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【桂小五郎とは】新撰組や高杉晋作との凄い関係!幾松や八重子のその後

桂小五郎(木戸孝允)と「新撰組」「高杉晋作」との関係や、「子孫と家系図」などについて、わかりやすく解説いたします。

「桂小五郎と新撰組は、昔からのライバル関係」

「桂小五郎と高杉晋作は、ともに吉田松陰の弟子」

子孫は現在「大学教授」と「ドローン研究者」として活躍中


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

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この記事を短く言うと

・桂小五郎は若い頃、実は新撰組に誘われていた

・桂は松下村塾の門下生ではないが、一応「高杉晋作」の兄弟子にあたる

・交際していた芸者「幾松」とはその後、結婚。幼妻の「八重子」は消息不明


桂小五郎と新撰組の関係!実はかなり深い関係?

桂小五郎(木戸孝允)

『桂小五郎(木戸孝允)』
『引用元ウィキペディアより』

西郷隆盛大久保利通とならぶ「維新三傑」の一人にして、幕末・長州藩の実質的なリーダーだった人

そんな桂小五郎の宿敵といえば、近藤勇や土方歳三が率いた「新選組

桂小五郎は新選組に付け回され、「池田屋事件」では危うく暗殺されかけています。

実は新選組と桂小五郎・・・両者には池田屋事件のはるか以前から、間接的にですが接点がありました。

近藤勇や土方歳三、沖田総司たちが修行した多摩の「試衛館」

ある日、道場破りと戦う際に、助っ人を頼むこととなったのですが、その助っ人を頼んだ先が「練兵館」

練兵館は、桂小五郎が江戸への剣術修行を行い「塾頭」となった道場

とはいえ、この時助っ人となったのは「桂小五郎」の次に塾頭となった「渡辺昇」。ちなみに「渡辺昇」は、桂とならんで「練兵館の双璧」と呼ばれた人物で「鞍馬天狗」のモデルとなったお人

それでも桂小五郎は相当な達人だったと言われていますので、おそらく近藤達「試衛館」の面々は「桂小五郎」という名前を知っていたのではないでしょうか。

とはいえ、友人だったとか、知り合いだったなんてことはないと思います

近藤・土方が、桂小五郎を新選組として追っていた時、もしかしたら近藤・土方は

「桂小五郎って、どこかで聞いたことある名前だな?」

くらいは思ったかも・・・。

大河ドラマ「新選組」において、近藤勇・土方歳三・坂本龍馬・桂小五郎の四人が、揃って黒船を見たシーンがありました。流石にこれはフィクションですが、黒船来航の時、四人が全員江戸にいたことだけは確かです。

一緒にではないにしても、全員「黒船」を見た可能性はあるのではないでしょうか。



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高杉晋作との関係!実は兄弟弟子?

高杉晋作と桂小五郎・・・実は兄弟弟子と言っていいかもしれません。

さて、高杉晋作といえば、「功山寺挙兵」を成功させ、藩の方針を一気に「倒幕」へと変えた人物。

四境戦争(第二次長州征伐)では、幕府軍に勝利をおさめた功労者。「吉田松陰」の松下村塾で「久坂玄瑞」と並ぶ秀才

桂小五郎は「松下村塾」には通っておりませんでしたが、それでも「明倫館」で吉田松陰から兵学を学んだ人物です。

桂小五郎は、吉田松陰を師としていたため、高杉晋作の兄弟子・・・にあたるかもしれません。

高杉晋作も、一応「明倫館」に通っていましたしね。とはいえ、型通りの学問に興味がわかず、剣術ばかりやっていたとのことですがね



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妻・幾松や、幼妻・八重子のその後を調べてみた

桂小五郎といえば、芸子「幾松」

1864年、新選組に追われた桂小五郎は、幾松に匿われて命拾いします。

そして幾松は、後に桂小五郎と結婚するわけですが、子宝に恵まれることはありませんでした。

1877年、桂小五郎が亡くなると、幾松は剃髪して京都へ引っ越しています。

その後は京都木屋町で、養子とともに生活。

1886年、胃の病気で他界。享年44歳。



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八重子

2017年放送のテレビ番組「林先生が驚く初見学」で、桂小五郎の幼妻「八重子」について放送されていました。

1864年、桂小五郎は新選組からおわれ、幾松に逃してもらいます。

この後、幾松は新選組に拉致されて拷問を受けたとのことですが、それでも幾松は口を割らなかったのです。

ちなみに、上木屋町料亭「幾松」として、桂小五郎が幾松に逃がしてもらった部屋が今も残っているみたいですね。

この後、幾松は桂小五郎を追って長州藩へいくわけですが、そこに桂小五郎は現れず、兵庫県の但馬国出石に潜伏しているとの情報をキャッチ・・・。

そこで桂はなんと13歳の少女「八重子」と結婚していたのです。ちなみにその時、桂は31歳

幾松は八重子も一緒に長州へ・・・・とすすめます。なんと言っても、長州藩には桂小五郎という人材が必要なのですから。

この時、幾松はおそらく浮気されたことよりも「日本の行く末」を考えていたのでしょう

ここで「八重子」は

「自分は身を引くので、小五郎を長州へ連れて帰ってください」

と、身を引くことを宣言。その後桂小五郎は長州藩へ帰還し、明治維新を成し遂げたわけです

その後、八重子は行方不明。

本当に八重子と桂小五郎は結婚していたのでしょうか?

あっさり身を引いた「八重子」・・・・多分ですが、「とっとと別れたい」と思っていたから「あっさり身を引いた」のではないでしょうか?

真相は謎に包まれていますが、「身を隠すための偽装結婚」だった・・・そういう可能性はないのでしょうかね?



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子孫はどこにいる?

桂小五郎の子孫は、現在どこにいるのでしょうか?

桂小五郎(木戸孝允)には、養子が何人かいたが、実子は「木戸好子」のみ。その娘も幾松の子ではなく、母親が誰なのかは今もわかっていないのです。

妹「ハル」の子で、桂小五郎の甥・孝正は、その「木戸好子」と結婚していますが、子宝に恵まれず「好子」は他界。

孝正はその後再婚し、子供を残しています。孝正の息子「木戸幸一」は「児玉源太郎」の娘と結婚

もう一人の息子「和田小六」は、毛利元就の次男「吉川元春」の末裔と結婚。その孫が「NECドローン開発者」の「和田昭久」さんと、神戸大学教授「和田昭英」さんというわけです。

直系の子孫は残っていませんが、桂小五郎の実の妹「ハル」の子孫が残っています

また、以前放送されたテレビ番組「英雄たちの選択」の「吉田松陰」の回で、「木戸孝允」の末裔「木戸武」さんが登場しておられました。

木戸武さんは、先祖「木戸孝允」が残した言葉を口にしておられました。

「事に至って吉田松陰先生なら、どう考え、どう行動したか。

お前もそれをよくよく心しておけ」

圧倒的な行動力を示した吉田松陰先生・・・その姿と心を、木戸孝允は今に伝えたかったのです。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・桂小五郎と近藤勇・土方歳三は、以前から名前を知っていた?可能性もある

・高杉晋作と桂小五郎は、共に吉田松陰の弟子

・桂小五郎の妻「幾松」は、桂の死後京都で生活。八重子は行方不明

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


吉田松陰」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

    • とても貴重なコメントをいただきましてありがとうございます。
      当サイトにお越しくださいまして、心より感謝申し上げます。

      どうか今後とも、当サイトをぜひぜひお役立てくださいませ。

      心より感謝申し上げます。

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