭王』に並ぶほどの名君であろうか?

「楚国」の情報工作を一蹴することができるだろうか?

とにかく、私が庭園をねだるのは、謀反の意志など少しもなく、褒美のことで頭がいっぱいになっていることを示すためなのだ。

それほど心配しないでくれ」

歳をとっておかしくなったかと心配していたところ、思慮深さを見せてくれた王翦に部下たちは安心するとともに、秦王の恐ろしさを再び認識したのでした。

土地をねだるだけではなく、王翦はさり気なく息子の「王賁」と孫の「王離」を同行させず、秦王のそばに残していました。

これは、「人質」として二人を秦王に差し出すことで、「王翦には謀反を起こす気がない」ということを暗に示すためだったのです。

 

ついに項燕がひきいる楚の大軍団と相対した王翦。

しかし、即座に開戦とはなりませんでした。

王翦が対戦を避けたのです。

1年間じっくりと戦術を練ってきた王翦の心中には、必勝の作戦が秘められていました。

秦楚国境地帯に到着した王翦は、項燕と戦うために「巨大な砦」を築き上げます。

王翦は、趙国の名将「廉頗」が「長平の戦い」でみせた「守備」を参考にしたのです。

「長平の戦い」・・・秦の名将「白起」が、趙国の愚将「趙括」を討ち、45万もの大軍団を討ち破った戦い。

愚将「趙括」と交代する前に、趙軍を率いていたのが名将「廉頗」。

廉頗は秦軍を上回る45万もの大軍団をひきいていたにもかかわらず、巨大な砦をつくって閉じこもり、決して出撃しませんでした。

圧倒的な兵力と砦の防御力。

この2つで秦軍を圧倒した廉頗。

徐々に秦軍は劣勢に立たされる事となったのです。

王翦は、廉頗と同じように砦をつくり、持久戦に持ち込みます。

強固な守りに手も足も出ない項燕。

戦いは王翦の思惑通り、膠着状態へ。

ある日、王翦は遊びに夢中になる兵士たちを見てつぶやきます。

「我が軍の兵士も、やっと使えるようになった」

王翦は、「謎めいた言葉」を口にします。

この言葉が意味することとは何か?

一つは、秦の都「咸陽」からの長旅と、巨大な砦の建設などで酷使した「60万の秦軍」。

その体力が回復するのを、王翦は待っていたのです。

もう一つ、この言葉には「秘められた目的」がありました。

この言葉を、秦軍の中に潜り込んだ「楚」のスパイにわざと聞かせ、敵将「項燕」の耳に入るように仕向けられたものだったのです。

「わが軍の兵士もやっと使えるようになった」という王翦の発言を、スパイを通じて耳にした「項燕」は、「秦軍には戦意がない」と判断。

つまり「もともと秦軍は楚を攻撃するために出撃したのではなく、目的は別にある」と、項燕は推測したのです。

王翦の狙いは、楚軍を疲れさせること。

項燕はそう考えます。



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項燕ひきいる楚軍は、長期間の対陣に疲れていました。

このまま秦軍に張り付いていては、背後を斉国に突かれる恐れもある。

項燕は「秦軍に戦意なし」と判断し、撤退を開始。

これも王翦の計算でした。

しっかりとした武器や食料の補給線を持たない楚は、長期戦に向かない。

そのため項燕は「李信」との戦いでみせたような「機動力を活かした奇襲」を得意としたのだと。

逆に言えば「楚軍は長期戦ができないため、奇襲しかできない」ということです。

「奇襲」を防ぐには、強固な砦をつくって籠もっていれば良い。

「守りをかためた後、敵のスキを突いて攻撃する」・・・。

この「攻撃」の仕方について、王翦は後世「守戦の名将」と呼ばれることとなるかつての宿敵「李牧」を手本としていました。

「まず守備、次に攻撃」・・・これは李牧が得意としていた戦法であり、秦の名将「桓騎」を滅ぼした戦法でもあったのです。

「廉頗の守備」と「李牧の攻撃」。

この2つをあわせて、王翦は項燕を圧倒したのでした。

迅速に撤退をしようとする項燕。

しかし、それを遥かに上回る速度で背後から襲いかかるのが、疲れを癒やして全快した秦60万の大軍団。

長期の対陣で疲れ、食料も乏しく、空腹でチカラを失っていた楚軍はまともな迎撃も、撤退も出来ませんでした。

名将「項燕」が率いた楚の主力である機動部隊は、あっけなく壊滅したのです。

楚国最期の希望「項燕」を敗走させた王翦は、一気に楚へ進行することのではなく、一時的に兵を撤退。

「もはや主力軍を失った楚には、挽回できるだけの余力はない。

一度帰国して、準備を万全にしてから、改めて楚へ進行しても、遅くはない」

これも、当初からの王翦の計算。

「項燕は余力を残すことなく、主力軍のすべてを王翦にぶつけてくるだろう。

それを叩いてしまえば、もはや楚には人員や武器を補給することが出来ない。

周辺諸国へ助けを求めようにも、助けられる国といえば南の「越」くらいだろう。

越は楚の仇敵であり、その国力は乏しい。

「燕」は滅亡寸前だし、「斉」は秦の工作員によってすでに虫の息。

楚を助けることはできない。

特に「斉」は「楽毅」に攻められた際に、斉王「湣王(びんおう)」を「楚」に殺害されている。

その恨みは今も忘れていまい。」

この予想通り、楚は国力を回復させる暇もないままに、翌年の王翦の攻撃を受けて敗北。

楚王「負芻(ふすう)」は捕らえられ、楚は滅亡・・・したはずでした。

大将軍「項燕」は逃亡し、「越」と協力して秦に抵抗。

その項燕が「負芻」に代わって1人の人物を王にたてたのです。

「昌平君」

秦の宰相であり、王翦をかばって左遷された「秦・楚両国の王族」。

その名を耳にした王翦は静かにつぶやくのでした。

「やはり出てきたか。

昌平君・・・。」



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王翦は「昌平君」が楚王となって反抗してくる可能性があることを、すでに知っていました。

望んでいたわけではなかったものの、秦の宰相であった「昌平君」を楚王に祭り上げることで、楚軍の士気は高まるであろう。

そのため、項燕が昌平君に白羽の矢を立てることなど、容易に想像できたのです。

項燕は「昌平君」を「反秦」の旗頭として擁立し、楚の最期の力を振り絞って、秦へ抵抗戦を開始。

実は王翦は初戦において、項燕を殺さず、わざと逃していました。

一時的にでも秦軍を撃破した項燕は、「反秦」の英雄として、多くの楚人を引きつける魅力を備えている。

そのため、項燕を殺害して、楚の残党軍に広大な楚の領土各地でゲリラ戦をおこなわれるよりも、項燕を生かして、その旗のもとに残党軍を集結させて一気に叩いたほうが、戦いを短期間で終わらせられる

と、王翦は考えたのです。

この旗頭となるには楚王「負芻」では人気が乏しい。

やはり「英雄」である「項燕」でなくてはならなかったのです。

さらに、秦で宰相にまでなった王族「昌平君」が王としてくわわれば、その求心力はさらにたかまる。

王翦にとって、昌平君が「楚王」となったことは、まさに吉報だったのです。

しかし、王翦は昌平君と敵対する気になれませんでした。

「昌平君には恩がある・・・。」

楚攻略を秦王にたずねられた時、昌平君は左遷される危険性を承知で、王翦をかばってくれました。

「楚への愛国心・・・失っていなかったのか?昌平君・・・。」

王翦にはわかりませんでした。

滅亡寸前の「楚」へ、王として帰還するとは・・・。

そんな自殺行為にでる必要が、一体どこにあるのか?

たとえ宰相から左遷されたといえども、有能な昌平君ならばすぐに復帰もできたはず。

何よりも、恩を売っておいた王翦に口添えを頼めばよかったはず。

項燕を打ち破る功績をあげた王翦ならば、その頼みを秦王も聞き入れるだろう。

昌平君が即座に中央へ帰還できることはわかりきっていたのです。

「やはり、秦王への対抗心か・・。

または、昭襄王の血がそうさせるのか。」



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同じ『人質』という境遇から出発した「秦王・嬴政」と「昌平君」。

秦王・嬴政は、天下統一を。

昌平君は秦の宰相に。

昌平君も偉大ながら、天下統一という大偉業に比べたら、「宰相という位」は、あまりにも小さなモノでしかありませんでした。

名君「昭襄王」

秦国の中興の祖「孝公」の孫である「昭襄王」は、55年もの長きにわたり、秦国の王位にいて国力を拡大させた帝王。

その血を引く「昌平君」には、同じく昭襄王の末裔である「秦王・嬴政」への、強烈な対抗心があったのかもしれません。

 

紀元前223年、王翦は再び楚へ進軍。

この時、項燕に敗れた武将「蒙恬」の父「蒙武」を副将として連れて行くことにしました。

「蒙武」・・・・秦の名将「蒙驁(もうごう)」の息子。

息子の「蒙恬」「蒙毅」ほどの若い活力はないものの、老練な戦いに定評がありました。

王翦の息子「王賁」にとって、「蒙恬」は好敵手も同然。

その父「蒙武」を副将とし、息子「蒙恬」の敗北を払拭する機会を与える。

そうすることで、蒙武・蒙恬に恩を売ることができ、息子「王賁」は将来ある有能な武将「蒙恬」と、良好な関係をつくれるだろう。

「蒙武」の同行は、父「王翦」による、緻密な計算によるものでした。

項燕は、隣国「越」と連合軍を組織し、秦軍へ対抗。

しかし、その軍はあまりにも粗末なものでした。

最期の力を振り絞っているのだろうが、残念ながら強力な秦軍には比べようもないほどの楚・越連合軍。

戦いは一瞬で終わり、項燕は「蘄(き)」という地で自害。

昌平君も壮絶に戦死をとげたのでした。

 

項燕の死を確認した王翦は、部下からの報告に注目します。

死の間際、項燕が「ある予言」のような言葉を口走ったのだとか。

「たとえ人数がわずかになったとしても、楚は必ずや秦を滅ぼす」

(たとえ三戸となろうとも、秦を滅ぼすは楚なり)

その言葉を耳にした時、王翦の頭に、ふと孫の「王離」の顔が浮かびました。

なにやら言いしれぬ不安を覚えた王翦は、「項燕」の家族を捜索し、殺害するように命令します。

しかし「項燕」の末息子と孫の2人だけが、最期まで発見できませんでした。

逃げのびた「項燕の孫」・・・・彼がのちに王翦と秦国に対しての強大な「災厄」となることを、この時、王翦は知りませんでした。



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「項燕」「負芻」「昌平君」を倒し、楚を平定した後、王翦は南の「越」も滅ぼすことに成功。

秦の領地は、かつてないほどに拡大。

「楚の滅亡」を耳にした秦王「嬴政」は、王翦の帰還をみずから出迎え、その功績をたたえました。

しかし、ここで油断してはならないことを、王翦自身が誰よりもわかっていたのです。

王翦は、自分を激賞する秦王の言葉にただただ平伏し続け、約束の「領地」をもらえるのかどうか、それのみを繰り返したずねるばかり。

「功績がある者でも、役に立たないとわかると、即座に切り捨てるのが秦王だ」

「呂不韋」「昌平君」「桓騎」、数々の功労者が、次々と切り捨てられていった・・・同じ轍を踏んではならない・・・。

魏国から来た軍師「尉繚(うつりょう)」も言っていたではないか

「秦王は鷲のような鼻で、目は切れ長で、胸はまるで鷹のように突き出ており、その声はまるで狼のようだ。

そして冷酷な魂を持っている。

こういう人相の人物は、困窮したときには頭を低くして相手にへりくだるが、目的が達成されると、功績のある家臣だろうと、あっさりと切り捨てる。

こういう人とは長く付き合っていてはいけない」

王翦は最期の最期まで、油断しなかったのです。

ようやく自邸へと帰還した王翦。

まだ油断はならない・・・。

求め続けた庭園の品定めをしなくては、「庭園になど興味はなかった」と秦王に知れたら、痛くもない腹を探られることになる。

「美しい庭園」を与えられた王翦は、間髪を入れずに秦王に対して「引退」を願い出ます。

用心深い王翦は、この引退が即座に聞き入れられるように、帰国直後から足腰が立たない芝居を繰り返していたのです。

引退の希望は、即座にかなえられました。

「息子の王賁を、どうかお役立てくださいませ。

孫の王離もまた、どうかお役立てくださいませ。」

王翦が平伏して願うのは、ただただ家族のことばかりでした。

「終わった・・・。」

項燕、そして秦王との戦いが、ようやく終わったのでした。



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思えば、「李信」が「20万」という寡兵で楚を滅ぼしてみせると豪語したときから、王翦の戦いは始まりました。

李信・・・・「隴西郡」の長官「李崇」の孫であり、「南郡」の長官だった「李瑤」の息子と言われている人物。

一説には「老子」の末裔とも言われていました。

ところが、それらの説には信憑性が乏しく、「奴隷階級」の出身という噂も・・・。

王弟「成蟜」の反乱で功績をあげ、秦王に気に入られたという噂もあり、王翦もこの噂を耳にしていました。

項燕に大敗した李信は、しきりに名誉挽回を求め、「斉」との戦いに出撃したいと熱望しているとか。

「奴隷出身の猛将か・・・。

王賁のよき友であってくれれば良いが・・・。」

「項燕」「秦王」との戦いを終えた王翦・・・。

平和な世を生きる次の世代を、ただただ案じるのみでした。

 

楚が滅びた直後、趙国の亡命政府である「代」と「燕」が、王翦の息子「王賁」の攻撃のよって滅亡。

楚が滅びた2年後の「紀元前221年」、最期の敵国であった「斉」が滅亡。

秦は史上初めて、天下を統一することに成功したのです。

「斉」を攻め滅ぼしたのは、王翦の子「王賁」、蒙武の子「蒙恬」、そして猛将「李信」。

秦王は、かつて誰もなしとげたことのない偉業「天下統一」を達成したことにより、王をしのぐ称号である「皇帝」を名乗ることとなります。

秦王「嬴政」が尊敬する曽祖父「昭襄王」が、一時的に「西帝」を名乗ったことに由来するものなのかもしれません。

この世の頂点を極め、「始皇帝」と呼ばれるようになった「嬴政」。

もしかすると、頂点に降り立ったこの時から、転落は始まっていたのかも知れません。

 

天下統一をなしとげた始皇帝。

各地の反乱分子を抑えこむためなのか、大規模な「天下巡業」を開始します。

さらには、大土木事業を次々と開始。

北の騎馬民族を抑え込むため「万里の長城」を建設。

みずからの権勢を誇るため、巨大な「始皇帝陵」の建設を、当初の予定より大幅に拡大。

さらには首都「咸陽」に、かつてない壮麗な宮殿「阿房宮(あぼうきゅう)」を建築。



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阿房宮の建設を見上げる1人の老人。

それは王翦でした・・・・。

「このようなものを建てるために、どれほど多くの人が重税に苦しんでいることか・・。」

年老いた王翦は、それを想うと、ただただ途方に暮れるばかりでした。

民衆の平和のために戦ったはずなのに、世の中にあふれるのは、重税と戦争の傷による恨みの声ばかり。

「私は間違っていたのか・・。」

始皇帝をいさめるべきか・・・。

もはや始皇帝の間違いを正せるものは、この世に三名のみ。

  • 皇太子「扶蘇」
  • 宰相「李斯」
  • 天下統一の功労者「王翦」

しかし、王翦は始皇帝をいさめても無駄だということがわかっていました。

むしろ、下手に始皇帝を怒らせては、王賁や王離の命が危ない。

「老兵にできることなど、なにもないのだ」

自分を慰めるかのように、老将はつぶやくのでした。

 

一縷の望みは、皇太子「扶蘇(ふそ)」。

若き名君は、父である「始皇帝」が行った弾圧「焚書坑儒」をやめるように進言。

その怒りをかい、「蒙恬」が行っている「万里の長城」建設という、皇太子が行うべきとは思えない閑職へと追いやられたのだとか。

しかし、それが始皇帝の「扶蘇」に対する期待の現れであったことは明らかでした。

「扶蘇様が皇帝となれば、きっと秦に新たなる光が指す」

そう願い、静かに瞳を閉じる1人の老将。

平和を願った静かなる名将「王翦」。

その死は誰にも知られることはなく、彼らしい、ひっそりとしたものでした。

紀元前210年、四度目の天下巡業を行っていた「始皇帝」が、旅先で病死。

後継者は長男「扶蘇」・・・のはずが、秘書だった「趙高」と、宰相「李斯」、そして始皇帝の末息子「胡亥」が、始皇帝の遺言書を偽造。

「我が後継者は、末息子『胡亥』とする。

『扶蘇』とその側近である『蒙恬』は処刑せよ」

この偽の遺言書に騙された扶蘇は、父である「始皇帝」に「万里の長城」という僻地へおくられてしまった絶望もあって、失意のうちに自殺。

名将「蒙恬」も、ともに自殺。

蒙恬の弟「蒙毅」も、かつて趙高を処刑しようとしたことを恨まれ、無残にも殺害されたのでした。

 

紀元前206年、始皇帝の死から、わずか4年後、三代目の秦王「子嬰」の代で、秦帝国は滅亡。

この直前、秦滅亡の元凶「趙高」は「子嬰」の手によって暗殺。

秦を滅ぼしたのは、楚の亡将「項燕」の孫「項羽」と、のちに皇帝となる「劉邦」。

王翦の孫「王離」は、この時すでに戦死していました。

秦が滅亡する直前、「鉅鹿(きょろく)の戦い」で「王離」は「項羽」に敗北。

王離は捕虜となり、その後の行方は不明。

項燕の孫「項羽」が、みずからの祖父を殺害した「王翦」の孫「王離」をどのようにあつかったのか、想像を絶するものがあります。

項羽によって帝都「咸陽」は破壊しつくされ、完成目前だった「阿房宮」は、3ヶ月も燃え続けたと言われています。

項燕が最期に残した「呪われた予言」は、こうして実現してしまったのです。

王翦が夢見た平和は、「秦」の滅亡から4年後、皇帝に即位した「劉邦」によって実現することとなります。

歴史書「史記」を記した大歴史家「司馬遷」は、その「史記」のなかに「白起王翦伝」という一巻を残しています。

名将「白起」と「王翦」を同列に扱い、その将としての能力を評価したのです。

しかし、司馬遷は最期に、王翦を批判する言葉をも残しています。

「王翦は、始皇帝の政策を批判し、正しく導くことが出来たはずなのに、それをしなかった。

孫の王離が項羽の手で滅びたのは、王翦が秦を正しい方向へ導かなかったことと無関係ではないだろう」

司馬遷の意見は、少し的外れと言わざるをえません。

批判を許さない始皇帝の性質を考えれば、王翦がいさめたところで、聞き入れられることはなかったでしょう。

むしろ下手に口出ししたら、王翦は昌平君のように左遷・・・下手をしたら処刑されていたかも知れません。



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大歴史家「司馬遷」・・・たとえ処刑されてもいさめるべきだった・・・と言いたいのでしょうけれど、王翦が処刑されてしまったら、「始皇帝」は名将「白起」を処刑した「昭襄王」のように、その評価を落としていたでしょう。

静かなる老将「王翦」。

彼の沈黙は、名将「楽毅」が後世に残した「名文」にも劣らず、始皇帝の名誉を守ったのではないでしょうか。

 

昌平君の視点から描いた「昌平君の物語」、以下のリンク記事をよろしければお役立てくださいませ。

まとめ

本日の記事をまとめますと

・王翦は秦国による天下統一の最大の功労者

・王翦の「鄴」攻略は成功し、趙国は追い詰められる

・王翦は後に楚国の名将「項燕」を倒し、王翦の孫「王離」は、項燕の孫「項羽」に討ち果たされる

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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コメント

コメント一覧 (2件)

  • 拝見させていただいきました。とても面白かったです。
    ところで、王せんが「あつよ」を攻めたという文章はどの資料から引っ張ってきたものですか?
    詳しく知りたいので教えてください。

    • こんにちは
      この度は当サイトをご利用いただき、誠にありがとうございます。
      また、貴重な質問もいただき、心より感謝申し上げます。
      「閼与を攻撃した」という記述は、歴史家「司馬遷」の残した歴史書「史記」にある記述です。
      正確には「史記~白起王翦伝~」の一説です。
      以下のリンクがお役に立つかと存じます。
      http://esdiscovery.jp/knowledge/classic/china2/shiki058.html

      または、「王翦」の「ウィキペディア」にも、「史記~白起王翦伝~」の現代語訳が記されていますので、お役に立つかと思います。
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%BF%A6#%E7%B5%8C%E6%AD%B4

      これで、いただきました質問の答えとなっていれば良いのですが。

      この度は、貴重なコメントを本当にありがとうございます。
      またよろしければ、ぜひぜひ当サイトをご利用いただきたいと思います。
      ありがとうございました。
      失礼いたします。

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